第5話

 毎日が気だるかった。教室に行っても友達はいないし、アルバイト先もママさん連中と一緒でそつなく会話を繋げるけれど友情を深めるような場所ではなかった。毎日組まれてる予定をこなしていくだけ。パパは元々いなかったし、ママは研究で忙しいし、家にいても独りだ。リビングでコーヒーを飲みながら、スマホで動画を見るくらいしかやることが無い。

 ある日もそうしてコーヒーを飲んでいると、勢い良く玄関が空いた。ママがドタドタと入ってくる。あのドアが開く音、何か良いことがあったようだ。

「ただいまっ」

「おかえり。なんか良いことでもあったの?」

「そうなのよ!」

 そう言ってママはテーブルの台を両手でバンと叩いた。

「ママ、落ち着いて」

「ああ、そうね、ごめん」

「で、何があったの?」

「それがさ」

 とそこまで言いながらママは急に口を閉ざした。

「ごめん、トップシークレットだったわ」

「そこまで言われてお預けされるのも辛いんですけど」

「ごめんね。とりあえず夜は適当に食べといてくれる? 私これからまた研究所に戻るから」

 そして自分の部屋に入って何やら物色して再び部屋から出てきた。

「それじゃ、戸締りしっかりしといてね」

「ちょっとママー」

 完全に置いてけぼりだった。ママがあれだけ興奮するだなんて、いったい研究所で何があったんだろう。いつものことだと最初は思ったけれどどうも気になって、珍しく考えるより身体が動いた。研究所の場所は知ってる。スマホと財布があれば問題ない。一応部屋着からそれなりの身なりに着替えて家を出た。いざ行かん。


 私がまだ二歳とか三歳とかの頃、ママに連れられて研究所によく行っていたらしい。もう少し大きくなって多少の分別が付くようになったころ、研究所の所員さんたちから聞かされた。その頃には私はママのいる研究班のマスコットみたいな存在で、いつ来ても歓迎された。こっちもそのノリでいたのだけれど、中学校に上がるタイミングでママから出入り禁止を言い渡された。学業を疎かにしないようにとの配慮だったらしい。そんな配慮も功を奏さず、私は落ちこぼれスレスレを低空飛行していた。幼い頃から居場所が研究所だったし、相手にしてくれたのは大人たちだったから同い年の子とどう話したらいいのかわからなかった。ただ何となく覚えているのは、小学校五年生の時に自分の母親のことを鼻にかけて話題をさらおうとしたら誰からも総スカンを食った、ということ。まあそれは自業自得というやつで。とはいえ中には興味を持ってくれる子もいて(自分が成し遂げたわけではないことを偉そうに話すバカがどんな人間なのか知りたかった、とは後日本人から聞いたことだ)、なるべくその子を放さないようにという意思が働いたのは、自分を褒めてやりたいと思う。まあその子とは行く高校が違ったので直接会うのは年に一、二回だ。メールのやり取りは続いているので、まだ友情は途切れていないと思いたい。


 閑話休題。


 電車を降りてバスに乗る。駅からバス停までの距離をまだ夏真っ盛りの空気が身体を包む。さらにバスを降りて十分くらい歩くと建物が見えてくる。外観はオフホワイトの色で統一された、地上二階建て(地下に一階)の綺麗な建物だ。

 エントランスで受付を済ませようとする。

「あれ、誰かしら」

「ああ、美笑ちゃん、久しぶり」

「麻生さん、ご無沙汰してます」

 受付の麻生さんに挨拶する。もう一人の人は見たことが無い。

「先輩、この子を知ってるんですか?」

「永遠先生の娘さんよ」

「え、そうなんですか! 今いくつ?」

「十七歳です」

「じゃあそろそろ受験の時期じゃない? こんなところに来てて大丈夫なの?」

「まあ一日くらい勉強しなくても大丈夫、だと思います」

「あんまり勉強を疎かにしてると永遠先生から怒られますよ」

「折角の夏休み、息抜きも必要じゃないですか」

「即刻帰宅して学習しなさい」

「麻生さん厳しいよう」

 受け付けのデスクに頬杖ついて私は不満を漏らす。

「あなたのためを思っての愛のムチです」

「そこを何とか今日だけは! 母が物凄く喜んでた理由が知りたいんです」

「先輩、永遠ラボが何か成果を出したんですか?」

 麻生さんはぎょっとして相方を見た。相方の胸のネームプレートには葛城と書かれていた。葛城さんと言うのか。

「あなたももう少し研究所内の状況を把握する必要があるわね。とはいえ、何があったかは一般人である美笑ちゃんに言うわけにはいきません」

 ぴしゃりと会話を打ち切られた。

「そこを何とか。部屋の隅で黙ってみてるだけでいいの。ほら、子は親の仕事ぶりを見ることが少ないから、見られるうちに見ておきたいの」

 お願い、と両掌をパンと音を鳴らして合わせる。

「ダメです」

 麻生さんは昔からきちっとした性格だから、今回も譲ってはくれないよなあ、と諦めかけた時、通路の奥から母親とラボメンバーが出てきた。

「ママだ」

 駆けだそうと思った矢先、廊下の角からママの後をビシッとスーツを着こなした男性が出てきた。歳の頃五十代といったところ。その男性の後ろにはもっと歳のいった男性が一人とメガネをかけた若い女性がいて、ママが何度も頭を下げていた。そしてその場がお開きになったようで、男性たちは別の方向へと歩いて行った。

「ねえ麻生さん、さっきの人たちは誰なの?」

「そんなことは美笑ちゃんの知る必要が無いことよ」

「信用無いなあ」

 そうこうしているうちにママが部屋に入ろうとしていたので声をかけた。

「ママ!」

 呼ばれて美笑の母は一瞬訝しんだ表情を浮かべたが、すぐに美笑の下にやってきた。

「美笑どうしたの、こんなところに何の用?」

「ほら、今日のママ、物凄く興奮してたでしょ。あんなになるなんてめったにないからその原因を知りたくて」

 お願い、と両掌をパンと音を鳴らして合わせる。今日二回目。チームのメンバーからはダメですよと母親に釘を打つ意見が大半を占めたが、

「わかった。何もしないのが条件ね」

 と、母親はあっけらかんと言ってのけた。勿論即座に不満や苦情を訴える声が上がったが、専門用語が飛び交う場所に無知な人間が入ってきたところで何も出来やしないよ、と母親が言うので、渋々メンバーは折れることにした。

「美笑、ついてらっしゃい」

 母親は手招きして美笑を研究室に招待した。

「ここは何をするところなの?」

「ブレインストーミング。アイデアの出し合いのこと。否定するのはNGの言いたい放題な場ね」

「一番アイデアを出すのは永遠先生なんだよ」

 研究者の言葉に美笑は頷く。

「アイデアを出して理論武装して実験で立証して完成品を世に送り出す。この研究所には三つのチームがあるけど、ここが一番多くの研究を行ってる。全部永遠先生のおかげだ」

「そうなんだあ」

 部屋の片隅にあるホワイトボードには所狭しと英語や数式が書かれていて、私の知識ではせいぜいアルファベットを読むくらいしか出来ない。こんな言葉が飛び交う場にいたところで確かに何も出来ないと思い知らされた。

 研究所員たちが部屋に入り切ったところでドアが閉められ、会議が始まった。多元宇宙がどうこう、パラレルワールドがどうこう、量子力学がどうこう。パイロットという言葉はわかった。けれど自分の、それとママの予想通り、私には何にもわからない会話が展開された。ただぼんやりと理系の大学に行ったら、研究室ではこんなやり取りが繰り広げられるんだろうなあと思った。私には縁遠い世界のお話だ。

 結局そのまま静かに部屋を出て家へと帰った。ママが帰ってきたのは夜も遅くなってからだった。まだ私も起きていた。スマホの通話アプリで数少ない、っていうか一人だけの友人と楽しくおしゃべり。

――なんかね、理系って凄いなあって思ったわけ。だから燈子も凄いなあと思ったわけですよ。

『理系が随分安く見積もられてるな』

 古地燈子。小学校時代からの友人、あの日の私を見捨てなかった数少ない人物。そして今や私が困った時に頼れる存在。いつも通話はだいたい一方的に私がメッセージを送りつけて燈子を困らせる形だ。

――パラレルワールドってアニメの世界のものだと思ってたのに、真顔で討論されちゃこっちも「在る」のかもって思うしかないじゃない。

『で、今回の主題は何だ?』

――パラレルワールドに行ってみたい。

『親に頼め』

――それが無理だから困ってるんじゃん。

『私は知らん』

――ママを説得できるいいアイデアってない?

『無い』

――だよねえ。


 翌朝、夜が遅かったのになぜか早起きで、ゆったりソファに座ってテレビを見てたママに聞いてみた。眠け覚ましなのか手にはコーヒーの入ったマグカップが握られていた。

「おはようママ。早いね」

「んー?」

 気のない返事をしてママがゆっくりとこっちへ振り向く。まだ眠たそうだ。

「おはよう美笑」

「ねえ、ママ。昨日皆でどんな話してたの? 私バカだから全くついていけなかったよ」

「パラレルワールドを捕まえよう!っていう話で盛り上がった」

「パラレルワールドってマンガとかアニメとかに出てくるやつでしょ」

「そうそう。自分が選んだこととは別の選択肢を選んだ世界ってやつ。例えば美笑がいない世界とか私がいない世界とかね」

「例えが悪趣味だよ」

「でもそれも一つの選択肢だから。全てがあり得るんだよ」

「で、捕まえるなんてこと出来るの?」

 私はママの隣に腰を下ろした。ママはマグカップを両手で包んで持った。そして一言。

「出来たの」

 マグカップに向かってママがそう言って、こっちを向いてニッコリと笑った。

「まだ全てが解決したわけじゃないけど捉えることには成功したわ」

 もう嬉しくってねーとニマニマ笑うママ。こういう時ママは私より子供のようだ。守秘義務はどこ行った? けれど色んなものを追いかけていくママだけど、それらを一つずつ手に入れていく姿は圧倒的に憧れる。本当に誇りの母だ。残念なのは娘がその知能を受け継いではいないこと。許せママ。

「で、捕まえて次は何をするの?」

「どうしようか」

「知らないよ、私に聞かれても」

「まあそれは冗談としてもそれは学術的に大発見なんで、自分の娘だろうと簡単には話せないのよ」

 見つけられたのは偶然の要素もあるからね、と付け足した。

「ここまで話しておいて特許も何もないでしょ。まあどうせ言われてもわかりませんよーだ」

 ふんっと鼻息を鳴らす。

「きっとそのうち美笑の耳にも入ると思うわ」

 そう言ってママは私の髪をくしゃくしゃと掻き回した。くすぐったいけど、心地良い。

「そう言えばそれを見つけて何か良いことがあるの?」

「良いこと、かあ」

 ママがまた遠くを見つめる。口元に人差し指を当てて、良いこと、良いこと……と繰り返し呟く。

「何だろうね」

「じゃあ何でそれを捕まえようと思ったのよ!?」

「いや、出来たら面白いかなあって」

 随分アバウトな話だな。そう言いながら私はソファを立ってコーヒーを淹れに行く。戻ってまたソファにうずもれる。

「パラレルワールドって日本語では並行世界とかいうんだけど、例えば電車を想像してね。生まれてから乗ってる最初の電車である選択をする。それはまるで途中下車するようなもので、そこから新しい電車に乗り替える。そして元の電車はその隣を走っていく。乗換を繰り返す度に並行に線路が無限に広がっていくけど、環状線は無くて、そして各路線には必ず終点がある。それと実際の電車と違うのは“進む”はあっても“戻る”がないこと。一度乗り換えたら元の電車には戻れない。そう選択してしまったのだから。まあ確率的には元の電車に乗り換えれるのは0ではないんだろうけどね。だから一つ一つの選択は本当に慎重に検討しないといけないぞ」

 そこでだ、とママは私を見つめた。なんだかドキドキする。

「美笑は行きたい大学、決まった?」

 それか? このタイミングでそれなのか? 不意打ちの質問は私を思考停止にした。

「どうなの?」

「それ、昨日麻生さんにも聞かれたよ。私バカだから、受かるところがあればどこでもいいんじゃないかって」

「それはまずいな。末は私の後を継いで研究を進めてほしいのに」

 進路の話をすると必ずこれを言う。どこまで本気なのやら。

 そこでピンと閃いた。

「ねえ、ママが捕まえたパラレルワールドを見せてよ。そうすれば私がどうするのが一番いいか選べるでしょ?」

「却下」

「ひどい」

「当たり前でしょ。あれは楽するためのものじゃないの。あんたみたいな軽い気持ちで世界を作り変えちゃう人間が必ず現れるから、そこのセキュリティーを何とかしなくちゃとは思ってる。でも並行世界を変えても元の世界に戻ってきたら何一つ変わってる点は無いのだから、やる意味は無いわね」

「並行世界に居続けるっていうのは?」

「今の技術じゃダメなのよ。被験者に負担が大きいからあまり長居は出来ないの。健全な青年でも居られて一週間かな」

「私なら?」

「三、四日てとこかな。帰宅部じゃもっと短いかも」

「三、四日か……」

「はい、この話はこれでお終い。さあ、美笑はさっさと着替えて学校に行っといで」

「は~い」

 そこから話が動くのはほんの三日後のことだった。


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