第4話

目覚ましのアラームが鳴った。音を止めようとするのだが、寝ぼけているせいで一生懸命ラジカセのスイッチを押し続けていた。

「直純、起きなさい」

 下の階から母親の声がした。眠い目をこすって起き上がる。ゆっくりと居間に向かうと、父親が新聞を見ながらパンを食べていた。ゆっくりと意識が海底から浮かんでくる。そうだ、これはいつもの景色だ。けれど何年か経つとこの景色が無くなるという。

 自分の席についてパンを齧る。テレビでは道路を逆走して事故を起こした車の話をしていた。どれだけ同じようなことがニュースで報じられようとも、自動車事故は無くならない。自分の人生にそういう出来事が舞い込んでこないよう心の内で祈ってみた。

 それから二十分経って父親が席を立った。母親が行ってらっしゃいと声をかける。ああ、と答える父親。それを見ながら自分も後を追うように席を立ち、部屋に戻って制服に着替える。


「パパ、起きて。乗り換えるよ」

「ん、ああ、サンキュ」

 美笑に起こされて電車を降りる。そこからは新幹線だ。今度はもう少ししっかり寝られるな、と言うと、今度は私が隣りじゃないから気を付けなよと釘を刺された。

 二時間強の乗車時間、最初こそ家のことが気になってあれこれ考えていたが、気づけば夢も見ずに寝ていた。肩を揺すぶられて目を覚ますと、隣に美笑がいた。

「ここ、誰も座らないみたいだから移動してきた」

「してきた、じゃないだろ」

「でも次はもう終点だから、今ここに誰もいないってことはもう誰もここに座らないってことでしょ」

 一理ある。まあ無賃乗車じゃないんだし、そのくらいは許されるかな。

 そうして新幹線は終点の東京に着いた。そこから在来線に乗り換えて一時間強。目的の駅に着くまでの景色が、ついこの間も見たのにとても懐かしくて、しばらく車窓の外を見ていた。駅に着く。ホームに降り立った時の周囲の景色、発車のメロディー。何もかもが懐かしい。違うのは自分が高校生じゃないということ。もしこの世界に高校生の自分がいるとしたら? 現状、一つの意識が二つの体を行き来しているのは間違いない。それが二つに割れるとは思えないから、どちらかが消えるか、二人とも消えるか、なのだろう。まあ考え過ぎだと思いたい。それよりもとにかく早く家に行かなくては。

 駅からバスに乗って十分、最寄りのバス停に着く。

 歩く速度が早まる。

 屋根が見えた。

 駆けだす。

「え?」

 自分の知らない家がそこにあった。

 郵便受けの横についてるネームプレートを見る。

――***――

 そんな名前は知らない。

 なんで交橋じゃないんだ?

 この家は何だ?

 ショックで膝から崩れ落ちた。

「だって、そんな……なんで」

 これじゃあ何も解決しない。声に出るのは「なんで」だけ。

「パパ、向こうから人がくるよ。何か知ってるかもしれないから聞いてみようよ」

 美笑が指す方に顔を向ける。確かに女子高生が一人歩いてくる。担いだドラムリュックが見るからに重たそうだ。けれど足が動かない。それを見越した美笑が彼女に声をかけた。

「いきなりでごめんなさい、ちょっと聞きたいことがあるんだけど質問してもいいかな?」

「はい……」

「ここに交橋って人が住んでたのって知ってますか?」

「あ、はい」

「ホント!? じゃあこの***さんって人がここに越してきたのっていつ頃だったか覚えてない?」

「ちょっとわかんないな……あ、お母さんなら知ってるかも」

「ホント!? ぜひ教えてほしいんだけど、お母さんに聞いてもらえるかな?」

「は、はい」

 そういうと少女は元・交橋家の隣りの家に入って行った。表札を見ると見覚えのある名前がそこにあった。見知ったものが一つあるだけでかなり安心する。

 すると怪訝そうな顔をして母親が出てきた。歳は五十過ぎといったところか。

「どちら様ですか?」

「交橋と言います」

「交橋さん? ……え、本当に? 懐かしい。ここに来るのは何年ぶりですか」

「だいぶご無沙汰してます」

「でも変な話ね、自分がいつここを出たかわからないなんて」

「ちょっと事故にあっちゃって記憶があやふやになってるところがあるんです」

 美笑がでたらめを吹き込む。

「それでこちらのお嬢さんは?」

「この人の娘です」

「ちょっと待て!」

 慌てて美笑を後ろに押しやる。

「変な縁でここのところ色々手伝ってもらってる子なんですよ」

「照れなくてもいいのに」

「お前は黙ってろ」

 はーいと生返事を一つして美笑は後ろを向いた。

「それで、うちの両親はいつここを出たんですか?」

「あの、それは……言って良いことなのかしら」

「どういうことですか?」

「一つ確認したいんだけど、本当に記憶が怪しいの?」

「え、ええ。そうなんです。二十五年分くらいあやふやで」

 それを聞くと母親は言い淀みがちに口を開いた。

「今から何年前になるのかしら。交橋さん夫妻が相次いで亡くなって、しばらくあなたが一人で住んでられたんだけど、そこから二年くらいしてあなたが家を売却して出てったのよ」

「売却して出てった……」

「本当に覚えてないんですか?」

「……ええ、全く」

「そう。ショックな話をしてごめんなさいね」

「いえ、教えてもらえただけでもありがたいです」

「今はどちらにいらっしゃるの?」

「**県にいます」

「随分遠くにいるんですね」

「はい、なんでそこなのかわからないんですが」

「色々と思うところあったんでしょうね」

 そして、それじゃあと会釈をして母親は家の中に戻って行った。俺は元・自宅だった家をじっと見つめた。以前はポストの後ろに小さな庭的なスペースがあって、そこに小さな自転車小屋があった。今は植木鉢が占拠している。記憶にある家と同じところ・違うところを比べながら、視線を動かし下から上へ。二階の部屋の窓から白猫が外を眺めていた。そういえばうちにも猫がいたっけ。最後の猫を看取ったのはいつのことだったかな。そして白猫の視線を追うように空を見上げた。家を売却した、だから口座にあんなに預金があったのか。

 そんなことより思うことは。

 俺は自分の手で帰る場所を失くしてしまったんだ。

 ということ。

 あの寂しい1DKの部屋が全てなんだ。

 なんでこの家を手放したんだろう。

 思いあたる節が全くない。

 借金のかたに差し押さえられた、とも思えない。

 どうして俺は何も覚えていないんだろう。

 こんな大事なことすら覚えていないなんて、おかしいだろう。

 けれどいつまでも自分を責めながらここにいても仕方ない。引かれる後ろ髪を引きちぎるように、重たい足を引きずるように、一歩ずつ歩き出す。けれど自分でもどこへ向かうべきなのかわからない。美笑はそんな俺の斜め後ろをトボトボとついてきた。いつもなら何か言いそうなものだが、今は沈黙を貫いている。

 バスに乗り込んで駅へと向かう。もうすっかり日も暮れてしまっているが、どこにも宿を取ってはいない。今から冬輪の部屋に帰るのはギリギリ大丈夫かもしれないが、かなり深い時間になってしまうだろう。どうしようか。

「とりあえず東京に出てカプセルホテルでも探そうよ」

 久々に美笑の声を聴いた。いつもの明るい調子だ。

「私はネカフェでもいいけど。下手なホテルよりいいみたいだし」

「行ったことないからわかんないな」

「じゃあネカフェを探そう」

「まず東京に出てからな」

 乗り慣れた在来線で故郷を後にする。東京に行くまでの間、もう見ることは無いのかもしれないと惜別の思いを感じながら外の景色を見ていた。美笑も「パパの故郷ってこんなとこだったんだ」と窓の外を見ているがこっちは嬉しそうだ。何が嬉しいのかは勿論わからない。

 人的にも物的にもよすがが完全に無くなってしまった。この歳ならとっくに自立していて実家が無くても大丈夫なのだろうが、如何せん現実はこの惨めさだ。ならすぐにでも働き口を探せという話になるが、現状で出社しようとするとあの恐怖感に襲われて一歩も動けなくなる。それを人は甘えというのだろうが、当人にとってみれば何をどうされてもダメなものはダメなのだ。そして自分のことを情けなく思い自己啓発本を探し始めたりするが、そういう時は気分がまいっている時で、結果将来を憂いて自殺などを考え始めてしまう。

「パパ、ダーイジョウブだって。ネカフェは怖いところじゃないよ」

「何の話をしてるんだ?」

「なんか難しい顔してたから、きっとネカフェの仕組みとか値段とか考えてるんだと思ったわけ」

「見事に見当違いだな。いっそ清々しいよ」

「あれ、そうなの? まあいっか」

 そう言ってまた美笑は窓の外を見始めたが飽きたらしく、中づり広告を見たり路線図を見たりしていた。しょうがないやつだなと思ったが、そんな他愛もないことが自分の心を和ませてくれたようで、軽く一息ついた。肩の荷が少し降りた気がした。

「さ、次の駅で乗り換えだ」

 ドアが開いて俺たちは外へ歩き出す。

 目指す場所はあっという間に見つかった。細かいルールはすっ飛ばして部屋と値段を確認してチェックインする。

「私シャワー浴びてくる。っていうかパパも入った方がいいよ、ここんとこお風呂入ってないでしょ?」

「二日くらいなら入らなくても大丈夫だと思うんだけど」

「何がどう大丈夫なのかは知らないけど、衛生学的に見たら不潔という区分に割り振られて、娘から距離を置かれるよ」

「わかったよ」

 部屋の確認をして、先に美笑がシャワー室へ行った。

 個室に入るなり俺は身体を横に投げ出した。元・実家だった場所にいたのはほんの三十分くらい。あとは四時間以上、電車やバスにじっと乗っていて身体が強張っていたので、寝転がるや否や思い切り手足を伸ばした。ああ、と思わず声が出る。

 横になって天井を見つめる。知らない天井を見上げるのは二回目か。


「大学に行く必要なんてあるんでしょうか?」

 俺の言葉に担任はポカンと口を開けた。

「やりたいことが無いのにどこかを選べと言われても無理なんですが」

 隣りの母親も「何を言ってるの」と慌てている。

 夏休み前の三者面談。教室の前の方を片付けて机を横に二つ並べて、俺と母親、そして担任が向かい合って座っている。夏に突入した季節は開いた窓からどんどん入り込んでくる。

「何もないってことは無いだろう」

「そう言われても」

 あやふやだけど光のさす方へ目標を定めてそこへのルートを構築する。早かれ遅かれいつの時からかそれを人は考える。俺の場合、それを怠った結果がこれなのだろう。

 毎日目の前のことをこなして過ごしてきた。成績は得意教科も不得意教科も押しなべて平坦で、突出したものがあればその道に進めるのだろうがそれもない。そして何より「夢」がない。なりたい自分が描けない。そこへタイムアップと言われて別の列車に乗り損ねた。こうなった時のプランBを作っていなかったのだから、どこで降りて路線を変更すればいいのか全く分からない。途方に暮れるしかないが、時間は止まってくれない。乗っている列車はどんどん駅を通過していく。同じ車両に乗り込んだ仲間たちは一人、また一人と途中駅で下車して、気づけば自分だけが取り残されていた。

 大学に行ってもまだ将来のことを考える時間はある。何処かの大学に入ってそれから考えればいいのか。いやいや、大学はいわば社会に出る前のインターン期間で、入学したその日からすでにオフ・ザ・ジョブトレーニングは始まっているんだという考えもある。そして多分後者が正しい人生の選択だろう。なんだか今この時点で人生の落後者になった気分だ。

「とにかくまだ時間はあるからもう少し考えてくれ」

 そうして予定を大幅にオーバーして三者面談は終わった。外で待っていた次の番のクラスメイトに、時間が大幅に遅れてしまってすまんと詫びを入れて学校を出た。

 家に帰って夕食の席で、父・母・俺の三人で俺の将来について話しあった。母親は現場に居合わせたので状況が呑み込めている。父親はとやかくいう性格じゃないのであれこれ押し付けてこない。

 結果を言えば近場の国立大学にするということで一応の決着を見た。それで一応の目標を設定することが出来、乗り換える駅も決定された。傍から見ればそれだって目の前のことをこなしただけなのだけれど、その時の自分は一歩前進出来たと思ったのだった。

 翌日、早速志望校の赤本を買ってきて勉強を始めた。大学入学共通テストは五教科全てを受けなければならないらしい。うんざりしながら解いていく。

 のどが乾いたので台所に向かう。時計が十八時を過ぎていた。この時間なら母親が仕事から帰ってきているはずだがその姿は無かった。多分仕事が終わらなくて帰りが送れているんだろう。そう思い、大して気に留めていなかった。

 ところがいくら待っても誰も帰ってこない。時間は十九時を回ったところ。相手は大人だしまだ心配する時間でもないが、お腹が空いていたので戸棚からお菓子を取り出して飢えをしのいだ。結局その日、両親は帰ってこなかった。

 翌日、目が覚めてみてもやはり二人とも家には帰っていなかった。明らかにおかしい。電話をしても呼び出し音ではなく繋がらない時の音声が流れてきた。何通もメールを送ったが一向に返事は返ってこなかった。怖くなって表に出て辺りを窺ったが、人っ子一人いなかった。どうして両親は帰ってこないんだ?


――両親はもういないんだ。


 ゾクッと背筋を悪寒が走った。そんなはずはない。だって一昨日までいつも通りだったじゃないか。二人して急にいなくなるなんておかしい。黙って二人で旅行に行くなんてこと、あるわけない。

 もう一度、家中を探し回った。一階と二階を何度も何度も上り下りして同じ場所を見ていくうちにだんだん恐怖感が増していった。どこだ、どこだ、待って、待って。どういうことだ?


――両親はもういないんだ。


 ゆるゆると崩れるように居間のテーブルの椅子に座った。

 最後の最後まで認めたくない気持ちで一杯だった。けれどもうそれもただの悪足掻きだった。ぼんやりと記憶の断片を手繰り寄せる。

 それはいつのことだっただろう、折り重なるように次々と両親の死を受け止めたのは。二人の他界間隔があまり長くなかった分、片親の死の感傷に浸る間もなくて、考え方によってはその時は幸運だったのかもしれない。けれど二人を看取ったあとには、それまでの本来受けるべき負の感情の嵐が猛烈な勢いで脳内をかき回していった。独りになったこと、自分もいつ死ぬかわからないということ、これからどうやって生きていけばいいのかわからないこと、誰を頼ればいいのか見当がつかないこと等々。頭を抱えていたって何の解決にもならないと気付いて、なんとなく棚を開いて、生前母親が色々出し入れしていたものを出してみた。銀行の通帳がいくつかあって、中には同じ銀行の名義違いの通帳もあった。母親は何をどう使い分けていたのだろう。いくつかの項目には金額の隣りに使途が記載されていたので理解はできた。

 そういえば父親が亡くなって、今まで入ってきていた年金はこの先どうなるんだろう。ふらふらと部屋に戻ってスマホで調べてみたらいくつかの書類が必要らしかったが、文章が全く頭に入ってこなかった。一文字読んで次に行くともう前の文字を忘れてしまうような感じだった。スマホの電源を落とし、ベッドに倒れこんだ。そうしてその日は終わり何も手につかないまま何日かを過ごした。別の部屋へ動くたび、その先に両親の影がちらついた。数日数週間なら耐えられたが、年になってもう我慢できなくなっていた。気づけばまた各部屋をぐるぐると回って両親の姿を探す日々が続いていった。

 もうダメだ。この家にいると自分はおかしくなってしまう。この家を出ることを決めた。家が残っていてもどうしようもないので売却することにしよう。そしてどこか遠く、行ったこともなくてすぐここに戻ってこられないような場所へ行こう。

 こういう時に使う言葉じゃないけれど、善は急げだ。もしくは脱兎のごとく逃げだす、の方が正しいか。


 横になってすぐ寝落ちしてしまったらしい。それにしても嫌な夢を見た。泣きながら起きる経験を始めてした。

 するとドアをノックする音が聞こえた。ドアを開けると美笑がいた。

「シャワー室、空いてるよ」

「ああ」

 それだけ伝えて美笑も自分の部屋に入って行った。俺はのっそりと起き上がってシャワー室へ入った。久々に浴びるシャワーは物凄く気持ちが良く、風呂は命の選択という言葉を実感した気分だった。

 部屋に戻ってまた横になって、爽快感に包まれて再び午睡に落ちた。

 小学生の自分がいた。確か小五の頃だと思う。ある日突然「普通の人と同じにはなりたくない」と思った。高校・大学・サラリーマンのレールに乗りたくなくて、それは高校生の時も思っていた。じゃあ何になりたいのか、この肝心なところを考え忘れていたのが今になって失敗だったと痛感する。プランBの必要性。思い立ったが吉日というけれど、確かに気づいた時点で改めて目標を持ち直せばよかったのだ。何もしないで鬱々と悩み続けるなんて不必要な我慢だ。

 スイミングに通っていた頃があった。幼稚園から続けていた。しかし小三頃に成績の良いクラスメイトを見て自分もそうなりたいと思い、スイミングを辞め学習塾に通いだした。もしスイミングに通い続けていたら、もう少しアクティブに体を動かす選択肢が生まれただろう。でも自分が採った道は文系寄りだった。それが悪いというわけじゃない。塾が自分に合っていたのか勉強に嫌気を感じることもなく、学校の授業にも余裕を持ってついていけたから。

 そこでふと思い出した。

 小学校と言えば、十歳の時だから小学校四年生の時か、二十歳になる十年後の自分へと題して一筆書いてタイムカプセルに入れて埋めた覚えがある。だがそれを掘り起こしたという話は全く聞いてない。二十歳といえばまだ大学生で実家にいた頃だ。確かそれを掘り起こすのにかこつけて同窓会をしようっていう話だと聞いたことがある。卒業アルバムには卒業生の電話番号が載っていたが、自分の家に連絡が無かったということは、タイムカプセルは掘り起こされていないということかもしれない。

 嫌な気分を払しょくするためにも、どうせ地元に戻ってきてもやることもないのだからいっそ確かめてみようか? きっと誰も咎めやしないだろう。時計を見る。午後八時を過ぎていた。まだ今ならホームセンターは開いている。

「出かけよう」

 部屋から出て隣りの部屋をノックする。

「美笑、俺これから出かけるけどお前はどうする?」

 勢いよくドアが開いた。

「何なに、なんか楽しいことでも始めるの?」

「んーどちらかといえば捕まるかも」

「スリリングだね。勿論私も行く」

 ネカフェを出てホームセンターに向かう。駅前という土地柄、タクシーに困ることは無い。時間も惜しかったしタクシーに乗ることにした。買い物を済ませ次第すぐに小学校に向かいたいので、タクシーにはセンターの駐車場に待機してもらった。そして数分後、スコップを二つ持って再びタクシーに乗り込み小学校へと向かった。

 通りに電灯が立っているからとはいえ、小学校の敷地内は真っ暗だ。静かに忍び込んで目指すはタイムカプセルを埋めた場所。角地にある少し林のようになっている場所にスコップを突き刺す。カプセル自体は靴箱くらいの大きさがあるので、そこまで深いところには埋めてないと思った。というのも埋めた当時は名前の順に並んで一人ずつ小さなシャベルで土を掘って行ったので、自分は完成形を見ていないのだ。けれど流石に一メートルは掘ってないはず。

「パパ、ここで合ってるの?」

 美笑が聞いてくる。五十センチほど掘っても当たりが出ないからだ。

「場所が違うのかもしれないな。隣りを掘ってみよう」

「そういえばタイムカプセルって毎年埋めてたの?」

「恒例行事だったと思う」

「ってことはここら辺中タイムカプセルだらけってこと、ないかな? 今でも埋めてたりするならもう敷地が無い気がするよ」

 確かにそうだ。けれど今実際に掘ってみたら何も出てこなかった。

「考えたくはないけど、埋めたものを生徒の知らないうちに教師に掘り起こされてるってこと、ない? 次の学年の場所を確保するために」

「そんなことするかなあ。確かにいつかは敷地中が飽和状態になるかもしれないけど、一学年四クラスくらいの学校だからそれほど埋める場所には困らないと思う。それに十年後には必ず掘り返すわけだから毎年埋めた分だけ堀り出して行くと考えていいし」

「そっか。でも掘り返す連絡って来たの?」

「いや、俺の知る限りは無かった。両親からもそう言う話は聞いてない」

「無視されたなんてことは?」

「かけ忘れられたって? いやあ、そうだったら泣くね」

「そもそも連絡って誰が誰の家に掛けるのかな。埋めた時の教師が十年後も同じ学校に勤めてるとは限らないじゃない。教師が異動になる度にいちいち何年何組のタイムカプセルを掘り起こすのはいついつですなんて伝達事項を書いた表が職員室の壁に貼ってあるとは思わないよ」

「俺の遠い記憶でも職員室にそんな表は無かったと思う」

「じゃあパパのタイムカプセルはどこに行ったのか」

「埋めてから三十年経ってるからもう無いかもしれないなあ」

「もうちょっと掘ってみる?」

 最初に掘った場所を中心に半径一メートル以内を掘り起こしてみる。

 コツン。

「あった」

 そう言って美笑がザクザクと土を削り取る。

 確かにそこにはタイムカプセルと思しきものがあった。箱はステンレス製で錆びてはいないが年月分の腐食はあった。けれど蓋は被せてあるだけのものだから開きそうだ。

「パパが開ける? 思い出とご対面って」

「そうだな。俺のものでもあるし。ただ一つ気になる、こんな箱だったかな」

 蓋に手をかけ、少し力を入れてふたを開ける。何年ぶりかに空気に触れる手紙たち。その中から自分のものを探す。けれど明かりが無いからどれが自分のものかわからない。すると美笑がスマホのライトをつけた。

「サンキュ」

「どういたしまして」

 そうして探してみたが、やっぱり自分のものは無かった。

「知らないうちに掘り起こされてたんだな、きっと」

 その呟きが辛かった。自分が無視されたわけではないと思うけれど、結果として仲間外れにされたような形になって凄く悲しかった。独りは辛い。この十年くらいは定職にも就かず両親もなくして孤独を囲い続けて毎日独り身の辛さに耐えていた。当時を思い出しても嫌なことばかりだ。けれどそういうことの方がよく覚えているから困る。こんな自分でも高校より前は楽しいこともあったんだ。テストでジュースを賭けたり、部活に励んでみたり、いつも周りに友達がいて何でもないことが楽しかった。タイムカプセルを掘り起こすなんて一大イベントに呼ばれないなんて思いもしないだろう。

「折角掘ったんだし、ちょっとだけ中を見てみようよ」

 突然美笑が言った。

「人のものを開けちゃまずいだろう」

「それ以上に掘り起こすことの方がまずいと思うけど」

 そういうと美笑は手近にあった封筒を手に取り中を開けた。

「これ書いたの女の子だね。十年後の自分へ。元気にしてますか。いつも悩んでばかりいるクセは治りましたか。あーカワイイなあ。ねえ、パパはなんて書いたの?」

「俺? 何だったかなあ、三十年も前のことだし」

「でもこういうのって意外と覚えてるもんじゃない」

「そうだなあ……お酒は飲み過ぎないでくださいとかだったかな」

「つまんないこと書くね」

「しょうがないよ。二十歳なんて圧倒的に大学に行ってる率が高いだろ。そんな人間に何を書けと」

「単位落としてませんか、とか」

「つまんないことだな、それも」

「で、その同窓会に呼ばれなかったわけだ」

「文化会館の大ホールで市長の話を聞いたりしたのは覚えてるんだけど、その後のことは覚えてないんだよな。思い出そうとするとなんか嫌な気分になるんだよ」

「地雷なんだね」

「なんで呼ばれなかったのかなあ」

 夜闇を見上げながら白い息とともに呟きが広がって消える。

「ところでさ、パパは自分はいつまでも高校生だって言い張るけど、なんで大学生時代のことを覚えてるの?」

 視線がスッと下がり美笑を見て、なんだか胸のつかえが落ちた気がした。観念とも似た感情。今は四十過ぎのフリーターでここが居場所なんだ。

「ここに来てから話してたことって、高校生じゃ知り得ないこと結構あったと思うんだよね。やっぱりパパはこっちが正解だって気づいたんだなって思ったよ」

「そうだな、さっき嫌な夢見たけど、思えばそれが正しい記憶だったんだと思う。夢の中で夢を見るっていうのも変な体験だけど。もう俺は高校生じゃない、身寄りのない無職の男だ」

「そっか、いろいろと思い出したんだね」

 また視線をあげる。沢山の星が瞬いてはいたが、オリオン座とおうし座は別格のように輝いていた。

「なんでこんなことになったんだろうなあ。いつから狂いだしたのかなあ」

「狂ってるかどうかなんて死んでからしかわからないし、そこに意味を見出すのは無意味だよ。大事なことはそれでも今パパは生きてるってこと」

「生きてる……生きるって大変だな」

「いまさらそんなこと言う?」

 美笑がハハハと笑った。つられて俺も笑顔になる。

「パパは一人じゃない。私はそのためにここにいるんだから」

「そのためって?」

「パパの未来をねじ曲げに、だよ」

「どうやって」

「本当のことを言うとすでにもうねじ曲がってるんだけどね」

「どこで」

「パパは本当ならパノラマの面接を逃げ出して車に引かれるはずだったの。でも私がそれをさせなかった。赤信号を突っ切ろうとしたのを止めたでしょ。そこから今日ここに来るまでのことはパパと私が新しく作った、改ざんされたパパの人生なの」

「ごめん、美笑の言ってることが理解出来ない」

「本来ならひかれて病院に運び込まれてたのをスキップしちゃったわけ。で、そのしわ寄せがいずれ起きちゃうかもしれない」

「しわ寄せ?」

「例えば別の日にひかれるとか、もっと悪いことが起こるかもしれない。でも良いことが起こるかもしれない可能性も秘められてる。そんな賭けみたいな世界になんで来たかっていうと、とにかく私がパパに会いたかったの。それで、例え今までのように今後も不幸に見舞われるかもしれなくても、私はそれまで少しでも楽しい気持ち、前向きな気持ちを持ち直して欲しかったから。十何年も不遇をかこっていても、何が起こるかわからないのが人生じゃない。凄く当たり前のことしか言えないけど、私はパパに生きていて欲しいの。何かあると信じて、生きていて欲しいの。だから私はここに来たの」

「美笑……」

 俺はもう一度空を見上げた。目が暗順応したおかげでオリオン座とおうし座だけでない星々の光が、自分はここにいるんだと主張しているようだった。

「この世界でもっとパパの人生の役に立ちたかった。少しでも良いことを共有していけたら良かった。でもごめんね、パパ。返って不幸を増やしちゃった」

「……困ったな、何をどう言えばいいのかわからないよ。ただ思うのは、美笑はどうして俺に良くしてくれたのってこと」

「だって、弱くても情けなくても父親のことを心配するのが家族ってものでしょ」

「俺には家族なんていないよ。それは美笑も知ってるだろ。俺たちは他人なんだし」

「この世界ではね。まあその話はどうでもいいの。一番大事なのは私が今、目の前にいるパパに何かしたかったってこと。どうかな、私、パパのこと少しは幸せにできたかな」

 そう言って美笑は微笑んだ。全く何も理解できていないけれど、美笑が言うのならそうなんだろう。確かに、ここ数日は前向きに生きられた気がする。忘れちゃうのは勿体ないから何とか覚えておきたい。

 そうして俺は美笑の手を取って立ち上がった。

「それにしてもわからなさすぎるな。人生を捻じ曲げるとか実際できちゃうもんなのか。いったい美笑はどういう存在なんだ?」

「私? 私は一介の女子高生だよ、もしくは一種の次元トラベラー」

「次元トラベラー?」

「私はこことは違う並行世界の人間で、たまたまこの世界に来られるようになったの。その時にはすでにパパがひかれて意識はそのまま返ってこないっていう人生を見通せてた。だから私がそれを捻じ曲げた。そういうことをやるのが私のママが研究してたことなの」

「それはどういう理屈なんだ?」

「技術革新って凄いよね、としか言いようがない」

「他の世界への移動……」

「そう。ママがその研究チームの一員なの。ざっくり言うと他人の人生を改ざんする技術。どちらかというと悪い方に」

 恐いんだよーと言いながら美笑が顔の前で両手の指をワキワキと動かした。そんな姿に俺は苦笑した。

「物騒だな。で、それは何の必要があって作られたんだ?」

「パパみたいに報われない人生を送ってる人が、少しでも心安らげるひと時を送れるように手助けするため、とかママは言ってた」

「ふーん」

 美笑はしゃがみ込んでタイムカプセルの中から手紙を一通取り出した。おもむろに中を開くとそこには癖のある文字が並んでいた。

「このデジタルの時代にこんなアナログな形で何かを残す必要ってあると思う? テキストデータをUSBメモリに入れて保管するほうが楽だし劣化もしにくい。どっかに埋めるなんてことしなくてもロッカーにでも入れておけば済む話じゃない。なのにあえてしないのは何でなんだろうね」

「さあなあ。当時は言われたから書いたけど、特に何も疑いはしなかったな」

 美笑は手紙をたたみ再び箱に戻した。

「私思うんだ、体感した記憶は壊れにくいんだと思う。ただキーを叩いただけの、画面上に表示される文字の何倍もの情報がこの紙の上にはあるんだよ。パパが高校生の頃に逃げ込めたのも、それだけその時代、その時間が内容の濃いものだったからじゃないかな」

「楽しかったよ、そりゃもう。それをもう一度やり直せたんだから最高だった。そういえば美笑はどうなの、そっちの世界での高校生活は?」

「んーかなりシビアだなあ。私落ちこぼれだから」

「しっかりしてるように見えるけどな」

「外面と内面は違うんだよ、女子は特に」

 ふふふと美笑は笑った。そんなもんかなと俺は呟いた。

 辺りはすっかり一面闇に包まれていて、少しの間二人で星を見上げていた。

「さて、じゃあ私は帰るとするかな」

「そうなんだ。ずっといてくれるんじゃないかって勝手に思ってたよ」

「この世界へのスキップは脳に負担がかかっちゃうの。今回は特に長時間こっちいるから脳の消耗を考えるとこれが最後のダイブなんだって」

「そうなのか。で、あとどのくらいいられるの?」

「あと十分くらいかな」

 そう言って美笑は腕時計を見るようにそこにある機器を俺に見せた。

「センサーカラー、レッド。急いで帰ってこいだってさ」

「そっか。じゃあこれで本当にさよならなんだ。俺、美笑がいなくてもこの先ちゃんとやっていけるかな?」

「出来るって思おうよ。目指せラヴィアンローズってね」

 そう言いながら美笑の体が光の粒に素粒子分解されていく。

「じゃあね、パパ。またどっかで会えるといいな」

「そうだな」

 そうして光は拡散消滅した。

「さよなら、美笑」

 それから俺はしばらく星空を見ていた。これからどう生きようか。誰もいない、誰も知らない場所で。勿論それは望んで作ったものだけれど。

 改めて美笑との時間を思い出す。何をするにも楽しそうで、抜けてるようでしっかりしてる。助けられこそすれ彼女を助けたことは無かったな。そこは次に会えた時に謝っておこう。そう思った。

 空腹を覚えたので一先ずネカフェに戻ることにした。片側二車線の道の横断歩道で青信号を待つ。まだ時間は午後九時過ぎたところだろう。それでも間断なく目の前を車のライトが左右に行きかう。人の人生は人の数だけあって、目の前の車のように早かったり遅かったり車に乗っていなかったり、自分のペースで進んでいるんだなとぼんやり思った。

 前を見ると歩行者信号機の横に設置されている待機時間メーターが0になったところだった。一歩足を出す。右からの車のライトがやけに眩しかった。

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