第3話
耳に響いたその声で目を開く。
机を囲むように三人の男子が立っていた。みな学ランを着ている。
「あれ……」
唐突に表れたこの状況にいまいちついていけていない。
「あれ、じゃねえよ。さっさと職員室行ってこい」
生徒に言われて訳が分からぬまま職員室に向かった。ここは……高校か? なんで俺は高校にいるんだ? 衣装も学ランだ。ファミレスで作戦会議をするって話だったはず。なのに俺は学ランを着て高校にいるとは。
しかし頭はぼんやりしているのに、職員室の場所はわかっていて、動きに淀みは無かった。中に入り担任のもとへ行く。
「交橋、お前進路希望表を出してないだろ。明日までに書いて俺のところにもってこい」
「はい」
進路、進路。そこであのオジサン姿のことが思い浮かんでぞっとした。絶対ああはなりたくない。いい歳して面接を受けなくちゃいけない人生だけは。
職員室を出て、教室に戻る。俺の席はさっきのまま三人に囲まれていた。見れば友人達じゃないか。さっきは動転していて顔もまともに見てなかった。
「どうだった?」
「早く進路希望表を出せって」
「お前出してなかったの?」
「そうみたい」
「なんで他人事なんだよ」
「なんでかな」
なんだか今の状況の方が夢の中の出来事のように思えていた。今でも思い出せる、あの時の震えや強迫観念。あれは夢の中の出来事というには生々しかった。ということはこっちじゃなくあっちが正しい世界なのか。それじゃあ今こうして過ごしているのは何なのか。あれが俺のなれの果てなのか。段々わけが分からなくなってきた。
「なあ、今って何年の何月だっけ?」
試しに聞いてみた。三人のうちの一人が答える。
「お前、頭大丈夫か? 今は##年の七月二一日だよ」
「七月二十一日……じゃあテストの罰ゲ-ムはどうなったんだ?」
三人が顔を見合わせて訝しむ。
「なあ、ナオ。お前本当に何も覚えてないわけ?」
「なんだかそうみたい。俺、答案返しの時、ここにいたよな?」
「勿論いたよ。何の問題もなく普通に行動してた」
「そっか……」
「なあ、お前結構まずい状況にいないか? 早いうちに病院に行った方がいいんじゃね?」
「そんな大げさなことじゃないと思うんだけど」
「記憶喪失なんて立派な大病だよ」
「お前、どこまで覚えてる?」
「んー……テストが終わった翌日の部活終わりくらいまでかな」
「じゃあ十日以上記憶が無いんじゃん。相当にやばい状況だ」
「だよなあ」
「だからなんで他人事なんだよ」
それは自分に起こった出来事とは思えないからだよ。その間わけの分からない世界にいました、なんて誰が信じるっての。
けれど確かにやばい状況だ。記憶喪失以上に俺にとっての現実がどちらなのかなんだかあやふやになってきている。あの世界のことが物凄く質感を持って自分の中に残っている。まるで俺の居場所はここであると言わんばかりだ。その考えを必死で打ち消そうと念じてみようとするが、こうしてこちらの本来の世界にも影響が及び始めている感じだ。百歩譲ってあの世界も現実だとすると、なぜ二つの世界を行ったり来たり出来ているんだろう。あちらの世界で出会った美笑を始めとする人々は本当に記憶の中の存在なのだろうか。
「あーわからん!」
頭を掻きむしってもがいても何も解決しないのはわかってる。でもそうでもしないとこのもやもやが消えて行かない気がしたのだ。いっそ校庭をやみくもに走りまわれば気が晴れるだろうか。とりあえずこちらには打つ手がなく、病院に行くことを周りの奴らから勧められて一先ずこの件はお開きとなり、俺にはもやもやだけが残った。
それからさっき担任から言われていた進路希望表を書き始めた。どの道を通ればあのよれよれの自分になってしまうのか。それがわかればそれを避けられて妙なことには巻き込まれないで済むコースが見渡せる。大学で何がしたいかなんて全く考えてない今、そうなると大学に行くのもどうなんだろうと思えて、高卒でいきなり就職というのも選択肢としてアリではあるが、うちはそこまで貧窮してはいない(と思う)からそれは選ばなくてもいい気はする。金に困ったらバイトで済むだろうし。無難に自分の成績で行ける大学(おそらく両親的には国立大が望ましいと思われる)をピックアップし……ようとして実際どんな大学があるのか、資料は家にあってすぐには書けないことに気づいた。仕方なく鞄の中に用紙を入れる。
七月も下旬(聞くところによると)、もう梅雨明けかというジメジメしたこの時期。テストの答案を返し終えた(聞くところによると)ら、もう一学期は終わったようなもんだ。来る夏休みをどう過ごそうかに思いを馳せる。まあ部活でほとんど潰れるだろう、切ないもんだ。でもたまには何部かの女子と練習日がかち合うこともあるだろうし、そこでそれなりのことが起こってもおかしくないなとニンマリしてしまう。
「ケダモノ」
ふいに美笑の言葉が思い出された。そういえば美笑は女バスだと言っていた。勿論こちらの世界で会うことはないから鉢合わせることもないし、そもそも夢の中の人物が現実に出てきたりしたらとんでもないことだ。
そんなことを考えながら部活の支度をしていると、ふと疑問が浮かんだ。
テスト後も自分はちゃんと登校いていたという。なら、進路希望表をどうして書かなかったのだろう。呼び出しを食らうほどだから提出期限は昨日か今日までだろう。期限まで数日あったとしてその間どうして何もしなかったのだろうか。さっき書いたように、書こうと思えばあっという間に書けるものなのに。いまいち腑に落ちないが、そこを掘り起こしても何も出てこないだろうからやめておく。きっと物忘れが過ぎただけのことだ。
体育館は熱気を逃がすために全ての扉が開け放たれていた。そしてそこをボールが外に出ないようネットが張られていた。けれど悲しいかな体育館の中は空気の循環がなされていないようで、少し走っただけで汗だくになる。コートを何往復もして一息ついて今度はボールを使った練習。徹底的に聞き手とは反対の手を鍛えられるのが我が高校の特徴だ。勿論聞き手でのボールハンドリングは出来て当たり前というのが前提。だからきつい練習の終わった後で、下校時刻になるまでの少ない時間で聞き手の練習をやりこむ生徒が多い。途中といえば顧問がどこで何を聞いてきたか知らないけれどドリブルシュートの練習でシュートを決めた後になぜだか間違い探しをさせられたり、数学の計算問題を解かされたりする時がある。制限時間は三十秒。出来ても出来なくてもそれを繰り返す。へとへとになると間違い探しの絵が時々歪むことがある。あーつかれてんなー、と思う頃にはシュート練習も終わりを告げハーフコート練習に移る。
そして部活もお開きとなった。駅までの道をダラダラと歩く。
「今日もお疲れ様でした」
「お前もな」
「体育館の中、むちゃくちゃ蒸してたよなあ」
「でも外練の日に比べたら、まだ日陰にいるだけマシじゃねえの?」
「だな」
「そういえばナオ、記憶喪失治ったん?」
「何それ?」
「こいつ、ここ十日くらいの記憶が無いんだって」
「何それ、冗談じゃなくて?」
「いたって真面目だよ」
「記憶喪失って結局日にち薬みたいなもんだろ、だったら気長に治るのを待つしかねえよな」
そして、じゃーな!と挨拶を交わして駅の上り下りホームに分かれる。
「でも普通に行動してるのに記憶が無いってホントおかしいよな。無意識で会話が成立するのか?」
「まあ実際成立してたんだから何とも言えないよな」
んー……と電車の下り組五人は俺を含め皆黙り込んでしまった。そして三々五々各々の最寄り駅で降りて行った。残ったのは俺一人。
「記憶喪失かあ……」
「誰が記憶喪失だって?」
突然、目の前に美笑がいた。見回すと自分がさっき入ったカフェにいる。つまりまたこの世界に戻ってきてしまったという事だ。いったいこれはどういう仕組みになっているんだろう。わからない。ただ、この世界で起きていることは、最初は夢だと思っていたけれど、どうやらこっちの世界も夢ではなく現実なのだということを、体感的に認めざるを得なくなった気がしている。かなりぞっとする。
「俺がさ、さっきまで高校生で、しかも十日以上を無意識で過ごしてたらしいんだよ」
「さっき? さっきって会社の中でガクブルしてた頃でしょ。いつ高校行ってたの?」
「俺もそう思う。で、それ以上に不思議なのが、どうやら俺は高校時代と今この時代を行き来してるんだよ。最初は高校生活を送ってたのに、突然こっちの世界に来て、それが最初に美笑に会った時で、それからは行ったり来たりの繰り返し」
「それで最初に会った時は何も覚えてなかったんだ」
「今でも自分のことをさっぱり覚えてないんだけどな。まあ自分は高校生なんだから向こうのことはしっかり覚えてるけど」
「時をかけるおじさん」
「格好悪いなあ」
「事実です」
「まあそんなことはどうでもいいんだけど、この行き来する現象を早く終わらせたいと思うんだけど、方法が全く思いつかない」
「厄介だね。でも考え方によっちゃあ二つの人生を辿れるんだから人生二倍楽しめるってことじゃない?」
「そんな暢気になもんじゃないよ。俺は早く何とかしたい」
「確かにどっちかで死んじゃったらもう片方はどうなるんだろうね」
「そんな怖いこと言わないでくれよ」
美笑はコーヒーを一口飲んだ。
「さて、顔色を見るにだいぶ落ち着いたみたいね」
確かにさっきまでの恐怖感は無くなってる。これは美笑のおかげだろうか。確かに独りじゃビルの前で立ち尽くして何も出来ず、結果面接もすっぽかしてしまっていただろう。といって今でも面接に行くのは怖い。
しかしこの恐怖感はどこから来るのだろう。何が原因でこうなっているのだろう。わからない。けれどわかったところでこの恐怖感は無くなることはないだろうし、むしろ恐怖感が増すんじゃないか。それなら知らないでいる方がまだましかもしれない。
それとは別に、本当の自分は高校生なんだから早くあっちの世界に戻りたい。そうすれば今こちらで抱えてる悩みなんて全て消えるのに。あっちとこっちを行き来するスイッチみたいなものがわかれば……。
「ところでこれからどうする?」
美笑が聞いてきた。考え事中だったので虚を突かれた。頭の中はあっちの世界に行くことで一杯で、こっちの世界で何をすればいいのか全く思いつかない。目の前では制服姿の美笑がこちらを心配そうに見つめている。制服姿で。
「そういえば美笑は学校行かなくていいの?」
「ん? 問題ないよ」
「問題ないって、そんなはずないだろ。昨日だって部活を休んだんだか早退したんだかみたいだし」
「今、二学期の中間テストの返却期間でちょっと授業はストップしてるから、ここで休んだって皆より授業が遅れるってことは無いよ」
「そうは言ってもやっぱり学生は学校に行かなきゃ」
「気にしないでよ。今はパパの方が問題なんだから。面接、頑張らなきゃでしょ」
「頑張るも何も、俺は入社したって何もできないって。それに俺は高校生なんだからこっちのことなんて適当にやっておけばいいんだよ。戻る時が来たら戻ればすべてOKだ」
「そんな無責任なこと言って。都合よく高校生の自分に戻れるなんて有り得ないでしょ。二つの世界で生きているのなら、こちらの世界でもやることをやらないと、先々どうなるか知らないよ」
「でもなあ」
「ネガティブな発言は禁止! 今は少しでも前を向こう」
スパっと言い切られた。ぐうの音も出なかった。
「とりあえず今は面接までの時間をどう過ごすかを考えよう」
時間はまだ三時間半ほど余っている。
「そういえば今朝ここに来るときに定期の話したよね」
「降りる駅が宝天だったってやつ?」
「そうそう。それってつまり前の仕事は宝天にある会社だったってことだよね」
「そうだな。勿論俺は何にも覚えてないけれど」
「まあ宝天にいくつ会社があるかわからないし、言ってみたけどそれ以上考えを広げることはできないんだけどね」
美笑は腕を組んで考えている。俺はそれを他人事のように眺めていた。
「パパも少しは考えてよ」
「考えるといっても何をどう考えたらいいんだよ」
完全に手持ち無沙汰な感じだったので、試しに鞄の中を探ってみることにした。
「あ、履歴書だ」
そうつぶやいた瞬間、美笑が椅子を倒す勢いで立ち上がった。
「なんでそんな大事なこと忘れてるのよ!」
そういうと美笑は俺の手から履歴書をひったくった。
「年齢四十三歳かあ。大学を出て三回仕事転職してる。どれも皆殆ど一年そこそこで辞めてる。これって絶対性格に問題ありってことよね、きっと。見事な社会不適合者じゃない」
「そう言われても……」
「前職が終わったのが今から二か月前。辞める前に定期を買えてて良かったわね、っていうか定期買ったのって辞める一ヵ月前だったんだね。それってまるで詐欺じゃない?」
「そういわれても。あ、でも確かさっき改札で知ったけどチャージがもうすぐ尽きる……あ!」
「今度は何?」
「俺、銀行から金、降ろせない」
「あー、また暗証番号の問題ね」
「こっちに来るたびにまた高校へ戻れるよう部屋でじっとしてるなんて苦痛だし、そもそもいつどうすれば戻れるかなんてわからないし」
「詰んでるね。ねえ、今、財布の中にカードって何枚入ってる?」
俺は財布を開いてカードを台の上に載せていった。郵貯と¥¥銀行の二枚、それとポイントカードが二枚。問題は前者だ。
「暗証番号はどっちも四桁の数字よね」
「勿論、覚えてない」
「言わなくてもわかってるわよ。ええっとパスワードを忘れた場合は……」
美笑はスマホをいじくり出した。
「ん~郵貯の方が楽そうかな……ああ、元の暗証番号を覚えてないとダメか。ええと銀行は元の番号は知らなくてもいいけど必要な書類が通帳、印鑑、本人確認書類。ねえ、そんなのあの部屋のどっかにあった?」
「いや、無かったと思うけど」
「でもあの部屋を借りるのに多分保険証とか印鑑とかが必要だったはずだから、必ずどっかにあるはずよね」
「でも昨日美笑が見た通りあの部屋には何もなかったろう」
「それでももう一度確認してみようよ」
言うが早いか美笑は店を飛び出した。俺は呆気にとられたが正気に戻って店を出ようとすると、店員に呼び止められた。
「お客様、お会計をお願いします」
「いやあ、ごめんごめん」
無銭飲食で捕まるところだったと話したら美笑は苦笑いを浮かべた。
「勘弁してくれよ、金が足りたから良かったものの」
「でもさ、娘のお茶代位払えないようなパパってのもどうよ」
「だからパパって呼ぶな」
家路を進む電車は今度は七つの駅を(今度は快速で。ちなみに行きも各駅ではなく快速を使えば宝天駅までに停車駅が六つでよかったと知ったのはついさっきのことだった)、一つ進めば止まりまた進めば止まる。ある区画は線路ギリギリまで住宅地がせり出しているところもあり、コスモスやパンジーが咲いてるのが間近に見えた。そこを越えると開けた草原を分け入っていく。途中川を越える。こうして外観を眺めてみてもそこに全く印象は残っていない。本当に記憶喪失になったみたい、いや、実際記憶喪失なのだろう。高校の方はあんなに鮮明に記憶があるというのに、この差はどこから来るのか。
記憶の役に立つかもと思い、おもむろに履歴書を見てみた。そこには美笑が言った通りの職歴が書かれていた。住所もあの部屋のものだ。まるで未来予想図を見ているような感覚に陥った。それと同時に自分がこんなに情けない未来を歩くのか(もしくは歩いたのか)と思うと、生きる気力が無くなっていく気分だった。
「ねえパパ、大丈夫?」
言われて隣りを見ると、心配そうな顔で美笑がこちらを見ていた。
「なんだか思い詰めてる表情だったから心配しちゃったよ」
「なんかこんな人生、情けないなって思ってた」
「まあねえ、前三つはだいぶ前だから年齢的にまだチャンスはあっただろうけど、今回はあっという間に辞めちゃってるからねえ。歳もくってるしお先も真っ暗になるよね」
「ダメ押ししなくてもいいじゃん」
「まあ過ぎたことは仕方ないから、今度は大丈夫だって思おうよ」
そう言って美笑が両手でガッツポーズを作る。少しだけ美笑が可愛く見えて、ドキッとした。
「そ、そうだな」
そして電車は冬輪駅に着いた。早速家に向かう。
部屋に入ると色々と探してみる。モノが無い部屋だからすぐに探し物も見つかるはず。
一しきり探した後で、俺たちは部屋の真ん中に置かれてる小さなテーブルを挟んで座った。
「何はともあれ、まずは今日の面接の対策を練らないと。今までの会社がどれも一年未満で辞めてるのが最大のウィークポイントだよね。なんでそうなっちゃったの?」
「なんでって……多分体調不良とか色々とあったんじゃない?」
「でもブランクが長かったのに前職は入社できたんだよね。どういう手を使ったの?」
「それは……きっと意気込みを買ってもらえたんじゃないかな」
そこで美笑がため息をついた。
「それでそんな奇特な会社をなんで辞めちゃったの?」
「そんなこと言ったって……色々あったんだよ、きっと」
「たった三ヵ月の間で?」
「たぶん」
美笑は腕を組んで考え出した。そして何か言ってくれるのを待っている俺がいた。完全に彼女無しでは何も出来なくなっている。情けない。
「例えば前職の面接のことって何か覚えてない?」
「それは……ん~……」
「ダメか。じゃあさあ、根本的な話だけど、仕事ってどこで探すの?」
「仕事? そりゃ就職情報誌を読んで見つけるんじゃないの?」
「じゃあそれを見ればいいんだね。商店街に本屋ってあったっけ?」
「知らないよ。美笑があっちこっち行くのに付いて行くだけで精一杯だったんだから」
「なら商店街に戻ろう」
言うが早いが美笑は玄関を飛び出て行った。つくづく元気なもんだと思う。
商店街に戻ると、美笑がまた花屋の前で店員と話し込んでいた。俺に気づくと咳ばらいを一つして畏まって言う。
「この人が無職の人です」
店員は爆笑した。
「人に何てことを言ってるんだ」
「あのね、やっぱりこの商店街には本屋は無いんだけど、代わりにハローワークってものを教えてもらってたのよ」
「ハローワーク?」
「パパみたいに途中で仕事を辞めた人とかまだ仕事につけてない人が仕事を探しに通うんだって」
初めて聞く単語だ。店員に聞いてみる。
「で、そのハローワークってのはどこに在るんですか?」
「宝天にあるわよ」
「行くなら早い方がいいよね。面接の時間まであと二時間しかないから」
「行っても今日の面接の対策は練られないよ」
「行ってみなきゃわかんないじゃん」
ほら行くよ、と言って美笑は駅に向かって歩き出した。俺も店員に感謝を伝えて美笑の後を追った。
電車内で、美笑は俺の履歴書とパノラマの資料を交互に見つめていた。
「ねえ、そういえば独り暮らしっていつからやってるの?」
美笑がそうつぶやくように尋ねてきた。
「いつからだろう」
「まだ記憶は戻ってないってことか。でも少なくとも三ヵ月前にはこっちにいたんだよね。前の会社に行ってたんだから」
そういうと美笑は書類を膝の上に置いてこっちを見た。
「そういえば前職があった場所ってどこなの? 社名はここにあるからわかるんだけど」
「あれ、どこだっけ」
美笑は履歴書を見ながらスマホを操作した。そしてなぜかため息を吐いた。
「私も馬鹿だなあ。定期が宝天駅までなら前職の職場だってそこにあるに決まってるじゃんね」
「そうだな」
ん~と腕を上にあげて伸びをしてから、あ、と美笑が何かを思いついた。
「こっちの記憶は高校生の世界の夢には出てこないの?」
「そういえば出て来ないな。ていうかあれは夢に見るわけじゃなくてはっきりと生活してるんだよ。意識だけがあっちとこっちを行き来してるっていうのが正しい言い方だな」
「それって誰かに話したら速攻で病院に行けって言われるか無視されるかのどっちかだよね」
「まあ、そうだな」
「まだまだわかんないことだらけだね」
本当にそう思う。
「そういえばあの部屋がミステリー的に様変わりしたんだから、スマホとかパソコンのパスコードとかも変わったかもしれなくない?」
そうかも、と思ってスマホを取り出す。しかし。
「それでも自分の誕生日とかをパスコードにはしてないね。まあ当然と言えば当然だ」
そうやって俺たちは世間や学校で学んできたのだ。パスワードには生年月日や電話番号、住所などを使わないこと、と。
「四桁の数字なんて組み合わせは一万通り?かな。片っ端からやって行けばいつかは当たるよ」
「やりたいか?」
「ごめん」
そうこうしているうちに宝天に着いた。事前に美笑がスマホでハローワークの行き方を調べておいてくれたので、迷わず場所に行けた。ところが、電車の待ち時間とかハローワーク行きのバスの待ち時間とかで思った以上に時間がかかってしまい、ハローワークの説明を受けて端末を少し操作するだけで、面接の対策を練る時間が無くなってしまった。
「また来ればいいんだよ」
それは今回の面接を捨てろという意味か、美笑さんよ。
駅で電車を待つ間、美笑も俺も特に何かを話すこともなく立ち尽くしていた。いつも美笑が話題をポンポン出してくるので、それが無いとこうも静かなものかと思った。とはいえ確かに、こっちに来て数日だが彼女にどれだけ助けられたことか。高校時代にこんな子が友人にいたら、さぞかし楽しい生活が送れていただろう。そう言うと高校生活が終わったように思えてしまうが、勿論さっさと向こうに戻って本来の高校生活の続きを送りたい。
電車がやってきて、二人が乗り込む。十一時過ぎの電車はがらんとしていて席も空き放題なので二人ともドアそばの席に腰を下ろす。それでも美笑は何かを考えているようだった。
「どうしたんだ、考え込んだりして」
それでも美笑はじっと前を見つめてこちらを見ようともしない。大丈夫か?と肩をゆすろうとした瞬間、美笑の輪郭がぼやけた気がした。不思議に思いつつほんの一瞬のことだったので自分の見間違いだと思って、再度肩をゆすってみると、ん?とやっと気づいてくれた。ゆすった瞬間はしっかりと感触があったので、やっぱりさっきのことは気のせいだと思った。
「急に黙り込んで考え事なんて珍しいな。なんか心配になったよ」
「心配してくれてありがと。まあ私だって色々考えることがあるんだよ」
「そうなんだろうな。俺のことが少しでもその中に入ってたらごめんな」
「何、急に改まって、気持ち悪い」
「なんかそういう気分なんだよ」
そう言って俺も対面の鏡の向こう側を眺めた。少しすると朝が早かったせいかあくびが一つ。電車は住宅地の横を通り、川を越え田んぼを越え、一駅ずつ目的地に近づいて行く。それに呼応するように、俺は少しずつ緊張し始めていた。今回の面接が、これっぽっちも受かるとは思わないが、受かった場合、こうして毎日恐怖を感じながら通勤するのだろうか。出来るなら早く高校生活に戻って、この恐怖感からおさらばしたい。
ところがそう運良く物事は進まず、俺はまたパノラマが入っているビルに戻ってきた。足に力が入らない状況でエントランスに居続けるのは本当に辛い。
「リラックス、リラックス。きっと何とかなるよ」
「ちょっと気分的には厳しいけどな」
「また付いて行こうか?」
「いや、美笑は朝のカフェで待っててよ」
なけなしの勇気を振り絞ってみた。
「わかった」
そうして美笑と別れた俺はエレベーターに乗り込んだ。壁の階数表示が一つずつ上がるたびに握っている手に力が入っていく。
扉が開く。何とかエレベーターの外に出る。目の前には朝見たパノラマの正面玄関。今ならまだ引き返せる。そう思うと足が後ろに下がろうとする。でも考えてもみれば、どんな面接も緊張するものだ。もしかして知らないうちにここの社員に物凄いプレッシャーをかけられて、それがトラウマになってるとかいうことがあったのかもしれない。でもそれってどんなプレッシャーだ?
自分で自分に突っ込みが入れられるくらいには落ち着けたので、落ち着けてるうちに用事を済ませておこうと思い、入口に備え付けられている受話器を取りボタンを押す。
「面接に来た交橋と申します」
「お待ちしておりました。中へお入りください」
相手がそう言うとドアの鍵が外れた音がしたので、扉を開いて中に入る。すっと周囲を見回すと、パーティションで区切られた空間が広がっていた。
「交橋様、こちらへどうぞ」
右手からさっき電話で会話した相手らしい女性が来て、行き先へ先導していく。人生で初めて”会社”というところに入ったので、なんだか足が地面を踏んでいる感じがしない、ふわふわしている。
「こちらでお待ちください」
そう言って女性は、フロアの右奥に作られた部屋の壁に沿って並べられた椅子を勧めた。三脚あるので他に二人来るようだ。初めての面接。ネックなのはパンフレットは見たがここで何をしたいのか全く思いつかないから、何をどう受け答えしたらいいのか想像がつかない。ここを受けるつもりだった自分は何を考えていたんだろう。
悶々としているところでドアが開いて、よろしくお願いしますと深々と頭を下げた青年が部屋を出て行った。上下紺のスーツが颯爽と歩いていく。
「次の方どうぞ」
部屋の中から声がした。今ここにいるのは俺だけなので勿論俺の番という意味だ。三回深呼吸して覚悟を決めてドアをたたく。開けてすぐ頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「お座りください」
少し猫背で椅子に座る。相手は三人。それだけでも緊張する。なのに三人とも何も言わず何かを待っているようだった。
そしてしびれを切らしたのか、向かって左の人物が「履歴書を見せていただけますか?」と言った。大慌て。体がすくんで鞄から履歴書を取り出すのに手間取ってしまった。
「ど、どうぞ」
履歴書を受け取った真ん中の人物が、自分の前に開いてそれを置いた。
「お名前と自己PRをお願いします」
やっと面接が始まった。
「こ、交橋直純です。えっと、自己PRは……」
言葉に詰まる。どうしようもない状況だ。
「PRは無しでいいですか?」
向こうから会話を切ってくれた。もうこの時点で不合格決定だ。
「では弊社で何がしたいか教えてください」
何がしたいか? 早く高校時代に戻りたい。それ以外に出てこない。ただ、まさかのまさかでこの世界に留まるとなると、資金面でどこかに属する必要がある。四十代で仕事を探すのは難しいとも聞いたことがあるし、この面接がセッティングできただけでも奇跡なのかもしれない。こちらの世界にいた自分が頑張った結果だ。そしてそれを今、同じ人間が壊そうとしている。何か言わないと……。
「あの、えっと、こういう仕事って初めてなんで色んなことにチャレンジしていきたいな、と……」
そこまで言ってそのまま俯いてしまった。恥ずかしさと怖さで面接官の顔をまともに見られない。
「わかりました。それでは最後に何か質問はありますか?」
「いえ、特にありません……」
「それでは面接はおしまいです。ありがとうございました」
「ど、どうも」
そしてふらふらと立ち上がり、さっき面接に来ていた青年がしていたなと思い出して、部屋を出る前に一礼して「よろしくお願いします」と告げた。
なんとか一つの山を乗り越えた。心からの安堵の一息が漏れた。今自分に出来ることはこれが限界だった。面接の練習めいたことをやっておけばとも思ったりするけれど、こんな場で一夜漬けの一発勝負に勝てるとは思えなかった。
ひとまず大仕事が済んだので、美笑の待つカフェに向かった。着くと店内を見渡して美笑を探した。彼女は難しい顔をしてじっとスマホを見ていた。
「ただいま」
二人席で手前の席に座っていた美笑に、背中越しに声をかけた。すると表情がパッと振り向いて明るく笑った。
「どうだった?」
「散々だった。始まった時点で不合格間違いなしって感じで」
「でもとりあえず面接は受けられたんだね。そこは良かったじゃない」
「そうなのか? そうなのかな……」
「で、結果報告ってどこに来るの?」
言われてみれば。PCやスマホのメーラーに来るんだったらどうしようか。
「まあどこに来たとしても不合格通知だから来なくても構わないよ」
「でもそれじゃ生活していけないよ」
「いいんだよ、俺は高校生なんだから元いた世界に戻れば何の問題もないって」
「まーたそんなことを言う。もうちょっと真剣に物事を考えた方がいいって」
「真剣も何も事実なんだから」
すると美笑はふくれっ面になってこちらを見つめてきた。どうしたもんかな。
「わかったよ、次は頑張るって」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ善は急げでもう一度ハローワークに行こう」
「今から!?」
「イエス!」
言うなり立ち上がってトレーを返却口に戻して出口に向かう。つくづく行動力の高さを感じさせる。俺にもあんな行動力があったら違った人生を送れてたかもしれない。
美笑を追いかけて俺もカフェを出る。出たところで美笑が立ち止まってスマホを動かしていた。
「さ、宝天に行くよ」
歩き出す美笑の背中をまたも追いかけていく。が、急に美笑が立ち止まりこう言った。
「駅に帰るためのバス停ってどこだろう?」
知らんがな。
紆余曲折あってなんとか駅行きのバスに乗った。席が空いていたので一人席の前後に座った。窓から景色を眺める。ビルが遠くなるにつれて緊張感が解けていく。朝早くからバタバタしてたから、気が緩んだところであくびが一つ。前に座ってる美笑はスマホを見つめていた。いつでもどこでもスマホを見ている、そういうところは女子高生だなと思ったけれど、もう自分を含め老若男女皆がそうだったなと思い、スマホを使えない自分は世間から逸脱したような気になった。いい機会だから少しパスコードを考えてみよう。六桁の数字と言ってすぐに思いつくものは……
「パパ、彼女とかいなかったの?」
突然前から飛んできた声に額を撃ち抜かれた。
「何をいきなり……」
美笑がニヤけた笑顔でこっちを向いていた。
「例えば、よ。大切な人の生年月日とかなんてよくありそうな感じでしょ」
「まあなあ。ただ残念なお知らせだが現在彼女はいない。いや、こっちの世界ではいなかったというべきかな。今現在のこっちの自分にいないとは言い切れないけど」
「残念な人生だねえ」
「ほっとけ」
そうこうしているうちにバスは駅に到着した。パスコード探しは一旦停止。電車に乗ってハローワークへと向かう。その前にICカードになけなしの千円をチャージしておいたが、金銭状況は非常にひっ迫しているので、もしかして最初に思い出すべき暗証番号は銀行口座なのかもしれない。そう思ったので宝天の駅を降りてハローワークに行く前にコンビニに寄った。ATMにカードを差し込み、試しに生年月日を打ち込む。やはり拒否される。そこで生年月日の西暦を打ち込むと、自分のがダメだったので試しに父親のものを打ち込む。軽やかな音楽が鳴って取引が開始された。まさかの事態に思わず驚いた。裏の裏をかいたつもりの暗証番号なんだろうけど、やっぱり安直すぎると思うので、いつか変えておこう。
それはいいとして預金残高が数十万円以上あったのは驚きだった。まともに勤めてもいない自分がこの大金をどうやって稼いだんだろう。何か怪しいお金だろうか。急に使うのが躊躇われたが、今は当面の生活費が必要なのでありがたく頂戴することにした。自分の口座から降ろすのを躊躇うのも変な話だ。
何とか一つ問題を解決できたので次へと進む。ハローワーク。勿論高卒で働こうなんて思ってもいなかったから、その存在を知らないのは当たり前のことだと思う。
数時間前に来た道を再び歩く。駅から歩くこと十分、それはビルの三階にある。柔らかいグレーを基調とした廊下を進み、開かれたドアをくぐると、呼び出し音がポーンポーンと鳴るのが聞こえた。音の方を向くと、パーティションで区切られた席に番号を示す小さな電光掲示板のようなものがついていて、その呼び出し番号の人がどこに行けばいいのかわかるように、席の向こうで職員が立って出迎えていた。呼び出し待ちをしている人数は十人以上はゆうにいる。職員との面会をしているスペースとは反対側には、熱心にモニターを眺めている人たちがいる。席は二つ三つ空いてる。近寄ってみると企業検索用の端末だった。ここで目ぼしいところをピックアップして、席の横に備えつけられたプリンターで出力する仕組みだ。
みな仕事探しをしているわけだが殺伐とした感じには見受けられなかった。一昨日か、それより前に自分はここで企業を探し、パノラマを見つけたわけだ。勿論それも反故にしまったけれど。
「とりあえずもう一度検索をしてみようよ」
美笑に続いて企業検索端末の席に着く。自分に出来ることが何なのかわからないから、やりたいと思える仕事を選ぶしかないけれど、やりたいこともない、となるといったい何をどう探したらいいのか、ひいては働く気があるのか、というところに陥ってしまう。無論高校生な自分はまだ働く気はない、と言ってしまえば元も子もない。
「深く考えてもしょうがないからさ、何となくでいいからやりたいって思ったところをピックアップしていけばいいんじゃない?」
美笑に言われて、何となくながら検索画面に必要事項を打ち込んでいく。検索をかけてみて思うことは、四十三歳という年齢は有りか無しかでいうと無いこともないが、かなりシビアなものだろうと推測。試しにバイトの年齢層でも上限値なのだからやっぱり正社員なんて無理そうだ。それに四十台というのは、通常の会社員としては例えば大卒からなら二十年経っている頃で、様々な役職についてる人間も多いだろう。そんな大事な二十年間をどうやら捨てたらしい自分に、そんな人生を送っていない今の自分でさえ世間の壁を感じるのは辛いことだった。そんな中で見つけた会社の面接を壊してしまったのが本当に申し訳なく思えた。
「ダメだ……選びようがない」
今になってパノラマが最後の砦だったんじゃないかと、逃した魚の大きさに頭を抱えるしかなかった。
「数字的には結構な数がヒットしてるじゃん。一つ一つ見ていこうよ」
「数が多すぎるよ」
「これだけヒットしてる中から前のパパはパノラマを探し出したんでしょ。結構粘ったんじゃない?」
「こっちは自分がどうなりたいとか全く無いんだから選びようが無いって」
「逆じゃない? どうなりたい、じゃなくて何にでもなれる可能性があるってことだよ」
そういって美笑と一つずつ検索結果を見ていく。
「なんだかトラックドライバーばっかりだな」
「深夜の運転なんて危険極まりないわ」
「そもそも免許証を持ってないから無理だけどね」
「こっちもフォークリフトの資格必要だって」
「介護の仕事……体力持たないだろうなあ」
「体力はやってくうちについていくんじゃない? これなんて資格不要でいいって言ってるよ」
「けどなあ」
「何よ」
「正直、やりたくない」
「でも現実問題として働かないと生きていけないんだよ」
「そう言われても」
「好き嫌いで選り好みできる身分じゃないんだからもうちょっとしっかり考えてよ。パパは高校生じゃない、良い歳したおじさんなの、わかってる?」
「俺は高校生だよ、こんなところで仕事探すような歳でもないし、何がどうなってかわからないけど意識だけがこのおじさんの体に入っただけなんだよ」
「そんな絵空事が通用するわけないでしょ。何なの、さっきも言ってたけど意識だけが他人の体に入るとか、正気で言ってるの?」
「百パーセント本気だよ」
「他人の体っていうけど他人じゃなくて自分の体にいるじゃない。幼児退行じゃあるまいし、高校生だって話もどこまで真実かわかったもんじゃないわよ。恐怖心を装って現状から逃げたいだけなんじゃないの? いったいどこに逃げるの? 実家に帰る? 帰ったって働かなきゃいけない状況は何も変わりはしないよ。逃げ場所なんてどこにもないの!」
初めて見る美笑の激高。それでもこちらもここまで言われるとカチンときた。
「そこまで言われる筋合いはないだろ! こっちは正真正銘真実だけを述べてるんだ! いきなり二十以上も歳をとってさあ働けなんて言われてわかりましたなんて言えるか! 文句は俺の立場になって経験してから言ってくれ!」
「どこまでもお子様ね。話になんない、私帰る」
美笑は席を立つとスタスタと入口に向かった。周囲を見ると皆が俺たちを見ていたが、逆に俺に見られてるのに気づくとあちこちに視線を逸らしていった。端末を見つめて頭を抱える。何やってんだ、俺は。同い年くらいの女の子に正論並べられて逆ギレ起こしたなんて格好悪いことこの上ない。本性が高校生か四十オヤジかはこの際放っておいて、ひとまず美笑に謝らなくちゃいけない。急ぎ彼女を追いかけた。
美笑は廊下の隅で膝に顔を埋めて蹲っていた。
「美笑!」
声に反応して美笑は顔を上げた。立ち上がりスカートの乱れを直す。
「言うは易し、行うは難しだなあ……」
そう呟いた美笑の顔は、後悔の表情だった。
「ごめん、美笑がこんなに協力してくれてるのに我が儘ばっかり言って。俺、もう少し頑張ってみるよ。またこっちの世界に来た時に迷わないように」
「……わかった。私もカッとなっちゃってごめん」
美笑の肩から力が抜けて、俺も安堵の一息をついた。
「とりあえずどこか一社でも見つけてみようよ」
「分かった」
そして二人でさっきの机に戻った。検索を繰り返し、美笑の意見も取り入れつつ三社ほどやってみようと思える会社を見つけた。そこまでは良かったのだけれども、エントリーシートに記入する項目がとても多く、中には希望賃金などまで細かく記入する必要があったのには驚いたのと同時に焦った。
「職歴なんてわかんないよ。俺はやってないんだもん」
「鞄の中に履歴書がまだあったじゃない? それを見れば経歴はわかるでしょ」
そうだ、と気づかされて鞄から履歴書を取り出す。それとモニターを交互に見ながら一つずつ埋めていく。
そして一番の難所、自己PRにたどり着いた。
「うわあ……」
思わずため息が漏れる。
「ラスボスだねえ」
「これは強すぎるわ」
「書かなくても良いらしいけど、書いておけば相手の会社からリクエストが来ることもあるって。書いておいて損はないね。っていうかここが一番大事なんじゃない?」
「長所なんて思いつかないよ」
「とりあえずそれっぽいことを書いておけばいいんじゃない? 我慢強いですとか打たれ強いですとか」
「どっちも同じことじゃない? まあ打たれ強かったら最初の勤務先でしっかり勤めてるって思うよね、相手は」
「んーこの経歴じゃ何を言っても疑われて信頼されないだろうねえ。でもそんなことをしてパノラマの面接にこぎつけたわけでしょ、以前の時は」
「俺じゃないけどね」
「年をとっても中身は変わらないから、きっと今と同じように悩んで何かを書いたんだよ。ってことはちゃんと書いておけばいいことがあるんだよ」
「そう、だよねえ」
俺は無い知恵を絞り出して何とか埋めることに成功した。そして見つけた会社の資料をコピーしてフロアの中央に戻り、発券機で面談の順番の書かれた紙を受け取る。程なくして呼ばれたので「頑張って」と美笑に背中を押されて面談の席についた。
「プリントをください」
言われてプリントを手渡す。
「この二つは希望してる人はいないですね。ここは今日三人希望を出されています。どうしますか?」
そう言われて迷う。希望を出されてる会社がこっちも行きたい会社の一番手だったからだ。そんなもんだよなあと苦笑いする。
「じゃあこの二つの方でお願いします」
「わかりました」
そして職員はモニターを見ながらキーを叩いた。そして席を立つとプリンターの元に向かい、出力したものを持って帰ってきた。
「こちらが今回希望を出された会社に送られたデータの複写になります」
それを受け取る。
「何か質問等はありますか?」
そう聞かれて思いついたことを尋ねる。
「あの、自己PRを履歴書にどう書けばいいかわからないんです。以前の会社には3ヵ月も勤められていないし、それより前は十五年くらい前に遡らなくちゃならないんです。どうしたらいいんでしょうか?」
「そうですねえ……上手いことは言えませんが、じゃあ逆にどうして十五年も経った今、就職しようと思ったのかを書いてみるのはどうでしょう。お金のためとストレートに言うのは問題ありですが、その勤めていなかった十五年の間に何があって今に至るのか。その辺を書いてみるといいと思います。何が出来ますとかどういう性格ですと言うのはこの経歴では役にも立たないと思いますので」
「わかりました。ありがとうございます」
そう言って俺は席を立った。不安だけが残っているけれど、着実に一歩は踏み出せた気がして少し高揚していた。
面談の話をしながら帰りの道を美笑と歩く。
「ところで美笑、十月って言ったら中間テストがあったりするんじゃないのか?」
「あーあーあー聞きたくない聞きたくない」
耳を塞いで美笑が言う。俺も苦笑いを浮かべる。
「ま、もう終わったことだからどうでもいいんだけどね」
「俺も勉強が出来た方じゃないから何にも言えないけど、程々には出来るようになっておいた方が、先に進む時に判断材料になるんじゃないかな」
「なんか偉そう」
ぷいっと顔を背けて美笑がスタスタと歩く。やっぱり苦笑いを浮かべて俺もそれについて歩いていく。その瞬間、出会って数日しか経ってないのにこの距離の近さは何なんだろうと、ふと思った。何と言っても美笑は全くの赤の他人だ。この世話焼きの具合はお節介のレベルを超えている。もしかして俺は騙されているのだろうか。でも美笑から受ける印象は表裏の無い子だ。出来るなら騙されていないと良いなと思う。
なんにせよ、やっぱり余り甘え過ぎないようにするのが今の最善の行動だろう。
駅に着いた時、先を歩く美笑は冬輪方面のホームにスルスルと歩いていく。
「なあ美笑、俺の今日やることは終わったけど、美笑はこれから学校に行くんだろ? こっちのホームだと学校と反対じゃないか?」
「ん? ああ、いいのいいの。テストを返されて終わるだけの日だから」
「いや授業はどんなものでも出ないとまずいだろ」
「だーいじょーぶだって。そんなに何日もサボってるわけじゃないから。今はパパのために動く方が私の心も健やかでいられるんだよ」
「なあ、なんでそんなに俺に熱心なの?」
「ん? 乗り掛かった舟だからかな」
「そんな……もし俺がどっかのやばい人間で、美笑を騙してどこかに売り飛ばそうとかしたらどうすんのさ」
「そこはほら、私、人を見る目はあるから」
ふんっと美笑は胸を張る。
「どっからそんな根拠のない自信が出てくるんだよ」
「ここだよ」
そう言って心臓の辺りをグーで叩く。
「あっそ……」
もうそれ以上深入りするのは止めておこうと思った。
昼過ぎの電車は快速とはいえ乗客もまばらだ。座席から窓の外を見れば、住宅地の中を通り抜けたり、線路にははみ出すくらいの植物の中を通ったりしていく。ふと、高校の時の景色ってどうだったかなと思いを巡らす。団地の横を通ったり川を渡ったり田畑の真ん中を通ったり、少しずつは似ててもあっちにはあっちの景色があったよなと、当たり前のことを思う。
「次は三栄、三栄です。地下鉄青日線に乗るお客様、この駅で乗り換えください」
ふとどこかで聞いたことがある駅名を車掌が告げた。三栄、三栄……
ハッと気づいて横を見る。そこに美笑はいなかった。衣服を見る。高校の学ラン姿だ。なんでこのタイミングで、と不思議がってみても答えは導き出せない。けれど大事なのは高校時代にまた戻れたということだ。喜ばしい話だ。しかしまた時間がずれていたりするかもしれない。ポケットからスマホを取り出し確認する。九月二七日。前回から二ヶ月もずれている。なぜだろう。向こうの世界で過ごした時間分だけ進んでいるのか。それなら数日のことなのだから二ヶ月もずれる理由にならない。俺はいったいどうしてしまったのだろうか。
電車は永大駅に着いた。最寄り駅なので降りる、のだけれど、なんだか落ち着かない気分なのはどうしてだろう。ここが地元ではないような変な感覚を覚えたのだ。改札を抜けて家までの道のりを一歩一歩、辺りを見回しながら踏みしめるように歩く。けれど別段変わったところは見当たらない。気のせいか。
無事家に着く。部屋に入って荷物を置き、鞄の中身を見ると、筆箱、教科書とノートが二冊ずつ。九月二七日というと二学期の中間テストまではまだ一ヵ月ある。さて、何をしようか。特に勉強することもないので今に行ってテレビをつける。しばらく見ていると脳内を閃くものがあった。
「俺、また部活サボってる!」
頭を抱えた。これじゃレギュラーの座に就くことは不可能だ。今から戻っても部活は終わってる。あ~……。今から言い訳を考えよう。そう思った瞬間、家が揺れた。突き上げが大きく横揺れが激しい。思いの他大きな揺れに恐怖を感じて、急いで家を飛び出した。外には同じように周りの住民も出ていた。皆一様に不安な表情をしている。
「震源はマグニチュード六強だってよ」
「ここら辺は震度五だって」
「ネットにももうこの地震の話が上がってる」
そこかしこから声が聞こえてくる。話によると震源は静岡県沖で、ただしここ数十年言われ続けている南海トラフ地震とは関係ないそうだ。とはいえ静岡から遠く離れたこの永大市でこれだけの威力を感じるのだから、南海トラフ地震が起きたらここも無事じゃあ済まないという認識は容易に得られた。外に出ていた住民一人一人も認識をそう新たにしたに違いない。
数分だったのか数十分だったのか、小さな余震が断続的に起こっていたがだいぶ揺れも収まったようなので、一先ずは大丈夫だろうと思って部屋に戻った。スマホの画面に着信の文字。母親からだった。心配してかけて来たのだろうが、この時間は本来なら部活中でスマホを見るのはご法度だ。とはいえ今は家にいるのだから、心配でかけて来た母親に無事を伝えておこうと電話をかけた。
居間に戻ってテレビをつけると、すべての局が地震のニュースを取り上げていた。静岡を中心とした近隣地域の家屋・建物の被害状況、電車・飛行機の運行状況、けが人・安否不明者の数。火災が発生しているところも何か所かあり、けたたましくリポーターがマイクを持って叫んでいる。テレビスタジオの番組司会者は皆、冷静に状況を繰り返し報告していた。
テレビを消し、部屋に戻った。一先ずここは安心だからゆっくりしていよう(時間の経過とともに部活のことを思い出して胃が痛くなったが)。寝ころんでスマホを見始めた。こっちもSNSやニュースサイトのどこを見ても地震のことが話題になっている。大きさもそうだが、今回は震源地が話題の中心のようだった。いつか来ると言われても全くピンとこなかった地震が今回のことで俄然現実味を帯びて、誰の背筋をも怖気が上がったようだったようだ。けれど俺はと言うと他人ほど現実味を感じずのんきなままでいた。
スマホを机の上に置いて今度はマンガを読み始める。そうこうしてるうちに眠りに落ちた。目が覚めたのは母親が帰ってきた時だった。起き上がり時間を見ようとスマホを取り出してパスコードを打ち込んだ。
……打ち込んだ?
そのコードで向こうのスマホも開くんじゃないのか? もしかしたらパソコンのPINコードも同じように今ここで使ってるものが向こうでも使えるんじゃないだろうか。一応確認の意味を込めてパソコンを立ち上げた。頭が、手がPINコードを覚えていた。早く試してみたかったが、向こうに行く方法を俺は知らない。
そこでふと思った。俺はなんで向こうに行きたいのだろう。本当の自分はここにいるのが正しいのであって、あっち側が何らかの間違いなはずだった。別に美笑がいるから行きたいとかそんなことは、ほんの少しは思わなくもないけど、無い。それに向こうの俺は人生の行き止まりにいるような気分だった。職場に行くのが怖くて震える。新しい仕事は全く見つかる気がしない。それでも働かないと向こうの世界では生きていけない。
そういえば向こうの世界でのこの実家はどうなってるんだろう。なんで俺はあんなどこかもわからないような場所に部屋を借りたんだろう。最初は実家から通えてたけど、辞令が出て異動した先があそこだったのだろうか。記憶が確かだったら、履歴書の記載には二社目から三社目までの間に大きな空白があった。となるとその間に異動があって、運悪くなのか自分のミスからなのかはわからないけれど、後日退社せざるを得なくなったのかもしれない。けれどその後、三社目をあの部屋から通えるところに見つけてた。実家に帰って職を探すという選択もあったはずなのに。実家に帰りたくなかったのか。帰れない事情があったのか。謎は深まるばかりだった。
「止めた止めた」
マンガを置いて目を閉じる。別にどんな事情があってもしったこっちゃない。言ってみれば他人の話だ。俺がここでどうこう考えても仕方のないことじゃないか。勿論その他人の体の中に意識だけが入り込むようなこの現象は、さらに今後も起こるかもしれないことを考慮すると、一概に他人事とは言えないのかもしれない。この変な現象を止める術は無いんだろうか。病気だとしたら一体何科にかかればいいんだろう。
「あーもうっ!」
考えるのを止めたはずがまた思考にはまっているじゃないか。今度こそ向こうのことは忘れて本来の生活をエンジョイするんだ。そう思って寝転がりながらスマホをいじる。さっき起き抜けに見た時は、スマホを開けたことに喜んですぐに画面を閉じてしまっていた。ざっと見るとSNSアプリに着信がいくつもあった。時間的に部活の奴らが帰りの時間だ。「生きてるか?」とか「顧問がキレてたぞ」とか有難いやら悲しいやらな気分で、どう答えたらよいものか考えあぐねた結果「いろいろサンキュ」とだけ返信した。
小一時間そうしているうちに母親がパートから帰ってきた。
「うわー!」
突然母親が妙な声を上げたので気になって部屋を出た。母親はリビングにいて食器棚を見ている。
「どうしたの?」
「地震でかなり食器が割れてるわ。これお気に入りだったのに」
見ると確かにグラスや棚の上段に整理してあった食器類が下に落ちて割れてるものもあった。けれど運がよかったのは、扉が開かなかったおかげで床にガラス片をまき散らすことが無かったことだ。そういえばガラスが落ちた音に気付かなかったな。それほど気分が焦っていたのかもしれない。
「直純、ここ片付けておいて」
私は夕飯の用意をするからと言い残して、持ってきていた買い物袋を持って台所に向かった。俺はしょうがないなとため息を一つついて、割れた破片を集めていく。一段落ついたところで夕食までまだ間があったので、折角居間に来たのだからとテレビをつけた。案の定全チャンネルが地震のことで埋まっていた。これ、明日まで続くのかしら?なんて母親が言ってくるので、わからんと答えておいた。先のことなんて誰にも分らないじゃないか。
「もうすぐ着くよ」
誰かの声がする。声の主を探して横を向くとそこには美笑がいた。周囲も家ではなく電車の車内だ。
「なんだか眠そうにしてたけど、また向こうの世界に行ってたの?」
「うん。向こうっていうか元の世界ね。大地震が起きたよ」
「大地震? いつどこで?」
「静岡で。うちは静岡から離れた内陸部だったけど震度五だった。なんかやばいって思って外に飛び出たんだよ。今からだと……今の俺は四十三歳らしいから十七年前くらいか」
「ふ~ん。知らないなあ」
「なんで? あれだけのテレビや新聞、ネットで話題になった大地震なんだから、一般常識として知ってるもんだろう。嫌でもどこかで目にしたり耳にしたりするだろうし」
「なんでと言われましても、その年は私の生まれる前でして」
口がポカーンと開いた。
「今お前十七歳なの?」
「イエス。っていうかいくつだと思ってたのよ。こんな制服着て二十歳過ぎてたら異常でしょう」
「いや、多分十六、七くらいだろうとは勿論思ってたよ」
まあそれは置いておくとして、世間一般の常識として十七年前に大地震なんて起きてないから」
口がポカーンと開いた。
「嘘だろ。それ自分が知らないだけなんじゃないの?」
「そんなことはありません。そこまで私バカじゃないよ」
「有り得ないって」
「有り得ます。でもまあこれから起きるかもしれないけどね。可能性は0じゃないから」
そうこうしているうちに電車は冬輪駅に着いた。部屋に戻ってみると今回は何も変わったところは無かった。
「さて、次の面接の対策なんだけど、ハローワークの人が言ったみたいに十五年経って就活を始めた理由を考えないと」
「といってもこの履歴書を見ると、前回の十五年ぶりの就活は就職できてるんだよね。何をどうしたら受かるんだろう」
「そんで、そんな奇特な会社を辞めたわけね。勿体ない」
「しょうがないだろ、色々理由はあったんだよ、きっと」
「ところでその履歴書には志望動機に何て書いてあるの?」
そういえば今までその欄をしっかりと見ていなかったことに今更気づいた。
「両親の他界でショックを受け鬱になり、それが快方するまで時間がかかってしまった。生活のため就職が必須となった」
美笑を見る。何か難しい顔をしている。自分でも内容がイマイチ頭に入ってこない。両親が他界?
「ええっと、随分生々しいというか切々と訴えかけているというか、それ本当なの?」
「いや、どちらかといえば現実を淡々と描いただけに見えるけどな。とても本当とはいいがたいけど、こんな書類に嘘を書くとは思えないし」
そうは言いつつ自分の中にそんな記憶は全く無いので現実味は無い。そんなの嘘だと言い聞かせるように目を閉じた。確認すればわかることだ。そうしよう。
「電話してみよう」
そう言ってスマホを取り出す。そこで昨日の夕方気づいたことを試してみた。
「564274……開いた!」
「嘘、なんで開いたの?」
「昨日自分のスマホを開けるのに使ったパスコードを使ってみたんだよ。良かった、これで一歩前進だ」
すぐに電話をかける。連絡先から自宅を選んで通話ボタンを押す。
――おかけになった電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめの上、おかけ直しください――
背中を悪寒が走る。そんなはずはない。さっきまで元気にしてたじゃないか。
「パパ……」
「大丈夫。これはあくまでこっちの世界の話で、俺の本当の世界ではそんなことはないから」
「でももし本当の世界って方に戻れなくなったらどうするの?」
「戻れなくなったらって……」
自分は親類縁者の少ない家庭に育ってるから誰かに頼ることもできない。こっちの自分が持っていたスマホの電話の連絡先には友人の名前はあっても親類縁者の名前が全くない。
「ねえ、実家の両親が固定電話を辞めようって言って撤去したってことはない? お父さんとかお母さんとか個別にスマホを持ってるだろうから、そっちにかけてみたら?」
「そうだな」
――おかけになった電話番号は現在使われておりません――
「きっと機種変したとか」
「番号を変えない方が買う時に安いだろ」
ここで美笑にあたっても仕方ない。面接の日は明日だが、今すぐにでも実家に帰って状況を確認したい。
「実家に戻る」
「え、面接は?」
「また次の機会にするよ」
ハローワークからもらってきた資料にハローワークの電話番号が書かれていたので、そこに電話をかけて今回の面接はキャンセルしてもらうよう頼んだ。それからノートパソコンを取り出し、PINコードを入力する。564274nzm。画面が展開する。そこからブラウザを立ち上げ乗換案内を表示させる。ここから実家まで電車で四時間強。金額はそこまで高くない。ただ時間がやたらとかかるのが滅入るところだ。なんで実家を飛び出してこんなところに住んでるんだ、こっちの俺は。
そのままJRのサイトに飛んで切符を手配する。今からスマホで操作できるようにするには時間がかかるし煩わしい。急いで駅に行き窓口で切符を発券してもらう。部屋に戻るとノートパソコンとスマホ、それと適当な服などを見繕ってカバンに詰め込む。
「じゃあな、美笑」
「ちょっと待って、私も行く!」
「これは俺の問題だ。美笑には関係無い」
そう言うと、部屋の鍵を美笑に投げる。
「部屋は好きに使ってくれていい。とりあえず明日は学校に行けよ」
そして玄関を出た。まだ夕暮れには時間が早いが、それなりに冷え込む季節になっていた。着てくる上着のチョイスを間違えたかもしれない。まあ最悪どこかの店で買い込めばいいか。
もうすぐ電車がホームにやってくる。遠くに電車のライトが見える。
「間に合った」
声がして横を見ると、美笑が膝に手をついて肩で呼吸をしていた。
「何してんだよ、こんなところで」
「何って……はぁはぁ……一緒に行くんだよ」
「だから美笑には関係無いって言ったろう!」
「関係無くないよ、私はパパの娘なんだから」
「は?」
美笑は両手で口を隠して「言っちゃった」と小さく呟いた。眉尻が少し下がり気味だったので少し困ったセリフだったようだ。けれどこっちはそんなことはつゆ知らず、突然のセリフにどう対処したらいいのか迷った。
「親子ごっこがしたいなら他をあたってくれ」
「ごっこじゃないよ、本当にそうなんだから」
「お前、正気か?」
「真面目も真面目、大真面目」
まさかこっちの自分はこんな大きな娘がいたのか。いや、それは違う。親子なら初めて会ったあの時に電車で親のことをおじさんとは呼ばない(からかう理由もないし反抗期なら無視するだろうし)し、もし一緒に住んでいるなら地図アプリで確認しながら部屋を探すこともない。まさか離婚して母親の元で暮らしていた娘が俺を訪ねてきた、なんてこともないだろう。ただもしそうだったら納得できてしまうところもある。父親に会うために遠路はるばる学校をサボって来たのなら学校の心配をすることはないし、部屋を知らないのも離れて暮らしてるから知らなかった(住所は母親が知っていた)とか。初めて会った時もしばらく会えていなかったので一見しただけでは自分の父親とはわからなかったともとれる。
じゃああの時間にあの車両にいたのはどうしてだろう。偶然にしては出来過ぎてる。
「そんなことはどうでもいいの。切符もあるから私も行くよ」
そう言って美笑はニッと笑いながら切符を持ってパタパタさせた。
そうこうしているうちに電車が到着した。
「何度も言うが美笑には関係ないんだから早く帰れ」
「絶対に邪魔はしないからついて行かせてよ」
「ついてきてる時点で邪魔なんだよ。大体どうしてそこまで俺に拘るんだよ、俺たち他人だろ。俺についてきてどうするんだよ」
「私は!」
そこで出発のベルが鳴った。扉が閉まる。すんでのところで二人とも滑り込んだ。
気まずい沈黙が二人を包む。それでも俺は言わなくちゃいけない。
「次の駅で降りて引き返せ」
「嫌だ。一緒に行く」
「なんでそこまで意固地になるんだよ。他人の人生なんてどうでもいいだろう?」
「私が誰の人生を好きになろうと関係ないでしょ。私は決めたの、パパの人生の応援をするんだって」
「なんかもう埒が明かないな。OK、これ以上この話をするのは止めよう。美笑がどうしようと美笑の勝手だもんな。ただ俺の邪魔だけはするなよ」
「うん」
美笑の顔に満面の笑みが浮かんだ。まったくどうなってるんだ、こいつの頭の中は。
「ところで切符はあの短時間でどうやって手に入れたんだ?」
「乗換の検索かけてた時に行き先とか見て覚えてたから、それを駅の窓口で大急ぎで作ってもらったよ」
「お金は?」
「シークレット!」
人差し指を口に当てる。ちくしょう、ちょっとドキッとした。
照れ隠しに周囲を見回す。昼過ぎの電車はかなり空いている。先は長いから無理しないで座れるときは座ろう。美笑と隣り合って座る。美笑は珍しく神妙な面持ちで車窓の外を眺めていた。特に話すこともないのでこっちもスマホの中身を探索することにした。銀行のオンライン口座はIDもパスコードもわからなかったので確認できない。メモ帳には”レックスオレンジカウンティ”とまったく意味の分からない言葉が残っていた。写真フォルダには電車の時刻表のスクリーンショットと実家の猫と家の外観を撮ったものがあった。
ここで何が起こったのか。家の写真を見つめて、忘れてしまった記憶を思い出そうとしてみたが無理だった。行けば何か手がかりは掴めるだろうか。”両親が他界”というあの履歴書の言葉。今この身体は四三歳だというから、両親はざっくり見積もって七十代、まだ元気に暮らせる年齢じゃないかなと思うのだが。
電車はいくつもの駅を通り過ぎては止まり通りすぎては止まりを繰り返す。通り過ぎては止まる、この身体はいくつの変化を受け入れてきたんだろう。スマホの画面に表示されていたアイコンは六個。無駄をそぎ落とした必要最小限の状態に思えた。もしかしたらそれは無駄を嫌う神経質な性格を表しているのかもしれない。自分はそんな人間だったろうか。どちらかといえば無神経で大雑把だと思っているのだけれど、それがどこかで何かに擦れて転がって、結果今の自分からはかけ離れた人間になってしまったというのか。埒の空かないことを延々と考え続けているうちに、朝早起きしたせいかはたまた面接の緊張から解放されたせいか、眠気に襲われる。知らないうちに美笑に寄り掛かっていたようで、「パパ、寝ちゃだめだよ」と何度か言われたが、結局睡魔に勝てなかった。
「オジサンが他の人に寄り掛かったら相手が男女問わずえらい目に合うよ。私がいて良かったね」
「そうだ……な……」
最後まで言えたかどうかは自信が無かった。
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