第2話
翌朝はチャイムの音に起こされた。ロフトから転げ落ちないようにゆっくりと梯子を下りて、玄関のドアを開ける。
「おはよう、パパ!」
昨日のことを微塵も覚えていないような、満面の笑みの美笑がそこにいた。
「なんだよこんな朝早くに」
「何って、会社に行くんでしょ。早く支度しなよ」
「俺はまだ高校生だよ」
「ま~た変なこと言ってる。顔洗って鏡を見なよ、パ・パ」
ぼんやりした頭で振り返る。見覚えのない景色。洗面所はどこだ? そこまで考えてやっと昨日のことを思い出した。そうだ、自分はなぜか歳食っててどこだか知らないところで生活してるんだった。
廊下の扉を開けて洗面所を見つけると顔を洗う。見回すとタオルが無い。収納する棚も見当たらない。そこでこの家には様々なものが無いことを思い出した。本当にどうしてこの部屋には何もないんだろう。本当に俺はこの部屋で、この世界で暮らしてるんだろうか。
「早く着替えてよ」
「着替えるったって……」
着るものと言えば昨日着てた背広があるだけだ。部屋に戻って仕方なくそれを着る。
「俺、ネクタイなんてしたことないんだけど」
ネクタイを持て余したまま玄関に来た。
「私だって結び方知らないよ。とりあえず持っておくだけでもいいんじゃない?」
といったそばからスマホをいじくると俺に見せてきた。
「じゃん! ネクタイの結び方!」
渾身のドヤ顔。従うしかない俺は画面を見ながらネクタイを締めた。
「なあ、本当に行かなきゃダメかな?」
「記憶の頼りになるものはしらみつぶしに当たってみなくちゃ」
言うなり玄関から俺を引き出そうとする。
「ちょっと待てって」
「なんで? もう用意はできたんでしょ?」
「用意なんてまだ出来てないよ。鞄も持っていった方がいいんだろ。その中に定期も入ってるし」
「なら早く取ってくる」
掴んだ手を使って美笑がくるっと俺を回して背中を押す。仕方なくいそいそと部屋に戻って鞄を取ってくる。
「これで良し。さ、行こう!」
「あ、部屋の鍵忘れた!」
「バカぁ!」
こうして今までには考えられない朝を迎えた。今までは平凡な日常の繰り返しを退屈だと言い放って変化を求めて来たけど、いざそれがやってくると流石に最初は戸惑うものなんだなと実感する。でも例えばこれが日常になったら、これを退屈だと思うのだろうか。いや、美笑がいる限り刺激は与えられ続けるのだろう。でも毎朝女子高生に起こされるのは、その字面だけ見ても刺激的だ。主に犯罪面で。
駅までの道すがら朝食を食べ忘れたことを言うと一食くらい抜いても死にはしないとにべもない答えが返ってきた。現在午前七時過ぎ。昼まで五時間。一瞬眩暈がした。
そこでふと気になった。美笑は何時に起きてうちに来たのか。
「何時かな。五時半くらい?」
「部活の朝練でもあるのか? 随分早起きだな」
「だから昨日も言ったじゃん、少し遠いところの高校に通ってるって。慣れればなんてこともないわよ」
そしてあくび一つ。
「慣れ、ねえ」
「生理現象は勝手に出るもんだし止められないわよ」
それに昨日はおじさんの世話をしてたから寝るのが少し遅くなったし、と恩着せがましく言うので、悪かったなとこちらも思ってもないことを口にした。
駅のホームにはそこそこ人がいたが、まだ通勤ラッシュ時間には早いようで、床に張られた車両ドアの位置表示の前に三、四人ずつくらいが並んでいた。天井の電光掲示板を見るとこれから乗る電車は六両編成らしい。六両編成が長いのか短いのか、すごく微妙な車両数だなと思ったけれど、確か俺が通学に乗ってた私鉄は六両だったな。てことはそれほどここは辺境の田舎というわけではないらしい。
そして電車がやってきた。ドアが開いても誰も降りない。込んではおらず車両の壁面に平行に据えられた七人掛けの座席は、乗り込んだ客が埋めてもまだ一つ二つ空きがある。行きも帰りも今と似たような人数が乗り合わせていた通学の車両を思い出した。何処に行くにせよ、朝から席に座って行けるのはとてもラッキーだと感じる。
美笑はというと車両の真ん中位に位置してつり革に掴りながら天井の広告を見ていた。
「なあ、俺、どこまで乗るんだ」
隣に立って美笑に尋ねる。美笑はこちらに視線を動かすとゆっくり首を捻った。この人は何を言ってるのだろうという表情で。なのでこちらも思い切り目を見開いて驚きを表現した。
「昨日見たでしょ。しょうがないからもう一度パンフレットを見なさい」
言われるがままに鞄からパンフレットを取りだす。最寄り駅は月灯駅と書いてある。俺はドアの天井に張られてる路線図を見て位置を確認する。冬輪駅から月灯駅までは各駅停車で十七の駅があった。結構な数だ。ところが良く見ると月灯駅に着く前に宝天駅を通り越している。つまり自分が定期の範囲外の駅に行こうとしていることに気づいた。この定期、お金がいくらチャージされてるんだろう。参ったな。
「どうも駅の改札で乗り越し精算しないといけないみたい」
美笑に言うと美笑もドアの上部にある乗り入れ表を見に来た。
「本当だ……あ、そういえばパンフレットにそう書いてあったね」
いや失敗失敗、と美笑は笑ってごまかした。人を散々焚きつけておいて自分は本当に忘れてたのかと思うとイラっとしたが、美笑のおかげで降りる駅はわかったので、その辺は許しておくことにして、手近な席に座った。
「ところで美笑はどこで降りるの?」
すると美笑はまたゆっくりと首を捻った。今度は怪訝そうな表情で。
「なんだよ、いったい」
「プライベートには立ち入らないでほしいんですけどぉ」
「は?」
「降りた駅から最寄りの高校なんてすぐわかるから、ストーキングしようと思ったらいくらでも出来ちゃうわけよ。それが目的でしょ?」
「そんなわけあるか! こんな質問に深い意味も裏の意味もないって。社交辞令みたいなもんじゃん」
「まあそういうことにしといてあげるよ」
それに少なくとも宝天より先だから、と付け加えた。
それから美笑はしばらくはニコニコしながら窓の外を見ていた。俺も取り立てて話題があるわけではないので話しかけることはなく、ただただ電車の走る音を聞いていた。時々、あといくつの駅を通り過ぎるのかと思いながら。行く先に着いた先に何が待ち受けているのかわからないから恐怖心だけがある。
電車は幅狭い空間を走り続け、そのまま地下に潜って行った。アンダーパスになっているらしい。そういう線路が珍しくて窓の外を見ていたら、瞬間暗闇が一気に目の前を塞いだ。が、それもつかの間、今度は朝陽が一気に差し込んだ。そして緑の多い風景が広がった。どことなく見たことがある気がしてそのまま窓の外を見ていた。
「次は人魚町、人魚町」
車内アナウンスが流れた。人魚町。そんな駅、このよくわからない路線にあっただろうか。
瞬間、何かが瞼の裏で光った。人魚町。
そうだ、人魚町。
うちの最寄り駅から快速で三つ目、高校のある駅からは四つ目にあたる駅だ。そう思って辺りを見回すといつからそこにいたのか、車内はそれなりの人数が乗り込んでいた。
不思議に思って隣の美笑に聞こうと思ったら。
そこには知らない男性が座っていた。
「美笑?」
辺りを見回してもそれらしき女性はいない。どういうことだ?
すると膝の上に重さを感じた。見るとそこには高校の学生鞄があった。そしてそのついでに目に入ってきたのは、自分が着ている黒い学生服。俗にいう学ラン。
顔を撫でまわす。ニキビはいくつかあるが髭はまだ生えていない。鞄を開けて中を見る。少し多めに中身が詰まっている。何が入っているだろうかと思いカバンを漁ってみると、
何冊ものマンガと学生証が出てきた。高校二年*組の文字と若い自分の写真。上手く呑み込めない眼前の光景。
……元の世界に戻ってきたのか?
静かに息を吐く。電車はゆっくり減速して人魚町駅に滑り込む。
戻ってきたんだ。
「次は放涙、放涙です」
徐々に実感が湧いてきて嬉しくなった。そうだよ、俺はやっぱり高校生なんだよ。体を縮こまらせながら両腕でガッツポーズを作る。俺は高校生だ。ここが現実だ、俺の居場所だ。
……じゃあ一体あれは何だったんだ?
夢を見てたにしてはやけに生々しく感覚が残ってる。余りにも不思議で、でも現実じゃない。なぜなら現実は高校生だから。とはいえ美笑のことは残念に思えた。可愛い子に世話を焼いてもらう体験なんてそうできるものじゃないからだ。実に贅沢な話だ。
電車がうちの最寄り駅に着き、降りて家路を行く。目の前に一軒家。見慣れた我が家がある。ドアを開けようとしたら鍵がかかっていた。すぐに鞄の中から鍵を取り出す。まるでどこに在るのか初めからわかっているように何も見ずに鍵を取り出した。体が覚えているというやつだ。手のひらの鍵を見つめながらやっぱりここが現実なんだと強く感じる。
鍵を開ける前に何とはなしに振り返って見上げると、まだ晴れ晴れとした空が広がっていた。今は何時なんだろう。左手首の腕時計に目をやる。まだ三時か。母親もパートから戻ってない。だから鍵がかかっていたのか。
改めてドアを開けて中に入り、そのまま自分の部屋に向かう。途中、壁に掛けられたカレンダーが目に入る。七月の文字。七月、少し重たい鞄。テスト勉強をしなくちゃと机の上に鞄を置いて中身を出す。そこにはマンガが詰まっていた。さっき見た時には何とも思わなかったが、今思えば少々おかしい。まだテストは終わってない。なのに教科書が入ってない。これはどういうことだ? 勿論誰に借りたものかも思い出せない。
そこで例の妙な世界のことが脳裏をよぎった。けれどあれは空想話で、現実はここで間違ってない。寝てる間の夢は長く感じても経過した時間は数時間程度だ。そういえば電車の中で転寝をした記憶がある。変な夢を見たのはきっとその時だ。勉強疲れと成績のことが夢に作用してあんなくたびれた男の夢を見たんだ。女子高生が出てきたのは現実逃避の表れか何かだ。そう思えば辻褄は一応合う、と思う。
とにかく今日は二日目のテストを受けた。テスト期間の少し前から勉強をやったにも関わらず、今のところテストの手ごたえが芳しくない。期末テストも残ってるからそっちで成績を挽回することも出来るけれど、世の中そんなに上手く転がらない。きっと期末でもそんなに点数は期待できないはずだ。情けない話だけれども。なので三日目のテストに向けて気合を入れて勉強しないといけない。
そこでふっと何かが脳裏をよぎった。テストを頑張らなければならない理由が他にもあった気がする。けれど思い出せない。
気持ち悪さを抱えながらひとまず勉強をしようと思ったけれど、やろうにも教科書もノートもない。これは困った。ぶっつけ本番で点数が取れるほど自分の能力は高くない。詰んでしまった。スマホに入力しておいたテストのスケジュールを出し、明日のテスト科目を確認する。一緒に明日の出来も想像で確認できてしまった。それこそマンガでも読んで現実逃避するくらいしか今の自分にできることは無かった。一冊だけ運良く参考書があったので、とりあえずそれに取り組むことにした。
「あら? テストは今日で終わったんじゃなかったの?」
帰ってきた母親に驚かれた。
「まだ一日残ってるよ」
「そう。まあいいわ。昨日はなんだか深刻な表情してたけど、今日はマンガ読んでるくらいだから大丈夫そうね」
そんなに深刻さが顔に出てたのか。日頃やり慣れないことをしたからそうなったんでしょ、と言われて、そうかもと無難に返事をしておく。
ただ母親の言葉でまた疑念が持ち上がってしまったので、いったんペンを置いて改めて思い返してみる。昨日、というとテスト初日のことだ。初日は得意とまでは行かないけれどそれほど悪い感触は無かった気がする。そんなに落ち込むほどではなかったはず。そして今日。中間テスト二日目を受けて、それから家に帰って勉強をしようと家に帰って……
瞬間、ぞくっと背筋を冷たいものが駆け上がった。
帰りの電車に乗った記憶はある。でもその後の覚えがない。良くわからない世界を冒険してたくらいしか。勉強疲れなんてたかが知れてることだろうから、記憶を失くすほどではない。でも何か釈然としない。今日はいったい七月の何日だ? 確信が持てない。
机の上の時計に目をやる。五時半を過ぎたところ。勉強し始めてから二時間以上経っているのか、そりゃ頭も疲れてるはずだ。コーヒーでも飲みに行こうと思って立ち上がった瞬間、目の隅で捉えたものに驚いた。
七月四日。
時計のデジタル表示にそう示している。さっき時間を見た時に完全に見落としていた。四日。四日というと……テストの最終日じゃなかったか? 急いでスマホを取り出してスケジュールを確認する。間違っていない。ということはもう今日は勉強をする必要が無い。だからカバンの中に教科書類が入ってなかったんだ。
でも今日のテストの内容が全く思い出せない。帰ってきた時に制服は着てたし、鞄の中にはマンガが詰まってた。少なくともどこかに行かなければマンガが鞄に入ることはあり得ない。自分が入れて持っていったのなら話は別だが、当のマンガを俺は持っていない。図書館のバーコードも貼ってないし、無論ビニール袋で包装されている新品ということもない。ということはこれは学校の誰かに借りたものということになり、ということは今日は学校に行き、テストも受けたということになる。けれどテストの内容が思い出せない。
スマホを起動させて電話帳を表示させる。こういう時は手っ取り早く誰かに聞くに限る。けれど相手がなかなか出ない。一人二人とかけていくうちにピンときた。今日がテスト最終日なら今日から部活が再開されてる。だから誰も出ないんだ。
そこで我が身を振り返る。まずい。「無断早退」という単語が頭に浮かんでぞっとした。明日顧問に何て言おう。とりあえず電話は夜にかけ直そうと思いスマホを置いた。
椅子の背もたれに寄り掛かり、天井を見上げて大きく息を吐く。なんだか気持ちだけがバタバタしている。あのよくわからない世界の出来事のせいもあるし、昨日と今日のテストのことや日付のこともある。
それにしてもあのくたびれた姿は切なかった。帰りの電車の車両で目にする、死んだように項垂れてるサラリーマンを見て、ああはなりたくない、と強く思ってたのに、自分のその姿を目の当たりにするなんて。勿論あれは夢の話だから必ずしもそうなるとは決まってない。けれどあの時保険証に書かれていた名前も生年月日も紛れもなく自分のものだった。その一点だけが引っかかって気持ちが悪い。
「あー!」
考えるのに疲れた。ただでさえテストで頭の中をフル回転させてきたのだから休息が欲しい。椅子から降りて床に大の字に寝転がる。寝落ちするまでに時間はかからなかった。
「直純」
目を覚ますと母親が部屋の入り口に立っていた。
「晩御飯できたわよ」
わかった、と答えて身体を起こす。どのくらい眠っていたのだろう。机の時計を見る。十九時十三分。確か母親が帰ってきてから寝落ちした覚えがあるから二時間弱寝ていたらしい。なぜそんなにも疲れていたのかさっぱりわからないが、とりあえずお腹が空いたので晩御飯を食べに部屋を出た。
テーブルの上には見慣れた母親の料理が並んでいた。それを見てふと、あの夢の世界の総菜のことを思い出した。一応一人で食べたわけではないから寂しい食卓だったわけではないけれど、パックに入った総菜が並ぶ景色の何倍もこの食卓は輝いて見える。あの世界の夢を見たのはのはたった一日だけなのに、そんなに仰々しく思うのも、あの世界の夢がそれだけ衝撃的だったということだろう。
変わらない味に満足しつつ料理を食べる。テレビを見ながらああでもないこうでもないと会話をする。変わらない日常が心地良かった。
夜、布団に入る。今度はなかなか寝付けない。そんな時、人は色々なことを考えてしまう。消えた一日。明日は五日、答案が返って来始める。答案用紙に点数が一点でも多く書かれていると祈る。夕方の母親の話からするとこの祈りはどこにも届かなそうだけれど。
そうこうしているうちに眠りに落ちた。
朝。スマホのアラートが鳴った。寝ぼけまなこでスマホをいじる。それからぼんやりした頭で周囲を見渡す。自分の部屋だ。良かった、あの変な夢を見なかった。それからはいつもの時間が流れた。起き、朝食を取り、着替え、家を出る。電車に乗り友人たちと合流し学校へと向かう。
「今回のテスト、俺、手ごたえあったから奢らないで済むわ」
嘘つけ、俺の方が点数良いに決まってるだろ、直純はどうだった?などなど、テストの点数について軽口の応酬が繰り広げられた。ただその裏で危機感を持ってもいた。このメンバーは成績がかなり似通っている。得意科目・苦手科目が同一ということはないけれど、一つでも取りこぼせばかなり危ない状況に陥ることになる。
そんな折、最初に出た言葉の中で気になるワードがあった。
「なあ、奢りってなんだ?」
会話が止まる。周囲には衝撃的な言葉だったらしい。
「マジで言ってる?」
「テストで頭使ったからすっ飛んでじゃねえの」
「いやそんなことないって。マジでわかんないんだよ」
「わかった、テストの点数がやばいことを察して現実逃避を図ってるんだろ」
「確かに点数はそんなに良くはないけど」
しょうがねえなあという空気が流れた。
「この中で一番合計点数の低いやつが全員にジュース奢るって話だよ」
「ジュースを奢る……」
「お前どんだけ出来が悪かったんだよ」
「まあぼちぼちだと自分では思ってるけど」
全くピンとくることもないまま学校にたどり着き、チャイムと共にテストが返却され始めた。けれど俺は奢りのことをずっと考えてた。そんな約束してたっけ。
休み時間は当然のことながら点数の話題に終始した。一教科ずつ一喜一憂が繰り広げられた。俺の点数はと言うと今のところ教科によっての上下動は思ったほど大きくなく、面子の中では上位をキープしていた。
相変わらず奢りについてくっきりと輪郭を表さない記憶にイライラしていたが、こういうことは考えていない時に記憶の海から現れるものだ。五時間目の授業中ぼんやりしているとそれはやってきた。そうだ、最初はジュースじゃなくて学食の奢りにしようかなんて言ってたけど、それは経済的に流石に厳しいという理由で、じゃあ購買のパンの奢りに、そしてジュースに落ち着いたんだった。言い出したのは俺じゃないが、こういうのはその場のノリが支配してゲーム感覚で承諾される。そういうのが学生生活の楽しみだったりもするのだ。
こうして一つ悩み事が減って、授業は終わった。校舎内外に生徒たちが散らばっていく。見知った隣のクラスのやつらが俺を見つけて「今日はサボるなよ」と声をかけて来た。一難去ってまた一難。昨日の無断早退を何て言い訳しようか。
部活に行くと早速顧問の先生に校庭の隅に連れ出された。第一声で謝罪を口にして頭を下げる。
「テストが終わって安心して部活を忘れてました」
「しょうがないやつだな。とりあえず校外を五周しとけ」
「はい」
それでその場は手打ちにされて、早速校庭を走り始める。脇で準備運動をしている部員のそばを通ると、皆こちらを見て笑っていた。情けない。
テスト明けということと、夏休みが近づいていることで、皆活気にあふれていた。勿論俺もそう。慣れない勉強を強いられて(日頃から少しづつやっていれば一夜漬けの連続を回避できたという話はこの場合目をつぶる)その反動が、悪かったテストのショックを吹き飛ばしてくれていた。夏休み中にある大会も良い結果が出そうな予感すら湧いてきたのだから、実の現金なものだと思う。
部活も無事終わり同じ部活の奴らと騒ぎながら駅へと向かう。明日には殆どの答案が返ってくるので、奢るのが誰になるのかがわかる。今のところ俺は回避できそうだ。そういえば奢りの話を同じクラスの賭け仲間が部活でしたら、こっちも乗り気になってしまったので、こちらでは丁重にお断りすることにした。なんせこっちのメンバーは成績が良いのだ。勝てない勝負はしないに限る。
電車に乗り込み途中の駅で皆降りて、一人だけになった。大分人もまばらになって席が空いたので座る。冷房の効いてる車内で、部活の疲れを座席が心地よく吸収していく感じがする。少し潜り込むように身体が足先から前方へスライドする。そんな心地良さを感じながら最寄り駅に到着した。
「着いたねー」
不意に隣りから声がした。横を向くとそこには美笑がいた。
思考が停止した。時間が止まった気がした。
「なんで……いつからそこにいた?」
「何言ってるの、パパ」
背筋を悪寒が走った。どういうことだ。あれは夢の中の話だったはず。やっと現実に戻ってきたと思ってたのに。
「ほら、さっさと降りるよ」
急かされてもこっちはまだ何が起きているのか理解できていない。折角元の世界に戻れたと思っていたのに、なんでここに美笑がいるんだ。けれどそんな俺の意思など無視して、美笑は無理やり引っ張って俺を車両から降ろした。見回すとそこは知らない駅で、周囲には背広姿が沢山いる。良くある通勤風景の中に俺はいた。待ってくれ、ここは俺の居場所じゃない。そんなことなどお構いなしに美笑から鞄を渡される。見知らぬ鞄、誰かの鞄。誰かって誰だ? 俺じゃない。
それから美笑に引き抜かれるように改札の外へと出る。ああ、なんてこった。すぐ近くのガラス扉に映る姿は、あのくたびれた背広姿の俺だった。シャツにアイロンがかかっておらず、首回りがよれているせいか余計に見すぼらしく思えた。
「ぼうっとしてないでよ。ねえパパ、昨日のパンフレット見せて」
「ちょっと待って。さっきから言ってるパパって俺のこと?」
「外見からしてうちらが一緒にいて不審がられない理由を考えたら、親子関係でいるのがカモフラージュ的にはいいと思わない、パパ?」
そしてニッコリと笑われた。女子高生にニッコリ笑われて嫌がる男子高生はなかなかいないと思う。弱みを握られていない限り。
「じゃあ百歩譲ってその関係性を続けるとして、昨日のパンフレットって何?」
「見たじゃん、株式会社パノラマの」
「何それ。昨日は学校でテストを受けてたよ」
「何言ってんだろね、この人は」
というと鞄を指さした。
「そこに入ってるでしょ」
言われるがままに鞄を探る。
「これか?」
それを受け取ると、美笑はパンフレットの裏側をじっと見つめてからスマホを取りだした。ススっと指を動かすそのさまを、俺はぼうっと見ているしかなかった。
「よし、OK。さ、行こう」
美笑が俺の肩をバンと叩いて歩き出したので急いで後に続く。外に出るとロータリーがあって、バスの乗り場が四つあった。美笑は周囲を見渡してからまた歩き出す。三番乗り場が目的地らしい。そこには学生とサラリーマンがすでに十人以上が並んでいた。これはバスに乗ったとしても座れはしないなと思った。美笑が案内板を見ようと列の先頭に行くようなので俺もついていく。
「四つ目のバス停で降りるんだって」
四つ目のバス停を見る。月灯五丁目という停留所。
その名前を見た瞬間、背筋がぞくっとした。
それがなぜなのかさっぱりわからない。震えそうで足に力を込めて、美笑と一緒に列の最後尾に戻った。
「どう、何か思い出した?」
美笑が聞いてくる。うっすら笑みを浮かべているが茶化してる風ではなかった。さっきのことを言おうか迷ったが、きっと何かの勘違いだろうと処理して何も言わなかった。
「何も。そもそもここは俺のいる世界じゃないし、こっちの世界のことなんて何も知らないんだから思い出すはずなんてないよ」
「まだそんなこと言ってる。どこでどんな夢見たんだか知らないけど、パパが生きてるのはこの世界なんだからね」
「違うって。俺は高校生なんだよ」
「はぁ」
美笑はため息をついた。
「仕事でよっぽどの厄介ごとに巻き込まれたとか、人間関係がうまく構築されない状況に陥ってるとか、考えだせばキリがないけど、やっぱり自分が動かなきゃ何も始まらないって思うんだよね。例えばパパが本当に高校生なのかそれともサラリーマンなのか、それだって動いてみないとわからないことじゃない? だったら動いてみようよ。私もいるんだから独りで寂しい思いをするのも独りで悩みこむこともないでしょ」
「お、おう……」
女子高生からお叱りを受けてしまった。内容はすごく彼女らしい言葉だったと思う。思えば出会ってからここまで、色々なことに対して彼女はガンガン突き進んでいた。俺はただまごついて流されているだけだった。情けないなあとしみじみ思った。そして少し冷静になったところで気づいてうすら寒くなったが、小太りな中年が女子高生に説教されるという状況は傍から見たらどう見えたんだろう。列に並んでる人たちはこちらを見てひそひそ話したり、俺の視線を感じて目をそらしたりした。やっぱり、そうですよねえ。
「さ、仕切り直して会社訪問よ。昨日パンフレット見たんだから、少なくとも今日そこに行くかもしれないって想像くらいしたよね?」
「……ごめん」
美笑は苦虫をかみつぶしたような顔をしてこちらを見る。
「ダメなパパ。とりあえず財布は持ってきたんだよね」
「そりゃもちろん」
ズボンの裏ポケットにそれはあった。
そうこうしているとバスに乗る列が動き始めた。それと同時にまたさっきの震えが戻ってきた。目を瞑って歯を食いしばる。
「パパ、ちょっとパパってば!」
何とかやり過ごすことが出来て、大丈夫と答えた。いったい**停車場に何があるんだろう。
そしてバスは走り出した。予想通り席には座れなかった。自分たちが並んだ後にもそれなりの人数が来たので車内はぎゅうぎゅう詰めだった。通勤通学時間だから仕方ない。
走ること十分、目的地についた。周囲のサラリーマンたちが降り始めその流れに乗りながらバスを降りる。
俺がバスを見送ってる間に、美笑はスマホを見ていた。
「そこだって」
美笑が指さす方、バス停から百メートルほど行ったところの横断歩道の先に、さっき降りたサラリーマンたちがぞくぞくと入っていく大きなビルが見えた。
「あそこにパノラマがあるんだね。とりあえずここまで来たけど、何か思い出した?」
「いや、何も……」
しかし言いながら足が進まない自分に気づいた。本当に何かが変だ。恐怖心がどんどん沸き上がってくる。
「パパ、大丈夫?」
心配する美笑をよそに、耐えきれなくなった俺は頭を抱えてうずくまった。周囲の目線が集まる。俺は周囲を見渡し、ビルとは反対側の道沿いにあるカフェに駆け込もうとした。
「危ない!」
美笑に背広を掴まれた。首が閉まる。すると目の前を車が続々と通り抜けていく。俺は少し冷静になって、事故にあっていたらと想像してその場にへたり込んだ。
「あんまり危ないことしないでよね」
それから信号が青に変わって一斉に人々が渡り出した。その波に乗って信号を渡り、先ほど目についたカフェに入った。ビルに行かないという選択肢は心を軽くした。けれどいずれ行かないといういけない。それを思って注文もせず再び頭を抱える。
ふと目の前を見ると美笑が水の入ったコップを二つ持って対面の席に着いた。
「これ飲んで。少しは落ち着くと思うから」
差し出されたたコップを弱々しく受け取り、一口飲む。冷たい液体がのどを通って胃の中へと入りこむのが感じられた。大きく息を吸い込み、大きく息を吐きだす。言われた通り、少し落ち着いた気分になれた。
「心配したよ、パパいきなり走り出すんだもん」
「ごめん。なんか急に怖くなっちゃってさ」
「あのビルが?」
「うん」
俺は懺悔と安堵の入り混じった気分をもってビルを見上げた。あの建物には入れない。なのにあのビルに俺は用があるらしい。どうすればいいんだ。
「行くしかないじゃない」
もちろん美笑に尋ねればそう答えるに決まってる。けれどこの恐怖心は拭えそうもない。体中が拒否反応を起こしている。
「なんだかすごく調子悪そうだよ。今日のところは出直す?」
美笑が想像と違うことを聞いてくる。その質問に一も二もなくイエスと答えて帰りたかったが、もし自分があの会社の社員だったら無断欠勤ということになって、尚更行きづらくなってしまわないだろうか。いずれにせよこのままでは帰れない。
そして、コップの水を一気に飲み干して俺は言った。
「何とか頑張ってみるよ」
「大丈夫だよ。だって私がついてるからさ」
「会社に女子高生連れて出社するやつはいないだろ」
「独りで大丈夫なの?」
「だから……頑張ってみるよ」
「そう。ならここから応援してる」
美笑がガッツポーズを決めた。それに対して俺は力なく苦笑いを浮かべた。
「美笑、一日中ここにいるつもりか?」
いざ店の外に出たのはいいけれど、じゃあすぐにビルに入れるかと言うとそれは別問題で、なかなか横断歩道を渡れずに二回、青信号を見送った。ふと、美笑のいる方に視線が泳ぐ。美笑はあそこから応援してくれてる。それに応えたい。そう思ったら、一歩足が踏み出せた。そのままビルの中へと入っていく。壁に掲示されてる企業名表示板を見てパノラマが何階にあるのかを確認する。そしてエレベーターのボタンを押す。待ってる間に何人かのサラリーマンがやってきて、一緒に乗るべく俺の隣に立った。緊張感が増してきた。俺、ダメかもしれない。
そしてエレベーターが到着した。扉が開いて数名が出て行き、代わりに俺の横にいた数名が乗り込む。
そして扉が閉まる。
乗れない。
「こんなことだろうと思った」
声の方を向くと美笑がいた。美笑は近づいてきてエレベーターのボタンを押した。
「調子が悪いのは仕方ないけど、とにかくやれるだけやろう」
それから数人サラリーマンが来たが、美笑と俺を見て怪訝そうな表情になる人といやらしい笑みを浮かべる人に別れつつ、皆、隣りのエレベーターを待った。俺たちのエレベーターの方が早く来るのに。
そしてエレベーターの扉が開いた。また中から数人が降りる。
バン。
「行くよ」
美笑に背中をたたかれて俺もなんとか乗り込んだ。扉が閉まる。見事に貸し切り状態だ。
特に会話を交わすことなくエレベーターは上昇し、五階で止まった。ドアが開く。
「よし」
美笑が気合を入れた。なぜ美笑が気合を入れるんだろうと俺は少し可笑しく思えた。よし、俺も行くか。
パノラマの入り口は閉められていた。扉の横にスタンドがあり、そこにテンキーとマイクがのっていて、テンキーの上には各課の内線番号が書かれていた。どこにかければいいのかわからないので、一先ず総務課にかけてみようとするが、やっぱりなかなかテンキーを押せなかった。
「総務課で良いんだね」
そう言うと美笑はテンキーを軽やかに押した。数秒で相手から返事が来た。
「はい、こちら総務課です」
「すいません、ちょっとお聞きしたいのですが、こちらに交橋直純という人はいますでしょうか」
「コウハシ、ナオズミ、ですか? ちょっとお待ちください」
そして会話が途切れる。美笑が笑顔でこちらを見た。俺は何もできなかったという後悔と、全てやってもらえた安堵とで妙な表情をしていたと思う。そして数分後、相手からの返事が来た。
「すいみません、そのような社員はいませんでした」
「そうですか」
「ただ、今日中途採用面接に来られる方の中に交橋様のお名前がありました。面接の時間にはまだだいぶ早いので、そこでお待ちいただくのも大変だと思います。再度いらっしゃられるようお願いしたいのですが」
「わかりました。ちなみに予定の時間は何時でしょうか」
「十三時ちょうどです」
「ありがとうございます。では出直してきます」
「お願いします」
そうして会話は終わった。結局俺は一言も発言することは無かった。
「今が八時五八分。面接まで……ざっと四時間あるね。どうしようか?」
美笑が聞いてきた。聞かれてもどう答えたものか迷ってしまう。ここまで来るのに散々苦労したのに、また出直してここに来るなんて、考えただけでも気が重い。
「来なきゃダメかな?」
「当たり前でしょう。多分ここの面接を受けるまでにも相当頑張ったんだと思うよ。その苦労を水の泡にしちゃ悲しすぎるじゃない」
「そうだけど……」
「まだたっぷり時間はあるし、色々作戦を練ろう。もうひと頑張りしてみよう」
「……わかった」
そうして俺たちはこのビルを出た。
そこから五分位歩いたところに今度はファミレスがあったので、そこに入った。もし家に帰っていたら、多分戻ってこれはしないだろうという美笑の意見に賛同しての結果だった。
「ちょっと待ってて、ドリンク取って来る」
そう言って美笑は席を立った。独りになった俺は盛大なため息を吐く。なんで面接なんか受けなくちゃいけないんだ。俺じゃない人間のことをなんで俺がやらなきゃいけないんだ。考えだしたらキリが無くて、もう一つため息を吐いた。疲れた。俯いて目を瞑る。
近くから声がした。
「ナオ! お前、先生に呼ばれてるぞ」
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