さよならピーターパン

椎名貴之

第1話

 朝、起きて顔を洗って朝食を食べる。着替え、時間を確認して家を出る。毎日変わらずの行動。たぶん全国の学生、全国の勤め人がやっているだろうルーティン。例えばそこにどんなアドリブが加えられるだろうか。寝坊? 時計が止まっていた? 暇があったら考えてみよう。ルーティンもいいけれどたまには刺激が欲しいと思う。

 通学電車の中でクラスのやつらと会うのもそのルーティンの一つ。テレビがどうした部活がどうしたと話題は尽きることが無い。電車を降りて学校までの徒歩の間に続々と別のやつらも合流してくる。あちこちで笑い声の華が開く。この先の人生もこんな楽しいものになってほしい、と願っている。

 今日は七月三日、高校二年の一学期期末テストの二日目。昨日惨敗した分、頑張らないと一学期の成績表とその先の内申点にプレッシャーがかかってしまう。今日は暗記しかないような科目が並ぶ。これには参った。一夜漬けでどれだけ記憶に留めておけるだろう。でもやるしかない。腹を括ったらなぜだか気持ちが楽になった。やったろうじゃないか。そして周囲のやつらと笑いあいながら今日も校門をくぐった。

 予想通りテストは苦戦一色。余りにも解けなくて手を止めて何となく窓の外を見る。窓際の席じゃないから見ようによってはカンニングしようとしてる風に見えなくもない。なので視線を移して今度は左斜め前の最近気になってる女子を見る。考えて手を動かしまた考えては手を動かししている。授業中だと自分の席の方が彼女より前にあるので、彼女の姿をじっくり見られるテスト期間はとても大事だ。すごく大事だ。勿論これもじっと見過ぎると教師に怪しく思われるのであくまで何気なくを装う。

 そして一日が終わった。今日もわかりきってたことだが惨敗だった。これでも一応テストに向けて日頃しない勉強を遅くまでしていたのだけれどなと悔しく思う。まあそれも三、四日の話だから大して効果が出ないのは当たり前だし、暗記は当てにできなかったし。それはともかくそうやってやり慣れないことをするとどこかでぼろが出るようで、帰りの電車では久々に座れたこともあり、ほんの一瞬で寝落ちした。一緒に乗った連中は誰も起こしてくれなかったらしい。最もこの列車に最後まで乗ってるのはこの仲間内では俺なのだが。

 目が覚めた時には降りる駅を遠くやり過ごしていたようで、辺りの景色が全く見慣れなかった。まだ夕日が強いからもう一度折り返せば暗くなる前には家に帰れるだろう。そう思って現在位置を確認するために座席から立ち上がり、車内のドア上部にある電光掲示板を見た。知らない名前だったので相当遠くまで来たんだなとかなり落ち込んだが、ひとまず次の駅が分かったところでいくつの駅をやり過ごしたのか路線図を見て確認する必要がある。掲示板のさらに上にある路線図を見る。


 ここはどこだ?


 いくつかの路線が相互乗り入れをしていて、それに乗ってだいぶ先まで行ってしまった、というレベルの話じゃない。東京から電車に乗ってバンコクに着いた、というくらいの驚きだ。何とかして最寄り駅の名前を探すけれどどこにも見当たらない。それどころかいつも使用している路線の名前が見つからないのだ。参った。周囲を見回すと乗客は自分ともう一人、女子高生だろう女の子が乗っているだけだ。これに乗ってるということはたぶん通学にこの電車を利用していると思うので、彼女に色々聞いてみようと思った。ただスマホをじっと見ているので少し気を付けて話さなければいけない。

「あの、すいません。ここってどこでしょうか」

すると女の子は顔を上げた。

「もうすぐ冬輪。さっき新区を通り過ぎたところ」

 冬輪? 新区?

「それってどこにある街ですか?」

「**県」

 **県?

 聞けば聞くほど負のスパイラルを滑り降りていく。そんな俺を彼女は物珍しそうに見つめている。俺は視線をそらすように窓の外を見た。

 これは誰だ?

 そこには背広を着たくたびれた表情の男性が映っていた。鏡は目の前にあるものを映すモノ。ということはこれは自分ということになる。なるのだが、見ることと信じることは必ずしもすぐには一致しない。

「なんでこんなに太ってて、こんな格好してるんだ?」

「そりゃ太ったのは食べ過ぎたからで、背広なのはサラリーマンだからじゃない?」

「誰が?」

「あなたが」

「俺はさっきまで高校に通ってて、テストがあって、帰りの電車に乗って家に帰るところで……」

「いやいやどう見たって高校生には見えないでしょう。私が知ってる限りではおじさんはこの電車に宝天駅から乗ってきて、この後どこかで降りるってこと。会社帰りってことは行きもこれに乗ってるんだね。いや待てよ、この時間はまだ会社が終業ではないだろうから出先から会社に戻るところなのかな」

 彼女はなんだか楽しそうな表情をして、行きの電車じゃ見ないなあとかまだ何かを言っている。人の不幸がそんなに楽しいのか。僕は音が耳に入ってきても意味がつながらない状況だった。ふらふらと歩いて元いた座席に腰を下ろす。何がどうなってこうなった? 頭を抱えたところで何も思いつくことはない。すると彼女が隣に座ってきた。

「おじさん、実は私もこの先二つ目の駅で降りるんだけど、とりあえずそこまで話してようよ。なんか意味深な状況にいるみたいじゃん? ワクワクするね」

「どこもワクワクする要素なんてないよ」

「たぶんあれじゃない、記憶喪失ってやつ。それだとすぐに思い出せるかも? いや、そうでもないか。その辺どうなんだろう」

「知らないよ」

「とにかくそうだとしたらしばらくは仕事とか生活にも困りそうだね。あ、そういえば駅から家までの道のりって覚えてるの?」

「いや、わからない。というよりここに住んでたことなんてないから」

 すると彼女はニコニコしながらこう言った。「一緒に家探ししようよ」

「わかるわけないって」

「そうだねえ……定期券は?」

 言われるがままに定期券を探す。上着のポケットに入っていた。宝天から冬輪までの区間の定期券だった。

「あれ、おじさんも冬輪で降りるの? 一緒じゃーん。一歩前進。あ、スマホ! スマホに何かあるかも」

 そういうと彼女は立ち上がって僕の隣りに置いてあったカバン(いつの間にか高校の通学用のものがサラリーマンの鞄に代わっていた)を漁り始めた。

「背広のポケットとかにもあるかもだから、そっちも探してね」

 彼女は鞄をひっくり返さんばかりの勢いでいじくり回していた。僕は少し呆気に取られていたが、彼女の言うとおりに背広のポケットを探ってみた。

 あった。胸ポケットにスマホ発見。でもこれを見たことが無い。

「それじゃ中身確認しよ」

 見たことのないスマホが操作できるかわからなかったけれど、とりあえず電源ボタンを押してみる。案の定ロックがかかっていてPINコードを要求された。六桁の数字。

「指紋認証じゃないんだ。じゃあベタなところで誕生日とか入れてみたら?」

「月日だけじゃ桁が足りないし年から入れたら日にちが打てない」

「それじゃ年を令和とか平成とかで入れてみたら?」

「……開かない」

「他には? 何か好きな数字とか無い?」

「そんなのないって。だいたいこのスマホ、今まで俺が使ってたのと違うから操作の仕方もわかんないよ」

「……これは詰んだねえ」

「……だね」

 そうこうしてるうちに電車は駅に着いてしまった。何も思いつかないけれど定期券の通りにここで降りることにした。その場しのぎにしかならないけれど何もしないよりはマシな気分だった。吹き抜ける風が少し冷たい。

 出発した電車を見送って俺はため息を一つつく。

「ん?」

 俺の隣には本当にまだ何かを考えてる彼女がいた。

「ねえ、なんで君も降りてるの?」

「さっき言ったじゃん、私もここで降りるんだって」

「そうだっけ」

 混乱のどこかでそんな会話をしたんだろう。

「ほら、おじさんて完全に路頭に迷ってるわけじゃない。そういう時って誰かがそばにいるとものすごーく安心するんだよ。乗り掛かった舟ってやつさ」

「それは相手のことを知ってる時だと思うんだけど」

「いやいや、そうでもないと思うよ。ドラマとかであるじゃん、遭難して見ず知らずの人間が協力してその状況から抜け出すって話。独りじゃできなかったことが皆がいたから出来たんだ!的な。だから必ずしも知らない人でも問題はないんだよ」

 それにこんなかわいい子が一緒だなんてどんだけ幸せだよ、と彼女は言い放った。俺は呆気にとられたままだったが、とりあえず彼女には迷惑をかけたくないからご退場いただこうと思った。

「何にせよ見ず知らずの男に女子高生がいつまでも付きまとってちゃまずいって」

「何かする気?」

 体を抱きしめるようにして一歩離れる彼女。

「しない……けど可能性はある」

「ケダモノ」

「しょうがないだろ、男なんだから」

「まあ私の魅力はさておき、これからどうするかでしょ」

「だから君は家に帰りなよ」

「いやだ。せめておじさんの家が見つかるまではついてく。こんな中途半端なところで帰らされたら、後々物凄く気になっておかしくなりそうだし」

「あのねえ……」

「じゃあ家に連絡入れるからその間に周りの景色でも眺めててよ。何か思い出すかもよ」

 そう言いながらスマホを操作していく彼女。俺は言われたとおりに周囲を見回す。もう一路線あり寂れた感じのない小ざっぱりした駅で、あちこちに人が電車待ちをしている。そんな景色を見ても何も思い出すことはなかった。俺が知ってる最寄り駅はもう少し使い込まれた感じを受ける駅だった。電車も一路線しか走ってなかったし。

「どう? 何かわかった?」

「何も」

「そう」

 じゃあ歩きながら考えようよ、と彼女は俺の腕を引いて改札へと歩き出した。高校まで女子に腕を引かれるなんて経験が無かったのでなんだかドキドキした。でも今の俺は外見はサラリーマンだ。傍から見たらこの状況をどう見るだろう? 仲のいい親子に見えていれば幸いなのかもしれない。

 改札を出て振り返る。「冬輪駅」の看板。マークからJRの駅らしいことがわかる。

 その瞬間、何かが頭の中をよぎった。この景色に見覚えがある。ただ勿論実感も確実性もないので、本当の記憶なのかデジャヴュなのかはわからない。

 改札を出ると目の前には道路が真横に走っていた。右は住宅地に入っていく道、左は小ぶりな商店街が伸びていた。

「ねえおばさん、この人見たことない?」

 突然彼女が近くの花屋の店先にいた店員に声をかけたので、驚いて彼女の肩を引っ張った。

「ちょっと!」

「だってこうでもしないと埒が明かないでしょ」

「だからっていきなりそんなことされるとびっくりしてこっちの胃が痛くなる」

「胃が痛いのは飲み過ぎなだけでしょ」

「いったい何の話をしてるの?」

 ほったらかしにされた店員が怪訝な表情で横やりを入れてきた。

「実はこの人、記憶喪失なんです。で、知り合いがいないかと思いまして」

「いや、知らないわ」

「そうですか。ありがとうございます」

 そういうと一礼して彼女はまた俺の手を引いて歩きだし、次々に聞き込みを行う。そうまでされるとものすごく彼女に申し訳ない気持ちと自分の無力さが心に沁みてきた。本当に俺はいったいどうしてしまったんだろう。電車で寝落ちするまでは本当にただの高校生だったんだ。毎日お祭りのような楽しい日々で前途洋々だったんだ。それがどうしてこんなことになってしまってるんだろう。自分が今何歳で何をしている人間なのかさっぱりわからない。まるで自分という人間がさっきこの姿で生まれたようだ。

「そういえば思ったんだけどさ、自分がどこに住んでるか明記されてるものって何があるんだろうね」

 考え事中に急に問いかけられたので言葉に詰まった。さっきまで離れたところで聞き込みをしていたと思ってたらもうこっちに来ていたなんて、本当に行動力のある人だと思う。

 それはさておき彼女の言葉は確かに的を射た質問だと思う。

「さっき鞄の中を漁った時にどこの会社に勤めてるか書かれた書類はあったよ。これで明日は仕事に行けるね」

 言いながら彼女は書類を読んでいた。

「仕事ったってこっちは何も覚えてないんだから、行きようもないし行けても何も出来ないよ」

「でもこれ会社のパンフレットだよ、こういうのってちゃんと仕事の中身まで書いてあるもんなんでしょ」

 言われて俺は首を捻る。なんでそんなものを持っていたんだろう。勤めてるならそんなもの、別に必要じゃないはず。それを持っていそうな人と言うと……就職活動中の人間か。

「株式会社パノラマ。主業務はネットワークの構築と維持管理、絵に描いたようなIT企業だね。でも設立年次が二十三年前だって」

 パソコンか。そういえば高校の同じクラスにパソコンにやたら精通してる浅倉ってのがいたな。そのままIT関連の仕事に就いたのかな。いや、今時どんな会社でもパソコンは普及してるし雨後の筍みたいにIT企業が増えてるから何してるのかなんてわからないな。

「どう、何か思い出した?」

「いや、さっぱり。そもそも俺パソコンなんてネットを見るくらいしか使ってなかったから、そんな会社にいるなんて驚きだよ」

「あれ?」

 彼女がパンフレットを見せてきた。

「この住所のところ。最寄り駅がおじさんがいつも乗ってくる宝天駅より手前だよ。なんで宝天まで定期券を買ってるんだろう」

「そんなこと言われてもわかるわけないだろ」

「財布の中とかに名刺って持ってない?」

「財布?」

 ズボンの後ろポケットに財布はあった。中を見てみると数枚の千円札と小銭、数枚のキャッシュカード、保険証、そして名刺はあったが名前は自分ではなく何処かの誰かのもの。

「自分の名刺なんて持ち歩かないもんなのかな。サラリーマンっていつでも持ち歩いてるイメージがあったんだけど」

「よくわかんないよ、俺、高校生だもん」

「はいはい」

 彼女は呆れながら何処かの誰かの名刺を見ていた。

「でもとにかく多少はパソコンに慣れてたからIT企業に就職したんじゃない? いや、そうでもないか。世の中IT企業多そうだし、適当に選んだのかも。就活面倒くさそうだもんねえ」

「どうだろうな。だってやったことないし、大学まだ行ってないし」

「そうでしたね」

 うんざりですよと言わんばかりの表情を浮かべて、彼女は耳上辺りの髪をいじった。ショートヘアーの毛先がクルクル回る。と、突然彼女がパッと目を見開いた。

「大学で思いついた。学生証とかない……あー卒業してるからないよなあ。良い案だと思ったのに」

 そういって彼女は髪をかきむしって悔しがる。けれど学生証、と言われて今度は俺がピンと来た。ポケットを探って財布を出す。あった、保険証。しっかりと現住所が書かれていた。

「やったじゃん!」

 彼女に背中をバシバシ叩かれた。痛いって。

「おじさんこれって『こうはし』って読むの?」

 苗字のことだ。確かに少し珍しいとは思う。

「そう。こうはし。交橋直純。そういえば君の名前は?」

「私? 私は美笑。苗字はプライバシー保護のため控えさせていただきます」

「なんだそれ。まあどうせすぐお別れだしいいか」

「そんな冷たいこと言わないでさあ、まだまだ色々試そうよ。それにこれからも電車の中で会えるんだし」

 言われて一瞬考えた。電車? ああ、通勤のことか。ことか、と思ってみたもののやっぱり会社に関する記憶なんて何もないんだから、通勤も何もない。

「さて、自己紹介は終わったところで住所を確認しよう」

 美笑はもう一度保険証を確認する。 

「この住所はうちの周辺じゃないな」

 そうつぶやくとスッとスマホを取り出して地図アプリを立ち上げ操作する。

「よし、行こう」

 勝手に納得してこちらの返事も聞かずに歩き始めた。また美笑に手を掴まれたが、流石に街中をそれで歩く恥ずかしさはさっきまでで懲りていたので今回は我慢してもらった。

「駅から徒歩十三分だって。少し遠いね」

 スマホ片手にすいすい歩いていく美笑を、俺はちらちら周囲を見ながら、置いて行かれないようについていく。全く知らない土地を歩くのは本当に落ち着かない。方向感覚が狂っていく。それにやっぱり女子高生の後ろを中年男性がついて歩くのは絵的にまずい。

 横断歩道を渡り一つ路地を入ると、各階四部屋ずつ三階まであるアパートが現れた。一階の中央手前側にアーチ形の門構えのある小さなエントランス的な空間があり、その奥には階段が、そして階段を中心に左右に廊下が延びている。鉄筋コンクリート造りだが塗られてる白ペンキがそれほど剥げていない。築年数はそれほど古くない感じだ。エントランスの前に電柱が立っていて入口を明るく照らしてくれている。カメラらしきものも一緒に電柱についているから、防犯も安心そうだ。美笑はそのエントランスで止まると、スマホをポケットに入れた。

「ここの二〇三号室だって」

 階段は入口の前にあり、階段を境に左右に部屋が存在している。美笑に続いて二階へと上がる。美笑が二階に上がってすぐ左のドアの前で立ち止まる。俺は意図がわからずきょとんとしてしまったが、美笑が手のひらを上にして手を差し出したのを見て理解した。ズボンのポケットの中にはなかったので、廊下にカバンを置いてあちこち探ってみると、出てきた。鍵だ。それを彼女に渡す。

「お邪魔しまーす」

 靴を脱いでズカズカと入っていく彼女。俺はこの見たことのない部屋を隅々まで舐めるように見ていった。狭い玄関が狭い廊下に続き、玄関から二歩先に左に台所、右手前からトイレ、洗濯機、風呂の順。そこを抜けると広い部屋が一つあった。振り向いて見上げるとロフトがある。必要最低限の家電製品はあったが、物を置かない主義なのか、部屋にはテーブルと棚が一つ、そしてテーブルの上にノートパソコンがあるだけの殺風景な場所だった。脱いだ服とジーンズが転がっているだけ。俺自身は部屋を綺麗に使えない性格なので、本当に自分の部屋なのかと疑う。

「生活感ないね。本当にここで暮らしてたの?」

「だから俺はこんなところ知らないんだって。今も昔も自宅住まいだよ」

「でも保険証にはおじさんの名前とここの住所が書かれてて、ちゃんとその通りこの部屋がある。鍵もあった。それは紛れもない事実でしょ」

「夢でも見てるのかもな」

「頬っぺたつねってみようか」

 ぎゅっ。

「いてっ」

 認めたくない話だった。どうやら俺はこの場所で生きているらしい。どこかも知れないこの場所で。

「ねえ、冷蔵庫の中、何にもないよー」

「勝手に開けるな」

 水、マーガリン、食パン、コーヒーの粉、以上。朝食のセットだ。俺はここでどう生活しているんだろう。夜は毎日外食するほど裕福なのか。弁当なり総菜なりを外で買って来てるならゴミが出るはずだけど、その影も無いということはもう捨てたんだろうか。そうなら随分几帳面になったものだと思う。現実の(という言い方も変だが)俺はゴミなんて捨て放題で、それをゴミ捨て場に持って行ったことなんてないし、手伝いもしなかった。でも学生時代なんてそれが普通じゃないかとも思う。ということはこの仮想現実(という言い方も変だが)の俺は社会のルールをきちんと守る大人になったということなんだろう。

「っていうか美笑は冷蔵庫を開けて何をしようとしてたんだ?」

「なんか食べるものないかなと思って」

「美笑は自宅があるだろ。さっさと帰りなよ」

「えー固いこと言わないでよー」

「当たり前のことを言ってるだけだって」

 そういいながら彼女の背中を押して玄関に追いやる。

「ほら、さっさと家に帰る」

「あ、ちょっと! 恩人に対してこの仕打ちはひどくない?」

「頼んだ覚えはない」

「私がいなかったら今頃路頭に迷ってたんだよ。もう少しもてなしがあっても良いと思うな」

「もてなしねえ」

 一応彼女の言うことは一理あるし、無碍にするのも確かに酷いかもしれない。

「……じゃあここにいるのは夕食食べ終わるまでだからな」

「やったあ」

 さて夕飯をどこでどうするか。財布を開けてみる。二人分の食費くらいはあった。

「外に食べに行こう」

「えーつまんないよー。いろいろ買いこんでここで食べようよー」

「言っておくけど俺は料理できないよ」

「出来合いをササッと買って来ればいいじゃん。よし、買い出しに行こう」

 善は急げと彼女がさっさと靴を履いてドアを開けると、冷たい風がひゅうっと入ってきた。変だ。俺の記憶では今は七月でこんなに寒くはないはずだけど。

「今って何月?」

「十月だよ」

「はあっ? そんなわけないだろ、まだ一学期の期末テスト期間だぞ」

「そんなの知らないよ。ほら、今は十月ですぅ」

 そういうとスマホの画面を見せてきた。十月七日の文字。

「ちょっと待ってくれ、本当に訳が分からない。ここはどこで今が何月で俺は誰なんだ?」

「ここは冬輪市のおじさんの家で今は十月でおじさんは交橋直純です」

「冬輪市? 俺の住所は##県の永大市だ。今は七月で俺は高校二年だ」

「そんなこと言われても、今現在こうやって冬輪市のアパートに住居を構えて、そこから通勤してるのが偽りない現実なんだよ」

「だけど……」

 煮え切らない俺の態度を見かねてか、美笑は腰の手を当て一息吐いた。

「よっぽどの記憶障害が起こったんだね。それ以外に今の状況を説明できる言葉は無いもの。最近何か精神的に大きなダメージを受けた記憶ってないの?」

「そんなものない。俺の高校生活は順調に進んでた」

「つまり仕事に激しく疲れて、高校生だと思い込む事に逃げ道を見つけた、と」

「思いこむも何も現に俺は高校二年だ」

「もう埒が明かないなあ。とりあえずこの話題はいったん保留にしよ。お腹空いたし。それからまた考え直そうよ」

「何回考えても答えなんて出ないよ」

「それはやってみないとわからないじゃない。ほら、行くよ」

 早く行こうと急かされて、乗り気にならないまま表に出ていく。

 外は震えるほどの寒さではなかった。相変わらず彼女は楽しそうに先を歩く。それを見ていてふと、この子はどうして俺にこれほど係わってくるのだろうかと不思議に思った。見ず知らずの人間に対して明らかに常軌を逸している。俺は何かの詐欺にあってるんじゃないかと怖くなってしまった。けれどそれとは別にお気楽な自分もいて、デートってこんなんじゃないかと思ってしまった。彼女がいる奴はこんな感覚になるのか。良いもんだな。しかしこんな歳食ったオヤジが女子高生と歩いてるなんて、まかり間違えば援助交際と思われなくもない。そう思うと後ろめたい気持ちも湧いてきた。

 そうこうしているうちに先ほどの駅前商店街に戻ってきた。もうすっかり日が暮れて、商店街を少しだけ寂しさが包んだ気がする。年季、というやつなのだろうか。もしくは単に人通りの問題かもしれない。

 少し進んで弁当屋があったのでそこで済まそうと思ったら、美笑が他にも欲しいというので、買った弁当の袋をぶら下げてまた商店街をうろつくことになった。

「あら、さっきの子じゃない。あれから何か分かった?」

 花屋のおばさんが声をかけて来た。

「何にも。困ったおじさんですよね」

 誰がおじさんだよ、とまだ心の中で反論する自分がいる。

 この商店街の人間が誰も自分を知らないということは、殆ど利用していないか目立たない存在かのどちらかだろう。けれど部屋の中にゴミが無かったところを見ると外食に頼っていたのではないかと思う(それにしても冷蔵庫の中には物が無さ過ぎた)。しかし自宅(仮)からここまでの道のりにファミリーレストランやラーメン屋などの店舗は見当たらなかった。そう考えていくといったいこの世界での俺はどういう生活をしているのか不思議でしょうがなかった。

「仕方ないね。今日はもう帰ろうよ」

「他人の家に行くのを帰ると表現するのはおかしいだろ」

「気にしない気にしない」

 結局スーパーでジュースやらお菓子やらを買い足して自宅(仮)に戻った。

「考えたんだけど、もしかしたら晩御飯は会社の近くで済ませてるんじゃないかな。そうすればここに何かを持って帰る必要は無いし、だからこうやって何もない状況が生まれるんじゃないかな」

「なるほど」

 弁当を食べながら相槌を打つ。

「でもそれだと俺の帰り時間はだいぶ遅くならないか? そうだとするとその電車に美笑が乗ってる可能性はないと思うんだけど」

「私、ちょっと遠くの高校に通ってるの。だから部活に出たら必然的に帰るのが遅くなるってわけ」

 私、バスケ部なんだ、というと美笑はシュートモーションをした。

「お、奇遇だな。俺もバスケ部だよ」

「昔は、でしょ」

「昔じゃないよ、今だよ。それじゃあ今日はどうしたんだよ、帰るにはだいぶ早い時間だったと思うんだけど」

 あれはまだ夕暮れ時だった。まだ夕日が高かった覚えがある。

「それはお互い様じゃない? おじさんだってまだ会社から帰るには早い時間だったと思うよ。それにあの時間じゃ夕飯だって食べてなかっただろうし」

 言われてみればそうだ。どうしてあの時間に電車に乗っていたんだろう。

「これは明日会社に行ってみないといけないようだね」

「美笑は学校に行けよ。それにこれは俺の問題でこれ以上美笑に迷惑はかけられない」

「いいんだよ、そんなに大したことしてるわけじゃないし」

「俺が気にするの」

「あー……確かに会社に女子高生連れて行ったら大変なことになりそうだよね」

「嬉しそうに言わないでくれ」

「私、何と勘違いされるだろう。今からおじさんのこと、パパって呼ぶべき?」

「絶対呼ぶな。それに連れて行くも何も行き先がわからない」

「さっきパンフレット見つけたじゃない。そこに行くんだよ」

「その自信はどこから来るんだよ」

「女の勘! ところでその会社までの行き方はわかってるの?」

 ぐっ。それを言われると弱い。目の前では美笑がスマホをひらひらさせてにやけている。俺もスマホが使えれば。そう思い自分のスマホを取り出してみる。パスコードを要求される。パスコード、パスコード……

「はぁ」

「何を急に一人で黄昏てんのよ」

「何でもない。自分の無能さに呆れてただけ」

「そんなことで落ち込んでる暇があったらパスコードを思い出してよ、パパ」

「パパって言うな」

 部屋を見回す。本当に何もなくて路頭に迷える。スマホでさえこうなのだから、さっき棚の上に置いたノートパソコンも、やっぱりパスコード不明で使えないはず。そこにも何かの手がかりがあったかもしれないのに。

 そんな視線に気づいた美笑が棚からパソコンを下ろして電源を入れた。予想通りPINコードを要求された。

「ねえパパ、誕生日っていつ?」

「だからパパって言うな。五月十五日だよ」

「0515……ダメだ」

「そんな簡単なもんをPINコードにするわけないだろ」

「えー、だって自宅のパソコンだよ。誰かに見せるわけじゃないし、コード打ち込むのに時間取られたくないじゃん」

 それに長いと忘れた時大変だし、今みたいに、と美笑は言う。パソコンのPINコードなんて何桁でも使えるし英語数字も使えるから、はっきり言ってこれを探り当てるのは砂漠の中から米粒を探すようなものだ。これぞ無理の極み。ぐうの音も出なかった。

「もうPINコードはわからないから美笑は家に帰りな。いても一生わからないよ」

「やだ。絶対見つける。なんか謎解きみたいで楽しくなってきた」

「そんな謎解き、何時間かかっても無理だって。それにもうだいぶ遅くなってるから早く帰れ。送っていくから」

「そんなこと言わないで今晩泊めてよ。娘の頼みくらい聞いてくれてもいいじゃん」

「誰が娘だ。俺は高校生なんだから同い年くらいの子供なんているわけないだろう。だいたい両親は心配しないのか。知らない人間の家に泊まり込むなんて言ったら、すっ飛んで来て連れて帰るのが親だろう」

「親は開放的な人で私、結構放任されてるんだ。だから一日くらい家にいなくても連絡さえ入れれば問題ないの。しかも場所は安心なパパの家だし」

「色々と突っ込みどころがあるんだが」

「細かいことは気にしなくていいよ」

「気にしてくれ。とりあえず今日は帰りな。俺は十分助けてもらったよ。これ以上美笑に甘えるのもなんだか違う気がしてきたし。やっぱりこれは俺の問題なんだから、俺が考えなくちゃいけないことなんだ」

「だからって一人で悶々と考えたって何も浮かばないって」

「そうかもしれないけど美笑がいても結果は変わらないって」

「それはそうだけど!」

「とにかく、今日のところは家に帰るんだ。あとは俺が独りでじっくり考えるから」

 それを聞くと美笑は渋々承知して、立ち上がって項垂れた。

「わかった、帰る」

「じゃあ送っていくよ」

「このくらいの時間なら一人で帰れるから大丈夫」

「いや、こっちはものすごくお世話になったからささやかだけどお返しさせてくれ」

 そう言って俺は立ち上がろうとした。

「その気持ちだけで十分だよ」

 美笑は重い足取りで部屋を出た。

「またね」

 ガチャン。扉が閉まる。俺は少しの間、罪悪感を抱えていたが、ひとまず浮いている腰を下ろした。独りになる。何か嵐が過ぎた後のような静かさに包まれつつ一息つく。なんだか流されっぱなしの一日だった。色んな謎が残っているが、疲れの方が勝ってしまって寝ようと思い、収納を開けてみたが布団は見つからず、スエットの上下だけが見つかったのでそれに着替える。ロフトに上ってみると布団があった。とりあえず一安心して眠りにつくことにした。


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