第39話 燻り
スパイクと別れて一日が過ぎた。
孤児院というと人里離れた木造平屋だったり、白い壁の学校みたいな大きな建物に何百人もの孤児をパーソナルスペース等無視してギチギチに詰め込んでいるようなイメージが先行しがちであるが、横浜ヴィレッジの孤児院はどちらとも違っていた。
横浜ヴィレッジは横浜駅西口のロータリーを中心に広がり、南北に流れる帷子川に沿って防壁を築き上げ東西に伸びつつある。その中心地にてそびえる元ホテルの巨大なビルのフロア全てを所有する宗教組織である横浜ヴィレッジ教会が運営する孤児院もそのビルの中にあるのだ。つまり、横浜ヴィレッジのどこからでもそのビルを見る事ができる。
スラムの片隅で、日光を白い壁が照り返す教会を見上げる男がいた。
歩道沿いのひび割れた花壇に腰を下ろし、精気の無い瞳がぼんやりと白いビルと見上げている男の顔は呆けている、というよりも何処か歯がゆさが滲み出ているような様子だ。足元に転がってくるサッカーボールに気付かず、駆け寄ってきた子供の声が男を現実に引き戻した。
「すいませーん! あの、そのボール……」
「……あ?」
子供の顔をぼんやり見てから数秒して漸く足元のボールに気付き、立ち上がる。
そこで子供の表情が青ざめた。話しかけた相手がバヨネットだと気付いたからだ。あまりの覇気の無さに今まで気付かなかったがいざ我に返って立ち上がるとその高身長と威圧感のある目つきに思わず後退る。
今までなら子供のそんな怯えている様子など気にも留めないであろうバヨネットであったが、何を思ったかバヨネットはつま先で器用にボールを救い上げると足の甲と足首部分にボールを引っ掛けながら静止し、ふっと真上にボールを浮かせると膝や踵などを使って突如リフティングをし始めた。思わぬ行動に子供は唖然としたが、一向にミスをする気配もなく鮮やかに技を繰り出すバヨネットの姿にいつの間にか見惚れていた。子供の表情から恐怖の色が失せた時、バヨネットは加減した蹴りでボールをふわりと浮かせて子供にボールを返す。ピンポイントで子供の足元にボールが落ちるとそれを受け取り子供はそれまでの表情とは一変して頬を紅潮させ「すげー……」と声を漏らしていた。
「気ぃつけて遊べよ」
「は、はーい!」
慌ててボールを拾い上げて去って行く子供の後ろ姿を見てバヨネットは一度だけ溜息をつくとふらふらと歩き出した。
******
バヨネットの向かった先はスラムの中にある寂れた小さい居酒屋だった。この世のゴミを寄せ集めて固めたような高層バラックと呼称するのが合っているであろうスラムの窮屈で息が詰まりそうな風景の中に溶け込みそうな程地味でビニールシートと木の板を継ぎ接ぎして建てられている居酒屋は一目見てもそれが店であるかも判断しにくい。ただ唯一入口の前にベニヤ板で作られた質素な看板には準備中と書かれていた。
準備中にも関わらず入ってきたバヨネットに店のオヤジは怒りもせずバヨネットを迎えた。
手狭と表現するには狭すぎる店内は天井が低く、一八〇以上あるバヨネットは頭を低くしないと入れず、空いたP箱を椅子代わりに座ると前がつっかえて大股にならざるを得ない。
部屋の中央には本来おでんの屋台だったであろう荷車を切り詰めてコンパクトにしたようなテーブルに嵌め込まれている角型の桃山は店の大きさに不釣り合いな程大きい。その隣には申し訳程度に設置された鍋から油の臭いが漂っていた。
しばらくして、バヨネットの前にはあまり出汁の染みていないまだ白っぽい大根と衣が殆ど無いハゼの天ぷらを肴に安酒を呷っていた。
「こんな朝からこんな湿気た飲み屋なんかに来てどうしたよ」
「うっせ」
「駅ビルん所のじゃ会いたくねぇ顔がいるって所か」
「……」
返事をするわけでもなく、無言で衣がハゲかけの天ぷらをつつくバヨネット。その顔には察しろと書いてあったがオヤジはお構いなしといった風で、不機嫌そうなバヨネットの顔を見てオヤジはほくそ笑んだ。
「へっ、まるで俺のせがれみてぇだぜ」
〝せがれ〟という言葉にスパイクの姿が脳裏に浮かぶ。
反射的に舌打ちをしてしまうも、何も言い返せない。
(めんどくせえ時に限っておしゃべりなジジイだ……)
喉まで出かかっている思考が萎えた感情で押し戻されて言葉にならない。
自己嫌悪していた。和解して気持ち良く別れた。そしてもう自分の弱点となる存在は周りにいない。スパイクは良い環境で勉学に励み、いずれ将来はヴィレッジでクラスには困らない大人へとなっていくだろう。それでいい、それでいいじゃないか。そう思っていたが、その思いと反して体は鈍りに鈍っていた。自分が思っていたよりも短かった共同生活で得た物に依存していた事にバヨネットは腹が立っていた。
きっとスパイクは孤児院で上手くやってるだろう。そう思うと余計に自分はこんな所で何してるんだろうなと思ってしまうのが情けなかった。
気を紛らわそうと酒を呷ってみてもなにも変わらない現実。
熱々のおでんとは逆に気分は冷え切っていた。
「何でもねぇよ」
「何も無くて朝から酒飲ませろなんていう奴は死にたがりのアル中ぐらいなもんさ」
やっと出たつっけんどん。しかし歯切れの悪い返しに数多の捻くれた酔っ払いを相手してきただろうオヤジがその程度では引っ込むわけもなく。
「せがれがお前さん位若い頃はよく仕送り送ってたもんだ。今となっちゃ俺がせがれの稼ぎに支えられてるんだけどな。ガハハ!」
「仕送り……」
「そーなんだよ良い仕事見つけたとかで今じゃ店の売り上げとトントン位の金を送ってくれてよぉ。出来の悪い小僧だったのに見ない内にデカくなりやがって。そういやあん時も――」
オヤジの思い出話を話半分に聞き流していたバヨネットの手は御猪口を持ったまま固まっていた。
目の前の長話が碌に耳に入らず、バヨネットは別の事で頭がいっぱいになっていた。そしてオヤジがまだ話している途中に席を立つ。
突然席を立ったバヨネットの勢いに目をかっぴらいて驚くオヤジ。
「オヤジ、帰るわ」
ぶっきらぼうに一言呟くと足早に店を出ていくバヨネット。その背中を見てオヤジは唖然としながらふと気付く。
「お、おい勘定! ……んお?」
支払い終えて無いだろと追いかけようとしたが、バヨネットのいたテーブルにいつの間にか請求額以上の弾がみっちり詰まったバナナマガジンがひとつ置かれていた。
外の綺麗とはいえない空気を吸い込みながらも何処か清々しい表情を浮かべるバヨネットの足取りは少し前とは比べ物にならない程に軽く、いつもやる気無さそうな猫背もどことなく伸びていて。
「貰ってばかりじゃ、俺の気が済まねえからな」
歩くバヨネットの手には一枚の手紙が風に揺れていた。
スパイクが送ってきた最初の手紙。そこにはたどたどしい筆跡でひらがなだけの文章が短く書かれていた。
〝ひとりはさみしいけどいっぱいがんばってべんきょうします。バヨネットさんもがんばっていきてください〟
どこまでもバヨネットを慕い、誰よりもバヨネットを想うひとりの少年の心によって、どこまでも振り回されたバヨネットの中で燻っていたものが再び火が点ったのだった。
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