第38話 スパイク

 それは昨日の晩の事。

 午前中にバヨネットの口から孤児院へ預けると聞かされ、出来る事ならこのまま一緒に居たかったという気持ちを抑えられずに涙した少年は流石に涙も引っ込んでいた。しかしやはり突然決められた事に対して納得できず、独り横浜ヴィレッジを見下ろせる廃ビルの窓からヴィレッジの明かりを見下ろしていた。

 ブリガンドの集団が返り討ちにあった直後でもある今日は比較的穏やかな夜で、警備隊員が夜中もヴィレッジの内外に睨みを利かせている。そんな中だからこそ少年は独りでヴィレッジの外を歩く事が出来た。

 日が暮れても尚働く者、家に帰り束の間の休息をとる者、様々な事情の中で共通している事、生きている人々の命の灯火のように見える夜景は文明崩壊前の賑やかな横浜駅前と比べればささやかではあるが、この滅んだ世界でも逞しく生きる人々の輝きは儚くも暖かさがあった。

 その夜景を見下ろして「はぁ」と重い溜息を零す少年。

 バヨネットの邪魔になりたくない、重りになりたくないと思いながらも、結局は自分の我儘で困らせてしまったという自責の念がのしかかる。

 繊細過ぎる少年の心。そんなガラスのような心を知ってか知らずか構わずに接する男が現れた。


「こんな所でなにしてんだ」

「……バヨネットさんこそこんな所に何を――」

「お前を探してたのさ」

「――えっ」


 いつの間にか背後に現れたバヨネットの意外な言葉に、少年は口を半開きにしたまま驚いて固まった。

 ゆっくりとした足取りで少年の横に立ち、二人してヴィレッジの明かりを見下ろす。

 薄着では寒さを感じ始めた晩夏の星空の下、少年がふと隣を見るといつもより少し穏やかそうなバヨネットの横顔があった。


「お前の事が邪魔になったんじゃねえんだ」

「……」

「俺は今まで、他人の事なんてどうでもいいと思って生きて来た。神威とか、他人とつるむ事はあってもなんつうか一歩引いてっつーか、壁一枚隔てての付き合いみたいな。……こんなん言っても分かんねえかもしれねえけど」

「いえ、そんなことは……」

「ま、なんつうかよ。お前とは壁は要らねえかなって思ったのさ」


 それと孤児院に入れるというのがどう繋がるのだろう。そう思う少年を尻目にバヨネットは続ける。

 いつの間にか少年は町明かりに淡く照らされたバヨネットの横顔をじっと見つめていた。


「壁は、要らない……?」

「まあなんだ、お前は俺にとってどうでもよくねぇんだ。だからお前にデカい男になって欲しいのさ」

「デカい、男……」


 少年の方をチラリと見、諦観したかのような困り顔から薄い苦笑を浮かべるバヨネット。

 自分ではどうしようもない事があると大抵の人間は顔に出るものだ。例え周りから畏怖や奇異の目で見られている者であっても。

 心の微細な動きなどいちいち普段他人に表情として見せる事など無い男が見せたそれは少年に心を許したなによりの証拠であった。


「お前は俺が何でもできる万能人間だと思ってるだろうが、俺は万能から一番離れた尖った人間。お前に教えられる事なんて大して無い」

「そ、そんな事」

「餅は餅屋、馬は馬方って事だ。お前の教育は教育の上手い所に任すのがいい。お前にハンパな生き方をして欲しくねえのさ……わかるな?」


 そこまで言われてわかりません等と言える程少年は我儘に出る事が出来る訳がない。

 少年はバヨネットの顔を見て、力無く首を垂れて肩を落とした。

 二人の間にしばらく沈黙の時が流れる。冷たい風が二人の間を吹き抜けると少しだけ少年の方が震えた。バヨネットのワイシャツをお下がりで着ている少年であるが素肌にそれ一枚きりではこれからくる秋を迎えるのは厳しいだろう。我慢しながらも子犬のように震える少年を見てバヨネットは町明かりを横目に見下ろす。

 何を思ったのか、窓から離れてバヨネットは歩き出した。


「もう夜は冷える、帰るぜ」

「……はい」


 とぼとぼとバヨネットの後ろを歩いていく少年を背中に感じながら、バヨネットは明日の事を考えて眉間に皺を寄せていた――。



******



 ――翌日。

 朝早く目覚めた二人は短い間ではあるものの寝食を共にしたキャンピングカーの前で向き合っていた。

 まだ空気が夜の寒さが抜けきれておらず、冷たい空気が肺を満たす。

 神威に少年を引き渡す日になって始めてバヨネットは少年に問う。


「何かやりたい事はあるか」


 バヨネットは始めて少年の意思を尊重する言葉を投げかけた。

 人徳も金もそんなにないが、やろうと思えばなんでも行動に移す身軽さがあった為に少年に問う。

 別れる前になんでも一つ付き合ってやる。面倒を見てやろうと思った矢先に自分の考えを曲げた事に対する罪滅ぼし。といってもそれはバヨネット自身ケジメをつけたいだけのエゴ。

 しかし理由はどうあれ、それはバヨネットが無い頭で考えた善意の形だった。

 突然のバヨネットからの質問に、少年は驚きこそすれ迷いは無かった。

 少年は何処へ行きたいとかご馳走を食べたいとかでもなく、一言お願いする。


「名前を、ください」

「……それだけか?」

「はい。これから何があろうとも、バヨネットさんから貰った名前と一緒なら頑張っていけると思うんです」


 バヨネットは困惑する。しかし一度吐いた言葉を飲み込むことはできない。バヨネットは考え、そして大きく息を吐くと少年に「待ってろ」とだけ言うと三分かそこらして、一着のスカジャンを手に戻ってきた。

 それは深緑のスカジャン。背中には大きな青龍が銃剣を咥えた刺繍が施されており、それを羽織らせてやると少年はスカジャンの重みで少しよろけた。それを見て苦笑するバヨネット。


「これは……」

「いつまでもそいつ一枚じゃこの先寒ぃだろ」

「こんなに綺麗な服、良いんですか?」

「刺繍を生業にしてるオッサンが依頼料代わりに作ってくれたもんだ。世界に一つしかねぇ、餞別にくれてやる。そして――」


 スカジャンの胸元に刺繍された交差するスパイク型銃剣が朝日を反射して銀糸が煌めく。

 バヨネットに合わせて作られたジャンパーは大きく、少年が試しに袖を通しても袖口から僅かに指先が出る程度で明らかにサイズが大きい。

 それでも大切に保存されていたであろう汚れ一つないジャンパーの袖をぎゅっと握り、少年は嬉しそうに微笑んだ。

 喜びの表情を浮かべる少年の胸元の銃剣の刺繍をバヨネットが指差して言う。


「――お前はこれから、スパイクだ」

「スパイク……」


 与えられたその名を自分の魂に刻みつけるようにゆっくりと何度も繰り返し、胸の刺繍をジッと見つめる。

 今まで自分に無かったものが今確かに自分にあるという感覚。人から与えられたのに自分を示す記号という、生まれた時から与えられていた者からは普遍的なもの過ぎて感じない奇妙な概念を噛み締めているとバヨネットがスパイクの髪を撫でた。


「そのスカジャンが着こなせるぐらいデカくなれよ」

「はい、ありがとうございます! バヨネットさん」


 バヨネットは少ししゃがみ込んでスパイクと目線を合わせ、真剣な眼差しで少年を見つめた。

 いつも獲物狙う時のような威圧的で殺気に満ちたものでもなければ他人を馬鹿にするような蔑みの色も無い、いつも他人に敵意を宿しながら見つめていた青紫の瞳に初めて慈しみの光が宿っていた。


「勉強して賢く生きろ。馬鹿は他人や世間に利用されるだけされて捨てられちまう。俺は馬鹿だから、そういう他人を利用しようとする奴らも黙らせるぐらいの力をつけなきゃ生きられなかった。お前はこんな馬鹿の真似なんてしちゃダメだ。強く生きるってのは腕っぷしだけの事じゃねえ。分かるな」


 スパイクは力強く一度だけ頷いた。


「分かりました。けど、僕はそんな生き方が出来るバヨネットさんを尊敬していますし、好きです」

「憧れても真似だけはすんな。約束だ」

「……はい、バヨネットさん」


 男の約束。

 理屈などそこには無い。二人は魂で強く結ばれていた。

 付き合いの長さや特別な血や能力など関係ない。それを二人は別れる寸前で自覚するとは。

 バヨネットが手を差し伸べ、スパイクはそれに手を伸ばす。二人は手を繋ぎながら神威が待つ教会へ向かうのだった。

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