第7話 これが日常

 帷子川の濁った水に濡れた巨体で垂直の壁を登り再び陸に上がってきた鉄鼠は情けない濡れ鼠、という風貌ではなかった。

 怒り猛っているのか体を揺らして体にへばりついた水を辺りにまき散らすと全身から白い湯気が上がり、鋼鉄のような外皮はぬらりとした光沢を帯び、その外見は渡河を終えた装甲車のようだ。

 錆びついた歯車同士が絡み合うようなギーギーという五月蠅い唸り声を上げる鉄鼠。その前に現れるはだんだらコートの男、バヨネット。


「お前も不運だったなぁ。あんな人間やつに利用されてよ」


 そう言いながら肩に引っ掛けたライフルを徐に両手で構え、銃口を鉄鼠に向けた。

 バヨネットの横で激しく水面が弾ける音が聞こえて横目で川を見下ろすと、蛇栖太の巨体を支えるように暗鬼が川から頭を出していた。

 強化外骨格による肉体にかかる負荷の軽減と人工筋肉等による身体能力の向上により、自分よりも遥かに大きな体を支えながらも溺れることなく水泳が可能な暗鬼は蛇栖太を抱えていながらも辛そうにしている様子は無い。最も、その表情は般若のガスマスクによって伺い知れないのだが。


「よう、生きてるか?」


 嘲笑入り混じった口調で暗鬼に問うバヨネット。暗鬼は蛇栖太を担ぎながらバヨネットと鉄鼠を見上げた。


「……なんとかな。だがこのままでは上がれん」


 いくら強化された体とはいえ、気を失ってる大の大人を担ぎながら垂直の堀を登っていくというのは難しいらしく、しかし努めて冷静な口調で話す暗鬼。

 川も水位が低く、よく見れば堀の壁には水の跡と苔が見て取れた。

 冷静に状況説明をする暗鬼にバヨネットは余裕を感じ取ると口角を吊り上げた。


「ずっと泳いでいけばその内上がれる場所が見つかるだろうよ。お仲間同士、しばらく水遊びでも楽しんでな」

「泳いでる最中にその鼠を川に落とすなよ」


 それだけ言うと暗鬼は蛇栖太を担いだままゆっくりとだが泳ぎ始める。バヨネットは特別それを見送ることなく目の前の敵を見据えた。

 鉄鼠は鋭い爪でひび割れたアスファルトを削り取る。鉄鼠の威嚇行動だ。廃墟や地下鉄、下水道等に生息する鉄鼠は硬い床や壁を爪で削り耳障りな音を立てる事で自己主張と威嚇を行う。

 威嚇行動をした直後、鉄鼠は動いた。これが普通の鼠ならば両前足を前に出しながらしなやかに中空を舞うような飛び掛かりになったのだろうが、そこは車並みの大きさを持つ巨体、その姿はまるで低速のミサイルである。

 猛烈な頭突きの体勢で真っすぐ飛んでくる鉄鼠にバヨネットは銃の構えを解くと両足を開いてステップを踏み、飛び込んでくる鉄鼠の勢いと距離を見据え――跳躍した。

 軽やかで素早い跳躍は滑り込む鉄鼠の頭上を越え、なだらかな曲線を描く背を両手で触れると勢い任せに腕をバネに体を再び中空に飛ばす。勢いを見誤れば腕にかかる負荷によって鉄鼠の突撃でそのまま使い物にならなくなっていただろう。しかし、バヨネットはまるで何事もなかったかのように鉄鼠の真上を抜けて真後ろに立った。改めてライフルを構えたバヨネットの鋭い眼光が鉄鼠を捉える。

 鉄鼠は目の前から消えた獲物を追いかけるように背後に立つバヨネットの方を向く、その瞬間だった。


 ――ズガァン!

 空気を揺らす銃声が轟くと鉄鼠の巨体がぐらついた。

 銃の威力が相当の物だったという訳ではない。バヨネットの持つロングバレルのライフルは文明崩壊前に使われていた一般的な猟銃の設計図から複製された物であり、対物ライフルのような代物ではないからだ。

 それでも鉄鼠の全身が揺らめいたのは他でもない、急所に当たったからだ。

 全身が装甲に覆われているような体をした鉄鼠でも柔らかい部分は存在する。暗鬼達も最初からそこを狙っていた。彼らが狙っていたのは外皮と外皮の間にある伸縮する柔らかい部位であったが、銃のような真っすぐ弾を飛ばす物ではその部位を撃ち抜く事は出来ない。

 排出された薬莢がアスファルトに落ちて弾む。その音は鉄鼠の怒りと苦痛の雄たけびにかき消された。


「ギギギギギ――――ッ!!」


 頭を振り回し片目から鮮血を滴らせ叫ぶ鉄鼠を見て、バヨネットは強靭な足のバネから繰り出される瞬発力のあるダッシュを決めるとその勢いのまま手にしたライフルの銃剣を鉄鼠の残った瞳に突き立てた。

 鉄鼠の苦痛の叫びを間近で聞き、バヨネットは白い歯を見せ食いしばりながらライフルを押し込む。気付けば銃剣のついたライフルはその銃口まで鼠の目の中へ捻じ込まれていた。

 明らかな体格差があるというのにあえてある程度振り回されつつ、下半身に力を込めて抵抗し、鉄鼠の体力を削ぎ落す。

 痛みと致命的なダメージ、そして全身を左右に振っている内にスタミナを切らして鉄鼠の動きは次第に鈍くなっていく……。バヨネットはトドメと言わんばかりにコートの下からマチェットのような刃渡りの長い銃剣を抜き放つと鉄鼠の鼻っ面に跨り、残った方の目も貫いた!


「キィィィィィィィィ!!!!」


 両目を失った鉄鼠は怒りと苦痛で狂乱した奇声を発し、最後の抵抗としてとにかく前に前にと突進を開始する。鉄鼠の向かう先には鉄骨が飛び出たビルの残骸があり、鉄骨の前端は年月による錆などで朽ち、巨大な棘のようだ。

 後ろが見えない恐ろしさと、持ち前の鋭い直感によってこの行動が最期の抵抗だと察したバヨネットは深く突き刺さったままの銃剣とライフルが抜けないと即時判断すると直ぐに手放して真横へと体を放った。

 ひび割れてでこぼこの道路に受け身を取りながら転がる。ジャリジャリと砕けたコンクリの上を短く滑り素早く起き上がるとコートについた埃を払った。


「クソッ、クリーニング代たけぇんだぞネズ公め……」


 舌打ちしながら瓦礫に突っ込んでいく鉄鼠の尻を忌々しく睨みつけると次の瞬間、瓦礫と鉄鼠が激突した。その衝撃は地面と空気を揺らし、流石のバヨネットも少し足元をよろめかせた。遠くの方では振動が伝わったのか、絶妙なバランスでその形を保っていたのだろう朽ちかけたビルなどが白煙を巻き上げながら倒壊を始めており、バヨネットは直ぐに近くの建物から離れた。

 まるでバヨネットが下がるのを待っていたかのように柱と床だけが残っていた隙間だらけのビルが倒壊を始め、瞬く間にバヨネットの眼前を煙で満たし、全身を飲み込んだ。

 僅かな時間、ほんの数秒後、膨れ上がる白煙の中から飛び出してきたバヨネットは何処にも怪我は無く鉄鼠との戦闘を終えた後だというのに疲れもない様子。しかしその表情は不満げで、眉間に皺を寄せて背後を振り向くと瓦礫の山を睨みつけた。しばらく眺めているとやがて煙は晴れ、そこには鉄鼠の姿は無かった。白く、黒く、元は床だったタイルやひしゃげたり折れたりした鉄骨が混じった山だけ。

 鉄鼠は瓦礫に潰されて見えなくなっていた。仕留めたのだ。

 バヨネットは仕事を終えたというのにやはり不満げな表情でその場を後にした。



******



 ヴィレッジ警備隊の事務所はヴィレッジの地下、つまりはシェルター内にあって高耐久、抗菌仕様の特殊合金製の壁と床に守られた清潔空間にあった。といってもそこは多くの警備員やが出入りする場所、地上と大差ない程に砂や埃で汚れていた。廊下の端の血痕の掃除忘れが申し訳程度に掃除はしているんだなと思わせる。

 報酬を受け取るために警備隊の事務所に入ったバヨネットは真っすぐ報酬受け取りの窓口へ向かった。

 しかし現場で突然行われた口約束、鉄鼠を殺したその足で直ぐに事務所に向かった所で話が通っているはずもなく、蛇栖太や暗鬼達の分まで頂くという話は当然受付の人間は聞かされていない。

 そんな事は聞いていないとオウムの様に繰り返すだけの窓口の男とバヨネットは報酬を巡って言い争いを始めていた。


「ですから、そういう話は上から伺ってなくてですね」

「だったら早く確認取れよ。良いっつったのはお宅ンとこの人間だぞ。天下のヴィレッジ警備隊さんが約束を反故にするなんてこたぁねぇよなぁ?」


 今にも食って掛かりそうな勢いのバヨネットに顔は青ざめ脂汗を流しながら応える不憫は窓口の男に周りの隊員は助け舟を出す事なく、皆自分の仕事に従事していると。


「仕事ご苦労」


 二人に割って入る様に声がしてバヨネットは声の主を見やるとそこには神威がいた。

 その手には黒い麻袋が握られており、バヨネットは直ぐにそれが追加報酬だと気付いた。


「何がご苦労だ偉そうに。ボケーっと人のお仕事見てる暇あんならこの受付ボンクラに話つけとけ」

「金が欲しい時だけ働けばいいお前と違って、お前の事だけ気にしてる訳にはいかない仕事なんだよ」

「鉄鼠一匹に人的資源失うのをビビって傭兵に頼ってるような組織に属してるとお散歩だけで一日使っちまうのかい?」

「パトロールだ馬鹿者」


 皮肉を言い合う神威とバヨネット。こんな減らず口の応酬は何処でも起きるほど日常的なものであったが、どことなく彼らはその言い合いをいつもの事と慣れている様子だ。お互いに本気で言い合っているという訳ではないらしい。

 しかし金に関しては五月蠅いようで、バヨネットは神威の手から追加報酬をひったくると袋を上下させて中身を確かめながら歩き出す。

 用件が済んだらおしまいと言わんばかりにさっさと帰ろうとするバヨネットの背を見ていた神威は唐突に口を開いた。


「バヨネット、お前の腕ならヴィレッジ警備隊に入ってもやっていける筈だ。明日の金に困ってあくせく仕事探しするよりも安定した仕事があった方が良いんじゃないか」


 そういう神威にバヨネットは立ち止まる。そして振り向きながら神威を嘲笑った。


「今の日常以上に退屈そうだ。……俺は別に安定した人生を送りたいんじゃねーのよ」


 バヨネットはそれだけ言うともう振り向くことはなかった。

 地上への階段を上りながら手をひらひらと振って去っていくバヨネットの背中を見て、神威は溜息を漏らしながらも少し羨ましそうな視線を送っていた――。

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