第3話 野良犬

 稼ぎに行くか。そう言ったバヨネットだったが向かった先は鉄鼠の元ではなかった。

 鉄鼠の元へ向かうのならば西口ロータリーにいたバヨネットはその足で南に伸びる橋を渡り川沿いを歩けばいいのだが、そちらへは行かずバヨネットは横浜駅の中へ入り、そして通路を通って東口へ出た。

 横浜ヴィレッジの中心部である東口ロータリーは廃車やあばら家が密集し、人通りの多い道沿いには露店が並ぶ。

 足音や熱気を纏った商売人たちの客引きの声、通行人の他愛もない会話、それらを耳障りに感じながらも継ぎ接ぎだらけの背広やコートを纏った人の波を縫うように歩き続ける。


 バヨネットは多くの店の中から丸焼き屋に立ち寄ると、小銭袋から幾つかのナットを取り出し、店主に手渡した。

 豚サンドとウズラの串焼き二本を注文し、主人はあいよと雑な返事をしつつ染みついた動きで手早く仕事を始める。

 店主の背後にある高さ二メートル近い巨大な豚の丸焼きから肉をこそぎ落とし、店に置かれた鉄板の上で焼かれたトルティーヤに肉を挟んだ物と、ウズラの丸焼きを木の串に通した物を片手に器用に受け取る。

 豚肉を挟み込んだトルティーヤを齧りながら視線だけを右に左に動かしながら歩く。周囲を見渡しながら歩いているにもかかわらず、その足取りは力強く真っすぐで、迷いなく何処かへ向かっていた。


 歩く事数分でバヨネットの周囲の景色はガラリと変わっていた。

 背後にはまだ人通りの多いロータリーだったが、バヨネットが進む視線の先そこは大通りの日の当たる場所とは打って変わって暗く、狭く、臭かった。そこは横浜ヴィレッジの南に広がる貧民街。文明崩壊前から存在した廃墟の他に、道路であったはずの場所にも多くの小屋が建てられ、それでも人の住む場所が足らず、小屋の上に小屋が、小屋同士を行き来する橋が、階段が至る所に増築され、空が狭くなっていた。

 視界の隅に入る人々はどれも直視すれば気が滅入りそうな姿をしている。胸板まで髭を伸ばした老人が色落ちした落書きだらけの家の壁に背を預けて安酒をあおり、片足の無い痩せ細った中年が空の茶碗を手に物乞いをする。男の財布を騙し取ろうと生足をチラつかせる、そんなこの世の地獄を煮詰めたような暗い道を眉一つ動かさず歩くバヨネット。

 バヨネットが手にした温かな食べ物を見てそれを奪おうとガンを飛ばす者達も少なからずいたが、バヨネットのひと睨みで蜘蛛の子を散らすように物陰へ消えて行った。

 しばらく歩いてバヨネットはふと足を止めた。


 そこは横浜ヴィレッジの直ぐ側を流れる川の近く。僅かに開けた申し訳程度の広場。

 川岸は全て廃車を積み上げたり鉄板などで隙間を塞いだ巨大な防壁が作られ、それらが作り出す影によって薄暗い。

 広場といっても地面はひび割れたアスファルトであり、広場の中央ではドラム缶の中に薪がくべられ炎の先端がゆらゆらと顔を出していた。

 個人で暖をとる金も無い人々が身を寄せ合っているのを尻目に、バヨネットはある方向へ視線を向ける。


「あれか……」


 その先にあったのは古びたバスだった。

 錆びだらけで塗装も落ち、タイヤもいつから無いのか引っこ抜かれている。しかしそんなバスもここでは在り来たりなもので、そのバスの中は誰かの住処になっていた。

 どこにでもあるバスを見上げてながらバヨネットは鼻を鳴らす。


「くせぇな」


 そう呟いた時だった。


「お願いします……!」


 バヨネットの耳に飛び込んできたのは細く弱々しい声だった。女にしては低く、男にしては高い。バヨネットは直ぐに子供ガキの声だと思った。声変わりもすんでいない子供の声だ。

 普段のバヨネットであれば、どうせガキ同士の喧嘩かなんかだろうと無視する所であったが、耳の中に飛び込んできたその声が妙に気になって視線を向けると、広場中央の焚き火にたむろするおっさん共の前で頭を下げている子供が一人だけ。

 何かするわけでもなく、バヨネットはその子供を眺めた。

 背丈からして十歳くらいだろうか。片方の裾が足の付け根辺りで千切れた長ズボン、明らかにサイズの合っていないぶかぶかで埃まみれのパーカー姿、痩せ細った足、明らかに孤児といった風貌。

 暗い茶色をした髪は伸びっぱなしで、先に行くほどボサボサだ。肩甲骨よりも下に伸びた毛にはフケが絡みついていて、焚き火の近くで灰を被ってもああはならないだろうというほど汚らしい。まるで捨て犬だ。

 後ろ姿なのでその顔は分からないが、その声色から必死さからどんな表情をしているかは想像に難くない。

 懇願する子供の声を大人の声が圧し潰した。


「お前なんか何の役にも立たねえだろうがアァン?」

「野良犬が労働者の真似事がしてぇってか? 無理無理! ギャハハハハ!」


 路上生活をする孤児を野良犬呼ばわりし、少年の白い素足に唾を吹き付けながら下品な笑い声を上げる男共。

 嘲笑う彼らはこの場でも多少マシな程度の衣服に、嗜好品である煙草を吸える程度には懐に余裕があるらしい。

 バヨネットは他人の気持ちなどなんとも思わない冷酷な男だ。自分の利益の為であれば、他人の足を掬う事も平気でする。戦いが熾烈であればある程悦びを見出し、傭兵業の成功報酬に冗談のつもりでケチをつけてはビビりの依頼人から金を毟り取る意地汚さを持ち、お世辞にも善人とはいえない男。その性格を一言で言い表すならば、〝気分屋〟であった。


「お願いします、なんでもします。荷物持ちでも、スカベンジングでも……!」

「お前みたいな臭くて弱っちいガキにやる仕事はねぇよ」

「帰ってママのミルクでも飲んでな。いねぇから道端で暮らしてるのか! ガハハハハ!」


 ただ馬鹿にされるだけで時間が過ぎていくばかり、しかし子供はその場を動かない。いや、怯えてしまって足が動かないのだろう。

 そんな子供の肩に伸びる手があった。背後から伸びたその手は子供の肩の上に乗せられた。


「じゃあ俺に仕事くれよ」


 バヨネットだった。ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべ浮ついた口調で言った言葉であったが、その場を凍り付かせるには十分だった。今回はだったのだ。

 実際にバヨネットが子供の後ろに間近に立つと百八十以上あるバヨネットのお腹の位置に子供の頭があった。四十センチ以上の差だろうか。

 子供の後ろに現れた長身の男を見て最初は焚き火の周りの男共は保護者の登場かとニヤニヤ嗤っていたが、直ぐにその表情が凍りついた。

 バヨネットが現れた瞬間、男たちの数が既に半分以下になっていた。残りの男たちも揃いも揃って腰を抜かし、アスファルトに尻を強か打ち付けた。


「バヨネット……!?」

「お、おいもう行こうぜ……」


 男たちはそそくさと退散してしまい、その場には子供一人とバヨネットだけが残された。

 固まっていた子供は漸くゆっくりと手の置かれた肩に視線を向け、そしてバヨネットの顔を見上げた。

 目つきの悪い、強面で高身長の男に間近で見下ろされ、子供は小さく悲鳴を漏らし、身を震わせる。そんな様子を見てもバヨネットは気に留める様子もなく子供の琥珀色の瞳をジッと見つめた。


「おい小僧。何でもすると言ったな」


 バヨネットはぶっきらぼうにそう言うと子供は恐怖心から体を強張らせていたものの、こくんと頷いてみせた。

 するとバヨネットは手にしたウズラ串を二本差し出した。


「手が塞がって邪魔だ。コイツを持ってろ」

「あ、わかりました!」


 痩せぎすの子供には手にしたウズラの丸焼きは目に毒だった。子供は手渡されたウズラに釘付けになりながら涎を垂らす。

 バヨネットは再び先ほどの古びたバスの上を見上げ、食いかけのトルティーヤを一気に口に押し込むと、特に助走もつけずに高い跳躍を子供に見せつけた。

 荷物持ちをさせられた子供は目の前で見せられた人間離れした跳躍に口が半開きになっていると、視線の先にいるバヨネットはバスの上に足から着地してみせ、バスの上に転がっていた麻袋を迷う事無く掴み取った。

 中身を確認する事もなく、軽く鼻を近づけるとバヨネットは小さく頷く。その様子はまるで西口のロータリーからここまで臭いを追ってきたかのようだった。

 麻袋を手にバヨネットはバスから飛び降り、子供に近づくとその子を見下ろした。


「荷物持ちご苦労さん」


 それだけ言うとバヨネットはさっさと歩き出してしまった。

 その場に残されそうになった子供はふと手にしたウズラに気付き、振り向きながら声を上げた。


「あの! これ!」

「荷物持ちの駄賃だ」

「いや、でも――」


 何か言いかけた子供にバヨネットは被せるように語り出す。


「俺は〝安請け合い〟と〝タダ働き〟なんてクソくらえと思ってるタチだからよ。ああ、それと――」


 バヨネットは顔だけを横に向け子供を見ると、突然子供を鼻で笑った。


「――何でもするなんて薄っぺらい言葉、なにも出来ない奴がよく吐いて、後から出来ませんって言う典型じゃねえか。出来る奴ってのは、何が出来るかハッキリ言う奴の事を言うんだ。覚えておけ」

「は、はい!」


 それだけ言うとバヨネットは再び子供をその場に残し、去ってしまった。


 バヨネットの背中を見て、子供は誰にも奪われないように、急いで手にしたウズラに食いつく。

 小さな骨も気にせず、骨ごと嚙み砕き、何日ぶりかの温かい食事に子供は涙を流しながら突然の施しに感謝したのだった。

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