晴れは雨への恋模様

氷上

本文

 五月晴れと言うものだろうか。日の光が目を突き刺すように照らす中、大勢 優也(おおせ ゆうや)はそんな輝かしい天候とは裏腹の心持ちであった。

「今回も、全然ダメだったな」

 そう呟きながら、無意識のうちに強く握った右手にはくしゃくしゃに握りつぶされている紙が1枚。そこには『学年順位277/318位』という文字が記されていた。

 別に悔しくはない。いつものことだ。残念でもない。何度もあった。誰かに期待されているわけでもない。誰かに怒られるわけでもない。悲しみも怒りもない。

 そう思っているはずなのに、紙切れを握った右手は力を抜いてくれなかった。

「ちょっと!先に帰らないでよ」

 後ろから聞こえたよく知る女性の声に、優也は足を止めて校門のすぐ先で振り返ると、声の主である香内 岬(かない みさき)が小走りでタンッタンッと小気味いいリズムの足音を鳴らし、短い髪を小さく揺らしてこちらに向かってくるのが目に入る。

 岬が隣まで到着したと同時に、優也はぼんやりと声を発した。

「ごめん。ちょっとぼーっとしてて」

 試験結果の返却などで午前のうちに学校が終わる日は二人で一緒に帰る。何年も続いてきたこの慣習は二人の間で自然に行うものになっていた。二人の間に約束があるわけでもなければ、常日頃から一緒に帰っているわけでもないけれど、なんとなく続いていて、それは二人にとって当たり前のことだった。

「謝ることじゃないけどさ。置いていかれたら寂しいじゃん」

 軽い口調でケロッと言いながら、快活に笑う少女を優也はまっすぐ見れなかった。空も、少女も見たくない。漠然とそう思った目線が向かう先は地面しかなかった。

「俯いちゃってどうしたの?ほら、帰ろうよ」

「あっ、うん。ごめん。帰ろうか」

 そう言うが早いか、優也は前に向き直り、岬と並んで一歩ずつ。小さな歩みで校門を後にした。

「いい天気だね。お散歩日和って感じ」

 歩き始めてすぐに、岬からたわいもない話を始めた。

「五月晴れっていうやつかもね」

 優也もこれには慣れっこで、いつものようにそれとなく返答する。

「そういえば、梅雨に晴れることも五月晴れって言うんだって。梅雨って六月ってイメージだからこんがらがっちゃうよね」

 少し空を見上げながら、微笑みを浮かべて岬が言葉を放った。

「岬は本当によく雑学を知ってるよね。昔からさ」

 岬につられてなのか、優也も少し笑みを浮かべていた。

「そうかな?普通だと思うよ。普通」

 へへっと軽く笑いながら、跳ねるような歩みに切り替えて、優也より一歩から二歩くらい先へ進んで、岬は優也の方を振り返った。

「その感じ、今回のテストも良くなかったんでしょ?」

 こんな発言も優也にとっては本心を暴かれた痛さを感じもしなければ、傷つきもしない。軽く言い放った岬もそれは同じで、得意げでもなければ馬鹿にしているわけでもない。長年一緒にいるからなのか。不思議なもので、これが二人のいつも通りの会話だった。

「まあね。そろそろ慣れたもんだよ。結果が悪いのなんて」 

 そう言って、優也は右手にずっと持っていた紙を、乱暴にズボンのポケットの奥底に押し込んだ。

「気にしなくていいんだよ。今の成績なんてさ」

「だから、気にしてないって」

「ちゃんと頑張ってれば、いつか結果は出るから。焦らず焦らず」

「僕の話聞いてる?」

呆れたように。それでいて口元に笑みを浮かべながら優也は前を歩く岬を見ていた。

「聞いてる聞いてる。テストの結果が悪くて落ち込んでるんだって話でしょ?」

「一言も言ってないよ」

 一言も言ってはいないが落胆は少ししていた。前を歩く岬はきっと今回もいい結果だったのだろう。岬本人は毎回結果を気にしていない様子で、いい結果の時も悪い結果の時もこんな風にあっけらかんとしているが、そもそも結果が悪い時なんてめったになかった。

「前回よりは順位上がったの?」

「本当に少しだけね。それでもものすごい下の方だよ」

「だったらいいじゃん。私なんて前回よりも五位くらい落ちちゃったから、私よりもいい結果だよ」

 こんなことを本気で言ってるから質が悪い。優也と岬では前回の順位からしてほとんど正反対の位置にいるのに。

「下が少なくてこれ以上は下がらない僕と、上が少なくてこれ以上上がらない岬は違うよ」

 優也にとっては順位を五つ落としたと言っても一桁台である岬とは、そもそも土俵が違って思えていた。

「一緒一緒。他の人と比べるより、前回の自分より頑張れたらそれでよし」

 『他の人と比べるより』岬は当たり前みたいにこう言うが、優也はそうは思えなかった。子供のころから常に隣には岬がいて、優秀な成績を収めながら、優也の成績が良かった時も悪かった時も一緒にいる。最近は優也の成績も伸び悩んでいるが、それでもこんな日常は変わっていない。これが優也にとっての大きな不安となっていた。いつ、岬が隣からいなくなるのか。いつ、見放されるのか。いつ、哀れみや同情に変わるのか。それが怖くて仕方がなかった。岬とはずっと一緒にいたいから。

「きっと、いいことあるって。落ち込んでないで、今日の晩御飯でも考えてよう」

「そうだね。そうしようか」

 落ち込んでてもしょうがない。それはその通りだと納得して、優也はまた明日から頑張ろうと頭を切り替えることにした。

「あっ、そうだ。久しぶりに家に来ない?お母さんが優君に最近会ってないなぁって言ってたからさ。お昼ご飯でも食べていきなよ」

「いいね。ごちそうになろうかな。そしたら、母さんに昼ご飯いらないって連絡しなきゃ」

「別にいいんじゃない?私のお母さんから連絡行くと思うし」

 二人が物心ついた時にはすでに家族ぐるみで関係があった。家の位置が狭い車道を一本挟んで向かい合っていて、家を出てから徒歩5秒の距離にあることと、同い年の子供がいるという条件がそろっているからか、昼間から母親同士で団欒したり、お茶会をしているのも良く見る光景の一つなほどだ。

「まぁ一応ね」

 優也は、さっきポケットに突っ込んだきりだった右手を取り出して、先程までとは違って軽快な手さばきで母親に連絡をした。その一方で岬は相変わらず優也の少し前を歩きながら、空を見上げてこうこぼした。

「なんか、雨降りそう。梅雨、五月雨だしなぁ」



「あら、優君。久しぶりね」

岬の家に着くなり、岬の母親が二人を出迎えてくれた。

「岬から聞いてね。お昼ご飯用意したから食べていってね。あっそうそう。岬は自分の部屋、ちゃんと片付けてからお昼にしなさいね」

 この母にしてこの娘ありというのか。岬の、おしゃべりで人の話を聞く前に話を広げていく様は、きっとこの母親に似たんだろうと、優也は改めて思った。

「お久しぶりです。お邪魔します」

「えー。部屋は別にいいかな。見られて恥ずかしいほどは汚くないし」

 前に岬の家に来たときを思い出すと、確かにいつもお世辞にも綺麗とは言えない部屋だったが、汚いというよりはただただ物が多いというイメージで、ぬいぐるみや本、筋トレの器具などがたくさんあり、整理はされてないけど部屋の隅に寄せられているような部屋だった。

「まったく。女の子なのに、男の子が部屋に来るって言ってもこんな調子なんだから色気が無いわ」

「優君相手に今更男も女もないでしょ。昔っから知ってるんだし、取り繕わなくたっていいじゃん」

 軽口を言いながらも、しっかりと靴をそろえて脱いで、シューズボックスに綺麗に入れる岬を見て、優也も少し慌てて同じように靴をしまった。

『今更男も女もない』

 確かにその通りで、昔から兄弟みたいに一緒にいた二人にとって、恥ずかしいこととか見られたくないものなんていうものは多くない。それは優也にとって嬉しいことでもあり、一抹の寂しさを覚えることでもあった。

 リビングに上がると、懐かしい写真が飾られた赤茶色の木で縁取られた写真立てが真っ先に優也の目に入った。

「こんな写真、前からあったっけ?」

 写真立ての上に右手をゆっくりと添えながら、玄関で鞄を片付けている岬に向かって、ふとした疑問を口にした。岬はそれを聞きつけて優也の隣まで来て写真を眺めた。

「んー?ああ、小学生の時のやつ?つい最近アルバムを見てたら見つけてさ。いいなって思ったから飾っちゃった」

 その写真は10歳の頃の優也と岬のもので、体操服を着た二人が、折り紙でできた金メダルを誇らしげに、楽しそうにカメラに向かって掲げているものだった。

「いい写真だよね。これ。結構前だけど今でもこの写真を見るとこの時のことって思い出せちゃう」

 口調は今まで通りに軽く、抑揚の効いたものだったが、今までの口から滑り出てきているかのような言葉とは違い、言葉の一つずつを噛み締めるように岬は写真の感想を呟いた。

「運動会だよね。百メートル走で二人とも一位になれたってはしゃいでさ。さっきまでも走ってたのに、岬のお母さんのところまですぐに駆け出して。写真撮ってって頼んだんだよね。うん。確かにいい写真だけど……」

 優也は言葉に詰まってしまう。この頃はよかった。岬は今と変わらず優秀で運動もできた。優也もそれに負けまいと着いていって、結果もそれなりに出ていた。この頃はまだ、岬の隣に並び立っていると、胸を張って言えていた。

「だけど?この時、何か嫌なことでもあったっけ?」

 そう口にしながら、何にもわからないといった素振りで隣から優也の顔を覗き込んだ。

「嫌なことなんてなかったよ。あるわけない。単純にさ。この頃は楽しかったなって思っただけ」

 この写真を見ていると、自然と笑みが溢れてくる。楽しかった過去の思い出が、つい昨日の出来事みたいに脳内で蘇り、胸を掠めた不安も写真の中で笑う二人を見ていると忘れられそうだった。

「フフ、優君も年取ったね。まだまだこれからも楽しいこといっぱいあるよ。また写真とってさ。また五年後にこの頃は楽しかったな。なんて言えたらいいよね」

 岬の言葉はそのままの意味で、悪気なんてこれっぽっちもなかっが、優也は一つの単語が引っ掛かって脳から離れなかった。

 ーー五年後。五年後に、僕は岬の隣に立っていられるのだろうか。



「ごちそうさまでした」

 岬は両手を合わせて軽く一礼をし、すぐさま食器を持ってシンクの方へ向かった。

「相変わらず、食べるの早いね」

 昔から一緒に食事をすると岬の方が先に食べ終わっていた。

「そんなことないと思うけどな。何?まだ何か気にしてるの?」

 自身の食器を洗いながら、優也に対して質問を投げ掛けた。

「気にしてるわけじゃなくて、どっちかというと、懐かしい感じかな。昔からそうだったなって」

 優也の昔からの癖のようなもので、自分に自信が無くなったり、不安になると岬と自分を比較して岬を褒めたり持ち上げたりすることがよくあった。ただ、今回はその癖が出たわけではなく、なぜかとふと子供の頃を思い出して出た言葉だった。

「あの写真を見たからかな?そしたら、アルバムでも見る?まだまだいっぱいあるよ?」

「恥ずかしいし、別にいいよ」

 優也も食事をとり終え、箸をおいて椅子の背もたれに体重を預けてそう言った。

「えー。いい写真いっぱいあるのに?遊園地で迷子になって、泣きながら帰ってきた優君のとか、一緒に写真を撮ってくれたウルトラマンが小さくて怒って、ふくれっ面の優君とか、他にも」

「もういい、やめよう。この話は」

 昔話のこっ恥ずかしさから、優也はまだまだ続きそうな岬の言葉を遮りながら、楽しそうに笑う岬の横顔を眺めていた。

「最近はあんまり写真撮ってないけど、また撮りたいよね」

「うん。そうだね」

 こんな時間を続けられたら。かつての時間を取り戻せたら。また、胸を張って岬と隣で笑いながら並べるようになれたら、また写真を撮って五年後にそれを見て笑い合う。そんな日が来ることを強く願った。

「ごめん、部活あるから、今日はもう行くね」

 そう言って優也はゆったりと立ち上がった。

「もう行くの?まだもう少し時間あるよ?」

 時計の短針は13時を指していて、午後からの部活は15時からが優也が所属している野球部のこれまでであった。自宅が高校から徒歩10分程度の距離にある二人にとってはまだ時間に余裕がある。

「大会が近いからね。自主練習してくるよ」

「そっか。頑張ってね」

  大会が近いというのも嘘ではないが、無性に何か行動しなければならない。そんな強迫観念が、優也を衝動的に動かしていた。

「うん。頑張らないと。だね」


 時刻は14時。眩しいほどの日差しが古い記憶だったかと錯覚するほどに分厚い雲に覆われ、降雨がないことが嘘のような天候になっている中、優也はグラウンドに到着していた。

「あれ、優也もう来たのか。早いな」

 すでにグラウンドには先輩、同級生、後輩問わず7人くらいがウォーミングアップを行っていた。強豪校でもない普通な高校のため、厳しい上下関係も規則も少なく、仲良くやっているような活動ではあるが、その中でもレギュラー争いは発生していて、およそ30名いる部員の中で半分は一軍、半分は二軍になってしまう。

「うん。ちょっと頑張らなきゃだと思って」

「そうだよなぁ。後輩も入ってきたし、後輩に抜かれて二軍になったりしないようにしたいよな」

 グラウンドに立った優也のもとにきて話しかけてきたのは、同級生の二年生ながらもすでに野球部内で中心人物になっている橘 春樹(たちばな はるき)。明るい性格と野球の実力共に部内でも認められている。

「春樹は大丈夫でしょ。春樹が二軍になったら二年生全員二軍だよ」

「そんなことないと思うけどな。何が起こるかわからないし、備えるだけ損ないだろ?」

 ハハッと笑いながらではあるが、おそらくその言葉は本当にそう思っているのだろう。この時間からすでにウォーミングアップを始めているのだから、少なくとも立場に胡坐をかいているということはない。

「そうだね。春樹が頑張るなら、僕はより一層頑張らなきゃだね」

 現に、優也は今でこそ一軍ではあるがその立場が確約されているほどの実力ではなく、レギュラーメンバーではなくベンチとしての試合参加がほとんどであった。

「うーん。たまーに思うんだけど、あんまり人と比較して自分を下げても仕方ないぜ?自分にできる精一杯をやって、他の人のことは気にすんなって」

「よく言われるよ。うん。気を付ける」

「よく言われるって香内にか?まぁ、あいつは本当に気にしてなさそうだしな。あそこまで自由奔放だと逆に特殊だと思うけどな。」

「二人とも似てるよ。僕にとっては二人とも特殊に見えるんだ」

 いつもより重く感じるバットを振る。振り続けないと、何かに押しつぶされそうだと感じていたから。

「そっか。まぁ、がんばれ。俺はちょっと走ってくるよ」

「うん。そっちも頑張って」

 小走りで去っていく春樹をまるで見ずに、優也は祈るようにひたすらバットを振り続けた。

 自分でもわかっている。こんなの自己満足で、真剣に努力してるわけでもなくて、ただ、自分はがんばってるんだと自分に言い聞かせるためにやっているだけ。それでも何とか。何とかしがみつきたかった。岬と同じ場所に。テストでも部活でも。彼女と同じ舞台に立ちたかった。

 しかし、現実はそう甘くなかった。

 練習終了後に顧問の口から告げられたのは大会のレギュラーメンバーとベンチメンバー。その中に優也の名前は無かった。以前は一軍だった優也も、後輩の実力が判明してきたこの時期にその立場を維持することはできなかった。

 春樹をはじめとした一軍に残った同級生からは優しい言葉をかけられた気がする。けれど、そんなのまるで聞いてはいなかった。


 優也は無意識のうちに体育館へ向かっていた。そこでは岬の所属するバレーボール部が練習を終えて、帰宅の準備を進めていた。

 談笑している数名の女生徒の中で中心にいたのは岬だった。楽しそうに笑い合う様子を直視できずに目を背けた。数秒後、岬は優也を見つけると練習着のままで目の前まで歩いてきて、下から覗き込むように問いかけた。

「あれ?優君じゃん。部活見に来るなんて珍しいね。何かあった?」

 問いかけに答えはなかった。

「優君?」

「ごめん。何でもない」

 岬の顔を全く見ないまま、吐き捨てるようにそう言って岬に背を向けた。

「なんでもない感じじゃないよ?どうしたの?」

「部活、楽しそうでいいね」

 口元だけうっすらと笑みを浮かべながら愚痴のように零した言葉は、少なくとも言葉通りの意味には聞こえなかった。

「ねえ、本当にどうしたの?なんか、怖いよ?」

「野球部、辞めようかな。勉強も辞めたい。やりたくない」

 せき止めていた言葉は一度零れると留まることを知らずにあふれ出てくる。

「僕なんかじゃダメなんだ!テストの結果が悪くても『明日から頑張ろう』部活でやる気出しても、本当に頑張ってるみんなより早く始めるわけでもない!」

 大きな声ではなかったが、はっきりと、強く。

「僕はみんなより優れてない。春樹よりも岬よりも!だから、比べなきゃ。並ばなきゃ。追いつかなきゃ。頑張らなきゃ。そう思ってるはずなのに!」

 いつ降り出したのか、雨が天井を打ち付ける音だけが体育館に響き渡る。

「僕は努力すらできないんだ」

 最後の言葉は雨音に紛れて静かに溶け込んだ。

「ごめん。バイバイ」

岬が何か言葉をかけようと思った時にはすでに、その場に優也はいなかった。だれにかけるでもない言葉を岬はその場にぽつりと落とした。

「雨、止まないね」


 雨の中、傘も持たずに学校を飛び出して、どこを目ざすわけでもなくさまよっていた。

「雨、止まないかな」

 普段の帰路とは全く違う道に入り込んでいく。行く当てもないけれど、家に帰る気にもならない。そんな心持ちが足取りにも表れるのか、ふらふらと、目的もなく歩き続けた。

 ふと、道の端を見ると、林のような木々の中に人口ではなく、けもの道のようなものが写った。優也は体をけもの道に向けると、そのまま吸い込まれるようにその道へ入っていった。

 入ってすぐに、優也は異彩を放つものが落ちていることに気付き、それを手に取った。

「本?この雨の中で濡れてないのすごいな」

 落ちていたものは分厚い紙製品の本であり、木々が雨除けになっていたにしても、濡れていないのは信じられない。さらに異彩を放っていたのは表紙が真っ黒で何も書いていないことであった。

「ノート、にしては厚すぎるかな」

 文庫本よりも厚いその本の真っ黒な表紙を何の気なしにめくると、見たこともない文字が書いてあった。

「外国の本かな」

 そのまま次のページをめくると、優也はなぜかそのページに大きく書かれた見たことのない文字が意味だけはっきりと分かった。

「『この力をあなたに』?なんのこと......うわっ!」

 頭に浮かんだ文字を確認したと同時に本が眩しく光を放ち、次の瞬間には本は消えていた。

「何が起きたんだ?手品?」

 途端に強い風が吹き、揺れた木々の葉から落ちた雨粒が優也の体を襲い、すでにずぶぬれであった体に追い打ちをかけ、それまで気が付かなかった体中の寒さに気付かせてくれた。

「さすがに寒い。家に帰ろう」

 


「どうしたの、傘もささないで。風呂入れるから入っちゃいなさい」

 家に帰るなり、母親に大きな声で諭され、靴下まで水がたっぷりと入り込んだ靴を玄関にほっぽりだし、びしょびしょの服を脱ぎ捨てて風呂へ直行した。

「うまくいかないな。何もかも」

 風呂に入るなり湯船につかって、今日あったことを思い出していた。テスト結果は以前と変わらず悪い。部活は二軍落ち。しかも岬に八つ当たる。

「わかってるんだよ。全部僕が悪いって」

 テスト結果が悪いのだって、日ごろからちゃんと勉強しなかったからで、部活だってなあなあでやってるから後輩に抜かれる。ちゃんとやらなきゃと思っても、すぐにその思いは忘れてしまい、目の前の楽しいことに逃げてしまう。

「今までだってそうだったじゃんか。何回目なんだこれで」

 岬を見てるとよくあることだ。ただ、今日はその中でも特に間が悪かった日ではある。写真を見て昔の自分と岬を思い出してからのこの顛末だったのだから。

「昔は良かったんだ。どこでこうなっちゃったんだろう」

 時を戻したい。昔みたいに、岬の隣にいれる自分でありたい。目を瞑り、静かにそう願いながら湯船のお湯を手で掬い上げて顔を洗った。

「どうしたの、傘もささないで。風呂入れるから入っちゃいなさい」

 目を開けると、優也は家の前でずぶ濡れになっていた。目の前にいる母親からは先ほども聞いた言葉が飛んできている。

「僕、今風呂に入って……?」

「何言ってるの?雨に打たれて変になっちゃったんじゃない?ほら、早くお風呂に入ってきちゃいなさい」

 事態が飲み込めないままではあるが、言われた通りに再び濡れた服を脱ぎ捨てて風呂場へ向かい、そのまま湯船に浸かった。

「さっきも同じことしたよね?」

 天井を向いて放った言葉は反響して自分の耳に入ってくる。頭の中を過るのは帰路の途中での出来事。

『この力をあなたに』

 目の前で起きた本が光って消えるという現象とこの台詞。にわかには信じがたいし、何かを得られたとも思っていないが不思議な現象が起きたことだけは確かに見ていた。

「とはいっても、何にも変わってないしなぁ」

 手に力を入れても何も起きない。言葉は幻聴で、本が消えたのは手品の類。そう考えるのが一番納得のいく答えだった。

 優也は湯船の放つ煙の中でぼんやりと今日の出来事のうち最も不可思議な現象を思い返していた。


 風呂を上がり、帰りの遅い父親を待たずに、母親と二人で夕食をとっていると、今の優也にとって入り込んでほしくない話が切り出された。

「今日、テスト返しだったんでしょ?どうだったの?」

 ややオカルトまがいな現象のおかげで薄れつつあったテスト結果を、再び思い出すことになってしまう。

「あんまり良くはないかな」

 箸を止めて、ゆっくりと机に置きながら、目の前にある白米の入ったお椀を眺めていた。

「......そう。まあ、これからよね。頑張って」

 親に怒られた記憶はあまりない。岬もこれからだと言ってくれる。こんなぬるま湯みたいな環境がここまで心地よくなく感じるのは、これまでで初めてだった。

「うん。ごめん」

 いつからだったんだろうか。いい点を取って喜ぶ親や岬の顔を見たいと思うんじゃなくて、怒られなければそれでいいと思うようになったのはいつから?僕がやり直すべきは、いつから?

 お椀を見ていたはずの目線に違和感を覚えて、上を見上げると、またしても湯船の放つ煙が立っていた。

「もしかして......?」

 時が戻っているのかもしれない。何かをやり直したいと思った時に、それは起こるのかもしれない。優也の中で、一つの仮説が現実味を帯びていった。

 三度目の風呂を二度上がるという通常であればありえないことを行った後、優也は自分の部屋へと戻った。

「優也?夕飯は?」

「今日はいらない。ごめん」

 先程のきまずい雰囲気と、嫌なことを思い出すことを、優也は自然と避けていた。

 自室に戻ると、しばらく見ていなかった携帯電話を開いた。通知は無し。岬から何か連絡があるかも。春樹から慰めの言葉があるかもと思ったが、そんなことは無かった。

「明日、ちゃんと謝ろう」

 口に出した言葉を強く胸に刻みながら、長い一日に終わりを告げて眠りについた。


 翌朝、まだ昨日同様に雨が降り続く中、普段の登校時間よりも早く学校へ到着した優也は、一目散に体育館へと向かった。そこにはきっと、朝練をしている岬がいるはずだと。

 予想通り、そこには岬をはじめとするバレーボール部員たちがいて、今まさに朝練の最中であり、優也は体育館の片隅で、彼女らの姿を見ていた。

 大きな声を出しながら、後輩にも先輩にも勝負顔つきで、普段から大きい目を見開いて真剣な目を向けている岬を見ると、それも懐かしく感じる。昔はよく見た顔で、最近では一緒に真剣になることも少なく、見る機会が少なくなっていたことを実感していた。

 練習が終わると、その表情は途端に柔らかなものに変わり、最近よく目にしていた岬の顔に戻っていて、厳しさも抜けて、優しくチームメイトと笑い合っていた。そんなメリハリの付いた岬だからなのか、練習後の岬の周りには人が集まっていて、みんな笑い合っていて、岬ももちろんその中心で満足げな笑みを浮かべていて、体育館の壁に寄りかかって立っている優也にとっては入り込みづらく、話しかけにくい雰囲気が漂っていた。

 岬の周囲にいた部員の一人が優也に気付き、岬の肩をたたいて優也のいる方を指さした。きっと、昨日の人来てるよといった話をしているのだろう。

「おはよう、優君。今日は早いね。野球部も朝練?」

 昨日のことなんてなかったかのように、笑顔のまま軽快に優也に話しかけてくる岬の姿に、安心感を覚えるも、昨日の夜に言おうと決めていた言葉を絞り出した。

「昨日はごめん。八つ当たりしちゃって。岬が良ければ、忘れてほしい」

 その言葉を受けた岬はうーんと少しいたずらっぽく笑いながら、悩んでるそぶりを見せた。それもつかの間、ケロッとした笑顔で

「いいんじゃない?そんなにかしこまらなくても。こんなこと、今までもあったし。気にしない気にしない。ほら、教室いかないと」

 と軽く言い放った。引きずるという言葉を知らないのではというほどの底抜けの前向き思考に優也は安心感を覚えていた。昨日の失敗は少しずつ、薄まっていった。


 教室に戻り、授業の準備をしていると、一限目の国語教師からこんな言葉が飛び出した。

「古文の抜き打ちテストをするぞ。昨日のテスト返しをちゃんと復習していればできる程度のものだ」

 テストの復習。色んな出来事に振り回されていた優也にとっては復習なんて言葉はすっかり抜け落ちていた。配られたテスト用紙を見ても、思い出すのは中間テストの当日にわからなかったことだけ。

 魔が差したというのか、優也は昨晩のことを思い出し、時間が戻ったらと目をつむって浅く願ってみた。

 目を開けると、国語教師はまだきておらず、クラスメイトもまだ談笑中で、優也は自分の席で鞄を置いた直後であった。

「本当に、これは、もしかしたら」

 時を戻せる力が手に入ったことは、優也の中で確固たるものになっていた。しかし、いざ使ってみると、罪悪感が勝る。どんな問題が出るか知ってる以上は、手法はどうあれ、不正行為と言っていい。

 そんな不正行為に手を染めることに抵抗があった。昨日までの、なんてことない場面をやり直しているわけではない。やり直して、不正をしようとしているのだ。

「小テストだし。これくらいなら」


 小テストはすぐに返却された。問題文を完璧に覚えていたわけはないので満点とはいかなかったが、八割ほどは解けていた。久しぶりに見る点数欄の高得点に幾ばくかの高揚心はあったが、それと同時に、自分の力ではないことも分かっていた優也は素直に喜べず、テストをくしゃくしゃにして、机の奥に押し込んだ。

『この力を使えば、テストなんか楽々で、勉強しなくても高得点が取れる』

『岬の隣に並び立つのに、不正行為なんかしたくない』

『不正行為をしないと高得点なんか僕じゃ取れない』 

『岬も言ってるじゃないか。頑張っていれば、結果は出る。気にするなって』

『そんなの、天才が言ってる言葉で、僕みたいな凡才とは違うんだ。一緒にするな。こんな僕でも、岬に並べる唯一の手段がこれなんだ』

 様々な思いが優也の中で揺れ動く。それでも、一つだけ優也がやろうと思っていることがあった。それが『この魔法みたいな能力の詳細を調べるためにしばらく使ってみること』だった。

 雨はまだまだ止みそうにない。


 しばらく使ってみて、わかってきたことが三つあった。

 一つ目は『巻き戻せる時間は一時間程度である』

 二つ目は『巻き戻した時間が進んでる最中に再び巻き戻すことはできない』

 三つめは『巻き戻したのちの行動で優也が変化を起こさなければ、全く同じことが起こる』ということだった。

 一時間も戻せれば、テストの出題を覚えて、そこだけ勉強するには十分だが、二時間巻き戻すために一時間巻き戻した直後に再び巻き戻すことは不可能であるため、一時間前後が巻き戻せる限度ではあった。とはいえ、一時間十分たてば再度やり直しも可能なので、何度でも覚えなおすことすら可能ではある。

「優君、最近すごいらしいね。噂で聞いたよ。小テストの結果とか、かなりいいみたいじゃん」

 梅雨も明けた七月上旬。帰り道でたまたま一緒になった岬と共に歩いていると、いつものように岬の方から話を振ってきた。

「あの日以来、調子いいんだってね。やっぱり、がんばれば結果はついてくるもんだね」

「うん。そうだね。これで、少しは岬に近づけたかな」

 優也はまっすぐに前を見たまま、迷いなく言葉を放った。

「このままだと抜かれちゃうかもなあ。私も頑張らないとだね」

「うん。一緒に

「テストだけじゃないじゃん?部活もさ。二軍落ちてからすごい調子がいいらしいって聞いたよ。また一軍に上がってるんでしょ?」

 あの能力さえあれば、相手がどこに何を投げてくるかわかる。それさえわかればサイン盗みと同じことで、いい結果ぐらいいくらでも出せる。一度見た球と同じ球が来るのだからなおのこと。

「うん。岬みたいに、部活の中心になれるように

「その調子その調子。なんだか、優君、人が変わったみたいに前向きになったね」

 そんなことを言われたのは初めてだったが、優也自身はそんな気持ちは特になく、変わらず、自分のままだと思っていた。

「そうかな。でも、変われたのならよかったかも」

 少し上を見ながら、晴れた空を眺めた。五月晴れのころのように、雨が降る気配もない。夕暮れの爽やかな空がそこにはあった。

「そう......かな」

 岬にしては珍しく、歯切れの悪い返答に、優也は気づきもしなかった。



 七月下旬の期末テスト。優也の手元にはくしゃくしゃになった紙が一枚握られていた。中間テストの時とは違い力強く握られたその紙には『学年順位25/318位』という文字が書かれていた。これは当然優也にとっては最高順位であり、岬には一歩及ばないものの、好成績といっていい順位だった。

「大勢、お前、最近すごいな。急に成績が伸びてるじゃないか。部活も調子いいみたいだし、この調子で頑張れよ」

 担任の教師からも褒められて気分が良い。

「大勢、最近すごいよな。部活に勉強に。俺にも勉強教えてくれよ」

「俺も教えてほしいわ。あっ、野球も一緒に練習しようぜ?」

 クラスメイトや部活のチームメイトも急成長に驚きつつも、優也を認めてくれている。優也の周りには今までと違って、人と、笑顔で溢れていた。そう。今までと違って。

「練習?いいよ。僕は。部活動だけちゃんとやれば、結果も出るし。勉強も一人でやるよ。そんなに必死にならなくても、点数取れるしね」

 冗談のように、わざと皮肉っぽく優也はそんな発言をした。当然こんなもの冗談だと皆は思うし、点数が出てる、結果が出てるのだから、影で努力しているのだろうと思う人もいれば、そんなのどうでもよくて、結果さえ出てればいいと思う人も優也を囲う人々の中にはいた。

「実際、そうなんだけどね」

 誰にも聞かれないように小さな声で、誰もきいていないようなタイミングで、それでもそう言い切った。

「勉強しなくても、この魔法があれば点数は取れるし、練習はそこそこしとけば野球も簡単だ」

 そう。この好調は時を戻す能力がもたらしたものであった。最初こそあった罪悪感も、『能力を試すため』と言い訳をして繰り返し使ううちに次第に抵抗がなくなっていった。

「成績が良くなって、友人も増えたし前向きになれた。人生、努力してればいいことある。岬の言ってた通りだったなあ」

 テスト返却の時のいつもの帰り道。岬と優也は慣れ親しんだ道を歩いていた。

「うん。努力してればいいことあるよね。でもさ。優君テスト勉強、してた?」 

 岬は足でしっかりと地面を蹴りながら、優也の一歩から二歩前を歩き、振り返って優也をまっすぐ見つめた。

「そんなにはしてないよ。でも、これまでの努力が実って、僕はそれほど勉強しなくてもいい点が取れるようになったんだよ」

 優也もまっすぐに岬を見て、誇らしそうに笑っている。

「よくないよ。そういうの」

岬の方が消え入りそうな声を出す、五月の時とは逆。

「何が?そういうもんだろ?みんなが同じだけ努力したら同じだけ報われるわけじゃないんだ。僕は僕が良い点を取れる最低限の努力をして、いい点を取った。悪いことかな?」

「っ....」

 岬は唇を強く噛みしめて、言葉を押し殺した。何が言いたかったのかは優也にはまるで分らない。

「そう......だね。ごめんね。変なこと言って」

 いつものように笑う岬だったが、目じりに涙をためていたことにも優也は気づいていない。あるいは気付こうとすらしなかった。


 時は流れて九月。野球部の大会が行われ、優也はその試合を岬に見に来てほしいと頼んだ。『絶対活躍するから見ていてほしい』と。

 宣言通り、優也は決勝点となるタイムリーを放つなどの活躍を見せ、チームは3-1で勝利し、チームメイトが優也を持てはやしたのちに、接戦となったことに対しての反省会が開かれていた。

「岬、どうだった?僕、がんばっただろ?」

グラウンドの端で見ていた岬に真っ先に駆け寄ると、屈託のない笑顔と興奮冷めやらぬ様子で話しかけた。

「それよりも、さ。ミーティングしてるみたいだし、戻ったほうがいいんじゃない?私と話すのなんて、後でもできるしさ」

 気まずそうに、言葉を選びながら、岬は優也に戻るよう促した。

「大丈夫だよ。僕は活躍したんだし、気にしなくていいって」

「そう......かな......」

「そうだよ。ほら、一緒に帰ろう。ちょっと待ってて」

 優也はそう言うと、ミーティング中のチームメイトを背に帰り支度を初めて岬の元へと駆け寄り、そのまま帰り路へと消えていった。

 チームメイトもそんな様子は慣れっこのようで、誰も優也を止めはしなかった。


「この力はすごい。何でも僕の思うがままだ。臨んだものは全部手に入る。これまでの苦労が実を結んだんだ。これまでの努力が報われたんだ。僕はこの能力にふさわしい苦悩を味わったんだもの」


 この魔法の力は優也が言う通りすごかった。それは力が強力なのではなく、依存性の強さの話である。一度使うと戻れない。特に、優也のように失敗を恐れる人物は。努力なしに結果を手に入れられ、失敗を避け続け、見えるいい結果にのみ進める安心感は、優也のような人間にとっては魔性の魅力を放っていた。

 結果が良ければいいという人間は優也に寄ってくるから、人間関係は良好に見える。そのような人間関係は失敗した時に人は離れるが、失敗など優也には無いも同然。こんな経験も、これまで味わってこなかった優也にとっては快感の一つであっただろう。

 約一年間、こんな素晴らしい毎日が続いた。つまり、誰も止められなかった。



 五月だというのに雨が多く、この日も雨は地面を強くたたいていたこの日は、優也にとって大きな日となった。

 手にした紙には『学年順位1/318位』の文字。この能力を使ってもなかなかたどり着けなかったトップの座をようやく奪った日である。

「とうとう、一位になれた。この日をずっと待ってたんだ」

 岬に並んだと胸を張って言える日。岬と隣にいていいんだと思えるようになれる日。それこそが今日だった。

 試験結果の返却などで午前のうちに学校が終わる日は二人で一緒に帰る。何年も続いていたこの慣習は二人の間で自然に行うものになっていたが、七月下旬の期末テストを境に、二人の会話は少なくなり、帰ることこそ自然に行っていたものの、会話はぎこちなく不自然なものになっていた。二人の間に約束があるわけでもなければ、常日頃から一緒に帰っているわけでもないけれど、なんとなく続いていて、それが当たり前のことだった二人の関係にも変化が起こっていた。そんな高校三年の春。

「あのさ。岬」

「......」

 下を向きながら、曇り空のせいでありもしない自分の影を見つめていた岬は、一拍置いた間の後、決心を固めたように前を向いて返事をした。

「ん?何?」

 優也も決心したように、岬の一歩二歩前に進んで振り返って岬をまっすぐに見つめた。

「僕、学年で一位になったんだ。初めて、岬よりもいい成績になった。これでさ、僕も岬と隣にいれる、ふさわしい男になれたかな」

 岬を見ていたはずの優也の目は、気付くと雨の降りしきる空を眺めていた。

「すごいよね。学年一位。私もとったことないや」

 岬は足を止めて、笑顔を向けながらそう言い放った

「だからさ、岬。僕は岬の隣にいたいんだ。胸張って隣に入れる男に、僕は今、なれたと思ってる」

 優也の目は相変わらず岬をとらえていない。岬の目はまっすぐに優也を見つめているのに。

「岬、好きだ。僕と付き合ってほしい」

「......そうだよね。やっぱり」

 岬はまっすぐに見ていたはずの顔を地面に再び伏せて蚊の鳴くような小さな声でそうつぶやいた。

「え?今、なんて言った?」

 雨音のせいか、優也にはその声は届いていなかった。

「ううん。なんでもないのっ。それよりさ、ありがとう。これまで。楽しかったよっ」

 岬の傘の下から、雨が滴る。うつむいたまま、言葉一つずつを飲み込むように、吐き出すように、振り絞って喉から出している

「どういう...こと?」

 優也には何も伝わっていなければ、下を向く岬の表情さえわかってはいないだろう。

 岬はそんな優也の様子をうつむきながらも理解していた。すぅっと息を大きく吸い込んで、勢いのまま優也の顔を再びまっすぐにとらえた。

「ごめん、優君。私は優君と付き合えない。だからさ、これでおしまいっ。今まで長い間、ありがとう。そして、ごめんなさいっ」

 早口でまくし立てると、岬はそのまま優也の横を早歩きで去っていった。

「なんでだよっ!僕は、岬のそばにいたくて。岬はどんどん先に行っちゃうのに、僕はずっと止まってて!」

 優也は振り返り岬の背中に向けて大きく言葉を発した。その言葉に岬も足を止めて背を向けたままその言葉を受け止めた。

「それがやっと、進んだんだ。僕は岬にふさわしい男になるために!ずっと、頑張って」

「それさ!」

 優也の叫びをそれよりもはっきりと強く、透き通る声で岬は遮った。

「去年の今頃言ってくれたら......。ううん。何でもない。告白、嬉しかったよ。さようなら」

そういうと今度こそ岬は小さくなっていく優也を振り返ることなく、歩き始めていった。



「僕の、何が間違ってたんだよ。岬のために、」

 岬のため?その能力を使うことが岬のためだったかい?

「ずっと頑張って」

 頑張って?努力することを放棄して、楽な道に逃げることが頑張りかい?

「岬にふさわしい男に」

 ズルして点数を稼ぐ男があの少女にふさわしいかい?

「僕は、いままで苦しんで!だから、あの魔法も神様が僕にくれたんだ」

 そうかい。それは良かったね。ほら、右手を見てごらん。素晴らしい結果がもらえてるよ。これが君の苦しみの報酬だ。友人も増えたろう?褒められもしただろう?いいことばかりじゃないか。

「僕は」

 どこから間違えたんだろう。小学生?中学生?一年前?

「僕は」


「どこから巻き戻せばいいんだ」



~完~

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晴れは雨への恋模様 氷上 @16hikami16

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