夏の終わりに

黒岩トリコ

夏の終わりに

「たっくん先輩はさあ、パラレルワールドって信じてます?」

まだ何も知らなかった高校時代、当時付き合っていた彼女……まーちゃんが言っていた言葉を反芻する。


「もし誰々がいたらとか、あの人があの時なにかしていたらとか、そういうやつだよね?」

「そう、たっくん先輩の意見を聞かせて欲しいなって」



まだ何も知らなかった俺は、そっけない返事をしてしまった。

今では、もとい今でも後悔している。


「信じないなー。だって人一人がなんかするたびに違う世界線が生まれてたら、世界がいくらあっても足りないじゃん?いま地球には70億人いるのに、そんなに世界があったら大変じゃん?」



そう答えると、まーちゃんは少し残念そうに微笑んで、吐き出すように言ったのを覚えている。

否、未だに忘れられない。


「ん……そうだよね、キリが無いもんね」



ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


高校では野球部に所属して、甲子園こそ逃したもののいい所までは勝ち進めた。

大学で肘を壊して、スポーツで身を立てることを諦めた自分は、先輩に誘われてお笑い芸人の道に歩みを進めた。


それから15年、俺は生まれ育った故郷に戻ってきた。

手土産は無く、着慣れないスーツとカバンをひっさげて。



「なあ!頼むよ、人助けだと思って俺のところで契約してくれよ」

「そう言われてもねえ……水なんて水道ので十分だし、ウォーターサーバーなんか置く場所ないし……」

「いや、今のミネラルウォーターってすごく美味しいんだよ!それに値段も手頃だしサーバー代も掛からないから……頼むよ!」

「たっくんの頼みとはいえ……うーん」



まさかここまで上手くいかないとは。



お笑い芸人として芽が出なかった俺は、いつしか生活のためバイトに明け暮れるようになっていた。

ネタの練習もおろそかになり、ただ都会で生きていくため時間を費やす生活に疲れ果てた俺は、知り合いに紹介してもらったウォーターサーバー会社の営業職に就けたのだが……

そこはたった一度のアポ無し飛び込み営業で結果を出さなければならない(訪問販売は一度でも断られたら同じ相手に営業してはいけない)厳しい会社で、新入社員だろうと容赦はしてくれなかった。


営業ノルマをクリアするため、少しでも目のありそうな地元に戻った俺を待っていたのは、どこまでも冷たい現実だった。




「……そう落ち込まないで、明日には上手くいくかもしれないから」

15年ぶりに戻った実家で、俺は母さんに慰められながら酒を煽っていた。


「俺、この仕事向いてないのかも。まさか親戚にも断られるなんて」

「まあまあ、母さんも知り合いに聞いてみるし、たっくんが頑張ってるのは母さんよく知ってるから」


俺は小さく頷くことしかできない。


早くに父を亡くし、女手一つで俺を育ててくれた母さんには頭が上がらない。

それだけに何一つままならぬ現状が憎らしく、酒を飲むペースも上がってしまう。


「ところでたっくん、まーちゃんには声かけた?」


母さんが切り出してきた。

いま一番考えたくない、触れたくない事を。


「いや……まーちゃんとは高校の頃に終わった仲だし、会うつもりは無いけど」

「そうなんだけどね、あれからまーちゃん色々大変で、母さん気になってね」


「………………」


高校を出てから、まーちゃんとは徐々に連絡を取らなくなっていった。

進学のため地元を離れた俺と地元で就職したまーちゃんとでは共通の話題も少なくなり、遠距離恋愛は静かに終わりを告げたのだった。


学生時代の恋愛なんてそんなものだと自分に言い聞かせた、あの頃。

肘を壊して野球を辞める前の、人生が一番輝いて見えた頃の思い出。

まーちゃんにだけは、今の自分の姿を見せたくない。


見せたくない、はずなのに。




スマホの連絡帳に残ったまま放置してた、まーちゃんの電話番号に指を当てる。

Prrrrrr……

Prrrrrr……

Prrr


「もしもし……琢磨くん?」

「まーちゃん、久しぶり……元気してた?」


思い出と変わらないまーちゃんの声。

流石にもう、たっくん先輩とは呼んでくれないか。

懐かしさと恥ずかしさで溢れそうになった涙を、俺は必死に拭った。



「ところでまーちゃん、突然で申し訳ないんだけど話があるんだ。明日会える?」




ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


翌日、スーツに身を包んだ俺は、自社の商品であるウォーターサーバーの資料や値段表を確認しながら、待ち合わせ場所の喫茶店で時間を潰していた。


高校時代は足を運ぶことが無かった喫茶店。

俺を除けば、客は数人しかいない。



値段表を見る目が滑り、頭に叩き込んだはずの営業マニュアルがするすると脳内から消えてゆく。



15年ぶりに会う元カノを、己の生活のため利用しようとしている。

この厳然たる事実を知ってか知らずか、胸の底からこみ上げてくる不快感をコーヒーで押し込めた時、静かにまーちゃんは現れた。


白のシャツにベージュのワンピースという落ち着いたファッションを身に付け、高校時代は流れるようなロングヘアーだった髪は首筋あたりまでで切り揃えられている。


年相応という言葉がぴったり合う気がして、俺の胸中はズキンと痛む。



「それで、話ってなに?」

「うん……あのさ、怒らないで聞いて欲しいんだけど」


俺は意を決して、連絡が途絶えてからの身の上話を、そして今、元カノであるまーちゃんにウォーターサーバーの契約を勧めようとしてる話をした。



「そっか……琢磨くんも大変なんだね」


話を聞いてくれたまーちゃんは、言葉を選ぶように時間をかけて言った。

恥ずかしさと申し訳なさで、俺はまーちゃんの瞳を直視できなかった。


「分かった、いいよ。借金や宗教じゃないし、琢磨くんの為なら」

「…………本当にごめん」

「謝らなくていいから」



まーちゃんは続けて言う。


「あたしは大丈夫だから」


その言葉は、自分に言い聞かせるようだった。




ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……数日したら契約書が届くから、それの記入をよろしく」

「分かった」

「……ありがとう」

「琢磨くんの頼みだし」

「……じゃあ、もう行くね」

「待って琢磨くん」


資料を乱雑にカバンに突っ込み、会計を済ませ、喫茶店から立ち去ろうとした俺をまーちゃんが呼び止める。


「またね」

「……うん、また」

「今度はちゃんと話をしようね」

「……うん」



そう言うとまーちゃんは手を振りながら、俺と別れていった。

その時……そこまできてようやく俺は、母さんの言葉を思い出した。



『あれからまーちゃん色々大変で、母さん気になってね』



俺がまーちゃんの話を何も聞いていなかった、自分のことばかり押し付けてまーちゃんを利用しただけで終わった事実に気付き、立っていられなくなる。


「ま、まーちゃん、ごめん、俺は……」


湧き出る自己嫌悪に耐えられなくなった俺は、喫茶店のトイレに駆け込み嘔吐した。

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夏の終わりに 黒岩トリコ @Rico2655

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