Ep.3 CAMERA EYE 1
フェイドイン――
湘南、宇奈月医院。
昔入院患者用の病室だったという書斎をつぶして大きく拡張したモダンな診察室で、前回と同じく二人の人物が向かい合っている。
「……ほう。では、前向きに執筆を考えてくださる、と」
診察用のリクライニングチェアーに横たわった、背筋が奇妙な角度に曲がった中年の男が、嬉しそうに眼を細めて言った。
「まあね。弟に話したら、ちょうど『明晰夢』について最近あらためて考えていたところだったらしいの。共通の話題ができて、何年かぶりであいつとの会話が盛り上がったわ。できるかぎり協力するって約束してくれたし」
「それは心強いかぎりですねえ」
「そうかな。武闘マニアの父親に鍛えられてちょっとマシになったようだけど、元々泣き虫の意気地なしだったのよ。おまけに気まぐれでお調子者。まったく頼りない男よ」
「へえ、彼が……」
「アラ、あいつをご存知なの?」
「あ。い、いえ、とんでもありません」
なぜか男はひどくあわてて否定する。
女はそれを気にする様子もなくつづけた。
「でも、ヒラメキはあるわね。弟は、さまざまな工夫を重ねた結果、夢の中で空を飛ぶことに成功した経験もあるのよ」
「それは興味深い。本のキャッチフレーズに使えそうですね。帯に『〝明晰夢〟なら空だって翔べる!』と掲げることにしましょう。ぜひ、くわしく聞かせてください」
「だけど、飛ぶといっても、スーパーマンみたいに颯爽としてるわけじゃないの。ビデオゲームのやり過ぎで戦場で撃たれる夢をやたらに見た時期があって、敵に気づかれずに逃げる方法はないかと必死に考えたんですって。もがけばその動きでわかってしまうから、倒れた格好のままそっと離脱しよう、と――」
「なるほど、身体を浮かせばいいわけですね」
「そういうこと。地上からほんの数センチ浮いて、ジリジリ移動したんですって。そんなイジましいことがきっかけだったせいか、最初のうちは立った姿勢でも歩くよりちょっと速い程度――ほら、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で、反重力のスケボーに乗るシーンがあるじゃない。ああいう感じが限界で、空高く浮上するなんてとても無理だったようよ」
「しかし、最後にはなんとか飛べたわけでしょ?」
「まあね。浮き上がれないなら、グライダーみたいに高いところから空中に飛び出したらどうだろう、と。そのイメージトレーニングのために、わざわざ箱根まで出かけたんですって」
「ものすごい執念ですな」
「宇奈月家の人間らしいところね。だけど、展望台をあちこち回ってもピンとくる風景になかなか出会えない。ところが、疲れ果てて芦ノ湖の遊覧船のデッキからぼんやり湖面を眺めていたら、眼下の無数の波をつぎつぎ追い越していくその状態が、まさに空中を滑っていく感覚だと気づいたというのよ」
「何が幸いするかわからないものですな。それが夢ってものですか」
「まさにね。それでようやく決心がついて、助走をつけるように数センチ浮上したまま前進していって、思い切って展望台の端から先へ踏み出してみた、と」
「翔べたんですか?」
「あれ……どうだっけ? 最初は落ちたんだったかしら……」
「なんだ、そこが肝心なところじゃないですか」
「もちろんよ。でも、もっとくわしく実際の体験を聞きたければ、もうしばらくここにいらっしゃればいいのよ」
「えっ! 弟さんがこちらに?」
「ええ。今日彼は休診日だけど、何か急な用があるとかで、こちらへ向かってるはずよ」
「そうだったんですか……。興味深いお話に引き込まれて、つい思わぬ時間を過ごしてしまいました。この続きはまたこんどうかがうことにしましょう。どうか、弟さんにどうなったのか確認しておいてください」
「それは残念ね。弟が来たら、あなたにも同席してもらって、今後どんな協力をしてほしいか相談しようと思ってたのに。もちろん、私が求める〝協力〟というのは人体実験を含めてってことですからね。身内ならなんの遠慮もいらないわ。頭をツルツルに剃って、電極をつないだ針でパンクヘアーみたいにしてやるつもりよ」
女がさも愉快そうに組んだ長い脚をブラブラさせると、白衣の間から年齢を感じさせない艶やかな白い肌がのぞき、視覚的にも男を圧倒してくる。
「そ、それはなかなか……何と言いますか……本格的ですな」
「アラ、あなたもよ。たっぷり儲けさせてあげるんだから、当然のご奉仕でしょ。たしかこの間も言ったわよね。『脳を切開して』って」
「ま、まさか――」
白衣の女の過激な言葉に、男はなんとか愛想笑いで応えようとする。
が、笑顔っぽくなったのは彼の左側の顔面だけで、右側は引きつったようにこわばり、元々風変わりな容貌が抽象画めいた奇妙な表情になった。
「まあ、どうなさったの?」
人はたいがい、医師が差し伸ばす手を拒絶するというのは難しいものだ。
だが、男はとっさにその手を弾き返そうとする。
女は男の動きを最初から読んでいたかのように、クルリと手のひらを返すと、難なくヒクヒク痙攣する男のこめかみに指を当てがった。
「失礼ね。私のことを医者として信頼してくださらないの?」
「いや……めっそうもない。ですが、わたしはなんともありませんから」
男が不快そうに顔をしかめるのにかまわず、女はまるでその反応を楽しむかのように、耳を押さえつけるようにして指先をグリグリと回す。
「どうやら、しばらく前から不調は続いているようね。偏頭痛というのはバカにできない症状よ。放っておくとととんでもない事態をまねく恐れもあるわ。ちゃんと診てあげましょう」
「ですが、本日うかがったのは、執筆のご意思を確認させていただくためで、わたしはこの後の予定もありますので」
男はあせったように早口で言い、腰を浮かせかける。
「そう。なら、とりあえず特製の鎮痛剤を出してあげるわ。日本ではこの先まだ何年も手に入りそうにない効果バツグンのしろものよ」
「すみません。では……」
男はそそくさとリクライニングチェアを降り、女の差し出した小さなビンをろくに見もせずに受け取ると、何かにせき立てられるように診察室を出ていく。
女医は、いかにもしてやったりの表情で、口の端にうっすら笑みを浮かべてつぶやく。
「私の愛すべきチェアちゃんが、しっかり仕事をしてくれたわ。あの男は座り心地のよさにすっかりだまされて、首の後ろにチクッと刺さった針には気づきもしなかったようね。あの薬を一粒飲んだら最後、もうひどい片頭痛から逃れるすべはない。私のところにもどってくるしかなくなるのよ。逃すもんですか……」
フェイドアウト――
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