Ep.3 HARUNA 2

「残念ながら、生きたリアルな存在とは言えそうにないのだ」

「生きてないって、そんな……」


「幽霊みたいなものだってことだよ。強い怨念とか執着心が、彼らをこの世につなぎ留めてるっていうだろ。自分がひどく薄っぺらく感じられるんだ。姿はきみにしか見えないし、きみが意識してくれなければ出現することもできない。何より困ったことにだね……おっと、それがさっそく起こったようだ」


 ローレンスが妙なことを言ったとたん、なんだか急に息苦しくなり、歩幅が小さくなってたどたどしい走りになった。視線もこころなしか低くなったような気がする。周りに見える人の姿が、いきなりみんな大きくなった感じなのだ。

「ど、どうなってるの?」


「走るという動作の連想から、もっと幼い頃のきみの記憶にスリップしたのさ。ずっと前にも、この橋を走って渡ったことがあるんじゃないか?」

 そうか。空手の朝練に遅刻したことをおふくろに叱られ、道場を飛び出したんだった。あたしは東海道をどんどん走って、ついに湘南のオヤジのところまで行き着いた。

 そのときの光景がこれなんだ。


「わかったかい。きみはたぶん、私と出会えて『ラッキー!』と思っただろうな。これで、自分の望む記憶へと連れてってもらえそうだ、と」

 まったくそのとおりだ。

 あたしの頭に入っているローレンスなら、ごちゃごちゃと入り組んでいる記憶をきっとあざやかな手並みでサーチできるだろうし、あの悪夢の謎を解明する決定的な場面へと瞬時に導いてくれるにちがいないと思った。


「ところがそうはいかないんだ。きみの記憶がジャンプしてしまったことには、私はいっさい関与していない。というか、今の私にはもうそんな力はない」

「なんだって?」


「さらに悪い知らせがある。私は何百年にもわたる膨大な記憶の数々を、どうやらいっさい失ってしまったらしいのだ」

「ほんとか……」


「困り果てている娘にウソをついてもしかたない。だから、きみが知りたがっている事件の真相についてだって、自分の棲み家の真上で起こったことなのだから、気づかなかったはずがないし、もしかしたら何らかの形で関わったのかもしれない。しかし、私はそのいきさつのすべてを忘れ去ってしまったのだよ」


「そ、そんな――!」

 全身の力が抜けていくような気がした。

 ちょうど橋を渡りきったところで、ずっと走りつづけてきた小学生のあたしも、息をあえがせながら立ち止まった。


「やっぱり、がっかりさせてしまったようだね」

 ローレンスには現在のあたしの姿が見えるのだろう。いかにもすまなそうに頭をかいた。


「でも、自分がローレンスで、あたしの本当の父親だってことは憶えてるんだろ?」

 あたしはひざに両手を置いた姿勢から、眼の前に立つ長身のローレンスを見上げ、最後の希望にすがるような気持ちで言った。


「そうだね。自分が自分であるという最低限の意識はある。数々の転移をくり返し、歴史的な事件に関与したり、いたずら心から人の運命をあやつったりしたらしいことも知っている。しかし、それらはほんの上っツラの知識でしかない。幽霊みたいなものにすぎないっていうのはそういうことなんだ」


「姫……お母さんのことはどうなんだい。あの人のことも忘れたの?」

「いや、まさか。自分にとって、いちばん大切な人だってことはわかっているよ。だけど、彼女との出会い、心の通い合い、過ごした時間……そういうこまごまとした具体的なことは、みんな深い霧がかかったように思い出すことができない」

 ローレンスにとって、それはローレンスでなくなったような気持ちなのにちがいない。


 小学生のあたしがなんとか気を取り直してまた走りだすと、ローレンスは歩くのと変わらないくらいのゆるい駆け足でついてきた。

 すると、ふたたび周囲の風景が変わった。走っているのは同じだけど、そこは陸上競技場のトラックだった。


 あたしは後続集団を一〇〇メートル以上引き離し、悠々とトップを快走している。たしか、三〇〇〇メートルであたしが初めて一〇分の壁を突破し、長距離選手としてやっていく自信がついた大会だった。

 横を見ると、やっぱりローレンスがピッタリとついて来ている。女子中学生のランナーたちの中にローレンスが混じってるのは、かなりシュールな光景だった。


 あたしがラストスパートをかけると、ローレンスは周回遅れのランナーにつぎつぎぶつかりそうになり、ヒラリと身をかわしてはそのたびに苦笑している。

 ゴールしたあたしがクルリと回れ右し、いつものようにコースにむかっておじぎすると、正面にちょうど追いついてきた彼がいて、むこうもあたしにペコリと頭を下げた。


 フィールドの芝生にへたり込んだ中学生のあたしの横に、彼も腰をおろした。

「娘といっしょにこんな風に走るって、なんだか気持ちいいものだな……」

 ローレンスがひとり言のようにつぶやく。


 記憶の旅では眠ることも食べることも必要なかったように、走ったといってもイメージをトレースしたようなもので、疲労はほとんど感じてないし汗もかいていない。彼も同じはずだ。

 だから、彼が言ってるのはそういうことじゃない。

 あたしがローレンスが見せてくれた記憶に驚いたり感動したのと同様に、彼もあたしの体験をなぞり、共有することに喜びを感じているのだ。


(そうか……)

 ローレンスは数々の大切な記憶を失ってしまったけど、それってごくふつうの父親に近くなったってことだ。

 もちろん、ふつうの父親であるオヤジやパパだってそれぞれ固有の人生を生きてきて、生き甲斐や悩みや自負が年輪のように重なって今の個性と姿がある。ローレンスはそれを不自然に断ち切られてしまったわけだから、むしろ彼らより欠けた部分が多いともいえる。


 だけど、『あらゆる感情を持っているはずなのに、この数百年涙を流したことがない』と言っていたのは、一般人とは生に対する感覚のへだたりが大きすぎるのと、やっぱり〝すべてを知りつくしている〟というほどの知識量・経験値の膨大さのせいだった。


 見下ろしている、とは言わないが、ローレンスにとっては当然だったり既知のことが多すぎて、感情が入り込む余地がごく限られたものになっていた。ローレンスの基準からものを言われると、あたしたちはもう反論できなくなってしまうのだ。

 それは、ローレンス自身が背負っていた重荷ともいえるんじゃないだろうか?


 そうであるからこそローレンスなんだけど、父親という形で現代につなぎ留められてしまった彼にとっては、もしかしたら、なくてもかまわないものだったかもしれない。あたしにはむしろ、今のローレンスのほうがずっと親しみが持てる。

 

 あたしは、トレパンについた芝を払い落としながら立ち上がった。

「ねえ、ローレンス――いや、お父さん。行こうよ」

「行くって……しかし、どこへ?」


「わからない。だけど、あたしたち二人なら、迷ったってきっとへっちゃらさ」

 あたしはローレンスの手を取り、とにかく前にむかって歩きだした――

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