Ep.2 MIHO 2
「笹岡さん――」
名前を呼ぶと、食堂にいる女生徒が参考書から顔を上げて目礼を返した。
わたしは生徒全員の顔と名前を記憶しているし、機会さえあれば個人的に会話の場を持ち、一人ひとりの人柄をちゃんと把握するようにしている。
姫のように有能でなくても、学園長としてわたしなりにできることをつねに探し、実践するように心がけてきた。
高等部三年の彼女は、成績優秀で最難関私大を志望している。夏休みも帰省せずに在寮しているのは、受験勉強に集中するためなのだろう。
「みんな外出中かしら? まさか、寮にいるのがあなただけということはないわよね」
言いながら、わたしは食堂の入口脇の壁を見上げた。
そこにはズラリと寮生の名札がかかっている。一年でいちばん人が少なくなる期間とあって、多くは帰省中や外泊を示す下段に並んでいる。それでも、数枚の札が上段の「在寮」の場所に残っている。
「舎監の先生が急に体調を崩して帰宅されたのは知ってる?」
「い、いいえ……」
彼女はおおげさなほどの驚きを示して首を振った。
「そう。なので、とりあえず今日はわたしが代理を務めることにします。みんなにも伝えておきたいの。すまないけど、あなたから呼集をかけてくれる?」
「あ……はい」
すぐに返事はしたものの、なぜかためらいがちにのろのろと立ち上がると、こちらに救いを求めるような視線をチラチラと送りながら階段を昇っていった。
(やっぱり何か変だわ……)
一〇分ほどしてようやく七人全員が集まった。
自室の暑さのせいで前髪が汗で額に貼りついている子もいれば、冷気を浴びて生き返ったようにホッとため息をつく子もいる。どう見ても、無理して部屋に閉じこもっていたとしか思えない。
わたしは型通りに名札の名前を読み上げながら、一人ひとりの顔を確認していった。
部屋から降りてくるのもバラバラだったが、わたしの点呼にか細い声で返事をするだけで、だれもが押し黙ったままお互いに眼を合わそうともしないのも変だ。
わたしの違和感はますます強くなる一方だった。
「……というわけで、今夜はわたしと娘のハルナがみんなといっしょに過ごすことになったの。よろしくね」
真っ先にペコリとおじぎしたのは、わたしの横にいるハルナだった。
その可愛いしぐさにつられて何人かが思わず頭を下げ返し、微笑を浮かべて小さく手を振る者もいた。
表向きにはハルナの母親はオトシマエということになっているが、聖エルザの内部では、チクリンとわたしを含めた三人の娘だというファンタジーみたいな不思議な親子関係が、今ではごく当然のこととして認知されている。
生まれたときから学園の中で育てられているハルナの存在は、好奇の眼を誘う段階をとっくに通り越して、生徒や教師たちとわたしたちクルセイダーズの間を取り持ってくれるペットのようなものになりつつあった。
ハルナのおかげで、寮生たちの奇妙な様子の原因がどうやら突然わたしたちが現れたせいではないらしいとわかったが、不可解さはまったく解消されていない。
「あの……、先生」
解散を告げると、笹岡さんが声をかけてきた。
「はい?」
「お夕食はどうしましょうか」
そうだった。
お盆休みは料理人と栄養士にも休暇を出した。こんな場合に人手が足りなくなるのも、寮の規模が縮小された影響だった。
たしか、この期間は舎監の指示に従って寮生たちもいっしょに自炊することになっていたはずだ。
メインディッシュは料理人が作り置きして冷凍保存してあると思うが、それに合わせるお漬物とかサラダとかお味噌汁なんかはわたしではわからない。
わたしはふと思いついて言った。
「実は、わたし、チクリンやオトシマエ先生なんかとちがって料理はあんまり得意じゃないのよ。適切な指示なんてできそうにないから、今夜の食事は、あり合わせのものを使って何か簡単でみんなが好きなものを作って食べることにしたらどうかしら」
「そんなことしていいんでしょうか?」
「ぜんぜん威厳がないのは自分でもわかっているけど、これでも学園長なのよ。寮の食事の一回分くらいなら、好きなように変更する権限はあるでしょ。わたしのポケットマネーで宅配ピザを取ったってかまわないんだけど、それじゃあんまり味気ないと思わない?」
わたしは、できるだけざっくばらんな口調で提案した。
すると、またバラバラに自室にもどりかけていた生徒たちの足がピタリと止まった。
結局、わたしも含めて全員が初めて足を踏み入れる食糧庫の中で、まるで宝探しでもするように食材をあれこれ物色することになった。
「お好み焼きはどう?」とか「ハンバーガー食べたいな」とか、うって変わって元気な声に乗ってエルザハイツではついぞ出たことのないメニューがポンポン飛び出す。
最後は無難に、何種類かのスパゲッティを作って好きなように取り分けて食べようということに落ち着いた。
わたしは玉ねぎを両手に握りしめたハルナと顔を見合わせ、ホッと胸をなでおろした。
厨房は今の何倍もの寮生の食事をまかなってきた歴史があるから、スペースも調理器具も充実している。
そこにパソコンを持ち込んで、わいわい言いながらペペロンチーノやカルボナーラのレシピを調べはじめた。
「あたし、シーザーサラダに挑戦してみる!」と言い出す子がいたりして、雰囲気はさらに盛り上がった。
専門の料理人なら、一人でもたぶん一時間もあれば作れたことだろう。危なっかしい包丁さばきの寮生たちでは手際も悪く、途中で〝アイスクリーム休憩〟なんてものも挟まって、三時間近くかかってようやくスパゲッティパーティ開始にたどり着いた。
「じゃあ、いただきましょ。みんなの一世一代の傑作よ」
わたしが開会を宣言すると、エルザハイツで最初に顔を合わせたときとはまるで見ちがえるような元気な声で「いただきまーす!」の大合唱が起こった。
わたしは、ふとあの大騒動の年の夏を思い出した。
聖エルザを追い出されたクルセイダーズは、強制合宿から脱出してきた空手部の人たちも加わり、伊豆の山中に生徒たちだけの独立王国のような場を作り上げた。
食事はもちろんのこと、古びた建物の修繕や水くみ、風呂たき、洗濯、食料の買い出しなど、すべて自分たちの手でこなし、そのうえで戦闘訓練にはげみ、おたがいに教え合って勉強会もやったのだ。
(ほんとうは、エルザハイツもそうあるべきだったのかもしれない……)
理想の教育を遠方からの生徒にも何不自由ない環境で受けさせようという目的で造られた女子寮のエルザハイツではあるが、わたしの学生時代にもすでに贅沢な〝お嬢さま学校〟の象徴のように変質していた。
ところが、今や寮のやかましい規律や他人との共同生活は嫌われ、兄弟姉妹との同居なら、とか、都内在住の身元保証人の近所なら、という条件でマンションやアパート住まいが許容されるようになった。
姫やわたしがやみくもに伝統を重んじたり、改革の手をこまねいてきたわけではない。
けれど、もし伊豆の合宿所のようにもっと生徒の自主性を重んじるような方向へと導いていたなら、エルザハイツも今とはずいぶん変わった姿になり、まったく別の意味で盛況になっていたのかもしれない……。
わたしの悪いクセで、だれかが取り分けてくれたボロネーゼの皿を前にして、スプーンとフォークを手にしたまま、ぼんやりとそんな夢想にふけっていた。
ハルナはもう、ナポリタンの真っ赤なソースで口の周りをベトベトにしている。
わたしは苦笑しながら紙ナプキンを取り、拭いてやろうと手を伸ばした。
ガタン――
重いものが落ちるような物音が、食堂のまさに真上から聞こえた。
「きゃあっ」
「キャアアアアアッ――」
とたんに寮生たちからつぎつぎ悲鳴が上がった。
突然の出来事でビックリしたのだろうが、その反応ぶりはいささか大げさすぎるように感じられた。
まるで今にも天井に穴が空き、ニュッと何か恐ろしいものが顔をのぞかせるのではないかとおびえてでもいるかのように、ある子は震えて身をすくませ、別の子は椅子から跳び上がって壁際へと後ずさった。
彼女たちは一人の例外もなく同じ恐怖の表情をしている。
(そうか。これだったのね……エルザハイツに漂っていた奇妙な緊張感と沈鬱な雰囲気の理由は!)
わたしは、キョトンとした眼をして天井を見上げているハルナの小さな身体をギュッと抱き寄せた――
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