Ep.2 MIHO 1
〈一三年前――〉
「静かね。カナカナカナって鳴いてるセミの声が聞こえる?」
エアコンはあまり好きじゃない。窓を全開にしておけば、構内に鬱蒼と繁る木々を吹き抜けてくる風のほうが、よっぽど心地よく感じられる。
窓辺に並べられた予備の椅子に登って外を眺めていた小さな頭が、クルッとこっちを向き、コクンとうなずいた。
「あれはヒグラシっていうのよ。あの声がすると、もうすぐ秋だなって感じるの」
「あい」
ハルナは、名前を呼ばれたり何か説明されたときに、わかったという印に、「ハイ」と言えずに〝あい〟と答える。
YESは〝うん〟、NOは〝ううん〟。言葉らしいものはまだそれだけしか発したことがない。
チクリンは「発達が遅れてるんじゃないの」と心配そうに言うけど、わたしはそんなに気にしていない。三つの言葉を使うとき、ハルナはかならず相手の顔をまっすぐ見て言うし、表情にも意思がちゃんと感じ取れる。
極端に個性の違う母親が三人もいて、いつも周りからたてつづけに話しかけている。ハルナは自分から何かを訴えなくても、だれかの言葉にうなずき返すだけで、たいがいの要求はかなえられてしまうのだ。
ハルナがどれにも当てはまらない自分の意思を持ったときには、案外すんなりとはっきりした言葉を発するのではないか――わたしは、そんな奇跡のような素晴らしい瞬間が、もうすぐ訪れることを夢見ている……いや、信じている。
世の中はお盆休みに入っている。
チクリンは何年かぶりで長崎に里帰りした。キャティは、香港から来た両親を信州のほうの温泉めぐりに連れていくらしい。
コックリさんはモンゴルに珍種のチョウを採集しに行ったと、オトシマエがあきれた口調で言った。彼女自身は明日まで、顧問をしている空手部が千葉のキャンプ場で合宿するのに同行している。
姫は、全国の私立校で作る団体の会合のために北海道に出かけた。歴代最年少のパネリストを務めることになっているはずだが、緊張したような様子はまったくなく、むしろ会合後に計画している一人旅が楽しみのようだった。
姉小路家のような外部からの干渉を排除して理想の学園運営を進めるために、この二〇年間理事会は事実上閉鎖されている。その役割を姫が理事長として一手に引き受けているわけだから、純粋にプライベートな休暇はもう何年も取れていない。ぜひ、心ゆくまでのんびりしてきてほしいと思う。
そういうわけで、わたしとハルナだけが聖エルザに居残ることになった。明日あたり、二人で両親の墓参りに行ってこようかと考えていたところだ。
いきなり旧式の卓上電話がけたたましく鳴りだした。わたしが手を伸ばすより早く、ハルナが機敏に飛びつき、受話器をこちらに差し出す。
わたしはハルナにありがとうの微笑みを返してから受話器を耳に当てた。
「はい。織倉です」
電話はエルザハイツからだった。
「えっ、ほんとうに?」
わたしの声が緊張したのがわかったのだろう。ハルナが上眼づかいにわたしの顔をジッと見つめている。
「……いいえ、いいんですよ。後のことは心配しないで。どうぞ、お大事に」
わたしはハルナの手を引き、学園長室を出た。
校舎はガランとしていて、お盆の期間は部活も休止とあって構内にはまったく人気がない。真夏のくっきりとした光と影が、あちこちで交錯している。
「舎監の先生がね、急に体調が悪くなって病院へ行くことになったの。軽い熱中症だと思うけど、今日はそのまま家に帰ってもらうことにしたのよ」
わたしが入学したとき、舎監はあの厳格なミス・ランドルフだった。
専任の舎監はプライベートな時間も制限されて負担が大きいとして、現在は三人の女性教師が一週間交替で務めることになっている。
お盆休みの間も何人かの生徒がエルザハイツに残っているから、一晩でも責任者である舎監が不在というわけにはいかない。今から代理を探すのは難しいだろう。
「ねえ、ハルナ。今夜は母さんとエルザハイツにお泊まりしよっか。お姉さんたちが何人もいて、きっと楽しいわよ」
ハルナは歩きながらピョンと小さくスキップした。それがハルナなりの承諾と喜びの表現らしい。
校舎群の裏側に回ると白いコロニアル風の建物が見えてくる。
これだけ古い木造建築で四階建てというのはかなり珍しいはずだ。ハルナがポカンと口を開けて上を見上げた。
わたしも、瀟洒でありながら、かつ重厚な外観をあらためて見渡して、すごく懐かしい感じがした。
エルザハイツに泊まるなんて、いったいいつ以来のことだろう。
ところが、背の高い玄関扉を開いた瞬間、なぜか背筋がゾクリとする感覚に襲われた。
(冷房が効きすぎてるのね――)
と、常識的な理由がすぐに浮かんだが、足を踏み入れていくにつれ、わたしはそれだけではないと思いはじめた。
エントランスから見通せる広い空間に、ほとんど人影がない。
わたしの学生時代には、夏休み全体を通して多くの寮生が居残っていた。家族のいないわたしはもちろんのこと、両親が海外在住のキャティや故郷が遠くにあるチクリンは、当然のように(あの大事件の夏以外は)長期休暇もエルザハイツで過ごしたものだ。
寮はかつて、二人一部屋でもつねに満杯状態で、入学試験の順位による入寮者制限の枠に入れないかもしれないという理由で受験をあきらめる人さえいたらしい。
なのに、しだいに入寮希望者が減っていき、上級生から順に個室が割り当てられるようになったと思ったら、今では全員が完全に個室になり、とうとう空き部屋さえ目立つようになってきている。
時代の流れと言ってしまえばそれまでだけど、ワイワイ、キャピキャピとにぎやかだった頃のエルザハイツを知るわたしとしては、寂しさはどうしてもぬぐいきれない。
今でもエアコンは談話室と食堂にしか設置されていないから、この時期なら日中は暑さを避けてだれもが一階に集まっているのが当然のように思えた。
ところが、テレビやソファがある談話室のほうは暗いままで、食堂の隅っこのテーブルで一人の女生徒が自習しているだけだった。
ハルナはオカッパの頭をあちらこちらへふり向けて人影を探し、ほかにひとっ子一人見当たらないのを確認すると、心細そうにわたしの顔を見上げてギュッと手を握りしめた。
(何かおかしいわ……)
漠然とした小さな不安がわたしの心をかすめた。
その予感が現実のものとなり、大きな恐怖へと育っていくことになろうとは、そのときにはまったく知るよしもなかった――
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