Ep.2 HARUNA 4
あたしは、ログハウス裏の通用口からそっと開門前の聖エルザに入った。
だれにも姿を見られたくなかったし、とくにママとパパには帰ってきたことを知られたくなかった。
今のあたしには明確な目的があるけど、うまく説明できる自信はまるでない。できたとしても、とても理解されるとは思えなかったのだ。
エルザハイツに入るのは、モリサキ教頭を助けた日の翌朝以来だ。
あのときは、約束の時間に遅れたっていうアセリで、ためらっているヒマさえなかった。
でも、今は違う。
物置の隠し扉のむこうには、あの悪夢がまるで現実の存在となってひそんでいるみたいに感じられる。
(たとえあれが事実だとしたって、十年以上も前のことだっていうのに……)
扉に手が触れた瞬間、腕のうぶ毛がゾワリと逆立った。
あたしは手のひらでゴシゴシこすってそれをしずめ、思い切って中に入り込んだ。
まっすぐ進んだのは棚の間の奥。よく見ると床板の色がちょっとだけ変わっている場所がある。あたしはそこをコンコンと叩いてみた。
(やっぱりね)
返ってきたのは、固いものがギッチリ詰まっている手応えだった。
その下には、かつて地底深くつづく階段スペースがあった。
三〇年前、黄金の聖母像が安置された地下洞窟への通路がひそかに埋められた。二度と人の欲望にさらされないようにという、姫たちクルセイダーズ全員の意思だった。
それにならってここも封印された。
こんどは、〝恋文屋ローレンス〟という稀代の怪人物が存在した痕跡を、完全に消し去ってしまうために。
もちろんたまらなく悲しかったけど、あたしもそれに同意したのだった。
後悔なんかしていない。
それに、大事なのはたぶん、現実にたどり着けるかどうかではないのだ。あたしの中には、ここから地下に造られた隠れ家へ達するイメージがちゃんと残っている。
そう――
あたしが眼覚める直前に見ていた夢は、この階段を降りていく光景だった。
下の小さな扉までたどり着いたものの、ドアノブが見当たらない。叩こうとしても蹴りつけようとしても、まるで力が入らない。オヤジの言う抵抗感というやつだった。
(あそこに行くことができれば……)
そう考えると、もう居ても立ってもいられなかった。早朝に深川の家をこっそり脱け出してきたのはそれが理由だった。
だけど、「やっぱりここではダメだ」と直感した。
閉めきられた空間の澱んだ空気はまだ冷たく、それは階段ホールに出ても変わらなかった。左右にある食堂と談話室の窓は、よろい戸が閉じられた上にカーテンまで引かれていて、足元さえほとんどわからない。
(ここでもない――)
照明を点けて闇を払うより、まごまごしてたらおぞましい気配が忍び寄ってきそうなこの場からできるだけ早く遠ざかりたかった。
あたしは階段に足をかけた。二階の突き当たりの窓からかろうじてにじむように差し込んでいる光を求めて、そろそろと昇りはじめる。
ハンニャのお面がいた踊り場のあたりだけは手すりにすがるようにして端を通って避け、なんとか二階にたどり着いた。
エントランス側の窓からの明かるさもあって、一階とはずいぶんたたずまいが違う。
だけど、廊下の両側に並ぶ人気のない寮生の部屋のドアは無個性で、どれもあたしを迎え入れてくれそうにない。そういえば、母さんやママが入居していたのがどこかも聞いてなかった。
あたしはそのまま三階も通り過ぎ、最上階に達した。
来賓ゾーンへの仕切り扉を開けると、シンと静まりかえっているのは同じだが、前に来たときにも感じた匂いにものすごく懐かしさがある。
迷うことなく狭い通路を左へ曲がり、突き当たりのドアに入る。すぐに観音開きのよろい戸を開いて光と風を導き入れた。
外界は気持ちのいい朝を迎えていた。
空は抜けるように明るくなっているが、まだ建物の影は長く延びている。真下に見えるビルの谷間にも薄闇がわだかまっている。
前にあった温室はパパたちの突入のときに破壊され、ローレンスが乗り移った『若』は、そこにできたすき間から地底の中庭に転落していった。
今は何のへんてつもない空き地になっているのに、奇妙なのはそこに出入りする通路がどこにも見当たらないことだ。
けど、あたしは知っている。寮生たちが授業に行ってエルザハイツが空になっている間に、パパの指示を受けたヤスダさんたちが聖エルザ側から土砂を少しずつ運び込み、だれにも気づかれないように埋め立ててしまったのだ。
ローレンスの隠れ家へ降りるには、もう一つ、向かいの低層マンションのエレベーターを使う方法があった。
聖エルザに入学してから、一度だけコッソリ試してみたことがある。コントロール盤の操作を知らないあたしにはもちろんどうすることもできなかったが、それもきっとヤスジローさんが設定を変更するとかして無効にしてしまったにちがいない。
(けど、それならそれでかまわない――)
あたしにはあたしなりのやり方があるはずだ。オヤジが言うように、〝あたしにとっての前進〟を追い求めていけばいいんだ。
ベッドのほこり除けの布をはぐり、そこに横たわろうとした。
でも、なんかしっくりこなくて床にすべり降りた。ベッドサイドに背中をもたれると、自然と体育座りになった。抱えこんだ両膝の上に額を乗せ、眼を閉じる。
心地いい眠りが訪れてくれる予感がした――
あたしは土の中にいる。
なんとか身体を動かすことはできるが、そうするたびに頭や腕にボロボロと容赦なく土くれがふりかかってくる。
もっとやっかいなのは、縦横に延びている巨木の根っこだ。
太いものはなんとか間に身体をねじ込むようにしてよけていくしかないし、細かいヒゲ根は足や腕にしつこくからみついてきてあたしを前進させまいとする。
ヘタに強引な動きをしようものなら、周囲の土がどどっと崩れてきて、あたしは一瞬にして生き埋めになってしまうかもしれない。
それでも、あたしは土ぼこりを吸い込まないように息をつめながら、眼の前の壁を手ですこしずつかき崩して進んでいく。パニックになったらおしまいだと、それだけははっきりわかっている。
指の先がカツンと硬いものに触れた。なめらかで平らな表面をしている。
あわてて手のひらでそこをこする。
すると、汚れたガラス板の先にほんのりと小さな光が見えた。ロウソクが灯された開けた空間があるのだ。
なんとか身体が通れるだけの大きさに穴を押し広げたものの、周囲の土で圧迫された窓はぜんぜんビクともしない。
あたしは苦労して身体の向きを入れ替えると、ランニングシューズのかかとにせいいっぱいの力をこめてガラスを蹴りつけた。
パリン――
小気味よい音がして、「やった」と思った瞬間だった。
その衝撃で、頭の上の土砂が一挙に落ちかかってきた。
開かれた空間に出たがっているのは、あたしも土もいっしょだった。錆びた鉄枠ごと窓をバキバキ破壊する奔流にもまれるようにして、あたしは部屋の中に転がり出た。
その場所には細部まで見憶えがある。
汚れた壁にかかった小さな額縁の絵。揺れるロウソクの炎で照らし出された一対のボロいソファ――。
ほかに装飾らしいものは何もなく、下の階につづくドアがあるきり。もちろん、人の気配はまったくない。
ところが、グルリと見回していくと、反対側の壁に、まるでそこに注目するのを待っていたかのように、ちょっと場違いな印象のドアが不意に現れた。
(これだ……)
なぜかはよくわからないが、自分がここに来た目的が、それを探し当てることだったという確信があった。
あたしはドアの前に進み、ドアノブを握ってためらうことなくそれを引き開けた。
フワッと、全身がまったく違う空気に包まれる感覚に襲われる。別の空間に出たというより、むしろ眠りから覚めたような感じだ。
『明晰夢』という、最近よく耳にするけどまだ意味がイマイチのみこめていない言葉が、ふと脳裏をよぎる。
「よくここまでたどり着いたね」
気がつくと、あたしの眼の前に悠然と腕を組んだ男が立っていて、こちらにむかってニッコリと微笑みかけた。
「ロ、ローレンス……!」
あたしは反射的にその名を叫んでいた――
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