Episode 2 On the Threshold of a Dream ―― 夢幻境界
Ep.2 HARUNA 1
あたしはベッドからもがくようにはい出した。
上掛けが蒸れて息苦しい。あたしが汗ビッショリになってるからだ。
目覚まし時計に眼をやってハッとした。
(し、しまった――!)
パパとママに気づかれまいと、アラームの音量をひかえめにしてタオルまでかぶせてあった。うなされているうちに鳴り終わってしまったのだろう。
あわててジャージーを着込み、そっと部屋を抜け出した。
外はもうすっかり明るくなっているが、時刻はまだ五時過ぎ。ママもパパもぐっすり眠っているはずだ。
足音を忍ばせてログハウスを出ると、一目散にエルザハイツを目指した。
物置の裏口がわずかに開いている。
やっぱりホームレスのおじさんの姿がない。
防災バッグについているペンとメモ帳が箱の上にそろえて置いてあった。
『だんだんもの忘れがひどくなっているのだが、キミが親切にしてくれたことは、きっと生きているかぎり憶えていると思う。本当にありがとう』
メッセージの横には、きれいにたいらげたランチョンミートの空き缶とミネラルウォーターのボトルがあり、食べ残したカンパンがきちんと包み直して置いてある。あたしがせっかく渡した防災バッグもそのままで、上にフリルつきのパジャマがたたんであった。
あたしはメモをつかんで外へ飛び出した。
裏門へ行くと、ちょうど警備員が錠を外そうとしているところだった。朝練のために登校した一番乗りの生徒が駆け込んでくる。正門も同時に開かれているはずだ。
ホームレスらしい姿はどこにもなかった。
ログハウスにもどって来て、通用口の掛けがねが外されているのがわかった。ここだけは外から入るときしかカギがいらない。
おじさんは、あたしにこれ以上迷惑をかけまいと、開門時間よりずっと前に出ていったにちがいない。
あたしは、朝食のテーブルで水谷パパとチクリンママにきのうからのことを打ち明けた。
「そ、そのホームレス、まちがいなく『若』の手先、森崎教頭ヨ!」
ママが眼を丸くして言った。
三◯年前の大事件が語られるとき、そういう名前がチラホラ出ていた気はするけど、まさかあのミス・ランドルフと並んで『若』の側近だったとは知らなかった。
「黙っててゴメンなさい」
「だけど、あなたがしたことはけっしてまちがっていないわヨ。この文面を見れば、あの人も心から感謝してるみたいだし……」
敵には手厳しいママにしてはめずらしく、しんみりとした声で言った。
パパは片手でタブレットを操作しながら言った。
「ヤスジローのデータベースによると、森崎は一〇年前まで姉小路コンツェルンの末端企業で働いていたことになっている。倉庫番とか清掃員としてだがな」
「あの『若』でも、もう役に立たなくなったからといって、あっさり切り捨てるにしのびなかったのかしらネ」
「姉小路にそんな仏心があるとは思えんな。聖エルザで悪事の手先をつとめ、陰謀の裏側を知る存在だったのだ。下手に追い出して悪いウワサを流されたりするよりはと、文句を言わない程度に養ってやってたってことだろう」
きっとそのとおりなのだろう。悪人の当然の報いといえばそれまでだけど、何十年も後悔と屈辱をかかえて生きてきたにちがいない。ホームレスに身を落としてしまったのも無理はないような気がする。
「ところで、また夢にうなされていたようだが、大丈夫なのか?」
パパはやっぱり気づいていたのだ。
何日かぶりに悪夢を見て、夜中に一度飛び起きた。汗で濡れたTシャツを着替えて寝直したのだが、まるで映画の続きを強制的に見せられるように、またあの悪夢に引きずり込まれてしまったのだ。
「コックリさんに治してもらったんじゃなかったの?」
細かいいきさつまでは知らないママが、心配そうにあたしの顔をのぞき込む。
しばらく遠ざかっていられた夢がまたぶり返したのは、きのうのエルザハイツでの出来事があったからだろう。
「オヤジが教えてくれたのは、対処する方法なんだ。夢を見たら、その中で何か変化を起こそうとしてみろって」
「では、何か試してみたのか?」
いくら信じられないような話でも、パパは真正面から受け止めてくれる。オヤジが言っていた〝明晰夢〟という言葉とか、前提となる面倒な説明をわざわざする必要はなかった。
あたしはコクンとうなずいた。
「あたしにできることっていえば、おふくろに投げられる前に手を離して背中から飛び降りることしかないからね。一回めは、また始まってしまったっていうショックで、何もできないまま投げられちゃった」
「オトシマエったら、娘のことを何だと思ってるのかしらネ!」
チクリンママが憤然と言うのを、パパが手で制した。
「おいおい、オトシマエには身に憶えのないことなんだ。責めてもしかたがない。で、二回めはどうだったんだ?」
「二回めは、またすぐだったから、あたしもちょっとだけ冷静になれた。なんとかおふくろの肩から手を離そうとしたんだよ。だけど……これが、オヤジが言っていた〝抵抗感〟ってやつだと思うけど、指が硬直したみたいになってどうしても動かないの。それに、ここでおふくろから離れたら、なんていうか、どこまでも落ちていってしまいそうな恐怖で身のすくむような思いがしたんだ」
「夢はそう簡単に変えられるものじゃないってことかァ……」
ママはため息まじりにつぶやいた。
「だけど、確実にわかったこともあるんだ。空中を飛んでいく間に、その場所がどこなのか、しっかり見届けたよ。まちがいない、あれはエルザハイツの階段ホール――」
「待って。あんたはきのう、森崎とそこに行ったんでしょ。そのときの印象が夢に入り込んじゃったってことはないの?」
「そんなことない。おじさんと階段の上を見上げたとき、『夢の場所はここだ』って直感したんだ。そのとき二階の窓には、稲光を反射するエルザタワーの壁面が見えた。夢の中では、そこに月が見えてた。照らし出された窓枠の形は、どちらも同じ、あの特徴的な縦長だったんだよ」
「そうか。なら、エルザハイツにちがいないな。それに……ハルナがその年齢の頃なら、エルザタワーはまだ出来上がっていない。今なら月は建物にさえぎられて見えないはずだ。たしかにつじつまは合う」
「エ、エ? それってどういう意味……あっ、まずい。あたし、朝イチで外せない会合があるのヨ。ゴメン、先に行くネ!」
チクリンママは書類カバンをつかみ、あたふたと出ていった。
あたしと手分けして食器を流し台に運びながら、パパは言った。
「『ここは、もうずっと前に焼け落ちたはずだ』と、森崎は言ったんだな?」
あたしはおずおずとうなずいた。
「もちろん、エルザハイツは今も無傷で残っている。しかし、あそこで何の事件も起きなかったとはかぎらない」
「じ、じゃあ、あたしの夢が現実の出来事だったかもしれないっていうの?」
「わからん。だが、エルザハイツの女子寮が閉鎖されたのも、ちょうどその頃のことだ。それに……おれは当時、姉小路コンツェルンの警備部門とはライバル関係の警備会社に勤務していた。姫に密かに相談をもちかけられ、おれは承諾して聖エルザにもどって来た。それもまさに同時期のことだったと思う」
「ぜんぶ関係あるってこと?」
「その可能性があるってことだ。姫は『もしものときに備えたいの』と言った。それはなんと、聖エルザのために武装した警備隊を組織してほしいという意味だったのだ」
「それで、ここの地下に秘密基地を作って、空手部を聖エルザ防衛軍にしたんだね」
パパはためらいもなくうなずいた。
「姉小路の攻撃を警戒しているのは当然わかったが、正直、そこまでやる必要があるのかと思った。しかし、あのとき、姫は美しい相貌を恐ろしいほどに青ざめさせて、おれに『お願い』と深々と頭を下げた。おれは『どんな根拠があって?』とたずねかけてやめた。それくらい、彼女は差し迫った表情をしていたんだ。
それから一〇年以上も経って、防衛軍はおまえを救出して姉小路の脅威を払うことに成功し、たしかに防衛軍は役目を果たすことができた。だが、本当にそれだけのためだったんだろうかと、今も考えてしまうのだ」
そうだったのか……
「あたしの夢には、やっぱりなんか大きな意味がありそうだね」
「ああ。今のところ、手がかりはその夢の中にしかない。コックリのような具体的なアドバイスなどおれにはできんが、おまえのそばにいてやることはできる。おまえにはどんなにつらくても悪夢に負けず、反対に挑むくらいの気持ちを持ってもらいたい」
「わかったよ、パパ!」
「そういえば、おれは最近、生徒の間で『水谷教頭』と呼ばれてるらしい。知ってるか?」
あたしは思わず微笑んでしまった。
聖エルザには、長い間教頭職が置かれておらず、ミホ母さんやチクリンママの学園長と姫の理事長の体制が続いていた。
姫が亡くなってからはチクリンママがその二つを兼務していたのだが、この春から新たに〝副学園長〟という要職が設けられた。
それに任命されたのが水谷パパで、名実共に二人の協力で学園が運営されていくことになったのだ。
「考えてみると、おれは、あの森崎以来の〝教頭〟ってことになるのだな。どうも照れ臭かったのだが、こんどのことでさらに妙な気分になってきた。まだしばらくは慣れそうにないよ」
パパは短い髪を指でゴシゴシとかいた――
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