Ep.1 CAMERA EYE

 フェイドイン――


 カメラはどこか部屋の隅に固定されていて、診察室としてはかなり広めの空間の窓際に向けられている。

 天井まで届く広い窓は、全面レースのカーテンでおおわれ、やわらかい光を診療室の隅々まで招き入れている。


 ふだん問診に使うパソコンを置いた机と、医師と患者用の二脚の椅子が入口近くの壁際にあるが、二人の人物は正面の窓に近い場所にいる。

 ソファにかけた人影は、たっぷりとしたシルエットの白衣のすそからスラリと形のいい脚を伸ばしている。

 もう一方の人物は、歯医者か理髪店にあるような、しかし、かなり大型でゆったりとした多機能らしいリクライニングチェアに深々ともたれている。


「これは気持ちいい。しかも、眼の前に広がる湘南の海と空を眺めていると、まるで空中に浮かんでいるような気分になりますね」

「それに眠くなるでしょ。寝てもいいわよ。次の予約までまだ一時間もあるから」

 ソファの女性がイタズラっぽく言って手元のリモコンを操作すると、さらに深く傾斜していくチェアの上の男性は、苦笑しながらも寝心地を楽しむように眼を閉じた。


「いやいや。これではわざわざこちらまでうかがった目的が果たせなくなります」

「そうだったわね。どこまで話したかしら?」

「弟さんの誘いを受けて、ロサンゼルスのクリニックを閉鎖して帰国された、と」

「ええ。私の使い勝手がいいように、古くなった建物や設備を好きに改装してかまわないという条件でね。おかげで、アメリカ並みに広々としたこの診療室が実現できたの」


「しかし、あちらとは医療制度も違いますし、やりにくいところもあるでしょう」

「多少はね。でも、逆の場合もあるのよ。たとえば、精神医療はアメリカのほうがずっと進んでいるけど、それだけやり方が型にはまっていて、規制も多いの。その点、日本なら規制どころか、医療として認知されていないことも多いから、好きなようにやれる面もあるわけ」

「ほう――」


「たとえば、あなたの悩みを聞いて何らかの処置をしたとしても、あっちなら医療行為になってしまうものが、お金さえ受け取らなければ、個人的な相談に乗ってあげたことにしかならないとかね」

「なるほど。すると、あなたの研究にとってはかえって好都合だと……それで、精神科の表示をつけ加えたわけですね」


「まあね。だけど、日本人は横並びの感覚が強いから、メンタルな疾患に対してまだ偏見や差別意識があって、貴重な症例が人に知られないまま埋もれてしまうことも多いのよ」

「つまり、なかなか患者が来てくれないってことですか?」

「はっきり言うわね」

 女医が笑いながら言う。


「だから、こんな取材なんかに時間をさけるのよ。あなたさえよければ、脳を切開して電極をつなぎながらお話したほうが、ずっと有意義なんだけど」

「それだけはご勘弁願いたいですな。……では、本題の『明晰夢』についておうかがいしたいのですが」


「あなたの狙いは、たぶん『明晰夢の活用法』というような本を私に書かせることね」

「よくご存知で。眠りを仕事や勉強に活かせれば、人生をより充実させることができますからね。本場アメリカでその方面の研究で名の知られたあなたの著書となれば、怪しげな夢見術の本とかを一掃して、ベストセラーになることまちがいなしですよ」


「そんなにうまいこといくかしら。だいいち、明晰夢のよくある定義には、そもそも大きな誤解があるのよ」

「ほう、どういうことですか?」

「『明晰夢とは、夢の中で〝これは夢だ〟と自覚すること』――なんて、わかったような説明をする人が多いけど、それがまずおかしいわ。それは覚醒したときに夢をふり返ってはじめて言えることであって、夢を見ている当人が認識できることではないの」


「というと、つまり――たとえば、ラノベやアニメでよくある『異世界転生モノ』というのがおかしいという議論と同じということですか?」

「異世界転生というのはよく知らないけど、察するところ、『あっ、ここは異世界だ。だから自分はわずらわしい人間関係や法律、掟にしばられることはないし、好き勝手にふるまってかまわないはずだ』と、あっさり納得できてしまうお話のようね」

「まさにその通りです。しかも、転生や召喚によって超越的な能力が身につき、好きなだけ暴れて勝利を手にし、最後に大喝采を浴びることができる、というような」


「ものすごく都合のいい設定ね。じゃあ、きっとそういう物語は主人公の一人称で進行するんでしょ。たしかに、読者にとっては、現実逃避できるし、自分を主人公に仮託して楽しい時間を過ごせるわね。物語というものが果たす機能的な側面から言えば、ある種究極的な形かもしれない。フム……けっこう面白そうじゃない」

「でしょうかね。わたしのような古いタイプの人間には、とても楽しめそうにありませんが」


「その異世界転生と間違った明晰夢の定義の間に共通点があるとすれば、〝実存〟と〝自己同一性〟の問題ね」

「どうか、わかるようにご説明願えますか」

「実存とは、簡単にいえば、こういう現実の前にいるのが自分だという認識、諒解のことよ。自己同一性は、自分が自分以外の何者でもないという意識、感覚のことね。自分が自分でいるためには、この二つがピッタリ重なり合った関係になければいけないの」


「そうか。これは夢の中だとか、ここは異世界だ、という認識は、つまり、眼の前の現実を否定することにつながってしまうわけですな」

「と同時に、自己を肯定できず、喪失してしまうことにね。かなり精神的にハードなところに追い込まれるはず。自己崩壊の危機とでも言うべきかしら」


「とても夢や異世界の旅を楽しむどころではなくなりますね。夢なら気分が悪くなるか、ひどい違和感で眼覚めてしまうことでしょう。でも、夢の中でこれは夢だと気づいたことがある、とはっきり主張する人は確実にいますよね」

「もちろん。私の弟もその一人よ。私は定義がおかしいと言っているだけで、明晰夢を否定しているわけではないの。『夢の中にいる』という自覚自体も、あくまでも夢の中の現実なのであって、彼の場合は、夢の中で自由に振る舞えると感じるときのスイッチ、合図――そのようなものなのだと思うわ。けっして『これは現実ではない』という否定ではないのよ」


「では、明晰夢は有効だと?」

「有効に利用できるかどうかは別問題だけど、可能なことはたしかね。だけど、明晰夢はほんの入口にすぎないわ。脳の奥には、まだまだ未知の領域が残されている。そこに踏み込んでいけたら、どんな光景が広がっていることか――明晰夢どころか、すでにそこまで到達した人もいるかもしれないのよ」


「なるほど。……いやあ、勉強になりました」

 編集者の男は、満足そうにうなずきながらリクライニングチェアから身軽に飛び降りた。


「本のことは、どうかご検討ください。またおうかがいします。ところで、弟さんは、こちらの病院からはすっかり手を引いてしまわれたのですか?」

「いいえ。産婦人科や小児科は私には退屈なだけだから、免許を持ってないのよ。その予約が入っているときと私が忙しいときに、東京からやって来て手伝ってくれるの。あいつと私の共通点は、仕事は趣味の一部にすぎないってこと。医者としての社会的責任なんてものには、どっちもほとんど関心がないのよ」

 女はにこやかに笑いながら平然と言い放つ。

 男はあきれた表情を顔に張りつけたまま、出口から去っていった。


 小柄で背中が丸く曲がったその特徴的な後ろ姿を見送ると、女は営業用のスマイルをたちまちぬぐい去り、デスクへもどる。

「私がだまされるとでも思ってるの……」

 女はつぶやきながらキーボードをトンと指で突つき、PCのスリープモードを解除する。


 モニターには、特注した高性能チェアがこの数十分間に密かに収集した膨大なデータが流れるように表示される。それをのぞき込み、女はニヤリと得意そうに笑った。

「腕利きの編集者なんて人種はたいがい食わせ者なのだろうけど、あの男がそんなまともな仕事で満足するようなタイプの人間であるわけがない。ほら――」

 女は、その場にいるほかのだれかにでも勝ち誇るかのように、画面に指を突きつける。


「憎悪、猜疑心、冷酷さ、破壊衝動、女性に対する侮蔑……どの心理的傾向を取っても、とてつもないレベルの負のパワーよ。しかも、知的で難解な話題にもしっかり的確な反応を示している。……面白い。再会が待ちきれないわ……」

 夕暮れが迫る湘南の海から吹きつける風が、白衣の女医のむこうで大きなカーテンをフワリとふくらませた。


 フェイドアウト――

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