Ep.1 HARUNA 2
「コラ、ここは眠る場所じゃないアルよ」
やっと薄目をあけると、大きな胸を抱えるように腕組みしたブロンドの女性が見下ろしていた。
「キ、キャティ……せんせ」
あたしは、口の端から垂れかけたヨダレをあわててぬぐった。
「眼を覚させてあげるわ。ついて来なさい」
翌日の昼休み、あたしはおふくろが作ってくれた店の極上佃煮入りのおにぎりを急いでパクつくと、オヤジからアドバイスされた調べものをしに、図書館にやって来ていたのだ。
マクラ代わりにしてしまった本をあわてて抱えこみ、ヒールをツカツカと鳴らしながら歩いていくキャティの後を追って司書室に入った。
「そこに座って」
キャティは紋切り型の口調で命令し、こちらに背を向けて窓際のワゴンで何かしている。
ヤバい。こっぴどくしかられそうだ。
あたしは恐る恐る中央のテーブルについた。
「授業中にも居眠りして、おまけに大騒動を起こしたそうネ」
「ママから聞いたの?」
ビクッとして、思わずキャティの背中に問いかけた。
「いいえ。あなたのクラスメートたちからよ。グッスリ眠ってたのに、いきなりジャンプしたと思ったら、机や椅子をなぎ倒しながら教室の半分くらい飛び越えちゃったんだってね」
「そ、それは、ちょっと大げさだと思うけど……」
「図書館内のヒソヒソ話は、きのうからその話題でもちきりアル。きっともう学園じゅうに知れ渡ってるんじゃない。だけど、さすがはクルセイダーズの娘だって、チクリン校長とお腹の皮がよじれるくらい笑っちゃったわ。――ほら、めざましよ」
ふり返ったキャティは満面に笑みを浮かべ、湯気の立つティーカップを手にしていた。
あたしは赤面したけど、同時にホッと胸をなで下ろして紅茶を受け取った。
「で、この本の山は……フロイト、ラカン、ユング、ウィルヘルム・ライヒ。ふーん、どれも心理学や精神分析についての著作アルね。そうか、あれだけの騒ぎを巻き起こしたんだから、よっぽどひどい悪夢を見たのネ。もしかして、その夢のことについて調べてたの?」
あたしは大きくうなずいた。
「フロイトの『夢判断』かあ……。本格的に心理学とかを学びたいんだったらべつだけど、高一の女子にはちょっと難しすぎるわね」
「でも、オヤジが参考になるからぜひ読めって」
キャティはクスッと笑った。
「まあ、コックリさんなら言いそうアルね。あの人の興味の広大さと知的レベルは常人離れしてるから。だけど、だれより娘想いで優しい彼のアドバイスがそれだけ?」
あたしは激しく首を振った。
「それがさあ……オヤジが言ったのは、もっととんでもないことだったんだ」
きのうの夜の会話を思い出しながら、あたしはポツリポツリと語りはじめた――
「そりゃ、すごい。なんて興味深い話なんだ!」
あたしが悪夢の内容をひと通り説明し終わると、オヤジはスプーンを振り回し、口からご飯ツブを飛ばさんばかりの興奮した口調で言った。
「おい、コックリ。娘が悩みを打ち明けてるんだゾ。おもしろがってる場合かよ」
「あ……ゴメン。もちろん、真剣に聞いてるさ。それに、オトシマエにもあらぬ疑いがかかってるわけだからね。なんとか解決策を考えて、真実を突き止めないとな」
だけど、オヤジは眼をキラキラ輝かせ、いかにも楽しそうだ。
あたしは水谷パパに連絡して深川の家に泊まることを伝え、久しぶりにおふくろとオヤジの三人で円いチャブ台を囲んだ。
夕食は、あたしの大好きな和風だしが効いたカレーライスだった。野菜はゴロッとしたジャガイモとニンジンだけでスープに近く、その分豚バラの脂身の甘さが引き立って美味しい。オヤジも同じくこのカレーが大好物だってことを初めて知った。
食卓の話題は深刻な打ち明け話だったけど、オヤジがまともに付き合ってくれさえすれば、深川での食事がいちばん一家団欒らしい雰囲気なのだとあらためて思った。
「いいことは、同じ夢の場面をくり返し見るって点さ」
「なんで? そこがいちばんつらいんじゃないか。もう、どっちが本当の現実かわからなくなってしまいそうなんだよ」
「いいかい、夢を大きく左右するものは第一に感情なんだ。それはわかるよな? 嫌がって避けようとすればするほど、気になってやっぱり見てしまうものなんだよ」
あたしは深くうなずいた。まさにそのとおりだと思う。
「だから、解決策は見ないようにすることじゃない。見ている夢の中で、なんとかできそうなところを見つけ、自分の意志で変化を起こすことなんだ。そのためには、何回も見慣れているもののほうが当然対処しやすくなる」
「そんなことができるのか?」
あたしはカレーをすくう手を止め、思わず顔を上げた。
おふくろがあっさり否定したとおり、悪夢のような事実は実際なかったのかもしれない。すると、じゃあなんであんな夢を見てしまうのかという疑問が残る。だけど、それより何より緊急な問題は、あたしが一刻も早くこのひどい苦境から逃れることなのだ。
ひと筋の希望の光を見出した思いで、あたしはオヤジの話に耳を傾けた――
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