第19話【井上修司編】地獄の果てで
『地獄』
――悪行を行った者の霊魂が死後に送られて罰を受けるとされる世界
窮屈で空虚な日々を唯一彩っているとしたら、それは地獄の存在だろう。悪い事をしてるやつらは地獄へ堕ちる。愚かな獣同然のやつも。
だから俺は耐えられた。どんな理不尽も、最後には報われる。地獄に比べればこの人間世界で起こる四苦八苦などたかが知れている。
「修司!」
無防備に寝転がっている所にババアが怒鳴りこんできた。
「ご飯だっつってんの! 食べないの!?」
「うるっせーな! 食べるって!」
「またくだらないもん読んで」
俺は読んでいた本を適当に閉じ、渋々立ち上がる。
本のタイトル?
『地獄への道』
古本屋で買った俺のお気に入りの一冊だ。
「ほんっとだらしない! たまには部屋片付けなさい。何かあんたの部屋臭いよ」
言葉数の多いババアだ。来世は家畜にでもなればいい!
「谷塚秀でっす! 三度の飯より? 美女が好きっ! よろしくお願いしまーす。あ、帰宅部っす」
二年一組。最悪のクラスだという予兆は初日からあった。人間以下の下等生物だらけで呆れるとともに絶望した。
「小菅茉衣でーす。帰宅部ー。お願いしまーす」
低知能は低知能同士で群れる。
「なあなあ、金城って子やっぱ可愛いな!」
谷塚とかいう下衆の声が耳をつんざく。
「あんなお嬢様っぽい子、あんたに釣り合わないでしょー」
小菅とかいう思慮のないアバズレ女も気に入らない。
シモでしか物を考えられないようなやつは
全く、この世は気に入らないことばかりだ。この俺がアリンコ以下の頭脳しかないやつの相手をするのにも限界がある。
まあそんな俺にもひと時の”極楽浄土”は存在する。
それは放課後の鐘の後、生徒会室に居る天女。
真鍋実那の存在だ。
「会長! 一学期終業式のスピーチ資料まとめておきました」
「ありがとう、真鍋さん」
天女・実那様は教室内ではあまり発言したり目立ったことはしないお方だが、生徒会室ではまるで羽衣を着たかのように煌びやかに舞う。
ゴミ溜まりのようなクソクラスの中に咲く一輪の花。この美しいご尊顔も、あの汚らわしい二年一組では日陰になってしまう。同じクラスになれたことは喜ばしいが、あのような下級の下劣な環境で複雑な気分だ。しかし同じ過酷な荒野に放たれたのにはきっと意味があるのだ。俺たちには運命の赤い糸が、巻きついているのだ!
「あ、真鍋さん、ちょっと」
「何ですか?」
生徒会長の渡辺が実那様の髪に触れた。
「ゴミがついてるよ」
「あ、すいません」
けしからん、けしからん、けしからん!
実那様に気安く触れやがって、生徒会長め! だいたい最近距離が近すぎるんだ。あの眼鏡の下では淫らなことを考えているに違いない! もし実那様に何かあったら、俺がこの手で……!
……。落ち着け。落ち着け俺。だめだ。俺が手にかけては下賤な一般庶民と同じ穴の
「井上くん? 何か面白いことでも?」
生徒会長が不思議そうにこちらを見ている。まずい。顔に出ていたらしい。
「あっ、えっ、何も!」
クソッ。実那様にも変な目で見られたじゃないか! 第一お前が俺の心を乱すようなことをするのがいけないんだ! やっぱりもっと酷い地獄に落ちて、閻魔様に舌でも何でも抜かれればいい!
そんなこんなで強力な赤い糸で結ばれている実那様と俺だったが、実那様が生徒会に顔を出さなくなったのが七月十五日からだった。
あの日は学校も休んでいて、まさかの無断欠席。あの実那様が!? 普通に考えてありえない。何か特別な事情があるのだ。そう解釈していた。
次の週になると学校へはお顔を見せるようになったが、生徒会にはやはり来ない。くそ! 俺の毎日の楽しみが。
気になって生徒会長に聞いてみると、あいつは何か事情を知っているようだった。でも適当にはぐらかされたようで気に食わない。
実那様の浮かない表情を悶々と頭に浮かべながら夏休みは過ぎた。何か思い悩む実那様を俺が助けて、お近づきになって、実那様の邸宅へ呼ばれ二人っきり。そして二人は繋がっていた赤い糸を激しく絡め合い……。うっ、いかん! 低俗な煩悩はやめるんだ修司!
そして俺は、デスゲームという名の試練で、最悪の事実を知ることになった。
「ってことで……セックスしたことある人―!!!」
シモでしか思考できない猿がくだらないお題を出した、と思った。
「嘘……嘘だ……」
実那様の様子がおかしかった。スマートウォッチが鳴っている。
「最近、真鍋実那の処女を無理やり奪った人ー」
実那様の絶望に打ちひしがれるそのお顔で、どれほどお辛い目にあったのか悟った。
「そんなによ……。そんなに死にてえんなら勝手に死ねやクソアマが!!! てめえも気持ち良さそうにしてたくせに今さら被害者面してんじゃねえぞ!!!」
そしてその元凶。外道中の外道。谷塚秀……!
俺はこいつが今すぐ死んで視界から消えることを心底望んだ。不幸の種をばら撒き続けるこいつは地獄に堕ちて然るべき存在だ。
ここぞというタイミングで蒲生にチャンスを与えたが、生ぬるいことを言って殺さなかった。我慢ならなかった。この絶望と空腹と、増え続ける死体の山。
こんなの、すでに地獄じゃないか。
たがが外れていくのを感じた。思想は理性の一部。積み上げてきたはずのものはいとも簡単に崩れ去る。地獄に堕ちればいい! 恨み、憎しみが止まらないのだ。何かに憑りつかれたように、赴くままに人を貶めたい。本の中にだけ存在していた世界が、まるでこの世に飛び出してきたような息苦しさだ。
俺は、本当はこういうのを望んでいたのかもしれない。うだつが上がらない日々。思い通りにならない世界。仏がいるなら、なぜ俺を救えない? なぜこんな苦痛を与える? もうやっていられない。
誰かの生殺与奪の権利を自身の支配下に置いた時、人生で感じたことのない高揚感に包まれた。消したい人間を消せる。邪魔なものを排除する。俺が今世で受けた苦しみを、何十倍にもして今、お前らに返してやる! 俺の苦しみを知ればいい!
「うわーーー! あぁぁぁぁぁ! あぁぁぁぁぁ!」
汚い種馬が死んで、武里が無様に泣き叫んでいる。気持ちいい。気持ちいい! 全て思った通りだ。悪いやつは地獄へ行くんだ。地獄へ行って然るべきなんだ。そしてあんなに普段自信満々に我が物顔でクラスに居座る武里。あのいけ好かない武里が、赤ん坊も顔負けの声量で喚いて取り乱している。恋人を失って、親友も失ってさぞ苦しかろう。このまま生きても地獄、死んでも地獄。お前の大切なものはぜ~~~んぶ、無くなるんだ。こんなに苦しいのは人生で初めてか? もう立ち直れないかもな。お前が大切にしてきたものなんてな、たっ……!
……興奮しすぎておしっこがちょっと漏れてしまった。
武里が喚いているその時間、谷塚の死体が運ばれることはなかった。武里が離れなかったからだ。草加と小林が力づくで引き剥がして次のゲームは始まった。姫宮の次は名簿順で矢田だった。
「また投票でもすんの?」
矢田がぶっきらぼうに尋ねると、姫宮は「うん」とわずかに微笑んだ。
そこで矢面に立たされたのが俺だ。
「人の命弄んで、見過ごせるもんじゃねえだろ」
草加を筆頭に、堀切からも非難された。小菅の死に様を見れば、まあそう思われて当然なのだろう。しかし俺に罪悪感などない。死ぬべき人間が死んだ。ただそれだけのことだ。今、俺の中にある高揚感、万能感は消えない。
「姫宮のやってることがルールに乗っ取った殺人なら、俺がやってることもたいして変わらない。ルールを利用して死ぬべき人間が死んだ。断罪すべき人間が他にいないかよく考えることだな」
「希空は多数決で決まった通りに実行しただけじゃない。あんたのやったこととわけが違う」
千住がここぞとばかりに反論してきた。
「ふーん。お前確か死ぬ直前まで小菅と揉めてたな? くだらない喧嘩して、あいつのこと指名してただろ。お前の指名がなかったら、あの時俺が何しようと小菅は死ななかったんだぞ。お前は何か言える立場なのか?」
「それは……!」
千住が言葉を詰まらせる。
「別にこの異常なゲームで何をしでかしたなんて、さして重要じゃないんだよ。このゲームまでにどう生きてきたかの方がずっと投票する上で大事な要素だろ」
皆が黙り込む中、口を開いたのは梅島だった。
「ずいぶん自分を正当化するんだね。君は誰よりも清廉潔白に生きてきたとでも言いたそうだ」
「あぁ、少なくともそこにいる武里一也よりは、よっぽどシロだと思うけど?」
俺が視線を向けると、皆の注目も武里に集まった。しかし武里に反応はない。呆然自失。目の焦点が合っていない。これはチャンスだ。
「いじめの件、全然片付いてないよな。酷いいじめで、武里が主犯格だったって聞いたよ。でも卑怯者だからさ、全部他の誰かに濡れ衣着せて、今ものうのうと学校に通ってる。まあレイプ犯と仲良いくらいだから納得だよなぁ」
少々話を盛ってやった。次に死ぬべきは武里、お前だ。
「井上。それ違う」
即座に否定してきたのは被害の張本人、矢田だった。
「何が違うんだよ」
「俺はたしかに馬鹿にされてたけど、別に武里が直接害をなしてきたわけじゃない」
「お前、いじめてきた本人をかばってるのか?」
「かばってるんじゃなくて、事実。ゲラゲラ笑われてたことはあったけど、武里ばっかりが悪い訳じゃなかった。もっと有害でムカつくやついたし、第一、俺、いじめられてたとか思ってない」
「おいおい、強がるなよ。いじられて、笑われて、馬鹿にされてたらそれはいじめなんだよ。お前は自分の置かれてきた環境がみじめにならないのかよ。お前を苦しめたやつを憎いって感じないのかよ」
「あー、うーん、あー」
矢田はとぼけたように頭を掻いた。
「それー、俺のこと被害者にしたいだけじゃん」
俺の思い描いていたシナリオは打ち砕かれた。虐げられている側の人間は必ず救われるべきだと思っていた。コチラ側の人間は誰も彼もがこの世で息苦しさを感じていると思っていた。それがどうだ。釜茹でも針山も、平気な顔して生き抜く人間が目の前にいるではないか。
「そんでお前、一也を悪者にしたいだけだろ」
草加にも指摘される。風向きが変わってしまった。
「希空、投票すんだろ? もう始めてー」
草加が急かし、姫宮が指揮をとり始める。
「何でだ、矢田! 何でお前はそんな風に考えられるんだ! おかしい、お前やっぱおかしいやつだ!」
人の言動一つ一つにイライラして、憎んでは耐え、憎んでは耐え忍んでを繰り返してきた自分とは一体何なのか。俺は――!
「俺は正常だぞ。間違ったこと、悪いことをしたら地獄に行く。それだけだ。矢田が許したとしても俺は許さない。いじめなど下衆のやることだ。レイプ魔をかばってたことも万死に値する。奈落の底に落ち続けて、数兆年、いや一京年は苦しむ。閻魔に舌を抜かれろ。仏は見ている」
草加が軽蔑の眼差しを向けてくる。
「おかしいのはお前だろ……」
投票が始まって、ほぼ全ての人差し指が俺に向いた。
「何で俺がこんな目に遭うんだよ。ずっと耐えてきたのに。俺ばっかり、何でこんな酷い仕打ち。こんな試練! 俺が何したって言うんだ! 俺は被害者だぞ。俺が正しい。俺は!」
人の輪の中では死にたくなかった。俺の死は見せ物じゃない。そして自ら死体の山へ走った。せめて、せめて実那様のお側で!
「指名、井上修司」
目を開け上体を起こすと、ゆっくりと身体が浮き上がった。
生前あった飢餓の苦しみも心身の痛みも消えた。
翻って下を見ると自分の顔があった。力の抜けた自分の間抜けな顔だ。
涙が光っていた。実那様のお側で事切れた嬉しさか、自分の生き様を悔いたものなのか。
考える必要はなかった。考えようと思わなかった。今俺は、感じたことのない心地良さに包まれているのだ。
死後の世界はあったのだ……!!!
だんだん多目的教室が遠ざかっていく。
音はぼんやりしていたが、学校の屋上を貫通するくらい身体が浮き上がった頃、聞きたい情報が耳に入ってきた。
「何で誰もいないんだ!」
あ、生徒会長。
「蒲生さんサボりかな。もう部活辞めるんじゃなーい?」
「茜の位置情報、学校で止まってんだよねー」
ふーん、まさに神視点ってわけか。
どうやらこのデスゲームとやらの外では、いい加減異変に気づいた愚民どもが動き出しているらしい。
もう少し大人しく生きていれば、助かる未来もあったか? いや、もう二度とごめんだ。
どうせ同じ地獄なら、実那様のいる地獄に行きたい。でも実那様は天国行きか。俺は、きっと……。
仏様。もし、もし来世があるなら、お金持ちの家で、実那様みたいな美女にしてください。もしくはイケメン。何なら実那様の家の猫とかでもいいかも。どうぞ……よろしくお願いします。
さらば、地獄のような現世。
さらば、俺の貧弱な魂。
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