容疑者・楠木悪平太による日記の抜粋

 いた辞書によると悪の一字いちじには「猛々たけだけしく強いさま」としるされている。「あくに強いはぜんにも強い」という言葉があるようにあくは必ずしも不道徳を表す一字いちじではない。

 悪平太あくへいたという俺の名前もそういった経緯けいい辿たどって命名されたのだろう。名付け親である祖父は非常な歴史狂れきしきょうであったし、何より莫大ばくだいな財産を一世いっせいきずげた古強者ふるつわものでもあった。あく一字いちじわせることに両親は一応いちおうの反対をしたようであるが、祖父のかたくななまでの拘泥こだわりの前には無力であった。

 この一風いっぷうわった名前のせいでずいぶんと苦労もしてきた。どこへ行っても不良扱いされ、人格破綻者の烙印らくいんを押されてしまう。自分には罪はなく、いたって普通の子どもなのだ、と主張していた時期もあるにはあったが、今となってはまことに馬鹿馬鹿ばかばかしいまでの徒労とろうでしかなかったと思う。

 中学生のころに体育科教師に因縁いんねんけられたときはさすがに頭に血が上り、ガンを飛ばされたことをきっかけに鼻を食いちぎってやった。うずくまる教師の股間こかんげて、廊下ろうかに伏してもんどりうっているあいだに、顔面を滅茶苦茶めちゃくちゃしてやったとき、ようやく自分の宿命しゅくめいさとった気がした。あく背負せおった者として生きる覚悟かくごを決めたのだ。

 この暴行事件は祖父が教育委員会やらなんやらに手を回し、大事だいじにはいたらないように尽力じんりょくしたらしいが、どうでもいいことだ。ことげれば祖父の責任でもあるのだから、当然とうぜんむくいであるとすら思っている。素行そこうわるさにはみがきがかかり、名前に相応ふさわしい人間であろうとつとめ、当時は読書にもそれなりにはげんだ記憶がある。

 喜子よしこ出逢であったのは高等学校に進学してもないころだった。彼女は生来せいらい悪女あくじょであり、そこから学ぶところも多かった。生まれ持った美貌びぼうかし、数々の男をもてあそんでは、金をむしり取って切り捨てる。小動物を麻袋あさぶくろに入れて、つか断末魔だんまつまを楽しむために、延々えんえんと金属バットで殴り続ける。彼女の悪行あくぎょうを数え上げたら枚挙まいきょいとまがない。

 俺は名前に相応ふさわしい人間になるために喜子よしこに近づいた。俺達が交際するようになるまで、さしたる時間はかからなかった。喜子よしこ美貌びぼう見合みあうだけのととのった容姿ようしが俺にはあったからだ。今さら両親に対して何の感慨かんがいもないが、美しい面立おもだちを与えてくれたことだけは感謝している。喜子よしこは俺の恋人であり、悪の道のせんだつでもあった。

 喜子よしこ兇悪性きょうあくせい先天的せんてんてきなものであり、とても真似まねできるものばかりではなかった。次第しだいに過激化していく彼女をかたわらで見ていて、あらためてあくについて考えをめぐらせるようになったのも、ひとえに悪平太あくへいたという名前につきづきしい人間でありたいと思っていたからである。

 そのためにもずいぶんと多くの書籍しょせき紐解ひもといたが、あくの裏側には必ずぜんがあり、ぜんの裏側には必ずあくひかえていることをやがてさとるようになった。性善説せいぜんせつを信じているわけでは決してないが、不倫ふりん不道徳ふどうとくの後ろには、倫理りんり道徳どうとくが前提として腰を下ろしているのだ。

 俺が少なからず混乱した。もはや何を目指せば良いのか皆目かいもく見当けんとうもつかない。波間なみまに揺られて、視界はぐるぐると目まぐるしいまでに回っているような感覚すらいだく。あくぜんありきの存在なのだ。それならば、悪平太あくへいたという名前を負い、それに苦悩し、相応そうおうの努力をしてきた道程みちのりは何であったというのだろうか。切り立つがけふちにたたずみ、前にも後ろにも行けず、まどうばかりである。

 喜子よしこ悪女あくじょぶりはとしうごとに洗練されていく。自身の肉体を売り、非合法の薬を打ち、肉と欲に塗れた泥のような日々を送っている。彼女は俺のようにつとめてあくであろうとしたためしはない。その徹底てっていした悪意あくいはすさまじいとすら感じるほどである。

 ただ、最近は喜子よしこという存在が徐々じょじょうとましく、ねたましくなってきた。彼女は決して俺のようにぜんあく狭間はざま懊悩おうのうすることはない。今や、俺の中で喜子よしこという存在は大きな障壁しょうへきとなりつつある。自身の信念を貫き通すためにも、自身のかたあらためるためにも、俺は喜子よしこという壁を乗り越えなければならない。彼女ははばものであり、すすむにも退しりぞくにも彼女との決別は必至ひっしなのだろう。

 遠くないうちに俺はおのれ矜持きょうじに従って彼女を殺すことになるだろう。ささやごえが聞こえるのだ。それは日毎ひごとに大きくなり、今となっては内から破裂はれつしそうなほどに緊張きんちょうしている。もはや何を信じれば良いのか分からない。背中を焼くような焦燥感しょうそうかんだけが俺を急き立てる。

 恋人であり、悪業あくごうでもあった一人の女を殺す。それがこの世にぜんをもたらすのか、己のあくを貫き通すことになるのかは分からない。ただ、俺は悪平太あくへいたという名前を背負せおって残された生涯しょうがいを歩むほかに仕様しようがないのだ。


                                                      (了)



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る