夜半の虫取り

「お父さん、とうとう倒れたわ」

 親父が脳溢血のういっけつで倒れたというしらせは、仕事を終えて家路いえじにつこうと支度したくをしている最中さなかにもたらされた。

 動揺はしなかったつもりである。親父の歳をかえりみるたびに、いつ倒れてもおかしくはない気がしていたからだ。電話でんわしに聞こえる母の声も落ち着いていた。

「こんな時間だけれど、あんたも来なさい。お母さん、先に病院で待ってるから」

 病院には一人で行くことにした。妻は自分も一緒に行くと言い張ったが、今年で三歳になる息子を家に置いていくわけにもいかなかった。心のすみでは親父ならきっと恢復かいふくしてみせるだろうという根拠こんきょのない信頼しんらいもあった。大事だいじかららしていたのは僕の方であったに違いない。

        ※

 白く角張かくばったベッドに一人のみすぼらしい老人が横たわっていた。それが病床びょうしょうせる自分の父親の姿なのだとれるのにはしばらくの時間をようした。認めがたい現実を叩きつけられ、僕は呆然ぼうぜんくすほかなかった。母だけが昏々こんこんと眠り続ける病人のためにかいがいしく働いていた。

 油蝉あぶらぜみの声が病室の窓を打つ深夜。くだつながれた親父の顔に刻まれたしわを数えながら、僕はぼんやりとおさない頃の思い出を辿たどっていた。夜半やはんに響く蝉の声が遠い記憶を呼び覚ましたのだろう。

 親父は町で小さな居酒屋いざかやいとなんでいた。経営がくるまだったのか、単純にあきないが好きだったのかはさだかではないが、とにかく親父はよく働いた。夜がしらむまで暖簾のれんろさないの常であったが、それでも夜中に何の前触まえぶれもなく、ひょっこりと家に戻ってくることがあった。すれ違いがちな親子の関係を正そうと親父なりに気を使っていたのかもしれない。

「おい、坊主ぼうず。起きろ。虫取りに行くぞ」

 夏になると酒とタバコの臭いを漂わせながら親父はそう言って、おさない僕を揺り起こしては深夜の虫取りに連れ出した。仕事熱心な父親を持ったがために滅多に遠出することを知らなかった僕は、むねおどらせながら自転車の荷台にだいに飛び乗ったものである。親父が馬鹿みたいにペダルを強く踏むものだから、小さい僕は振り落とされないようにするので精いっぱいだった。

 油蝉あぶらぜみ喝采かっさいびながら闇夜やみよめぐった遠い記憶に包まれつつ、僕はしわぶかくなった親父の顔を静かに見守みまもっていた。

「……ミツ」

 底知れぬ深い眠りについていた老父のくちびるかすかに動いたのを僕は見逃さなかった。不明瞭ではあるが《ミツ》とつぶやいたような気がした。なぜその二字が青ざめたくちびるからでたのかは分からないが、これが父ののこ最期さいご言葉ことばかもしれないと思うと寂しくてたまらなかった。母が医者を連れてきたときには老父はすでに意識を手放し、再び深い眠りへと戻っていってしまっていた。

        ※

 病人の意識が恢復かいふくしないため、一度家に帰ることをすすめられた。職場からのまま病院に駆けつけたため、足取りはなまりのように重かった。死の瀬戸際せとぎわで親父は何を伝えたかったのだろうか。家路いえじ辿たどっている間も親父のうわ言が耳を離れることはなかった。

「お疲れさま。大変だったわね」

 妻が玄関で迎えてくれたのは有難ありがたかった。靴を脱ぐのも億劫おっくうなほど疲れ果てていたが、相変わらず頭の隅には親父が渇いたくちびるささやいた《ミツ》の二文字が激しく明滅めいめつしていた。その言葉の意味を見出みいだせないまま父を見送りたくはなかった。もしそれが、最期さいごの力をしぼってまでして伝えたかった言葉であるのなら、なおさらのことである。なんだか無性むしょうに寂しくなった。

 妻に見守みまもられながら子供部屋のふすまを引くと、小さな布団ふとんの中におさない息子がいた。汗ばんだ前髪を指で払ってやると、嫌がるように寝返ねがえりを打ち、僕の腕から離れてしまう。突如とつじょくるおしいまでのいとおしさが腹の底からでて、抑えきれなくなった。

「おい、起きろ。虫取りに行くぞ」

 気が付いたときには、安らかに寝息を立てる息子を激しく揺さぶっていた。幼子おさなごが眠い目をこすりながら父親である僕を不思議そうに見上げている。射抜いぬくような熱い眼差まなざしを一身いっしんびているうちに、一つの考えが脳裏のうりかすめた。

 もしかしたら、親父はあのとき、夜更よふけの山林を駆け回った遠い記憶を夢見ていたのではないだろうか。《ミツ》とは《みつ》のことであり、微かに意識を取り戻した際に、思わず夢の続きを口にしたのかもしれない。僕はそう思いたかった。

 窓越しに響き渡る油蝉あぶらぜみの声が、僕におさなき日の思い出を呼び覚ましたように、親父もまた我が子との邂逅かいこうを夢のうちにたしていたのだとしたら、これほど幸福な夜はないだろう。


(了)

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