狐の嫁入り

 折から降り始めた夕立が病室の窓を叩き、雲居くもいの涙は慈雨じうとなって庭木の葉を揺らしている。青葉あおばは歓喜に打ち震え、乾いた土に玉のしずくしたたらせる。

 ―あの日も夕立が降っていたな―

 かすかに響く水のせせらぎが、胸の奥で眠っていた、甘くなつかしい思い出を揺り起こしたようだ。清潔せいけつなシーツに包まれたベッドに、老いさらばえた身体を横たえながら、遠い過去に置き去りにしてしまっていた記憶を辿たどる。

          ※

 蒼穹そうきゅう入道雲にゅうどうぐもが立ち上る夏の日ことであった。私は友人ときるまで談笑にきょうじたのちほおにできた大きなにきびをもてあそびながら家路いえじを急いでいた。辺りには雨の匂いが立ち込めている。既に幾筋いくすじかのぎんいとが天から垂れてきていた。

 ―あま宿やどりをした方がよさそうだ―

 立ち往生おうじょうしてもつまらない。たまらず最寄もよりの公園へと駆けて行った。休憩所の軒下のきしたに逃げ込んだときには、雨は地を打つ激しいものに変わっていた。雨足は強さを増すばかりでしばらくは止みそうにない。

 私はベンチに腰を下ろすと、鞄の中から図書室で借りた文庫本を取り出し、湿しめった指先でページを捲り始めた。

 激しい雨が幕となって一切いっさいの物音をさえぎっていた。だから、

「お邪魔してもいいかしら」

 と尋ねられた時は少なからず驚いた。

 黄ばんだ文庫本の背表紙の向こうには和装わそうに身を包んだ美しい女が肩を濡らしてたたずんでいた。しっとりと潤いのある声の主につきづきしい、色の白いたおやかな女性である。

「どうぞ」

 艶然えんぜん微笑ほほえむ女性の眼差まなざしから逃れるためにうつむいた。鏡をのぞむにあたいするほどの顔ではないことは分かっていたが、それでも頬にできたにきびが忌々いまいましく感じられた。女性は着物に付いたつゆを払うと、ごく自然な様子で私の隣に腰掛けた。

「夕立に閉じ込められてしまったようね」

 私は女性のつぶやきに沈黙でこたえた。いた口上こうじょうが思いつかないわけではなかったが、それを実際に口にするほどの度胸どきょうは持ち合わせていなかった。何よりも頬のにきびが巨大な劣等感となって少年の私を圧倒していた。女性は続けて言う。

「お姉さんね、もうすぐ結婚するの。今日はあちらのご両親に挨拶をするつもりだったの」

 その声は明るい未来に心を踊らせる花嫁のそれではなかった。今にも消え入りそうな口ぶりは、誰かから祝福しゅくふくされるのを期待きたいしているというより、がたい現実を言葉にすることで、自身に言い聞かせているようであった。あるいはそれも感じやすい少年が抱いた願望による都合つごう幻想げんそうだったのかもしれない。

「きっと良い結婚になりますよ」

 この女性に気に入られたいという欲望が導き出した言葉は根拠こんきょのない祝辞しゅくじであった。それを口にしたところで彼女の関心は遠ざかる一方であることは理解していたが、それ以外にこころほうさくがないのも事実であった。

「優しいのね。もし赤ちゃんをさずかったら、あなたのような子に育って欲しいわ」

 それは脳髄のうずいしびれるようなあまささやきであった。自身の醜さは承知しょうちしていたが、いつまでもこの美しい女性と一緒にいたいと、分不相応ぶんふそうおうにも願わずにはいられなかった。

「あら、きつね嫁入よめいりね」

 太陽をさえぎっていた鉛色なまりいろの雲の隙間すきまから夏の陽射ひざしがあふれる。思いがけない幻想的な天気に私達は無言で魅入みいっていた。小糠雨こぬかあめが薄い皮膜ひまくとなってやわらかに二人を世間から包み隠しているようだった。

「お話を聞いてくれてありがとう」

 女性が深々ふかぶかとお辞儀じぎをした拍子ひょうし根付ねつけすずが高らかに鳴った。私は最後までにきびづらを赤くしてうつむくばかりであった。

          ※        

 りしの思い出をなつかしみつつ思う。

 ―あれはまさしくきつね嫁入よめいりした日だったのだろうな―

 女性に分かれ告げて家に辿たどいたとき、両親は警察に向かおうかと真剣に協議きょうぎしている最中さいちゅうであった。不思議なことに友人の宅に遊びに出向いてから二日の間、私は行方ゆくえれずになっていたらしい。

 少年の要領ようりょうを得ない説明に両親は首をかしげていたが、嫁入り前の狐がたわむれに少年を化かしたのだ、と考えれば全て合点がてんがいく。

 いずれにせよ、もう遠い昔に過ぎ去ってしまった事柄ことがらでもあった。事実じじつ如何いかんただすより、今は美しい記憶として留め、余生をいつくしむかてとして胸の内に密かに秘めておきたいと思うようになっている。

 私はまぶたうらにあの美しい女性の姿を描きながら夕立の音に耳をすませた。街に降りしきる雨はじきに止むに違いない。遠い所でリィン、リィンと鈴が鳴ったような気がした。


                                                  (了)

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