祖父の香り

 紫陽花あじさいの花がすぼむころ、母方ははがた祖父そふが亡くなった。

 自分の父親が死んだというのに母は涙の一粒ひとつぶも落とさなかった。私はそれを薄情はくじょうだとは思わない。かたわらにいる者が死別を覚悟かくごするのに十分過ぎるほどの時間を、祖父そふは闘病生活に費やしていた。天寿てんじゅまっとうしたわけではないが、それでも祖父そふは生きれるだけ生きることの許された部類の人であったことには違いない。

 しかし、祖父そふの死はただ粛々しゅくしゅくとして波乱はらんをもたらさなかったと言ったら嘘になる。叔母おばから電話で伝えられた突然とつぜん訃報ふほうは我が家を少なからず動揺どうようさせたし、三日後に葬儀がおこなわれると聞かされたときは愕然がくぜんとするほかなかった。

 祖父そふが母の結婚に最後まで反対していたこともあり、我が家は母方の親戚とは何とはなしに疎遠そえんであった。叔母おば祖父そふ危篤きとくであったことも、間もなく息を引き取ったことも、一切いっさいつたえずに済ませてしまったのである。「長女でありながら実家に寄り付かず、孫の姿を病床びょうしょうの父に見せようともしなかった姉の不孝ふこうなじってやろう」という魂胆こんたんが見え隠れしていた。私の父はこの叔母おば憤慨ふんがいした。いわば父は叔母おばはずかしめられたのである。「長女の旦那だんなでありながらどれほど自分たちの家をないがしろにしているのか」と叔母おばからの訃報ふほうあんにそうしめしていた。

 祖父そふの死という訃報ふほうと共に到来とうらいした小さな嵐は、孫である私が父の代わりとして葬儀に参列するということでようやく収まったが、私の心は相変わらず暗かった。

 幼い頃にはずいぶんと可愛かわいがってもらったらしいが、物心ものごころがついてからは電話の一つもかけたことがなく、闘病とうびょうを励ましに見舞みまいに行ったこともない。面目めんぼくないのは父母に負けずとも劣らずであったのである。

 祖父そふを送る葬儀はあまりに質素しっそなものであった。家族葬とのことで参列者は十人に満たなかった。祖父そふは家出も同然に田舎いなかを飛び出したようで、上京してからは別段友人も作らなかったらしい。東京で出会い、そのまま籍を入れた祖母そぼも、今や棺に納められた伴侶はんりょの身の上に関してはまったくと言っていいほど不案内ふあんないであった。祖父そふ檀家だんかも、この一週間の内に叔母おばが冷や汗をかきながら、方々に電話をかけた末にようやく判明はんめいしたほどである。私達は祖父そふの非常な秘密ひみつ主義しゅぎに死後、初めて気が付かされたといった具合ぐあいであった。

「釋徹光」。それが祖父そふ戒名かいみょうであった。浄土じょうど真宗しんしゅう戒名かいみょうは短い。父方の祖父そふ真言宗流しんごんしゅうりゅうの立派な戒名かいみょうさずかっていただけに、三文字に収められた戒名かいみょうはもの寂しさをますます、浮き彫りにした。私達はわずかばかりの金額しか御布施おふせとしてつつまなかったことを何となくとがめられているような気がしてならなかった。

 祖父そふの遺体が荼毘だびされる前になって、私達は親戚とようやく言葉を交わすひまを得た。しかし、どれだけ会話を重ねようとも緊張は容易にはほどけそうになかった。親族の何人かは私に言葉を投げかけたが、正直に言うとはりむしろであった。誰もが笑顔の裏で私達を指さし、薄情者はくじょうもの糾弾きゅうだんしているように思えてならなかった。母も同じ心持ちであったのであろう。故人こじんを送る前におとずれる不思議になごやかな雰囲気ふんいきの中にあって、私と母だけはどこか遠くへと取り残されたようであった。

 私はとうとう逃げるようにして席を立った。タバコを吸いに行くという口実こうじつで外へ出ると、葬儀場の広い駐車場のアスファルトが夏の陽射ひざしを受けて溶けていた。みずとも呼ばれる陽炎かげろうを眺めながら私が紫煙しえんを吹かしていると、「しゅうちゃん」と私を呼ぶ者がいる。振り返ると祖母そぼがいた。

しゅうちゃん、ごめんね。お母さんも可哀想かわいそうにね。おばあちゃんがもっと強ければよかったね。でもね、今日は来てくれてありがとう。おじいちゃんもきっと喜んでいるよ。しゅうちゃんは忘れているだろうから、これを持ってきたの。おじいちゃんはよくこの写真を手に取って眺めていたのよ」

 夏の陽射ひざしが祖母そぼの小さな肩に掛かり、代わりに顔をかげらせていた。私は何も言えずに手渡された写真をまじまじと見つめることしかできなかった。

 そこにはおさない私をしっかりときかかえ、満面まんめん笑顔えがおでこちらを見つめ返している祖父そふの姿が写されていた。せた写真からなつかしいにおいがかおってくるようであった。それは間違いなく、久しく忘れていた故郷ふるさとかおりであった。突如とつじょむねうちにぽっかりと穴が空いたような感覚を覚えた。

「ああ、本当におじいちゃん、死んでしまったんだな」

 私のつぶやきを耳にしたのか、祖母そぼしわの寄った両のてのひらで顔をおおってしまった。私はタバコの火を消すと、孫に見られまいと静かに涙を流す、すっかり小さくなってしまった祖母そぼの肩を優しくきしめた。またもや懐かしい故郷こきょうかおりが私の鼻腔びくうをくすぐった。

                                   (了)

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