第7話 キヨさんのはなし
二階から、急な階段を降りていき、今現在は犬たちの部屋の旧・祖父母の部屋に行きます。
今現在は夕方、16時です。鈍く駆動音を立てているハロゲンヒーターの真ん前に、背中をあぶるキヨさんがいました。
「キヨさん、散歩よ」
わたしはリードを体の前に掲げ、キヨさんに見せました。
『あ、あら…』キヨさんは視線をそらします。
確かに、まだまだ肌寒いのですが、キヨさんはあまり散歩が好きではないみたいです。
キヨさんはシー・ズーです。白地に綺麗なグレーの毛色をしています。きちんと揃えた耳周りの毛が、首を振るキヨさんによりぽふ、ぽふとなびきます。
いまこの部屋にはキヨさんだけ。しのざき家には主にカルボ、篠崎柴翔平、キヨさんの三頭のいぬたちがいますが、みんな体格が違うので散歩の距離も変わります。日によって違いますが、今日はカルロスがカルボ、いもうとが翔平、わたしがキヨさんという持ち回りで散歩に行っています。
キヨさんはいちばん最後にしのざき家に来ました。一緒に暮らしてまだ1年ほどです。でもキヨさんは3歳。
調子が良い日は外をひとまわりできるのですが、散歩に行くと道の端っこで止まってしまったり、玄関先で動かなかったりしてしまいます。お医者さんにも行きました。体には問題はなく、ほっとします。しかしどうやらしのざき家に来るまえの、二年間の間に、散歩のときに嫌なことがあったかもしれないそうです。
ヒーターの前から動かないキヨさん。わたしはリードを部屋の外に置いて、じゃあ電車ごっこしようか。そう言いました。
キヨさんはちょっと顔を上げます。
電車ごっことは、家のなかをぐるぐるまわって、散歩のかわりにすること。これだけだと足りないので、わたしはロープのおもちゃを手に持ち、キヨさんはくわえて、引っ張り合いをしたりもします。
「はい、行きましょうか~」わたしはいぬ部屋の引き戸を開けて、出発しました。
「はい、右手に見えますのは、洗濯機です」
廊下の突き当り、洗面台と犬たち専用の洗濯機が見えます。
「はい、ではこちらランニングマシンですね」
左手に進むと、ちょっとした踊り場です。それから、玄関のたたきに繋がっている引き戸があります。そこにしのざき祖父が買った、タオル掛けと化したトレッドミルが佇んでいます。
キヨさんがトレッドミルにぴょんと乗り、ランニングしている風にてけてけ歩きます。
「ちょっと電源つけてみる?」
『あ、あら…』キヨさんが顔を下げます。乗り気ではないようです。
「じゃあまたの機会にね。では次、一階の台所です」
踊り場の先のドアを開けると、台所があります。
しのざき家には、一階、二階にそれぞれ台所があります。一階は主にばあちゃんが使っています。今日は金曜、ばあちゃんはデイサービスの日なので不在です。
居間と台所を区切る引き戸が開けっぱなしになっています。キヨさんが突撃していきます。
ここは現在、居間兼ばあちゃんの部屋です。ばあちゃんもそこそこの歳になり、旧・祖父母の部屋まで行くのがおっくうになってきたので、今はこちらにベッドを置いて寝ています。
キヨさんがこたつのまわりをぐるぐると周ります。この部屋の右手に襖があり、そちらの部屋は座敷です。そしてお仏壇があります。
座敷は、お客さんが来るときに使うので、いぬたちは基本的に入れません。しかしキヨさんはなぜかお線香の匂いが好きなので、はしゃいでいます。
キヨさんが周回するのを、わたしはしゃがんで眺めます。キヨさんはわりとマイペースなので、ひとりでやりたいときがあるみたいです。
しばらくするとキヨさんが満足げに戻ってきたので、次は二階へと向かいます。動き回って調子が出てきたのか、まだまだいけるわ、という雰囲気です。
台所のドアを開け、廊下に出ます。左手側に座敷への入口となる障子があり、右手奥は玄関です。右手手前に、二階へあがる階段があります。
元気が出てきたキヨさんが、先に階段を上がってゆきます。小型犬ですので一段一段、とた、とたとのぼります。
階段をのぼりきると、キヨさんは続けて三階へと向かいます。斜め右正面に、これまた急な階段がもうひとつあります。三階にあるのはベランダともう一部屋です。いもうととカルロスの部屋になっています。
キヨさんが階段を上り始めると、三階の引き戸が開く音がしました。ギャッと開けてはいないのでいもうとです。
「あらキヨさん」いもうとが降りてきました。外着なので、どうやら翔平の散歩へ行こうとしているようです。家のなかをまわるキヨさんを見て、わたしたちはアイ・コンタクトをします。
「翔平いぬ部屋?」いもうとが聞きます。
「ううん。たぶん居間」「うぃ」「よろしく〜」
いもうとがキヨさんのわきをするりと降りて、居間に行きました。
キヨさんは変わらず上がり続けます。今日は調子がいいみたいで嬉しくなりますね。
階段を上がった先に、これまたちょっとした通路があります。そこに本棚が置いてあり、いもうとが使う絵の資料、カルロスが買った趣味の本などがあります。最近は色々な国のパンの本が増えています。
「アラキヨさん」カルロスも部屋から出てきます。右手に、長年愛用している、ペンギンの描かれた大きなマグカップをたずさえています。きっと飲み物がなくなったのでしょう。
彼は今日はカルロスちゃんねるの動画編集をしています。ブルーライトをカットする伊達の眼鏡をしています。
キヨさんがカルロスの足元をくるくる周り、開いた引き戸から部屋に入ってゆきます。
「ちょっとここにいてもいい?」キヨさんを待つために、カルロスに聞きます。「イイヨー」カルロスが親指を立てます。
「じゃあぼくもちょっと居よ」出窓の空きスペースに、カルロスはマグカップを置き入口の前にしゃがみます。
三階はしのざき家でいちばん広い一部屋です。みちみちになった本棚を衝立がわりに並べて、奥に寝室。入口から見て右手にはいもうととカルロスの作業スペースがそれぞれあります。キヨさんが、ヒトをだめにするソファのうえをぱたぱたと回っています。
「キヨさんいくよー」その辺にあったえび天をカルロスが投げます。いぬ用の噛むおもちゃです。
『あら!』
キヨさんはソファから降りて、マイペースにこちらに向かいえび天をくわえて、これまたマイペースにカルロスまで歩いて来、えび天をぽてりと落とします。
「もっかいいくよー」再び、カルロスがえび天を投げます。キヨさんが歩きます、くわえます。先ほどとほぼ同じように、えび天がまた帰ってきます。
こちらを三回繰り返すと、キヨさんは晴れ晴れとした顔になり、動きも軽やかになりました。ずいぶんと気分も上がったようで、なによりです。
キヨさんは、しゃがむわたしたちの膝をすりすり二往復し、あくびをします。ヒトをだめにするソファにゆっくりと登ると、そのまま丸くなります。
「くたびれだねえ」カルロスが、えび天をわきに置き言います。「そうだねえ。でも元気になってよかった」立ち上がりながらわたしは返します。
すると、何かが階段を上ってきました。このぬるぬる感はカルボです。
『そろそろ?ぼくの?お散歩だと?思いますよお〜』
自らリードをくわえてきたカルボが、右に左に、首を振っていました。
「じゃあ行ってくるねえ〜」
眠ったキヨさんを三階へ残し、部屋の引き戸を少しすけて、玄関先でカルロスとカルボを見送ります。
まだいもうとと翔平は帰ってこないので、頼まれていた夕飯の野菜の下ごしらえをするとします。
台所へ行き、ブロッコリーをばらして茹でていると、背後のケージから声がします。
『匂いがするな』楽太郎です。
「冷めたらあげるからね」わたしは菜箸をかちかち鳴らして返事をします。
『待ち遠しい』楽太郎がちちち、と鳴きました。
キヨさんも、起きたらブロッコリーを食べるでしょう。鍋の中身をかき回しながら、コンロの目の前の窓から見える沈む太陽を眺めます。茜が雲に反射して、でも青空も残っていて、いい時間帯です。
もうずいぶんと日が長くなりました。また夏が来ます。
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