第8話 恋愛禁止


 ライブの翌々日、美織は広斗の部屋に来ていた。

1階のリビングには母親と妹がいて、いつも通り2階の広斗の部屋のドアは開け放してある。

昨日は近藤と高杉が美織の家を訪ねて、ほぼ1日中、両親を交えて五者面談をしていたので広斗と美織が顔を合わせるのは帰り道のタクシー以来だった。


「ひさしぶり」


 1日しか会っていないのに、妙な緊張感のせいで広斗はとんちんかんな挨拶をした。


「ひさしぶり……かなぁ? まぁいいや」


 美織は首を傾げながら、1人用のソファに腰掛けた。


「まずは、大事なライブの直前にあんなことしてごめん」


 広斗は勉強机のイスに座ったまま、膝につくぐらい頭を下げた。

美織に会ったときには開口1番これを言おうと決めていた。


「もういいよ。でも、一生文句言うかも」


 美織が何気なく言った、一生、という言葉に広斗の胸は高鳴った。


「あの、だから、それはつまり、そういうことでいいんだよな」


「そのことなんだけどね」


 前のめりになりそうな広斗を制して、美織が姿勢を正した。


「一昨日のライブ終わりで、近藤さんと高杉さんに広斗との関係を聞かれたの。あと、最後の曲の意味も。変に隠すのも嫌だから正直に言ったんだけどね、そしたらしばらくの間、恋愛禁止なんだって」


「えっ、ちょっと待って」


 広斗は、美織の発言に面食らった。


「どういうこと?」


「だからぁ」


 美織も少し気まずそうで、言葉のキレが悪い。


「当分の間、付き合っちゃダメだって」


「誰が?」


「あたしが」


「誰と?」


「誰とでも」


「え? どういうこと?」


 広斗は、まるで今までの会話がなかったかのように同じ質問を繰り返した。


「だから」


 理解が遅い広斗に焦れったくなった美織の声が少し荒くなった。


「あたしの名前が世に知られるようになったときに最初から彼氏持ちだったら、マーケティングの戦略的にダメなんだって」


「マーケティングの戦略?」


 広斗は自分でもバカみたいだと思いながら、おうむ返しに繰り返した。


「それは近藤さんの受け売りだからあたしもよくわかんないけど、」


 と前置きしつつ、美織は落ち着いた口調に戻って説明を始めた。


「あたしの歌と音楽を好きになってもらえたとしても、世間は音楽活動だけじゃなくて私生活にも興味が出てくるんだって」


「はぁ」


 普段、ゴシップに関心がない広斗には身近に感じられない話だった。


「だから、あたしのことを調べたときに最初から彼氏持ちって看板がついてると、それ以上広がっていかない層もあるんだって」


 広斗の回転の止まった頭の奥で反論が浮かんだが、それはぼんやりとしたままで言葉となって出てこなかった。


「ずっとダメってわけじゃないけど、とにかく今はダメなんだって」


 広斗はがっくりと項垂れた。

想像もしていなかった展開に考えが追いついていかない。

長い間片思いしていた相手と、しかも脈なしと諦めていた相手とようやく想いを通じ合えたのに、こんなことってあるかよ。

美織の夢が叶ってほしいとずっと応援していたのに、いざそれが実現したあとでこんな仕打ちが返ってくるなんて考えてもいなかった。


 大人にマーケティングの戦略だと言われれば、まだ社会に出たこともない高校生の自分に太刀打ちできる武器なんて何もない。

美織のためだと理解に努めようとする一方、はいわかりました、と素直にうなずけない自分もいる。


「でも、隠れて付き合えばいいんじゃない?」


 広斗は頭の奥の言葉を整理できないまま、思わず口走った。


「そんな器用なこと、あたしができると思う? それに、近藤さんとかこれからお世話になる人の信用をなくすことできない」


美織は意思の強い目で、広斗の目をまっすぐ見据えた。


「わかってるよ、冗談だって」


 自分でも最低な発言だったと自覚している。


「その話を聞いたとき、あたしももちろんびっくりしたよ。そんなことまで言われるんだ、ってね。でも、近藤さんは意地悪で言ってるんじゃなくて、長期的なプランでマネージメントするための戦略だからわかってほしいって」


 時々、変なカタカナが混じるのは、近藤さんの受け売りの部分だろう。

それにしても、美織の目には一切の曇りがない。

こうなった時の美織に何を言っても無駄だと広斗は知っている。

美織のまっすぐな目を見つめ返すことができず、再びがっくりと頭を下ろした。


「でもね、」


 美織が少し優しい口調になった。

広斗に近付き、その膝に手を置いて駄々をこねる子供をあやすようにゆっくりと語りかける口調で話を続けた。


「今は恋愛禁止だけど、オッケーが出たときに付き合うのは広斗にしてほしいんだって」


「え?」


 絶望の中に見出した一筋の光のように広斗の顔がパッと明るくなって、爛々と輝く目は希望に満ち溢れている。

美織はそんな広斗の顔を見て、思わず吹き出した。


「ちょ、笑ってないで、詳しく説明して」


「あはは、ちょっと待ってよ」


 ひとしきり笑った美織は、わざとらしい深呼吸で息を整えた。


「一昨日のライブの映像もSNSで発掘されてあの曲の内容を深掘りされるだろうから、交際相手が広斗であってほしいんだって」


「あの曲って?」


「ライブで歌った最後の曲」


「タイトルなんだったっけ?」


 必死に隠そうとしているが、広斗の口元がニヤついているのを美織は見逃さなかった。


「帰る」


「あーごめんごめん、嘘です、知ってます、最後の曲ですよね」


 美織の有言実行は、良くも悪くも有言実行である。

立ち上がった美織の手首を掴んで元の位置に座らせるまで、広斗は掴んだ手の力を緩めなかった。


「それで?」


 疑問だらけだった点と点が少しずつ線になりつつある。


「だから、これからも幼馴染以上恋人未満の関係を続けてくださいって」


「美織はそれで納得してるの?」


「うん。それに、これは一時的な戦略で、いいと思ったらすぐオッケーを出すつもりだから少しの辛抱だって」


 美織は、あっけらかんと悪意のない顔でにこやかに話している。

そんな美織に対して、広斗は18年間で初めて憎たらしいと思った。

おれにとって、その少しの辛抱がどれだけ辛いかわかってんのか。

今だって部屋に2人きりで理性を保つためにどれだけの努力をしてると思ってんだ。


「だからね、」


 美織の声が少し小さくなった。


「すぐ付き合えないからって、広斗も別の人好きになっちゃダメだよ」


 恥ずかしそうにぼそぼそと小声で話す美織を見て、広斗の理性を止めていたフタはシャンパンの栓のごとくスポンと弾け飛んだ。

広斗は飛びつくように美織を抱きしめて、腕に力を込めた。


「ちょっとー」


 美織は広斗の腕の中で逃れようと動いてみるが、ビクともしない。

でも、その声色に本当の拒否がないことを確信して、広斗は一層腕に力を込めた。


「幼馴染以上恋人未満、だろ」


「うーん、そういやそうだね。幼馴染として抱き合ったことないし、恋人未満ならこれぐらいは許されるかな」


 美織は悪巧みを企てる子供のような無邪気さで声が弾んでいる。

ふと、それまで強張っていた美織の体の力が抜けて、広斗の体に全体重を預けた。


 なんとかの生殺しってこういうやつか。

広斗は歯を食いしばりながら、うわーと声に出して泣き叫びながら走り出す自分を想像して、なんとか暴れ狂う心の平穏を保つことに努めた。

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