第5話 覚醒の歌声


 暗転したステージに1本の白いスポットライトが当たると、相棒のギターを持った美織が中央のスタンドマイクと共に姿を現した。

口角をきゅっと上げた笑顔は、心からこの状況を楽しんでいるようにみえる。

収容人数いっぱいまで詰まったスタンディングの客席は、地鳴りがするほど大きな歓声で今日の主役を迎えた。


 美織の表情を見て、広斗はひとまず、ほっと胸をなでおろした。

ほんの十数分前の楽屋の出来事は、とりあえず影響していないようだ。

美織にとっては、動揺するほどの出来事じゃないだろうからな。

安心した気持ちと裏腹に、自分で自分の考えに大きなショックを受けた。


 動揺するほどの出来事じゃない——


 そりゃそうだと納得する反面、なにかを蹴り飛ばしたいほどの衝動も広斗の心の中には同居していた。

かぼちゃの話を聞いてから、感情のコントロールが壊れたことを自覚せざるを得ない。

だが、今はそんなことに神経を使っている場合じゃない。

広斗は両手で頰をパンと叩いて、ステージの美織に焦点を集中させた。


「こんばんは! 美織です! 明日からは、たぶんミオです!」


 美織はぐるりと観客を見回してから大きく息を吸って、最初の挨拶をした。

つかみは上々だったようだ。

客席のあちらこちらから、ヒューヒューという声が上がった。


「では、がんばります!」


 広斗は、がくっと腰が抜けた。

そこは、普通、聞いてくださいとか楽しんでくださいとか、観客を盛り上げる場面なのに、自分の抱負をマイクを通して言うなんて前代未聞なんじゃないか。

観客は特に気にしてないようで、美織のクラスメイトの集団からは「がんばってー」という声援が上がった。

美織がギターの弦を撫でるとステージのライトが全開になり、バンドの音が観客の鼓膜に一撃を与えた。


 1曲目は、SNSで火が付いた代表曲ともいえるアップテンポの歌で始まった。

先ほどの練習の通り、声の調子がいいので安心して観ていられる。

そうして1番のサビに入ったとき、広斗の体の中心に電流が走った。

今まで、何十回何百回と美織のライブを観続けていたのに、今日の美織の歌声は明らかに今までの彼女のものではなかった。

彼女が発する一音一音に魂がこもっている。

耳で聴くだけじゃなくて心に聴かせる音楽を歌いたい、と美織が以前言っていたことを思い出した。

そのときは、ふーん、としか返事ができなかったけど、広斗はそれを身をもって体感している。

美織の歌声が心の奥まで響いてくる。


 覚醒された彼女の歌声に感化されたのは広斗だけではないようだった。

キャーキャーと歓声を上げる大勢の中で、数人は声を上げるのも忘れて美織の姿に釘付けになっている。


「やば……」


 半ば放心状態になった広斗は、美織を目で追うので精一杯だった。


「今日の美織やばいな」


 突然、後ろから声がしたので、びくりと体が震えた。


「美織の声、神がかってんじゃん」


 いつのまにか後ろに立っていたミキさんが、話しかけているのか独り言なのかわからない様子で、広斗と同じく放心していた。


「なんて言うんだっけ、こういうの、ほら、あれ」


「オーラ、ですか?」


 爆音の中でミキさんの耳に届くように、首を捻って話しかけた。

あれ、しか言っていないけど、ミキさんの言いたいことが手に取るようにわかる。


「そうそう、オーラ出まくってるじゃん」


「……やばいっすよね」


 広斗の目には、たとえ美織がどういう格好をしていたってかわいく映ってしまう。

だが、今日の美織は、例え彼女のことを嫌いな人が見てもその輝きを否定することはできないだろう。

電流のような衝撃は広斗の胸の奥に溜まって、それはやがて両目から涙となってこぼれ出た。

広斗はもう、涙を隠すことはしなかった。


 よかった、美織の長年の努力は必ず実る。

暇さえあればピアノとギターの練習に時間を費やし、ボイストレーニングの教室に通い、毎日家で復習する姿を誰よりも近くで見てきた。

カラオケに10時間連続で付き合ったこともある。

実力もあるし、それに磨きをかけるための努力も惜しまない。

さらに度胸もある。

彼女に太鼓判を押して勧めることができる根拠は十二分にある。

そして、彼女の周りには応援してくれる人が溢れるほど、人望にも恵まれている。

その先のチャンスを掴むかどうかは運次第だが、その運さえも美織は味方にした。

歌と楽器が好きだった少女の夢がもうすぐ叶おうとしている。


 楽屋で感情に任せて、お前は成功する、なんて口走ったけれど、広斗は慰めでも身内の欲目でも簡単にそんなことを言ったつもりはない。

美織の努力を側で見続けていたからこそ、確信を持って言葉にできる。

美織の晴れ舞台なのに、なんで泣いてんだ。

広斗は袖でぐいっと涙を拭い、活き活きと歌う美織を見つめた。


 さすが美織だ。

美織を好きになってよかった。

明日から彼女は遠い世界に行ってしまうかもしれないなんて悩みは、美織の歌声を前にするとちっぽけに思えてきた。

これからは隣ではないけれど、それでも応援を続けよう。

このライブが終わったら、とりあえず謝りにいこう。

一世一代の大舞台の前に自分勝手な行動をとった幼馴染を、美織は許してくれないかもしれない。

美織のことだ、今日はもう会ってくれない可能性もある。

広斗は自分の考えながら十分あり得ることだと妙に納得し、自然と頷いた。

それでも、自分が永久に1番のファンであることだけは伝えておこう。

そう決心すると、今までのもやもやが吹っ切れてむしろ清々しい想いさえしてきた。


 両目から流れていた涙を拭おうとすると、横からティッシュが箱ごと渡された。

ミキさんがこちらを見ずに、使え、と顎で指している。

以前からミキさんには広斗の気持ちがバレてるんじゃないかと思っていたが、今日でお互い確信に変わっただろう。

もらったティッシュで涙を拭きとり、もやが晴れた視界で美織を見ると、美織と自分の間にはたくさんの後頭部があった。

これだけの人数がいたら、かぼちゃのひとつとなって埋もれてしまうことも納得ができる。


「ミキさんは、ステージ上の美織と目が合ったことありますか?」


 体ごと捻ってミキさんの耳元で大声で尋ねた。


「そりゃあるだろ。さすがに今日は無理だろうけど」


 ない、という答えを期待していた広斗は、言葉を失った。


 どういう場面でどういう風に視線が合ったのか詳しく聞きたいけれど、ここで長い会話はできない。

いやいや、きっとミキさんが質問を取り違えたか、自分が聞き間違えただけだろう。

案の定、今日も美織は広斗のほうを1度も見ることはない。

そうして、ついに、最後の曲になった。

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