第4話 告白
外からの音で完全に覚醒した美織はもう一度深く深呼吸をすると、足を肩幅に開いて両手を臍の上で合わせ、発声練習を始めた。
軽く喉を慣らす声出しをしたあと、最も苦手だと公言している曲を歌い始めた。
自分で作詞作曲した歌とはいえ、技量の必要な曲では失敗することも多々あった。
広斗は楽器もできないし音符も読めないけれど、練習に何度も付き合ったおかげで美織の曲だけは誰よりも理解している自負がある。
果たして今日の美織はというと、今まで間違えたことなんて嘘だったかのようにさらりと歌いこなしている。
「どうだった?」
いつものように、美織は歌い終えたあと広斗に感想を求めた。
自分でも手応えがあったようで声の調子は明るい。
「過去イチよかった」
広斗の返答に、やったね、と小さくガッツポーズをして、鼻歌を歌いながらペットボトルに手を伸ばした。
広斗はその隙に、こっそりと両目に浮かんだ涙をTシャツの袖で拭った。
「今日、がんばれよ」
「はいはい、大スターになるためにがんばりますよ」
ああ言えば、こう言う。
お互いの両親から、猫と犬のケンカだとからかわれてきたこの掛け合いも、今日で最後だろうか。
もし、ここで広斗がなにも行動を起こさなければ、明日から美織は新しい世界に飛び立ち、広斗のことはただの幼馴染として忘れ去っていく可能性もある。
せめて、美織の記憶の隅にも留まらない役割で終わるのはやめよう。
「お前はおれのことなんてすぐ忘れてしまうだろうけどさ」
投げやりだと言われれば、否定はできない。
だけど、感情が昂った広斗の口は止まることができなかった。
「広斗の中のあたしはずいぶん薄情なんだね」
美織は広斗の顔を見ることなく返事をした。
「お前が態度でかい女でも、生意気で強情で意地っ張りで可愛げないやつでも、自問自答した答えはいつも同じなんだ」
「はいはい、広斗があたしのことをどう思っているか、よーくわかりました。態度がでかくて生意気で、あとなに? 可愛くなくて、どーもすみませんでした。これでいい?」
美織は、ふんと鼻で息をして、広斗の足元にあるギターに手を伸ばした。
ふいに、美織の顔が、肩が、腕が、体がすぐ近くにきて、広斗の背中に緊張が走った。
広斗は爪が手の平に刺さるくらい、両手のこぶしに力を込めた。
そうでもしないと、目の前にいる美織を抱き寄せてしまいそうだ。
「美織、おれはお前のことが好きだ」
「へ?」
喧嘩を売られていると思い、臨戦態勢だった美織の口から情けない言葉が出た。
ゆっくりと首を動かして広斗のほうへ顔を向けると、今まで見たことのない男がそこにいた。
突然のことに驚いて肩の力が抜けた美織と、背筋の伸びた広斗の間に、数秒間の沈黙が落ちた。
「えっと……」
美織は、ようやくそれだけを口に出したが、あとが続かない。
数時間にも感じる数秒の駆け引きが続いたが、美織がギターの首の部分を握りなおした拍子にジャランと音が響いて、それが張り詰めた空気の中でぶつかり合った視線を外すきっかけとなった。
「返事とか期待してないから。……まあ結果はわかってるし」
横を向いて拗ねたような口調の広斗は、いつも通りの広斗に戻っていた。
「ってかさ……」
その広斗を見て、美織もいつもの自分を取り戻した。
「……うん」
「ってかさ、それ、いま言う?」
「……だよな」
今さらながらばつの悪さを感じた広斗は、踵を返して楽屋のドアに駆け寄った。
「ステージ、がんばれよ」
背中を向けたまま言い終わるが早いか、広斗の身体はすでに楽屋の外に吸い込まれて、取り残されたようにドアがバタンと音を立てて閉まった。
「え?」
美織は閉まったドアを見つめたまま固まった。
「しかも、言い逃げ……?」
ぽかんとあいた口がしばらく閉まらなかった。
広斗が楽屋を飛び出ると、奥にある倉庫のほうから走ってきたカジさんに正面からぶつかりそうになった。
「なんだ、広斗、まだここにいたのか。早く客席に行け」
楽屋での会話を聞かれていたとは思えないが、広斗はどぎまぎしてうまく返事ができなかった。
本番直前の雑用で倉庫とフロアを行ったり来たり走り回っているカジさんは、そんな広斗の変化にまるで気づく様子はなかった。
カジさんに背中を押されるように急かされフロアの入り口にくると、ベテランのミキさんが広斗の姿を見るやいなやその腕を引っ張ってフロアの中へ押し込んだ。
「後ろの場所しか確保できなくてごめんな」
満員御礼のなか、広斗のためにちょうど1人分の場所を空けてくれていたようだ。
「ありがとうございます」
広斗が頭を下げている間に、ミキさんはすでに走り去りながら親指を立てて応えてくれた。
客席は人いきれで、息苦しいほど熱気がこもっている。
ステージ上では顔なじみのバンドメンバーが、観客たちの士気をあげるように時々客席に向かって鼓舞しながら練習を続けていた。
ギターのリョクさんがぐるっと客席を見回したとき広斗の存在に気付いて、両手をぶんぶんと振ってくれた。
ドラムのセキさんとベースのダイさんも、よっ、と手を挙げて挨拶してくれた。
その行為に合わせて周りの観客たちから一瞬好奇の視線を浴びたが、広斗が何者でもないと確認した観客は、再びステージに視線を戻した。
その一瞬の視線でさえ、広斗の顔は赤く染まった。
そして同時に、美織の偉大さに改めて気付いた。
そしてまた同時に、後悔の念に押しつぶされそうだった。
なんで、こんな大事な時にあんなことを言ってしまったんだろう。
やっちまったよな……、間違いなくやっちまった。
楽屋からここまで走ってきたことで上がっていた呼吸は収まったけれど、心臓は跳ねそうなほど速い鼓動を刻んでいる。
今日、あんなことを言うつもりは毛頭なかった。
だからといって、いつ言おうとか具体的に決めていたわけではないけど、こんな美織を困らせるタイミングで言うなんて考えもしていなかった。
いや、待てよ、と、広斗はふと我に返った。
美織は困ってなんかいなかった。
広斗の突然の告白に喜ぶまでは期待していなかったけど、恥ずかしがるでもなく、驚くでもなく、考える素振りさえなかった。
鳩が豆鉄砲を食ったような、とはああいう場面に使うのだろう。
美織の気持ちはわかっていたはずなのに、彼女の態度は広斗の想像以上だった。
おれの青春は終わった。
思わず、ははっ、と声が漏れたが、爆音の中でその声に気付くものはいなかった。
美織の人生が決まる大事な日の大事な出番直前に、自分勝手な行動をしでかした自分にはふさわしい幕引きだ。
ただ、やはり、美織は大丈夫だろうかと心配になる。
美織のことだから心配ないと思う反面、誰よりも美織を知る広斗だからこそよぎる不安もあった。
観客たちがバンドの音に合わせて体を揺らしたりジャンプしたりしている中で、広斗だけが微動だにせず立ち尽くしていた。
開演時間を2分ほど過ぎたとき、蛍光灯の明かりが絞られて、日の出のような暗いオレンジ色のライトだけになった。
ステージ上は真っ暗になるまで落とされたが、その光量がゼロになるまでリョクさんは客席に向かって手を振って、観客の笑いを誘っていた。
いよいよ、ライブが始まる。
観客の誰かが指笛を鳴らすと、それに呼応するように指笛があちらこちらから響いて、どこからか「ミオー」と叫ぶ声が上がった。
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