第3話 見えない距離


 広斗は、最初の頃はSNSでの美織の評価が上がる度に喜んだ。

美織の才能が日に日に世間に認められていく。

そのことをただただ喜んでいた日々は、ある日、突然の焦燥感を連れてきた。

美織が有名になればなるほど、彼女が遠くに行ってしまうような気がした。


 そして、いよいよ今日は美織にとって人生の節目になるであろう日。

レコード会社との契約を結んだ瞬間から、美織には無限の可能性が広がっている。

夏休みを利用してSNSの枠を超えた活動をしていく予定の美織は、その活動が成功すれば2学期から転校する可能性もある。

そうなると、それこそこんな片田舎の小さなライブハウスで歌うことなんてもうないだろう。

美織の世界が広がっていく一方、広斗の日常は明日も明後日も1カ月後もおそらく1年後も、今日と大して変わらない1日が繰り返されていくだけ。

いつも隣にいた幼馴染との距離が広がっていくことは、火を見るより明らかだ。


 これから、かぼちゃは千にも万にもどんどん増えるだろう。

たった数10個のかぼちゃの中ですら見つけてもらえなかった自分なんて、すぐに埋もれてしまうに違いない。


 美織は強張った指を無理やり動かしてギターの練習をしている。

その側で立ち尽くしている広斗の鼻腔に、爽やかな柑橘系に少し甘さの混じった匂いが届いた。

美織がライブの時だけ愛用している香水の匂いだった。

ライブで汗をかいたときの匂いが気になるから香水を買いに行くのに付き合ってほしいと言われたのは、高校1年生になってからすぐのことだった。

香水を売っている店なんて女性ばかりだろうと気付いたのは、いつものように二つ返事で了承した後だった。

女友達と一緒に行けばいいのにと思ったが、ライブに関することで自分を選んでくれたことは素直に嬉しかった。

親切な店員さんに選んでもらった汗に反応して匂いが強くなるこの香水を美織はずっと愛用している。

広斗にも慣れ親しんだこれを、美織はいつまで使い続けるだろうか。

高校生のお小遣いで買える安っぽいものではなく、もっと高級な香水に変える日がいつかくるだろう。

そして、その買い物に付き合うのはきっと自分ではない。


 広斗は、自分の心が自分のものでなくなっていく感覚を覚えた。


「美織は、おれのことなんてすぐ忘れるだろうな」


 美織は聞こえているのかいないのか、広斗の言葉を無視してギターを弾き続けている。

広斗は自分自身を理性的だと自己評価しているし、実際、クラスメイトからもおとなしい印象だとよく言われる。

だから、頭で考えるよりも口が先に動き出す今の自分を制御する方法がわからないでいた。


「おれ、美織と幼馴染でよかったわ。じゃないと、こんな風に一緒にいることもなかっただろうし」


「だから、なに急に」


 美織の口調が苛立ち始めていることに、広斗は気付いている。

気付いていても、どうすることもできない。

なぜなら、もっと苛立っているのはこのおれだ。

歯止めの利かなくなった広斗の口は、余計なことまで口走った。


「でも、大スターになる予定の美織と一緒にいるのは今日で最後になるかな」


 広斗はさすがにしまったと唇を噛んだが、言葉に出てしまったものを引き戻すことはできない。

美織が返事をするまでに一瞬の間があった。


「広斗は応援してくれてると思ったけど、違うみたいだね」


 苛立ちから落胆に変わった美織の声が、暗く沈んで2人の間に落ちた。

違う、そうじゃない、と言いたかったが、果たして自分が何を言いたいのか、広斗自身考えあぐねていた。

これ以上口を開いたらとんでもないことを言ってしまいそうな気がする。

広斗は自分を落ち着かせるために、この場を離れるしかないと思った。


「おれ、トイレ行ってくる」


 美織は立ち上がった広斗に構う様子もなく、視線はギターに向けたままだ。

広斗が重いドアを開けて楽屋を出ると、廊下の向こう側からがやがやとした喧噪が耳に飛び込んできた。

ロビーを通ってフロアに向かう人の波と、興奮と期待に満ちた声が途切れることなく続いている。

美織はこの雰囲気にのまれたんだ。

この大人数が自分を観に来ていると考えると、さすがに身がすくむ思いがする。

美織の心情を想像すると胸が痛む。

だが、それ以上に広斗の感情を揺さぶったのは、見知らぬ人たちが軽々しく「美織」「ミオ」と口にしているのを見たときだった。

いつも隣にいた美織が既に遠くへ歩き出していることを痛感させられた。


 用のないトイレから戻ると、美織はギターの練習を続けていた。

広斗は美織の真正面に立ったまま、顔を背けてぎゅっと頬の内側を噛んだ。


「おれはお前の成功を心から願っている」


「そうかな。とてもそうとは思えない」


「ただ、おれの想定より早すぎたんだよ」


「なにが?」


「歌手を目指すにしても、おばちゃんの許しが出るのが高校卒業してからだと思ってたし、そもそも今回のことだってこんなにうまく話が進むなんて想像してなかった」


「私もそう思ってたよ。ってか、喧嘩ならあとにしてくんない。発声練習もしたいんだけど」


 美織は抱えていたギターを横に置いて、パイプ椅子に深く腰掛けて足を組んだ。

足を組むときにわざとらしく大きな動作にしたのは、美織なりの威嚇だろうか。

さらに、肩を上下させて腕も組む。

まるで仁王立ちを座って表現しているようだ。

そんな美織を真正面にして、広斗は大きくため息をついて肩を落とした。


「なんでこんな態度のでかい女をって、おれも何回も自問自答したんだ」


「態度のでかい女って私のこと?」


「それ以外に誰がいるんだよ」


「だから、喧嘩ならあとで買うってば」 


 美織が勢いよく立ちあがった瞬間、ドアの向こうの喧騒が一層大きくなった。

バンドメンバーが音合わせを始めたようで、ドラムやギターのリズムに合わせて観客の興奮した歓声が地鳴りのように足元から伝わってくる。

楽屋のドアも共鳴しているかのように細かく振動している。

建物ごと縦揺れしていてもおかしくないほどに、観客の熱気がライブハウスの空気を見事に作り上げていた。


 喧騒に気圧されて立ち上がった姿勢のまま硬直したかのように見えた美織は、鼻から大きく息をたっぷりと吸い込んで、その倍の時間をかけて口からゆっくりと息を吐き出した。

そこにいるのは、さっきまで不安で縮こまっていた少女ではなかった。

目は大きく見開いて煌々と輝き、内側から溢れだしてくる力が後光となって見えてきそうだった。


 そうだ、これが美織だ。

学校の行事でも、直前まで緊張でがちがちだったくせに、いざ本番になると大成功を収めてきた。

美織は土壇場に強く、なによりも聴衆を惹きつける能力に長けていた。

そして、そんなとき広斗はいつだってその他大勢のうちの1人だった。


 どんな喝采を浴びたとしても、本番が終われば美織はいつも自分の横に戻ってきた。

でもこれからはそんな機会はなくなるに違いない。

今しかない。

やっぱり美織とこの距離で話せるのは今日が最後かもしれないんだ。

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