第二章 徒花の夢⑧


 叶守の急接近に、一拍遅れて郷田が警棒を翳しながら前へ出る。 

 体格と獲物、大きさが正反対の二人は戦い方も対照的だ。膂力が足りない分、勢いをつけて勢いのままバットを振るう叶守に対し、郷田はどっしりと構えて相手の攻撃をいなし、力のままに隙をつく。慎重に立ち回ろうとするほど、勝負は長くなる。

 最初の一撃。左手から右手、逆袈裟の形でバットを振るう。

 昼のバトルの続き、大小の棍棒が再び激突して第2ラウンドが始まる。――そう、思っていたからこそ、たったの数手であっけなく郷田の手から警棒が弾け飛んだのは意外だった。

 弧を描いて警棒が闇夜に消え、丸腰の状態になる郷田。

 そのあまりの手応えのなさに、叶守も思わず目を僅かに丸くする。

 気勢をそぐ違和感、頭痛。だが、絶好のチャンスに他ならない。

 叶守は渾身の力でバットを振り上げる。郷田は後ろに倒れながらガードをする仕草も見せず、鉄扉まで叩きつけられた。

 尻もちを着いて鼻血を垂らす郷田に、叶守はバットを再度構える。

 お覚悟を。バットを振り下ろす直前、しかし郷田は不敵な笑みを返した。


「ッ叶守!」


 アスマの叫びが耳朶を叩いて、「え?」少し遅れて叶守の腹から鮮血と共に鋭利な刃が突き出した。







******








「ッ叶守!」


 アスマが叫ぼうとした時には、もう遅かった。

 音もなく、反射的な速さで近づいたソイツは、叶守の腰に向かって抉るように深々とドスを突き刺すと、反動のまま勢いよく引き抜いた。驚愕に目を見開き、バットを放した叶守に、血塗られたドスで追撃をしかけようとする。

 しかし、叶守は気合いで身をひねると、襲撃者の腰に回し蹴り。勢いよく蹴り飛ばした。だが――


「ラァア!!」


 郷田が血気盛んに起き上がると、そのまま肩から叶守に烈しくタックル。

 衝撃をまともに食らった叶守は藁のように吹き飛ぶと、地面を転がって血の轍を撒いた。


「ッ――!」


 痛みにも疲れにも否応なく、アスマの体は勝手に反応していた。転がるように駆け寄り、うずくまる叶守に声をかけようとして、


「…………はッ!?」


 その時、ふと何か嫌なモノが蠢いた気配がして、とっさにそちらに目を向けた。

 視線の先に、先ほど叶守を刺した襲撃者――郷田の手下が、糸で操られたマリオネットのような動きで起き上がっていた。見ていて不安を覚える……逆再生でもしているような重心の無さ。

 ソイツがゆっくりと顔を上げた瞬間、アスマは慄然ゾッとして全身が総毛立った。

 サングラスの外れた双眸……その白目が異常なほど血走り、グロテスクなまでに赤黒く染まっていたのだ。

 眼が震えて、熱視線がぶつかる。

 その両目は焦点が合っていないものの、狂気的に刮眼かつがんされ、食い入るようにこちらを見据えている。

 アスマはこれと同じものをついさっき見た。

 まさか。

 周囲に飛び散った他の手下達がアスマの気付きに応じるようにフラフラと立ち上がる。

 その動きには、やはりどこか人間味がなかった。


「こ、こいつら……」

「悪霊に乗っ取られてる」


 先に続きを言ったのは郷田だった。手下の横に随伴するように並び、物のようにぞんざいに肘で小突く。


「ちょっとやそっとの衝撃じゃすぐ起き上がる。あるじの俺がやられりゃ尚更だ」

「……そこまで堕ちてましたか」


 叶守が苦悶に顔を歪ませ、零細の声を発する。その様を見て官軍を気取ったように郷田がほくそ笑んだ。 


「ハッ! “ココ”は最下層だ。ハナから全員墜ちてんだよ。……二人を殺れ!」


 めいを受けた悪霊達が陽炎のようにゆらゆらとした動き始める。

 そうはさせじと、食いしばった歯から気力を漏らして叶守は立ち上がるとコンクリートに煙玉を数発まとめて投げつけた。煙が瞬く間にアスマと叶守を中心に爆ぜ、屋上の大部分を覆う。


「チッ、動くな! 煙が晴れるまで周り囲め!」


 煙の向こうから郷田が手下達に命令を下す。

 しかし、今のアスマにそれに注意を向ける余裕はなかった。


「叶守!」

 

 かすかに震える彼女の姿を見取って、その惨状に息が詰まる。

 刺突の直撃は腰から腹まで貫通しており、流れ出た血がスプロール状に屋上を蚕食さんしょくしていた。蒼白の顔色で傷口を抑えながら、前かがみで喘鳴を漏らしている。

 ……はやく病院に連れていかなければ。

 しかし、ここは屋上だ。逃げる場所はなく、出口は一箇所しかない。そして、その出口は郷田に塞がれている。

 どうする。煙の出ている内がチャンスだ。とにかく郷田をどけて逃げ道をつくらないと……。だが、叶守を連れていくなら派手な動きは出来ない。

 でも、どうする。どうすれば。

 思考の渦に入りかけたその時、叶守がアスマ制服の裾を引っ張り「……そこの穴」と口を開いた。示された指の先には、叶守によって爆破されたコンクリートの穿孔。


「逃走経路になってます。あそこから、アスマは逃げてください」


 それはやけに胸騒ぎがする言い方だった。

 

「…………アスマはって……叶守は?」


 底気味の悪い汗が噴き出し始める。

 問いに対し、叶守はうんうんと首を横に振り、どこか諦観したような表情を見せて傷口を擦った。


「……ワタクシは、ここにのこります。こっから逃げても仕方ないので」


 ここに遺る。その言葉を聞いた瞬間、心臓に重たい鉛玉を流し込まれた気分になった。

 アスマの顔を見て叶守はうっすら笑うと、バットを支えに体を起こし、


「まっせめて、郷田アイツに一泡吹かせて、一花咲かせてやりますわ」


 いつものような語気で威勢を張った。

 でも、アスマにはそれが屠所の羊が最期にいなないているようにしか聞こえなかった。


「な、なんで……。なんで、そんな……。やり残したこととかあるでしょ」


 叶守は口を閉ざしたまま、わずかに目線を下げた。うんともすんとも言わない。無風の屋上に静寂が満ちる。

 でも、それだけで、言わんとすることは計り知れた。

  

「……嘘だ」乾いた声が、最初に零れた。


 これから死が迫ってくるというに悟ったような顔をする叶守に、堰を切ったように行き場のない感情が溢れでる。気づけばアスマは叶守の落とした手帳を本人に突きつけていた。


「あるだろ……! 今だって、やりたい夢が色々。散々生き急いで今度は死に急いで、見てて痛いんだよ。それで最後卜ぼくを助けて死ぬとか、勘弁しろよ。重いよ」


 状況が状況のため、語気は荒げなかった。だが、感情のままに震えた声が残響のように半径2メートルに響いた。

 その言外からの気色に叶守は目を丸くすると、やがて二転三転表情を微妙に変えた。そのまま表情の行方を探して、明後日の方向に顔を逸らすとスンと鼻を鳴らした。


「……ワタクシは、アスマにだけは先立たれて欲しくないんです」


 そっぽを向いたまま叶守はポツリと呟いた。

 常とは異なる夜半に溶けるような神妙な声が、液体のような感覚で耳に流れ込む。

 寝耳に水を入れられた気分になって、心の水面が波立ち騒ぐ。


「……それは、つまり――」

「だって……ワタクシ、アスマがいなくなったらマウントを取れる相手がいなくなってしまいますもの」


 その放たれた予想外の告白に、思わず「え」と母音を形作ってぽかんと口を空ける。……今、なんて言った?

 叶守は間抜け面したアスマに顔を向けると、死に支度を済ませんと口を開いた。


「ワタクシにとって、この世で唯一コイツよりは自分はマシだって思える人間、それが貴方ですわ。『占いでビッグになる』なんて夢掲げてる大バカ、他にいませんから」 


 しおらしい態度をしたと思えば、とんでもないことを言われた。頭の中で何回も言葉を咀嚼してやっと飲み込む。


「……は、それは……そんなの、叶守だって同じようなものでしょ。手帳これにだって散々――!」

「同じじゃないですわ。ワタクシのとは違って貴方のは本物で、絶対に結実させたいもの。……そうでしょう?」


 そう言ってから、叶守はどこか懐かしむように古びた手帳の皮の意匠を眺めると、アスマの手からひょいと取り返した。


「――……れてきた! 詰めろ!」


 煙の向こうから郷田の声が響く。

 でも、不思議と意に介する気はまるで起きなかった。叶守もそれは同じらしい。この場に、自分たち二人しかいないような錯覚。

 煙幕が薄まり、悪霊達の殺気も近づく中、アスマと叶守は目を合わせて固まっていた。

 「ねぇ」先に沈黙を破ったのは叶守だった。


「今から少し目をつぶっててくれません?」

 

 なんで? 意図を聞こうとするも「いいから」と急かされアスマはいぶかりながらも目を閉じた。視界に暗幕が降りて、一気に意識が落ちそうになる。 

 目の前で何か動いた気配がした。吐息が聞こえて、次にジャリっと踏みしめる音が。


「……それから、歯を食いしばって」


 …………歯?

 ますます意図がわからず、聞き返そうとしたその時、

 

「ザキナウェイ!」


 叶守の掛け声と共に「バチン」とアスマの顔に何かが当たった。思わずうっすら目を開けると、視界が開かれた紙のページで覆われていた。手帳を投げられていた。


「ちょ、な……――ッ!!」


 非難の声を上げようとして――転瞬、鉄柱にぶつかったような衝撃が身体に轟いた。

 その衝撃に地面から足が離れる。

 手帳が顔から外れ、開けた視界にはマスコットバットで振り抜いた叶守の姿があった。

 その姿を見ても、自分が打ち上げられたことを咄嗟に理解できなかった。

 飛ばされたアスマの体は、屋上に着地することなく一箇所の穴に吸い込まれる。

 その間、不思議にもアスマの目はスローモーションに世界を流していた。

 落ち始める瞬間、また叶守と目が合う。  

 彼女はいつもの不敵な笑みを浮かべた。


「あはははざまあそばせ〜! 地獄に落ちろ占いピエロ!」


 ゲスな口調で最低の言霊が否応なしに耳に流れ込む。言葉を紡ごうとして、手を伸ばすのが限界だった。

 ゆっくりと視界が暗転し、体が重力の洗礼を受ける。

 

 屋上に風が走る。

 世界が反転する。

 夜の星が見える。

 

 アスマの意識が幽遠の闇に落ちていく。    

 どこまでも深く。

 落ちて、落ちて、落ちて――最後に、耳をつんざくような音がして、まぶたの奥で儚げな光が最後に強く点滅した。


      



            ◆徒花散華――。





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