第■章 あの日、屋上で②


「し、死ぬって……」


 叶守の声がだだっ広い屋上に悲痛に響いた。

 フェンス越しの男子生徒の先輩は、意に介さず空を見上げていた。


「……どうしてそんな? 何か嫌なことでも?」


 問いに振り返ることもなく、先輩は「そうだね」と歌でも歌うように言葉を口にする。


「今日はカバンが隠された」

「……カバン?」

「いつものことだよ。大事な物はポケットに入れてるんだけど、そうすると今度はカツアゲされるんだ」

「……イジメですか」


 胸中に胸糞悪い感覚が湧く。


「言っとくけど、それだけが原因で死にたいんじゃない。肌に合わないんだよ。よかったら聞いていってよ、ぼくの話」




 それから、彼が話したのはなんてことない生い立ちだった。

 当たり前に幼児センターから沖縄で育ち、当たり前に学生になっただけ。

 そんな空虚な人生に満ちた日々を送っていたと語る彼は、でもあの頃は楽しかった。と口に出し、沖縄での青春を語った。


「ぼくには人生で一回だけ友達……彼女がいたことがあってね。ま、沖縄にいた頃だから所詮ガキのお遊びなんだけど……」


 彼が語るに、その彼女は頭はいいが嘘つきで手癖が悪く、陰口のレパートリーが無限にあるような性悪女だった。


 彼は彼女の悪口を言いまくった後、でもと一旦話を切り「本当、性格悪くて最高だった」と彼は微笑んで言った。

 そういう彼も十分性格悪いなと内心思ってしまった。

 結局、彼は自分の名前を最後まで口にしなかった。

 


 

 先輩は「はぁ」とため息をつくと、真下で蠢く人波を何の感慨もなさそうに見下ろした。


「久しぶりに色々話せて良かったよ」


 そう言うと、彼は屋上の突端に立ち上がり、恐らく晴れやかな表情で空を仰いだ。


「ほ、本当に……し、死ぬ気なんですか?」


 叶守が声を震わせて気は確かかと問う。


「そうだよ? 嫌なら目を反らせばいい……もったいないけど」

「もったいないのは……あなたの方です」

「それはどうだろ?」


 先輩は調子よさそうに小首を傾げる。

 最初に会った時からそうだが、先輩はこれから死のうというのに一切余裕を崩さない。

 虚言かとも思ったが、その割に行動が大胆すぎる。

 そこで、一つ思いついた仮説を提唱した。


「……あなたは悪霊になりたいんですか?」

「どうして?」

「悪霊になって自分を虐めてた奴に痛い目見せたいとか……そういう人、いるって聞くし」


 言い終わると、先輩は吹き出して君は青いねと笑いだした。

 その勢いで落ちそうになってハラハラする。

 先輩は一呼吸入れて、調息を整えた。


「ぼくが死ぬのは本当に個人的な理由。死んでも化けて出たりしないよ。満足して死ぬ」

「……どうして言い切れますの……?」

 

 叶守が心配そうにうつむいた。


「ま、奥の手があるしね」


 先輩はそう言ってポケットに手を突っ込むと、首を限界まであげて青天井を仰いだ。

 大きく深呼吸して、前を向く。


「よかった。待ってたんだ……話を聞いてくれる人。……入学式、来てよかった」


 それが、遺言だというのは恐らく叶守も察していのだろう。だからこそ、叶守は先輩の言う通り目を背けた。

 何かが……喉元までせりあがる感覚がした。

 何か最期に言わなくちゃ。と身体が急かしているみたいに。

 でも、何を言えばいい?

 早まるな。人生は捨てたものじゃない。まだ若いのに。一緒に頑張ろう。まだ間に合う……

 そんな陳腐で綺麗な言葉しか頭に浮かばないまま。

 フェンス越しに先輩は、ポケットから手を出して顔の前に持ってくると、その場に立ち尽くした。

 三人とも何も言わず、同じ空の下で止まった時間が流れる。

 最初に声をあげたのは……


「ぐ……ァ……ッ」


 先輩がうずくまってうめき声をあげる。

 屋上の突端、生と死の僅かな狭間で先輩は苦しそうに体をワナワナと震わせ、悲痛な叫びをあげて首を引っ掻いた。

 愕然として絶句した。

 てっきり飛び降りるのかと思っていた。

 まさかこんな苦しそうな自殺を選択するなんて……。

 やがて先輩は後ろ手に鉄柵を握りしめ、体を丸めて縮こまると――


「……な…………、…………?」


 最期の言霊を吐き出し、突端にうずくまったまま、息を引き取った。




******




「……う、うぅ…………」


 声の方を見ると、叶守はフェンスを正面にうずくまったまま嗚咽を漏らしていた。

 ……見ていたんだ、今の先輩の姿を。

 言葉もなく叶守に駆け寄ろうとして……ふいに、冷ややかな気配をフェンス越しに感じた。

 フェンスの向こう、先輩の死体の上に黒い風が吹き荒び、渦をまいて何かが醸成されていく。

 黒い瘴気が滞留し、一つの形となる。

 窪んだ眼窩、細い手足、背中から突き出た翼のような骨……そして、貼り付けられた苦悶の表情。

 まさしく悪霊の姿がそこにはあった。


「■狡憎ァ?」


 悪霊は、フェンスに手をかけると力を込め、その形を曲げていく。

 がらんどうの目は……うずくまった叶守に向けられていた。


「ッ叶守さん!」


 大声をあげて駆け寄ると、叶守の肩を叩いた。


「しっかり! 立って! は、早く!」


 必死に揺さぶると、異変に気づき、叶守の双眸は今まさに自分に迫ってくる悪霊に向けられた。


「ァ……そ、い……や……――」


 叶守は顔を真っ白に染めると、瞳の焦点を失い、魂が抜けたようにだらんとその場に倒れた。

 

「叶守さん……? ちょ、叶守!」


 頬を叩いてみるも、叶守は何の反応示さず、電源が切れたようにロボットのように口を開けて完全に停止した。


「……嘘」


 そう力なくつぶやくと、背後でバキっと破壊音が響いて慌てて振り返る。

 悪霊がフェンスをこじ開けた瞬間が両目に映った。


「――ッ!?」


 いそいそと叶守を背負うと脇目も振らず、鉄扉まで屋上を駆け抜ける。意識のない体の重さをおぶるのに苦戦しながら、あと少しで、出口に辿り着こうとしたその時。

 ふいに、背中から叶守の重みがなくなった。

 パッと後ろを振り返ると、叶守の首根っこを捕まえた悪霊が彼女をコンクリートに叩きつけている最中だった。

 いつの間にか……引っ張られていた。

 相変わらず叶守は意識のないまま、コンクリートに倒れ伏すと、何の抵抗もしないまま悪霊に覆いかぶされた。

 「叶守」と駆け寄ろうとして……はたと思いたつ。

 さっきから、なんであの子を助けようとしてるんだぼくは……。

 叶守は今日、入学式で初めてあったばかりの言ってしまえば『他人』だ。わざわざ自分の危険を冒してまで助けるような関係じゃないだろう。

 そう心のうちで自分の意見に首肯する。

 ぼくは途中まで助けようとした。

 叶守には、悪いが恨まれる覚えもない。

 悪霊の腕が振り上げられる。叶守は未だ何の反応も示していない。

 固く目を閉じると、踵を返して出入口に向かった。

 ……ふと――


「……ダメだ」


 と、誰かの声が耳に届いだ。

 振り返って叶守を見やる。まだ気絶したままだが、寝言を言ったのか……?

 それとも、まさか……と自らの胸に手を当てた。ぼくが言ったのか……?

 動悸が加速して、周りの景色が妙にスローモーションになる。

 

「……お願い」


 揺れる視界の中、悪霊の腕がゆっくりと叶守に振り下ろされる。

 立ち尽くして、ぼくは――


「……助けて」










―――――――――◆――――――――――








 ボトリと腐った果実が落ちるような音を幻聴した。

 霞んだ視界の半分で、赤黒い液体がコンクリートに蚕食するのを見た。

 熱くて鈍い痛みが頭に響いて……自分はわけも分からず仰向けに倒れ伏した。

 誰かが覆いかぶって、こちらの顔を狂気に歪んだ目で覗いてくる。

 彼は嬉々として凶相を浮かべると、そのからだを黒い霧に昇華させ、吸い込まれるようにこのからだに侵入していく。

 なんだか、自分の瞳でみているのに、妙に客観視してしまう。そのせいで、どうにも滑稽な気分だった。

 だんだん意識に靄がかかってくる。仰いでみる青空がどんどん遠のいていく気がした。

 眠くなってきた。

 終幕をつげるように、まぶたが重くなってくる。

 やがて、世界は真っ暗闇に染まった。







******








「――夢に胡蝶、うつつ火取蛾ヒトリガ


 冷たいひとりぼっちの闇の底。


「後生大事や金欲しや、死んでも命のあるならば」


 火の粉のような鱗粉がきらめいて。


「……飛んで火に入れ夏の虫」


 それだけがあたたかく脳裏に焼きついた。







******







 何が起きたのかは、目を閉じていたのでサッパリ分からない。

 誰かの手が顔を撫でて、魔法のようにすぅっと痛みがなくなった。

 目をうっすら開けると、光彩に包まれた悪霊は青空に混じって雲散霧消していた。

 頭上に誰かの気配。

 呆然と見上げると、博士のような白衣を着た老齢の女性が見下ろしていた。


「――君、名前は?」


 新品の水晶玉のような玲瓏たるまなこが、ギョロりとこちらの顔を覗き込む。 

 ……名前。どもりながら吐き出す。


「…………あ、ス……マ……」

「――そうか、君の名はアスマくんか」


 彼女は、いい名前だと満足気に頷いた。







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