第二・五章 ハカセ

 

 初めに聞こえてきたのは多分、鳥のさえずりだった。 

 なんだか、陽だまりの真ん中にいるみたいだ。体が温かくて心地良い。

 風が頬をくすぐり、髪を撫で、花の香りが鼻腔びこうで踊る。

 目蓋の裏に赤みがさしていく。口の中に苦味を感じてもごもごする。

 ほこりかぶっていた意識がゆっくりと覚醒し、重い目蓋から少し光が漏れる。

 手庇しながら目を何度か瞬くと、一面の青天井が酔眼すいがんに映った。

 夢見心地のまま悠々と上体を起こす。

 視界に広がったのは、一面の花畑とそこで戯れる蝶たちの、花鳥風月を絵に書いたような光景だった。

 ……ここは――


「おはよう。ずいぶん寝てたけど、体の調子はどうだい?」


 ふと、春風が春嵐に変わり、空耳を思い違うほど軽やかな声が耳に届いた。

 振り向くと、老齢の手弱女たおやめと視線が合った。

 木枯らしのような色合いのブラウスは長めの袖が巻き上げられ、手首にはアンティークの腕時計が着けられている。上から羽織られた長白衣は突風に誘われ、展翅てんしのように膨らんでいる。タックインしているロングパンツは、カジュアルシューズと合わさって脚の全容を一切見せない。

 しなやかで細い手と痩せこけた頬は、老樹のような年輪が刻まれているが、ハリのある白髪は娥娥ががたる粧いで、筋の通った鼻は英明さを感じさせる。特に、ぎょろりと開かれた両眼は玲瓏れいろうと光が灯っていて、精華を捉えて離さない若々しさの圧を感じる。

 見た目は老女でありながら、佇まいは淑女であり、瞳の輝きは少女の其れに近しい。

 アンバランスでありながら絶対の存在感。 

 今すぐこの世の終わりが来たとしても、恐らく彼女は幽邃ゆうすいとしたまま微笑を浮かべているだろう。

 アスマはその気取った立ち姿を見て、思わず顔をしかめた。


「……うげ、ハカセ」

ではない、私の名前はハシケだ。いつになったらちゃんと呼んでくれるんだ君は」

 

 ハカセからいつもの訂正が入った。実際、ハカセは博士ではない。

 しかし、風に白衣をたなびかせてポケットに手を突っ込んでいる様は良くてドクター、悪くてマッドサイエンティストにしか見えないし、いつも白衣を着ているのだから、もうほとんど博士のようなモノだろう。

 

「……なんでハカセがここに? どうしてぼくはこんな所に……」


 アスマはナチュラルに訂正を無視して質問した。


「なんでって、瀕死の君を助けに校舎まで足を運んだのは私だよ? ……ここに連れてきたのはサービスさ。そろそろ起きる頃合だったからね、どうせなら一番好きな場所で目覚めさせてやろうと思ったのさ」

「……おかげで一瞬あの世かと思いましたよ」

「それは失敬」


 悪気が無いどころか、むしろしてやったりといった様子の顔つきに睥睨へいげいする。

 平素なら二度と口をかないが、アスマはどうしても確認したいことがあって口を開く。


「……ハカセ」

「ん?」

「旧校舎に行ったなら……その、叶守は?」


 あの日、夢でなかったならアスマは悪霊と化した叶守を郷田から引き剥がしたはずだ。

 それならあの後、消失したのか、祓われたのか。彼女の行方が知りたかった。


「……どこにも。遺体も後遺も私の目の届く範囲にはなかったね」

「………そう、ですか。じゃあ叶守は……」


 叶守は悪霊として囚われることなくちゃんと逝けたのか

 見てもいないし伝え聞いただけなのに妙に納得する。

 一気に喪失感が湧いて、目頭が熱くなる。

 しかし、ハカセの目の前で感傷に浸る様は見せたくない。

 久しぶりに会ったのだ、適当な会話で気持ちを誤魔化そう。


「……というか、ハカセってまだ幽霊視れるんですか? もう随分歳なのに」

「そのせいで、つい最近まで霊媒師やらされてたけどね〜」

「…………最近まで? てことは、もうやめちゃったんですか?」

「うん、霊媒師はね。今やってるのはコレさ」


 と言ってハカセは白衣から公安手帳を取り出すと証票しょうひょうを開いた。

 公安第九課霊障事件対策係――


「……監督?」

「そう。霊媒師を支える……まぁ、指揮官みたいな仕事さ」

「ふーん……」

 

 アスマは怪訝な顔になる。

 詳しくは知らないが、ハカセは公安霊媒師の第一人者みたいな人だった筈だ。老いても霊視可能な特殊な目も含め、才能に溢れた傑物けつぶつとして畏敬を集める存在。コネがあって色々な機関と繋がっている有名人。

 たとえ力が衰えたとしても、第一線で活躍し続けると思っていた。


「なんで……ハカセがそんなことを?」

「アスマくんに出会った時からもう限界は感じてたしね。それに」


 一旦切ってハカセはアスマの隣に腰掛けた。


「私はまだ、君を諦めていないからね」

「? それって…………ん? ……あッ!」

 

 ハカセのもったいつけた言い方に遅れて察しがつく。アスマは立ち上がってハカセを睨んだ。


「もう! ぼくは霊媒師にはならないって言ってるじゃないですか!」


 アスマの剣幕にハカセは欠片も物怖じせず、手を軽く振る。


「前にも言ったろ? 君には霊媒師の素質があるんだ、私の目に狂いはない」

「知りませんよ! そもそも、公安はいろ黄金イエローの人しかなれないんでしょ。それで前は諦めてたじゃないですか!」

「まぁね。でも最近、試験的にではあるが、黄金イエロー以外のメンタルカラーの者も使ってみようという動きがあってね。そして、その第一陣が第九課われわれだ」

「また根回しして……。ぼくはやりませんよ。悪霊の相手なんて出来ませんから」

「でも、この前、君は確かに屋上で――」


 続きの言葉を聞かずに歩きだす。もう話すことは無い。


「あ、ちょ、アスマくーん?!」


 待ちたまえと呼び止めるハカセを無視してどんどん先を進む。このまま学生寮に帰ろう。

 

「ちょいちょい! アスマくん、ほら!」


 駆け足で追いついたハカセが肩を掴んで静止させる。そして、何かの封筒をアスマに見せつけてきた。


「……なんです? それ」

「終わりの始まり」

「はん?」


 ハカセがビリビリと封を切ると、中には一枚の折りたたまれた紙が入っていた。

 ――『誠央学園 退学処分通知書』。

 紙を手渡され、アスマは目を見開いたまま固まった。加速度的に冷や汗が垂れてくる。


「なッ……な、ぜ?」

「反社会勢力との繋がりとか旧校舎での振る舞いとかもあるけど、どうやら君は単純に成績も足りてなかったらしいね」

「…………あ、あ」

「まあまあ、卒業証が貰えないってだけだよ。ちょっと人生がハード大凶モードになっただけじゃないか」

「ッぐぅ! うぅぅ……あ、あぁ…………」


 ……もう占いをせずとも分かる。朝からハカセに会って退学になって、今日は凶日で確定だ。

 口から気が抜けていく。足のつま先から頭のてっぺんまで真っ白な灰になったようだ。

 ハカセはそんなアスマの様を見て高らかに哄笑していた。


「はははッなんだいその顔。……だいたいねぇアスマ君」


 ハカセがほとんどベンチと一体化したアスマに居直すような視線を向けた。


「人生ってのは二種類だ。『地に足つけて生きるか』『夢に浮かれて死ぬか』……普通はその二つだけ。分かるかい? そもそも君には――」

「…………それでも、ぼくは占いしーがしたいんです」

「え? 霊媒しー?」

「うるさい……」


 アスマは完全に脱力して、ベンチに足だけ乗せながら仰向けになり空を仰いだ。

 頬に零れた一筋の涙を花嵐がさらっていった。



       ◆ああ、なんて夢鬱つ――。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る