第7話 人が入りて交じりあう
顔を上げる、周囲を見回す。
其処は、ホテルの一室であり、広くて、淫気なムードを醸すかの様に、ピンク色の水玉の様な光が部屋一面を照らしていた。
「あ…」
先程の幸せな抱擁の夢は、夢でしかなかった。
その事実を知ると、彼女は無情にも無気力となる。
現実では、夜辺逞は死亡していて、彼に所縁のある人間同士での殺し合いが行われていた。
「…」
体を起こす。
そこで、水鏡寺潤雨は、地面が濡れている事に気が付く。
視線を落とすと、濡れている、どろどろとしたものが手に付着していた。
濁った色だ、手を払っても、粘液の様に、水気を拭う事は出来ない。
諦めて、近くにあるベッドに手を伸ばす、そしてシーツに手に付着する不快なものを拭う。
シーツには、黒いシミが出来ていた。
立ち上がる、衣服は乱れていた、なんとか正そうとするが、何度服を着直しても、襟がズレて、肩が出てしまう、諦めてそのままにして、今度こそ立ち上がると。
「ぐちゃ、ぎっ、ちゃっ」
犬が、肉がこびりついた骨を噛んでいる様な、液体が弾ける音が響く。
その音のする方に顔を向けると、白いローブに身を包む、大柄の男性が座っている。
あぐらを掻いて、何かを喰らっている、大柄の男、その周囲には、先程の、彼女の手に付着していた体液が四散していた。
壁に靠れて、何処かにある、電灯のスイッチを探す。
ベッドの近くにそれらしいダイヤルがあった為、それを捻ると、街灯は瞬時に白色の光となって周囲を正常に照らし出した。
そして水鏡寺潤雨は、その液体がなんであるのかを理解する。
血だ。血液だ。彼女の手に付着していたのは、誰かの血であり、見れば衣服にも血が付着している。
驚きのあまり、声が出そうになる。
大柄の男が座っている場所には、明らかに一人分の量とは思えない、大量の血液で地面が濡れていた。
「っ」
声を漏らそうとして慌てて口を閉ざす。
しかし、強く掌を握り締めたのか、手に出来た傷口が開き、そこから痛みが漏れ出す。
「いたッ」
何故、こんな所に傷があるのか分からない彼女。
しかし、彼女の声に反応して、大柄の男が背後を振り向いた。
「ひッ」
その表情は、人間のものとは思えない。
悪魔と言うものは、視線を嫌う。
同じ悪魔であれば視線であっても大丈夫だろう、しかし、偽造悪魔はどちらかと言えば人間寄りだ。創造主たる悪魔が、自らの手で作り上げた人造悪魔が弱点であるなどとんだお笑い草でしかない。
だから、悪魔の弱点を潰す為に、偽造悪魔の目は潰されていた。
この偽造悪魔、ラスト…淫蕩と呼ばれる悪魔には、幼い子供の手が祈る様に指を重ねたままの状態で腕をもぎ取ったものをサングラスの様に掛けている。
純白のローブを頭から覆う純白の甲冑を着込む偽造悪魔は、さながら神を信仰する近衛機兵の様な姿だ。
「ひ、いッ」
驚き、恐怖し、水鏡寺潤雨はベッドに倒れる。
丁度、彼女が後ずさりした時にバランスを崩して、そのままベッドへと倒れ込んでしまった様子だった。
「…」
未だにクチャクチャと、口を動かして音を鳴らしながら、淫蕩の悪魔が水鏡寺潤雨の元へと近づいて来る。
彼女は昨日の旧校舎で説明された事などすっかり忘れている様子で、表情を蒼褪めながら化け物から逃れようと後退する。
「や、やめっ…止めて下さいっ!!」
涙を流して懇願すると、その願いに呼応して、ラストはその場から消えた。
最後に、涙を流す彼女の頬を拭う様に、そっと、彼女の頬に手を伸ばして…。
まるで夢でも見ていたのだろうか、先程の悪魔の姿は何処にもなく、呆然と立ち尽くす水鏡寺潤雨は、脳の処理が追い付かない様子だった。
彼女がようやく動き出したのは、今の惨状を理解した時である。
ここはホテルの一室であり、床には一面に濡れる血液。
黒く濁りつつある血液の水面には、人らしき肉片が浮かんでいる。
そこまで理解した所で、水鏡寺潤雨は歯を食い縛り恐怖を抑え込もうとする。
自分の知らない場所で恐ろしい事件に巻き込まれているのだと察した水鏡寺潤雨。
早くその場から離れたい一心で、衣服を整える事も忘れ、自らに付着した返り血すら消す事無く、現場の証拠を残したままその場から去ろうとした。
部屋の扉に手を伸ばしてドアノブを捻る。
白塗りの扉を開いて部屋から出ようとした最中だった。
「どちらへ行かれますの?」
ホテルの廊下で立ち尽くしている一人の女性。
廊下の電灯によって光沢を帯びる艶のある黒髪は汚れている。
セーラー服を着込んでいる女性の細い指先には、柄の短く、刀身が伸びた長ドスを握っている。
「え、あ?き、桔梗、さッ」
敬称を最後まで口にする事無く、彼女の体は後方へと吹き飛んだ。
恐るべき脚力、人間の体を、部屋の端から端まで蹴り飛ばす事が出来る、木蓮桔梗の足。
腹部を蹴られた水鏡寺潤雨は、壁に叩きつけられて咳き込んだ。
丁度みぞおち辺りを靴底で押し出す様に蹴られた為に、腹部が痙攣して唾液と胃酸が口から溢れ出した。
「あ、はッ、い、たい、ッな、なにをぉ」
「精液臭い便所豚が…軽々しく私の名前を口に出さないで下さいませ」
自分を同地位として見るなと言わんばかりに、木蓮桔梗が水鏡寺潤雨に冷ややかな視線を送る。
汚らしい乞食が傍に居るだけでも気味が悪く、同じ空気など吸いたくない、気分が害されたが故に憎悪と嫌悪を膨らませている、そんな視線だ。
「汚らわしい…同じ場所に居ると言うだけで寒気がしますわ」
「ち…血ッ…血が…」
水鏡寺潤雨は、自らも血が付着しているの事を忘れて、彼女の体に付着した血液を指差した。
黒いセーラー服や黒のストッキングに、黒く変色した血がこびりついている。
「何を驚いていますの?たかが人を殺しただけでしょうに、貴方も同じ様に、殺したのでしょう?」
部屋の床に濡れている血液を一瞥した。
水鏡寺潤雨は首を左右に振って否定する。
あの悲惨な人の四散は自分には関係のないものだと、涙目を浮かべながら必死に首を振る。
じんじんと腹部が痛み出して、口を開けば嘔吐してしまいそうだから、水鏡寺潤雨は口を閉ざして唾液を端から垂らしていた。
「別に…殺人なんて、どうでもいいんですの、よッ!」
水鏡寺潤雨に近づく木蓮桔梗は、革靴の爪先で彼女の顎を狙って蹴り上げる。
蹴られた衝撃で横になる水鏡寺潤雨、倒れた彼女に追撃をする様に、足を大きく振り上げて、彼女の上半身部分を狙い蹴り続ける。
「ほら、出しなさいなッ!穢れた公衆便所の便器に捨てられた便所豚がッ!私の手を汚させるなッ!」
上半身を、彼女は手を使って必死になって自分の体を守る。
革靴が擦れて摩擦により、皮膚が抉れてしまったり、髪の毛が根本から抜けてしまう。
何よりも、硬い爪先が柔らかな肌に食い込み、青アザや内出血を起こす。
「やッ、止めて、やめてくださいッ!乱暴は、乱暴は、しないでくださッ!痛いのは嫌ッ!!」
木蓮桔梗による蹴りの応酬は何度も続き、抗う意志すら忘れて、彼女の意識がゆっくりと薄れていく、大幅なストレスが彼女の体を満たし、意識は一瞬だけ吹き飛ぶ。
妄想の中だけが彼女の救いのある場所だった。
その妄想の中では、夜辺逞によって沢山愛された水鏡寺潤雨の記憶が捏造される。
ベッドの上で楽しく、笑いながら、愛し合った。
沢山の夜辺逞が、彼女の中を満たしていき、そして幸せに包まれていた彼女の意識は暴行が止まると共に、現実へと戻される。
「あ…い、たいッ…う、うう…お、おなッ、か…ッ」
部屋の隅で縮まりながら、自らの腹部を抑えて涙を流す水鏡寺潤雨に対して、木蓮桔梗は息を整えた。
「はあ…はぁ…、すぅ…ふぅ…、さあ、これ以上、痛い目を見たくなければ…さっさと悪魔を出しなさい。そうすれば…命だけは許してあげます」
汚らしい言語を発していた木蓮桔梗は、冷静になった所で何時もの敬語へと戻る。
彼女は体を腕で抱き締めながら、それでも首を横に振った。
「わ…分かりません、私、悪魔の出し方なんて、全然わかりません!」
泣きじゃくりながら、水鏡寺潤雨は必死になって訴える。
「はあぁ!?…はっ、では、どうやってあの後から、逃れる事が出来たのですか?悪魔の力を使わなければ、あの現状から逃げ出す事は出来なかったのではないのですかぁ?!」
水鏡寺潤雨の手首を掴み無理矢理立たせようとする木蓮桔梗。
その手を振りほどく落として水鏡寺潤雨は必死の形相で叫んだ。
「やめ…止めてくださいっ!わたッ、私ッ!お腹の中に…夜辺さんの子供がいるんです!!だから、もう…やめてくださいッ!!」
続けざまに彼女は涙で濡れた瞳を木蓮桔梗の目線に合わせる。
「私と、夜辺さんは、付き合ってたんです…何度も、何度もそういう事をしてきましたっ!その度に、夜辺さんは私の事を愛してると言ってくれて…そして何度も私に彼の愛を注いでくれたんですっ」
ベラベラと舌がよく回る。
水鏡寺潤雨は自分のお腹には主人公の子供がいることを示唆して、自らのお腹を愛しい我が子が孕んでいる事をジェスチャーで表す様に優しく撫でた。
母親の様な柔らかな目をしている水鏡寺潤雨。
どうにか言葉で理解してもらえたかどうか彼女の顔を伺ったが。
「…っ」
すると。
「ふふ、ふふうふふっ!」
木蓮桔梗は笑っていた。
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