第6話 旧校舎から逃げ出した後

水鏡寺潤雨は息を絶え絶えにしながら走り続ける。

先程の出来事が、まるで夢のようであったかの様に、彼女の記憶は揺らいでいた。

ゴート、偽造悪魔、そして殺し合い、数々の出来事に、水鏡寺潤雨の脳はパンクしそうだった。


「(逃げないと、早く…、殺され、殺されまッ)」


喉を鳴らす。

彼女の体は汗で濡れていた。

白いシャツは、雨にでも打たれたかの様にびっしょりとしていて、そして彼女の黒色の下着が浮かんで見えた。

旧校舎から離れて、学校を後にし、彼女が向かった先は人の多い市街地だ。

深夜になっても眠らぬ街。営業時間は定められているものの、深夜の最中でも人込みは多い。

人がいる場所へ、ただ、多くの場所へ、そう思い、彼女が向かった先は、歓楽街だった。

客引きが無言で見詰めている。道路には酔っ払いが寝込んでおり、高価で派手なスーツに身を包ませた金髪のとんがり頭が、地味目な衣装に身を包む女性と共に歩いていた。


「ひぃッ…ひいッ」


明かりが多い場所には、当然ながら様々な虫が通う。

その中でも、毒を持つ蛾が良い例だろう。うららかな美貌に、豊満な肉体。

汗で濡れたシャツから透けて見える下着と肌色の肌。


酒を体から煽ったのか、それとも水でも掛けられたのか、この歓楽街の前では、走り過ぎて汗を流してしまった、と言う選択肢はない。


「きみ何歳?未成年でしょ?」


歓楽街に通う、厳つい男たちが、押せば倒れてしまいそうな華奢な彼女を見逃すはずがなく…水鏡寺潤雨の周囲には不良たちが群がっていた。


幾多の修羅場をくぐって来たのか、ガタイの良いタンクトップの男が彼女の手首を掴む。


「学生服、それも美景高の所じゃんか…あそこ体売ってる生徒多いからなぁ」


「あ、あの、離して下さいっ」


男の顔が彼女の首筋に鼻を伸ばす。

犬の様に、彼女の臭いを嗅ぐと、嬉しそうに舌を出して上下に動かす。


「汗クサッ、なに、走ってたの?危ない奴とでも出会った?」


「服も濡れてるしな、着替えさせようぜ」


彼女を前に、男たちは勝手に話を進めていく。

このまま、彼らに流されてしまえば、自分がどうなるのか、はっきりと分かる。


「あ、のッ、私、はッ」


彼らを拒否してその場から離れようとしたが。


「え?何、聞こえないんだけど?」


そう言いながら、タンクトップの男が彼女の胸を掴んだ。

強く、実を握り潰さん程に、あまりの握力に、水鏡寺潤雨は声を漏らす。


「あのさ、あんま調子乗らない方が良いよ?俺たち『武川組』だからさ…ヤクザじゃないよ?」


「けどヤクザよりも恐ろしいから、逆らうと、本当にヤバイよぉ?」


男たちの形相は、人とは違う。

死を垣間見た者の様な、死人の如き目をしている。

このまま、彼らの意志に反してしまえば、猥褻な事に加えて暴行も加算されてしまうだろう。

しかし、水鏡寺潤雨は抵抗する気力はない。


自分が我慢すれば良いとすら思っている。

男たちに連れられて、人気のない場所へと移動すると、シャツを破かれて下着を無理矢理脱がされた。


しっとりとした肌に、生暖かい感触が伝う。それに対して嫌悪感を抱くと、一人の男が疑問の言葉を口にした。


「こいつ、もしかして…」


そう言って、スマホを取り出して、他の男たちに見せる。

すると、男たちは裸体となった水鏡寺潤雨とスマホの写真を確認した。


「もしかして…」


男性の一人が言った。

その言葉に、水鏡寺潤雨は目を開く。

なんて、下品な言葉を口にするのだろうか、しかも、それは自分に向けての事だった。

写真を見せられる、其処には、自分の知らない自分が映っており、頭の奥底から、熱い鉄棒を押し付けられたかの様な、じんわりとした熱が浮かぶ。


意識が、ぐらりと、薄れそうになる。

それを思い出してはならないと、彼女は思った。

その記憶を戻してしまえば、幸せにはなれないと確信して…。


「違う…違う、それは、違います…私じゃない、私、そんな、はしたない事してませぇんっ!!やめて下さいっ!消してくださいっ!!」


そう叫び、懇願すると、彼女の脳裏に過るのは、小学校の頃。

飼育小屋で飼われていた、小さな子豚を思い出す。

夏休みに入る前、その子豚は、クラスのリーダー的存在の男子生徒とその取り巻きが飼育当番の日に、木の棒で殴られ、蹴り飛ばされて、そして、無惨にも殺された。


その男は、夏休みに入る前に、何度も何度も豚の飼育をしなければならないから、面倒だから殺したのだと言った。

そして、彼女はその子豚を殺される所を呆然と立ち尽くしながら見ていた。

無邪気な子供たちの笑い声、それはまるで、今、目の前で自分を弄ぼうとする男性たちであり、暴力の末に殺された子豚は…自分であるかの様に思えた。


自らの姿を見て嘲笑する男性たちが、あの時、どうしても許せなかった子供の頃と重なる。

けれど、彼女が動けなかったのは、あの時の子供たちから子豚を救える程の力が無かったから、と言うわけではない。

生まれた時から、母親は風俗で働き、父親は、何処にいるのかも分からない。

複雑な家庭で生まれ、多くの人間に根も葉もない噂を立てられて死地に追いやられた生まれながらの弱者。

あの時も彼女はイジメられていた。生徒からも、教師からも、母親の知り合いと言う知らないおじさんからも。

それが当たり前であるかの様に、みんなが彼女を弄ぶ。

幼少の頃の彼女は、自分が自分である事を呪った。


これからこの先、ずっと、誰かの為の慰み者になるのだろうと。

心が死にそうになった、そして、その心に、悪魔は隙を狙ったのだ。


悪魔と契約し、自分と言う存在を忘れる事が出来た。

嫌な時は悪魔に変わった、そうする事で自我を保つ事が出来た。

相変わらず幸せな事などない、それでも不幸な事もない。

+も-も無い平坦な世界で、心の平穏を彼女は取り戻す事が出来たと思っただろう。


けれど違う、時間が経てば経つ程に、自分の知らない所で自分が何かをしたと言う話が聞こえて来る。

女子は軽蔑し、男子からは性的な目で見られ、知らない場所へと連れ込まれた事もあった。

それでも、彼女は気にしない。嫌な事があれば、また入れ替われば良い。

嫌な事も苦しい事も悲しい事も辛い事も、全てが自分じゃない自分が引き受けてくれる。


次第に、入れ替わる時間が長くなる。半日が自分じゃない自分へと変わる。

一日、次第に、二日、三日と、入れ替わりの時間が長くなる。


『私が、私じゃなくなる…けど、それでも、私じゃなくても、私は存在し続ける。だったら…私はなにものですか?存在しても良いのですか?悪いのですか?じゃあなんで生んだんですか?なんで私だけ苦しい思いをしないといけないんですか?なんで、なんで…誰も、私をたすけてくれないんですか?』


悲哀に満ちた感情だけが、入れ替わり、肉体の所有権が自分になると共に、そんな声が漏れ出した。不幸な事が嫌だから入れ替わったのに、入れ替わった先でも不幸になるなんて、それはなんて、不幸な話なのだろうか。


水鏡寺潤雨。水に写る自分を羨み、鏡に映す自分を哀れんだ、雨の様に曇り続ける心の持ち主。

しかし、悲劇は続かない、何れ、終わりと言うものが存在する。

彼女にとっての終わりとは。


『ああ…あっ…ああああっ!!』


視界の先には、夜辺逞が居る。

彼が傍に来ては、彼女の体を抱き締める。

そうだ、こんな、どうしようもない自分を救ってくれたのは、彼だった。

夜辺逞だけが、彼女を救ってくれたのだ。


『夜辺さんっ…夜辺、さぁん…ッ』


強く抱き締める。不安も恐怖も、彼の前では全てがどうでもいい。

彼のぬくもりを確かめて、曇る心に太陽が差し伸ばす。


『私は…そんな、酷い人間じゃないんです…みんなが言う程、醜くないんです…信じてくれますよね?夜辺さん、私も、他の女の子と同じ様に、普通に、幸せに、生きても良いんですよね?』


当然だと、夜辺逞が頷いた。

これ程、嬉しい事もあるまい。

自らを肯定してくれる存在が、この世に存在すると言う事実に。


『夜辺さん、ずっと、ずぅっと、傍に居て下さいね、私は、夜辺さんの為なら、どんな事でもしてみせますから…だから、ずっと…ずうっと…』


何時までも、幸せそうな夢を見る水鏡寺潤雨は、其処で夢から醒めた。

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