第18話
{もし、これを読んでいるのが千夏であるなら、もちろん千夏であると確信しているが、とてもうれしく思う。私はすでに死んでいるが、文字を通してまたおまえと会えたということだ。これは大きな喜びだよ。最後に見たおまえは小学生だから、どれくらい大きくなっているだろうと想像しながら書いている。結婚して幸せな家庭を築いているだろうか。母さんは父さんと結婚したために苦労しっぱなしだから、千夏にはいい旦那さんを選んでもらいたい。もしも子供がいて、もし女の子なら、おまえに似て美人なのは間違いないな。これはすごく自信があるよ。孫はどんな感じかと、よく母さんと話していた。もちろん、私たちの結論はいつも同じなんだ。
そして、これを読んでいるのが千夏であるなら、再びあの災厄がやってきたということだ。この部屋を知っているのは母さんと、千夏だけだからな。時が来たら、おまえの無意識の底に植え付けた記憶がよみがえるようにしておいた。霊能力者の葛木さんがおまえに暗示をかけたのだよ。暗示というか、ほとんど催眠術だった。いろいろなことができる器用な人で、ほんとに驚かされっぱなしだ。どこから来たのか知らないが、私たちに降りかかった災難を引き受けてくれた。私たちと同じ犠牲を払ってくれた。ありがたい人だ。
千夏、おまえは目の前で千沙を失い、千沙の、あのいたましい亡骸と出会ってしまった。自分を見失い、自分の意志で心が制御できなくなってしまった。だから、心の中に深く沈んでいた能力が、突如として起き上がってしまった。大きな壁の向こうにいた暗黒と繋がってしまい、悪いものを引き寄せてしまった。ひどく汚くて卑しい存在がやってきた。うちの工場で少なからずの者がやられてしまった}
「ここまで大丈夫か」
啓介がいったん読みを中断して、義男と一二三が滞りなく理解できているかを確認する。
「おう、だんだん見えてきたべや。なんだかわかんねえけどな」
「社長さんが書いたんだねえ、涙が出てきたさ」
早く先をと夫婦がせがむが、千夏は黙ったままだ。啓介が続きを読む。
{彼岸の向こうの、濁った泥の底から這い上がってきたものは、真っ先に犠牲を求めた。ここで力を増すために、同じような色の人間を(葛木さんは霊的な波長が合う人間と言っていた)生贄とした。つまり悪しき行いをした者たちだ。後から知ったことだが、工場で死んだ者たちは、過去に何らかの重罪を犯していた。殺人で指名手配されていた者もいてビックリしたよ。うちの工場は給料をそれほど出せなくて、流れ者ばっかり採用していたから、そういう輩もいたようだ。だからといって死んでよいわけはないのだが、正直、なんとも言えない気分だよ}
便箋は三枚目を超えた。啓介がチラリと疑惑の目を向けたが、夫婦は気にしていない。
{向いの川にある有刺鉄線の話を知っているだろう。昔、タコ部屋労働でたくさんの人たちが死んだのは事実なんだ。奴隷以下の扱いで死んだ労働者たちの怨念が、この地に渦巻いている。あれが力を振るう素としては、ちょうどよかったのだろうな。それでも葛木さんが頑張ってくれて、這い出してきたものを壁の向こうに追い返すことができた。顎が外れるくらいの超常現象を見させてもらったよ。彼女はよくやってくれた。感謝の言葉がいくらあっても足りないくらいだ。だけど、それも一時的に抑えているだけだ。将来、さらなる災いをもたらすと断言された。千夏の身によほどひどいことが起こる。策を講じなければ、それは避けることのできない未来になるそうだ。
だから、父さんは決めたんだ。千沙を亡くして、千夏まで失うわけにはいかない。絶対にそんなことさせない。絶対にさせない。絶対にだ。
千沙を嫁がせることにした。相手は、向こう側のものだそうだ。すごく強力らしいが、正体は教えてくれなかった。あれを消滅できるのは、あれの世界にいるものにしかできない。私たちの世界のものがいくら頑張っても、少しの間押し止めるだけだ。あれは呆れるほど執拗で諦めることをしない。千夏の魂を貪り乗っ取ってしまうだろう。
死後の世界で千沙が大人になり、結婚し、子供が生まれる。その子が千夏を守るだろう。その儀式を有効とするために、私は血と命をささげなければならないが、ためらう気持ちはまったくない。私の血をまとった千沙は花嫁になるんだよ。とてもきれいな花嫁なんだ。
千沙の子供が成長するまで、どれくらいかかるかわからない。お互いの世界にとって、時間は相対的なんだ。あれがちょっかいを出せないように、葛木さんはこの部屋で千沙と子供を見守る。大きな犠牲だが、彼女はそれに見合う十分な報酬を得ている。死しても執念だけで守ってみせると約束してくれたよ。彼女はその通りにするし、千沙の子供が現れるまで、その約束は果たされるだろう}
便箋は残り二枚となっていた。啓介は、ゆっくりと噛みしめるように読みほぐしてゆく。
{これだけは言っておく。千夏にはなんら責任はないし、心に病むことはまったくない。なぜなら、おまえに宿っている力は自然に備わったもので、それ自体に善悪はないからだ。おまえがいかに頑張ろうとも、どうにもできない。それは人知を超えた神の領域なのだから。父さんの家系には、この種の力を持つものが度々生まれるんだ。おまえはそういう血筋の末裔でしかないんだよ}
「これは事実だ。じいさんの父親ってのが、そういう力を持っていたと聞いたことがある」
啓介は最後の一枚を読まずに、それを千夏に手渡した。別れの言葉は、当人だけが価値を見出すだろう。千夏は、紙が焼け焦げてしまうほどの熱い視線で見つめていた。
「悪いけど、ちょっとばかり短くまとめてくれねえか。込み入っててイマイチわからんわ」
「あんたはバカだねえ」
「千沙が死んで、千夏の心の傷を媒介として悪霊がやってきたんだ。あの世か異次元か地獄かわからないが、ひどく穢れたところからだ。過去の河川工事で犠牲になった者たちの引き裂かれた魂を、よりどころにしたのかもしれないな。罪を犯した者たちを引き寄せて、自らの生贄として呪い殺した。そういう輩が好きなんだろう」
「やたらと出てくる錆びたバラ線は、そういうことかいな」
頷きながら、啓介が話を続ける。
「霊能力者が封じたが、一時的な措置でいつかはまたやって来る。今度は千夏が危ない」
「奥さんを守るために、死んでしまった妹さんを嫁がせたんだね。あっちの強いバケモノと所帯を持たせて、子供を産んで、その子に守ってもらうんだよ」
「そういうことだろうな。死後婚を成立させるために、兄は自らの血と命を捧げた。それだけのことをやらないと合わないのだろう。等価交換なのかな。この部屋で霊能力者が結婚式や子供の絵を描いて、死後結婚を既成事実とした」
「親ってのはすごいさ。あたしは子供ができない体だからさあ、感心しちゃうよ」
啓介と一二三が意気投合し、義男がさも不機嫌そうに口を尖らせた。
「でもよう、バケモノを退治するためにバケモノと結婚したんだったら、そのバケモノにやってもらえばいいじゃんか。ガキんちょには荷が重いだろう。それによう、肝心の悪いバケモノ本体はどこなんだって。まさかクマやキツネじゃあねえだろうよ」
「あんた、意外といいとこつくねえ」
義男にしては珍しく上出来だと、女房は小馬鹿にいながらも感心していた。
「おそらく、子供のほうが行き来しやすいのだろうよ。強力なバケモノであっても、異界との壁を越えるのは容易くないからな」
「まあ、ガキんちょってのは、どこでもすり抜けちまうもんよ」
「問題のバケモノは心が悪い状態の者が好きみたいだ。誰かにとり憑いているのだろう」
「脳張力のあの姉ちゃんか。親父とロリコンしてたくせして、毒キノコでぶっ殺しちまったんだろう。ガキのやることじゃねえ。邪悪どころの騒ぎじゃねえって」
「へんな注射してたじゃないのさ。あれって麻薬っしょ。連れのお兄さんも女の子にひどいことしてたし」
遠くから騒音と甲高い声が聞こえる。ネズミのざわめきではない。
「りんちゃんの声がする」
千夏が立ちあがって駆け出した。その空間を出て備品室のドアを開けた。ネズミの集団をものともせず、バタバタと階段を降りると、加工場へと向かった。
「千夏、戻ってこい」
千夏を追いかけて、啓介も走った。夫婦も後に続き、加工場にやってきた。
「うっへ、さっきよりも、ひでえことになってるべや」
数多くの野生動物たちによるりん子への突進は続いていた。攻撃、もしくは襲撃、あるいは捕食といってもいいかもしれない。
ネズミの大波が少女の頭上から叩きつけ、キタキツネやエゾタヌキ、野犬らが牙を剥きだして引き裂こうとする。雄のエゾシカはよく尖ったツノを、ヒグマは人の背骨を一叩きでへし折ってしまう凶悪な爪を振りまわした。
だが、それらのすべてが跳ね返されていた。りん子の攻撃は凄まじく、戦慄してしまうほどに容赦がなかった。この世の何ものでもない躍動感に満ちていた。斃した動物たちに絡まっている棘だらけの鉄線をものともせず、むしろ投げ縄のようにぶん回しては、床や壁や鋼鉄の機械類に叩きつけていた。
「りんちゃ~ん。もうやめようね。お外に行って、車に乗ろうよ」
千夏の声がするが姿が見えない。加工場内をさんざん見回した啓介の顔が上を向いた。
「千夏、おまえは何度そこに上がったら気がすむんだ」
「りんちゃんに、またまた上げられたの。だって下は危ないでしょう」
またもや千夏は天井にいた。落ちてしまわないように、泣きそうになりながら鉄骨梁に抱きついている。
野生動物たちは、女児によりほとんどが駆逐されてしまった。戦いが物足りないのか、りん子は動かなくなったヒグマの頭部を叩き潰し、瀕死状態にあるエゾシカの首に抱きついて、鼻をほじりながら念入りにへし折っていた。
「余裕ぶっこいてんじぇねえぞ、クソガキ。いまぶっ殺してやっからなー」
甲高く叫んでやってきたのは鉄条網の女だ。棘だらけの鉄線の錆毒にあたってしまったのか、顔はパンパンに膨れていた。きつく締めあげているので、その土色の顔色といい、まるでタコ糸に縛られた焼き豚である。ただし、肉は腐敗寸前だ。
「ふへへへへ」
悪い展開を予感させる不快な笑いだった。有紀が左腕をサッサッと降ると、床面が蠢きだした。コンクリが波打っているわけではない。りん子の手刀や蹴りで叩き潰された動物たちが蠢いているのだ。
「おい、女。止めろ、なにやってんだ」
動物たちの大小さまざまな死骸が一か所に集合していた。生臭くて獣臭い毛皮と肉と汁がぐちゃぐちゃに交ざり合いながら山となり、振り出し竿のように、にゅるっと天井まで伸びていた。先端は頭部が破壊され、頭蓋骨の破片が突き出しているキタキツネであり、その牙が千夏の太ももに噛みつこうとする。
啓介が走り出す前にりん子が反応し、ホイホイホイホイと走り出した。
「ガキは大人しくしてろ」
そのすぐあとを有刺鉄線女が追いかける。りん子が死骸の塔を駆け上がろうとする首根っこをつかまえて、尋常ではない怪力で床へと叩きつけた。
何度も何度も硬い布基礎に打ちつけた。コンクリが割れて、少女の顔型にえぐれた。さらにガンガンと深掘りしていく。
「りんちゃん、りんちゃん、りんちゃん」めいっ子の危機に、千夏の悲鳴が止まらない。
「千夏っ、上にいけ。噛みつかれるぞ」姪っ子の危急に、啓介が怒鳴った。
キタキツネの牙が柔らかなふくらはぎを蹂躙するのに、あとほんの少しに迫った。千夏は立って、鉄骨梁をよじ登ろうとする。啓介が駆け寄って獣の斜面へ迫ったが、それ以上の登坂は有紀が許さなかった。
「キエエエエエエー」
凄まじい腕力が、りん子を投げた。ゆったりとした放物線を描くことなく、その女の子の体が直線的に飛んだ。啓介の頭をかすめ、シャッター横の鉄骨柱に頭から激突した。轟音が鳴り響き、Ⓗ鋼がひしゃげた。建物全体がどよめき啓介がよろけた。千夏もバランスを崩して落ちそうになるが、なんとか踏ん張った。到達点まであと数センチに達していたキタキツネの塔が崩れ落ちたのは幸運だった。
パンパンパンと、まん丸に腫れあがった顔を両手で叩く。有紀はもともと細身の体格であるが、踏み出した一歩一歩が象のように重かった。粉埃が舞い、床に亀裂が走る。有刺鉄線がきつく締まり、はみ出した肉が醜く膨らんだ。
地獄の幽鬼が近づいている。鬼気迫るその姿に怖気づき、啓介は尻もちをついてしまった。オタオタしている男の前に来た有紀は、腐った満月顔をニヤリとさせると、半回転して己が背負ったものを見せつけた。
智也が埋もれていた。有紀の背中に縛り付けられていたのだが、さらに強く密着している。お互いの体表組織が融合しているようにも見えた。彼は、粘着テープに捉えられたハエのように、もじょもじょと手足を動かしている。
「助けて、たうけて」
背中の男が、か細い声で訴えていた。恋人の背中といえども、そこにくっ付いている状態がよほど嫌なのだろう。有刺鉄線が巻き付いた顔は恐怖に慄き、血走った目線は空で湾曲し、魂は絶望の海に溺れていた。
不埒なる結合を十分に見せつけてから、有紀は啓介へと向き直った。
「あんた、あのお姉さん、すごい顔になってるよ。背中に人がくっ付いてるし」
「兄ちゃんだな。あんなに小さかったか。いや、姉ちゃんがでかくなってんのか」
夫婦の腰は存分に引けていたが、もって生まれた鈍感さで徐々に距離を詰めていく。
「うひゃあ、もうやだねえ。鳥肌立ってきた」
満月顔がドス青く陰った。左手で握り拳を作り、ぐぐっと力を入れる。途端に夫婦と啓介が苦しみだした。胸を掻きむしり、四つん這いになって胃液を吐きだした。
ドサッ、と落ちてきたのは千夏であった。有紀のサイキックの余波に当てられてしまい、体の力が抜けてしまったのだ。天井付近からの落下だったが、獣の死骸がちょうどよい緩衝材となって柔らかく受け止めてくれた。
サイキックを発揮していた有紀は油断していた。智也が背中で呻いているが、気にする様子はない。サディズムが程よいあん梅に刺激されて、至極の時を味わっていた。
「ブン」と空気が唸り、高速のなにかが飛んできた。気づくのに一瞬遅れた有紀の顔面に直撃し、彼女は勢いよくひっくり返った。腫れて膨張しきっていた満月顔が、空気が抜けたかのようにしぼんでゆく。有紀の鼻を中心として、靴底の跡が残されていた。小さな足跡であったが、その衝撃がしっかりと記されている。
吐き気の連続が解かれた。数日分の酸素を一気に吸い込むように、四人は喉を鳴らして呼吸をする。有紀へ跳び蹴りを食らわせたりん子は、空中でクルクルと回転してから着地した。両方のつま先をぴったりと合わせて、両手を高く広く掲げた。
毒気を抜かれて小さくなった有紀が、よろけながらも立ち上がった。千夏、啓介、義男、一二三もほぼ同じ動作をしていた。
「うがあああ」
有紀がポケットから取り出したのは注射器である。シリンダー内には最後の薬液が注入済みであり、いやらしくニヤつきながら、見せびらかすようにそれを指で弾いていた。
りん子も笑みを浮かべた。小さな体が居丈高に腕を組んでいる。両者の視線が空中で激突し、生臭い火花を散らしていた。
注射針が左腕に突き刺さった。腐りかけた血管に圧力をかけて新鮮で高濃度なドラックが注入される。有紀の脳組織の隅々まで浸透し、穢れた何ものかの支配下となったサイキックに、この世ならざる活力を与えた。
「キエエエエエエー」数百匹の猫を一気に踏み潰したら、このような悲鳴になるだろうか。
有紀の奇声が絶頂に達すると同時に、周囲に散乱した骸が蠢きだした。
加工機械が動き始める。りん子が遊んでいた練り物機だ。突き出した三本の練り棒が高速で回転し始めた。材料はもちろん新鮮な肉である。ただし、大概に生臭く毛だらけだ。
有紀が手をぶん回すと、それらが次々と放り込まれた。モーターが唸り、ねちゃねちゃと、耳障りで気色悪い音でもってかき回されている。
死骸が連続して放り込まれていた。練り物機械の中で程よく生成されたものが、釜の淵からあふれ出した。獣の毛と肉と骨のミンチ肉であるが、それが床に落ちると移動し始めた。床の上を、まるで川の流れに身を任せるように滑ってゆく。
「おいおい、姉ちゃんに汚ねえ肉がくっ付いてるぞ。なんだ、どうなってんだ」
「自分の体を大きくしているんだろう。どういう力を使ってるのか知らないが」
木の棒に泥団子をくっ付けように、有紀の体がどんどん膨らんでいた。獣の毛と肉が交じり合い、(何か)へと成長している。
りん子は腕を組んだ姿勢のまま、その様子を見ていた。千夏がめいっ子の名前を絶叫し、義男が早く攻撃しろと喚いていた。変身しきってしまえば、危険極まりない存在になってしまうと誰もが考えていた。それは正しかった。
「なんか、猫っぽくなったさ。化け猫だよ」
「地獄の肉ネコだべや。うっへー、猫臭え」
瞬く間に悪性腫瘍のコブだらけ猫人間が出来上がった。有紀の体に巻きついていた痛々しい有刺鉄線が見えなくなったのは幸いだが、おぞましさは青天井である。
少女離れしたきつい目線を、有紀の成れの果てにしっかりと突き刺しながら、りん子はゆっくりと横にずれた。二者は円を描きながら、その時が弾けるのを待っている。
「りんちゃん、こっちおいで」
千夏の呼び声が開始の合図となった。猫瘤女の強烈なる猫パンチが、ややアッパー気味にりん子の顔面を叩いた。
麻薬とサイキックと異次元の邪悪さが激烈なる合力となり、りん子がふっ飛んだ。背後に積んであったプラスチックパレットの山を派手な音を立てながら崩壊させる。一瞬後、その崩された粗大ごみの中から疾駆するものがあった。小さな残像だったが、女の子である。
りん子の頭突きを腹で受け、今度は猫瘤女が転げ回った。勢いがありすぎたために摩擦だけでは止まりきれず、ローラーコンベヤーに激突してしまう。脚の部分が破壊され、ローラーやチェーンがそこいら中に散らばった。常人であれば、少なくとも複雑骨折で重傷となるどころだが、それは健在だった。
りん子が再び猪突猛進する。有紀が蹴りを放った。りん子がかわし、有紀が拳を突き出した。生々しい猫肌の体を、胴長の女児がするりと抜けて背中を向ける。有紀が角スコップを拾い上げ、体操選手のフィニッシュの姿勢で、両手を高く上げているりん子の尻をぶっ叩いた。
「りんちゃん、やめるのよ。無茶なことをしちゃダメだって。ほんとに、きゃっ」
小うるさい母親のように、千夏がめいっ子の格闘を止めさそうと踏み出した。そこへ当の本人が高速で飛んできた。極限の逆エビ反りで、なんとかその飛翔物をよけた千夏だが、後ろにいた中年男は反応できなかった。
「うげっ」
飛翔体を腹で受け止めた義男が、ひっくり返った。
りん子が立ち上がる。義男が文句を言うとするが、マヌケな中年顔を押しのけたのは千夏だ。余計な力が入っていたようで、中年男は、またひっくり返ってしまった。
「りんちゃん、危ないことはやめてちょうだい。りんちゃんにもしものことがあったら、おばさんは正気でいられないの。千沙があんなことになって、私は・・・」
叱るというより懇願していた。情にもろい母親が涙ながらに言い聞かせるがごとく、自らの両手でりん子の手首を握り、真剣な面持ちで言い続けた。
「うっわ、きたよーっ。ケダモノ女がきたさ」
「千夏、その子から離れろ、離れろって」
ノッシノッシと不吉な足音を響かせて猫瘤女がやって来る。夫婦がほうほうのていで逃げ出し、啓介も撤退する。姪っ子に強く退避を促すが、めいっ子を離さない千夏だった。
「死んじゃったら誰にも会えなくなるの。そんなことはダメ。絶対にダメなの」
「奥さーん。そのガキんちょは心配することねえよ。それより、ヤバい姉ちゃんがきてるんだから、逃げろって」
立ち上がった千夏がひどく不機嫌な表情だ。キッと睨みつけながら義男ぬ向かって歩いてい行き、フケだらけのごま塩頭をペシリと叩いた。
「うるさい。いま、りんちゃんに大事なことを話してるのっ。邪魔するな」
義男が呆然としていると、千夏がゴマ塩頭をもう一度頭を叩いて踵を返した。大人しく待っているりん子の前にしゃがみ、危ないことをしないように涙目で言い聞かせていた。
だが千夏の願いがどんなに強かろうと、困難は向こうからやって来る。背中にくっ付いている智也を乱暴に振りほどいて、猫瘤女がすぐそばまでやってきた。獣の体臭と生臭さが濃密すぎて、空気が黄色く濁っていた。
「あなたっ、いい加減にしなさい。子供相手になにしてんのよ。サイテイじゃないの」
千夏が声を荒げて叱っているのは不浄と邪悪の権化である。効果は望むべくもなった。
「うるせーっ、死ねやババア」
「きゃっ」
猫瘤女の手にした角スコップが、千夏の横顔めがけてブンと空を切った。とっさに腕を上げて防御とするが、呪われたジャンキーの怪力は情け容赦ない。ガードとなった腕ごと、よく整った千夏の小顔が砕け散るだろう。啓介はそう判断し、同じ考えの一二三は力の限り目をつむった。
りん子がジャンプし、頭を突き出した。錆びだらけの四角い掬い部分が当たり、カッコーンと、すがすがしい音が響いた。角スコップは柄の部分が折れてしまった。凄まじい衝撃だったが、鋼鉄でぶん殴られたりん子は、わりと平然としており、頭をポリポリと掻いて指先のニオイを嗅いでいた。
「りんちゃん、つかまってんのよ」
めいっ子を抱えて、千夏が走り出した。りん子の名前を連呼しながら、加工場の中をぐるぐると走り回る。外に出たかったが、出入り口が獣の死骸で塞がれて、できなかった。
その咆哮は、まさに激甚だった。獣肉のカイブツが腹の底から猛々しさに溢れた声を吐き出した。シャッターをこじ開けようとしていた千夏が耳をふさいでしゃがみ込む。啓介や夫婦らも、同様の姿勢となった。
自身の表面にくっ付いたグロテスクな肉瘤を、猫瘤女の左手が鷲掴みにして引き千切った。手の中でいやらしく揉まれている生物組織の中には、尖った金属線が混じっていた。
それが、ぶん投げられた。生臭くて鉄臭い剛速球が千夏に迫る。
{えいや}、と可愛らしい声がした。
休日のなかよし公園でとび交っている子供のそれであり、りん子の掛け声だった。高速で飛んできた肉瘤が千夏の顔を破壊する寸前で、そのちっちゃな足先が蹴った。
「うっわ、あぶねえ」
弾かれた汚らしいものが、義男の頬をかすめて壁に当たった。べちゃっと粘着し、獣臭い肉の中にある有刺鉄線が鉄臭さを発していた。
「これ、いったいなんなんだよ。頭おかしくなるぜ」義男の絶望が計り知れない。
猫瘤女が、自らの部分を次々と投げつけていた。金属が混じった危険なそれらが真っ直ぐ千夏へ向かうが、女児がことごとく叩き落しながら突進する。
ホイホイホイホイと、相変わらずのとぼけた歩調なのだが、その疾駆にある馬力と圧力は、猛獣であるヒグマを超えていた。得意の頭突きを相手の顎下にお見舞いすると即座に馬乗りとなり、有紀の穢れた毛皮を、その皮下組織ごと毟りだした。
「ギャアギャア」
猫瘤女がわめき、ジタバタと暴れた。体の肉瘤を自分で毟るぶんには平気だが、誰かに剝ぎ取られるのは耐えがたい苦痛のようだ。
「わあああ、わあああ」泣き叫びながら智也がやってきた。起き上がろうと藻掻いている有紀にりん子が頭突きを食らわせているのだが、その女の子にしがみ付いた。
「有紀にひどいことしないでくれ。謝るから、謝るから」
「りんちゃんになにするのっ。このロリコン、ヘンタイ」と千夏が激怒する。
大事なめいっ子に執着する男の頭部を、手加減なくボコボコと叩いた。
「もう許してくれよ。僕たちがしたことは、子供の時だ。子供なんだよ、だから」
「その手を放しなさい。りんちゃんに触るな」
それぞれの思惑が搗き交ざりながら、塊となって混乱していた。
「あんた、なにボサッとしてんのさ。ちっちゃいのがイジメられてんだよ。男だったらいっちゃいなさいよ。やっちゃってもいいんだから」
「おま、あのなあ。あんなヤバいのに触れるかよ。オレまで毛だらけになっちまうって」
「奥さんだってやってるっしょや。なんなのあんた、あたしがやるー」
煮えきらない亭主を見限った一二三が走った。途中でカラの一斗缶を拾う。
「ちびっ子から手を放せ。これでも食らいな」
一斗缶を両手で抱えて振りかぶると、ちょうど後ろに義男がやってきた。ガツンといい音が響き、頭を押さえたごま塩頭の男が転げ回った。
絶叫とともに有紀が起き上がった。爆発したような勢いがあったため、りん子、千夏、智也、その他の者たちが気合と風圧にふっ飛ばされた。仁王立ちした猫瘤女の体は、方々が毟り取られ無残な姿となっていた。
空気が震えていた。初期微動は数秒も続かず、次なる唸りは重力の逆転をもたらした。皆が空中へ浮かび上がってしまう。ある種の脳内物質に何度も満たされて、有紀の超常的な潜在能力が不可能域を突き抜けていた。
「あ、あ、あんた、浮いてるよ」
「どなんなってるんだ、これ。ケツが浮いてるべや。ケッツが寒いってよ」尻の下に、なにもないことが気になってしかたがない義男であった。
人間だけではなく、斃された野生動物や道具、破片も浮かんでいた。ただし、一メートルほど上がったところで止まっており、機械類は鎮座したままだ。いかに薬剤で強化された魔的サイキックといえども、百キロ以上は荷が重そうである。
「屁え、こいたら着地するんじぇねえか」
「あんた、それだよ。やってみな」
なんら説得力がない提案だったが、無重力の状態に戸惑ってしまい、連れ合いの能力を妄想のレベルまで引き上げていた。
{んっちょん、んっちょ、んっちょ、んっちょ}
幼げな掛け声を発しながら、りん子が泳いでいた。いかにも小学生の稚拙な平泳ぎであって、見ようによっては微笑ましくもあったが、泳いでいる場所は水中ではなくて空中だ。手足が忙しく左右に円運動しているが、距離は一メートルも進んでいなかった。
「うおおおおおお」
機械の陰で様子を見ていた啓介が突進してきた。加工場内にいるネズミ以上の有機物で、猫瘤女と彼だけが浮いていなかった。物陰にいたために有紀の視界に触れなかったのだ。
啓介は転がっていた単管パイプを武器として手にしていた。有紀に殴りかかるが、寸前でエゾシカに襲われてしまう。善良な草食動物なのに、しかもすでに死んでいるのに、人間の太ももに噛みつき、肉を喰いちぎろうと激しく首を振っていた。たまらず啓介が絶叫する。
{んちょんちょ、んちょんちょんちょんちょんちょんちょ}
群青の深海に潜るがごとく、濃密な空気の抵抗を切り裂きながら、りん子の平泳ぎが加速する。エゾシカと啓介のもとへ着くと、お人形さんのような手を振り下ろした。
可愛らしい拳が獣の頭をガシガシと殴打すると、三回目で頭蓋が砕けた。それでも口は啓介の太ももを齧り続けていたが、りん子のつま先が蹴り飛ばした。さいわいにも肉はえぐられなかったが、出血を伴なうほどの咬傷になってしまい、さらに蹴り飛ばされたエゾシカの頭部が、空中浮遊しながら踏んばっていた義男の股に命中してしまった。
「ギャッ」と呻いて冴えない中年が落下した。
それが合図であるように、浮いていたすべてのものが地に帰った。人間や動物たちはさして音もたてずに、道具、ゴミ、ガラクタ類は派手な音を響かせた。
{ふんふんふんふんーん}と調子よく言いながら、りん子が走った。有紀に向かって跳びかかるが、左手の一殴りで反対側の壁までぶっ飛ばされてしまった。女の子が立ち上がるやいなやゾンビヒグマが猛然と突進し、りん子はその巨体ごと壁にめり込んだ。
「りんちゃんっ」
千夏が走り出そうとするが、猫瘤女の手が彼女の頭を後ろからつかんだ。ジタバタと暴れるが、生臭い手がガッチリとくわえ込んで放さない。
「この毛玉バケモノー、奥さんを放しやがれ。ケツ痛くて腹立つなー」
落下したさいに、義男は尻を床に打ち付けてしまった。患部を両手で押さえる無防備な体勢のまま、千夏を助けようと猫瘤女へ向かっていった。
「私を離しなさいっ」
とことんイラついた千夏が、渾身の力でもって殴った。ただし後頭部を固定されていたため後ろへ放つことができず、とにかく前へと突き出した。
「うげっ」
タイミングよく鼻頭にグーパンチを見舞われた義男は、きりきり舞いとなる。鼻血を垂れ流しながら足をもつれさせ、右に左に後ろにふらつきながら最後には猫瘤女に抱きついた。予期せぬものの抱擁されて、毛だらけの手が緩んだ。
「りんちゃんりんちゃん」
泣き叫びながら千夏が走る。壁にめり込んでいるヒグマを引っぱるが、女一人の力ではどうにもならないくらいに密着していた。
「奥さん、手伝うよ」
一二三が駆けつけて手を貸した。額に太ミミズ状の青筋を立てた二人の女が、うんうん唸りながら引き剥がしにかかる。
猫瘤女にしがみ付いている義男は必至だ。切り立った垂直の崖にしがみ付いている心境だった。
「このバケモノ野郎、ぶっ殺してやる」
そこに啓介が加勢して、義男の背中ごと蹴飛ばした。噛まれた太ももから血が止まらないが、勢いで痛みを忘れ去っていた。
「りんちゃん、お元気してるのーっ、なんとか言ってよ」
「奥さん、これはダメかもしれないさ。だって、ちびっ子は潰れてるよ」
壁にへばり付いたヒグマの除去はそれほど捗っていなかった。あきらめ気味の一二三だが、千夏は耳を貸さない。丈夫な毛皮が剥がれないのなら、引き裂いてやれとばかりに爪を立ててほじくっていた。
「りんちゃん、出てきて。そうだ、ラーメン食べに行きましょう。チャーシューメンよ」
「だから奥さん、もうダメだってさ・・・。どっひゃー」
突如としてヒグマが吹き飛んだ。その風圧により一二三はひっくり返ったが、千夏はタイミングよく避けた。獣は薄っぺらな敷物となって床に広がってしまう。
{じゃじゃじゃ、じゃーん}
自分で効果音を鳴らしながら出てきたのは、りん子である。体操選手がフィニッシュした例のポーズをとって誇らしげであった。
「りんちゃん、りんちゃん、りんちゃん、りんちゃん」
喜びの余り、千夏はめいっ子に抱きついて名前を連呼する。その後ろでだらしなく股を広げていた一二三は唖然としていた。
猫瘤女に抱きついていた義男が宙を飛んだ。啓介も襟首をつかまれて放り投げられた。二人とも大怪我をしても不思議ではなかったが、動物たちの死骸の山へ着地したのが幸いだった。
再びりん子が突進し、猫瘤女との格闘になった。
近接戦での激烈な打ち合いであり、獣臭い空気がバシバシと揺れた。バケモノ以外の人間たちは逃げ道を探すが、母屋への出入り口は野生動物の死骸がバリケードを作っていた。夫婦と啓介が切り崩しにかかるが難儀している。有刺鉄線が混在しており、ヘタに触ると手が切れてしまうのだ。
千夏は啓介たちを手伝わず、りん子と猫瘤女との激闘を注視していた。その彼女のもとへ這って来たのは智也だ。相当に衰弱しているようで、呼吸と鼓動がか弱く乱れていた。
「おじさん、こっちきて」自分だけでは心もとないと、千夏が啓介を呼んだ。
「なんだ、どうした。どうしてこいつが死にそうになってるんだ」
「わからないけど、すごく苦しそう」
千夏が膝を折って抱き起すと、智也は呻きながらすがってきた。
「ほっとけばいい。こいつは、あの女の連れだろう」
「おじさん、放っておけないよ。一緒に連れて逃げてよ」
「逃げ道がガッチリふさがれてしまっているんだ。蹴っても叩いても、ぜんぜん動かん」
「とにかく、智也君をお願い。私はりんちゃんを待つから」
可愛い姪っ子の求めに、叔父の心は折れやすい。
「ちっ、そいつをよこせ。それとおまえも一緒に来るんだ。あの子供は、そもそも人間じゃないから心配いらん」
この時、啓介と千夏は気づいていなかったが、背後から野犬が忍び寄っていた。雑種の大型犬や中型犬が数匹、首をたれた低い体勢で、黄ばんだ牙からねっとりとした涎をたらしている。それらは屍ではなく、生きている新鮮な獣であった。
「おんどりゃあ」
「そいやーっ」
野犬がとびかかろうとした刹那、夫婦が単管パイプを振り回してやってきた。野犬たちは一瞬怯んだが、ブンブンと唸る鋼鉄パイプを起用によけて一二三にとびかかった。喉元を狙ってきたが、とっさに腕を突き出して防いだ。
「痛っ、あんたっ」
「このクソたれ犬、誰の女房に噛みついてんだっ、ゴラア」
自らのふくらはぎに噛みついている野犬にかまわず、義男は一二三の救助を優先する。重くなった足を引きずって、女房に噛みついている野犬を殴り斃した。返す刀で足元にじゃれついているやつにも、息の根を止める一撃を見舞った。脳組織を砕かれた野犬は瞬時に絶命したが、置き土産とばかりにふくらはぎの肉を噛みちぎった。
もっとも脅威度が高い敵と認識しているのか、野犬たちの攻撃は義男に集中し始めた。とびかかって腕や脚に噛みつく。さらに死骸までもが集ってきた。
「てめえら、死ね、死ね、この駄犬め。しつこいぞ。ハウス、ハウス」
義男は八面六臂の働きを見せていた。金属交じりの奇怪なゾンビ動物や、生きてはいるが狂犬病以上の凶暴さで襲ってくる獣たちを、手に持った硬い棒で殴り斃していく。自らが傷ついても、一二三を守り通すことを止めない。愚鈍で冴えない中年男が、勇敢で向こう見ずな夫となっていた。
「あんた、あんた」
ただ、満身創痍の状態だった。
野犬だけではなく、キツネ、ネズミにカラス、生きているか屍になっているかにかかわらず、多くの憎悪が義男に噛みついていた。体中が、牙や錆びた有刺鉄線に抉られ、引き裂かれた。わが身の危機を顧みずに、啓介、千夏、一二三の盾となって戦っている。自分の命など、とうの昔に投げ捨てたかのような覚悟を見せていた。
「おい、クマがきたぞ」
敷物になっていたヒグマがやって来る。四足獣のくせに、なぜか二足歩行でノッシノッシと歩いていた。真正面から見ると野獣の迫力だが、横から見るとかなり扁平である。
啓介が前に出るより先に、義男が突進する。多少薄くなったとはいえ、たとえ死んでいるとはいえ、相手の素性は猛獣なのだ。凶悪な爪の一振りでぶっ飛ばされてしまった。胸に爪痕がしっかりと刻まれ、鮮血があふれ出てきた。ヒグマは仁王立ちしており、その迫力に押されて啓介は動けない。
「あんた、」
ぶっ倒れている義男に一二三が抱き着こうとしたが、彼女めがけて単管パイプがブンと唸った。女房は止まってとっさに頭を抱える。ひ弱な中年女を噛み殺そうとした跳びかかった野犬が、ガクッと崩れ落ちた。血だらけのパイプを持った血だらけの男が、ゆっくりと立ち上がる。そこへ猛獣が迫っていた。
ヒグマが義男に向かい、彼が単管パイプを振り上げた。誰の目にも勝負の行く末は知れており、その結末を想像するのは苦痛を伴った。とくに、一二三の絶望が計り知れない。
猛烈なるなにかが飛んできてヒグマに衝突した。なにかと野獣は勢いのあるまま一体となって転げ回る。義男はあげていた凶器を降ろし、一二三が夫に触れようとする。
義男が見つめる先にあるのは、ヒグマと猫瘤女であった。相当の衝撃だったのか、野獣の尻から出た有刺鉄線がだらしなくとぐろを巻いている。
りん子がやってきた。髪も服も大概に乱れていたが、いたって健康そうである。両腕を組んで、少しばかり足を開いて立っていた。自分が投げ飛ばしたものの状態を確認して、満足そうな上目遣いだ。勝者の微笑みさえあった。
千夏がりん子を抱きしめる。夫婦がお互いの顔を見た。
夕張のパチンコ店で、河本義男はヤキモキしていた。閉店時間を過ぎても、佐藤一二三が戻ってこないからだ。夕方、ある男に呼び出されたのは店長から聞いていた。地元ではすこぶる評判の悪いチンピラで、下っ端であるがヤクザの構成員だ。粉雪が舞う冷えきった駐車場は、真夜中になろうとしていた。
そこへ車が一台やってきた。窓ガラスまで真っ黒い高級セダンの低重な排気音は、心ある市民に危機感を抱かせるほど毒々しかった。助手席のドアが開いたかと思うと、人が投げ出された。後輪から雪埃を撒き散らしながら、その車は去った。
深夜の駐車場に伏せて雪だらけになっていたのは、佐藤一二三だった。左目の周りと頬、唇が、シリコンを注入したように腫れあがっていた。コートを着ているが、その下はすっ裸だ。腫れあがった顔と同じ色の痣が、いたるところにあった。義男が駆けつけるが、一二三は顔をあげず泣いていた。彼の存在を肌で感じて、やっと涙を流すことができた。
彼女は手ひどく強姦された。景品を受け取りとるという業務で連れ出され、容赦のない暴力と恥辱にさらされ、散々に凌辱された。チンピラと店長はグルであり、彼女を差し出したのだ。
一二三は諦めていた。騒がずに受け入れると言った。パチンコ屋の店員という職を失うと路頭に迷うこととなる。見栄えもスタイルもパッとしない、身内も友人もいない孤独な女に、生きてゆく選択肢はそれほど多くはなかった。
義男の部屋で淡々と語る一二三は、まだ震えていた。灯油ストーブの火力は十分であったが、暴力のトラウマが彼女の体温を絶え間なく奪っていた。義男は決心する。
復讐をすると告げた。もちろん一二三は反対する。震える手でしがみ付き、そんなことをしたら無事では済まされない。末端といえども、相手は暴力団の構成員だ。自分のために命を賭す必要はない。生きていくためには理不尽であっても甘んじなければならないと説得し、仕方がないことだと泣いていた。彼女は職を失うことを恐れていた。その町で、他の仕事を見つけることが簡単ではないからだ。
二人は何事もなかったのかのようにパチンコ店で働き続けた。店長は一二三に対し、嘲りと蔑みをもって接した。恥辱は、いつまでもつきまとった。
春の生暖かなある日、深夜の駐車場に低重音な車が入ってきた。あのチンピラであり、佐藤一二三がいかにも重そうな足取りで近づいてゆく。冬にレイプされてから度々呼び出され、そのたびに暴力交じりの性交渉を強いられていた。チンピラは、その夜も手ひどく扱ってやろうとニヤついていて、助手席側とは反対方向から忍び寄る人影に気づいていなかった。
一二三が助手席のドアを開けると同時に、義男が運転席側のドアを開けた。淫靡で暴力的な高揚感で油断しきっていたチンピラは即座に反応できず、呆気にとられた顔だった。
そのコンマ一秒のスキを見逃さず、右手に握ったハンマーを喉元に叩きつけた。チンピラはのけ反り、呼吸困難を起こしパニックになる。一二三は、すぐに走り去った。
自らの喉を両手で押さえて、ヒューヒュー唸っていると、義男が黄色と黒が交差するロープを首に巻き付け、渾身の力で締め上げた。さしたる抵抗に遭うこともなく、卑劣なチンピラを絞め殺すことができた。死体をトランクに放り込んでいると、大きなバックとスコップを引きずって一二三がやってきた。無免許ではあったが、義男が運転席に、助手席には一二三が乗った。夜中の山道を、車体の底を擦りながら走り続けた。
林道を突き進み、適当な場所に穴を掘ると、そこへ死体を放り込んで埋めた。来た道を戻り、途中の森の中へ車を突っ込ませた。まだ春先なので見通しはよいが、夏になると草木が繁茂して見えなくなる。そして、その車は誰にも見つかることなく、樹木に覆われたまま、いま現在も存在している。
そこにいる者全員が同時に夢から覚めた。
「そう、あなたたちも罪を背負っているんだ」
責めたてるというわけでもなく、共感するようなトーンで千夏が言った。一二三はぐっと唇を噛みしめ、義男は脈絡のない方向を向いた。りん子がやや上目づかいで見つめている。
「畜生どもはみんな動かなくなったし、バケモノ女は死んだかどうかわからんけど、もう襲ってくることはないだろう。外に出られるんじゃないか。ここから離れよう」
ヒグマと一緒に有刺鉄線に絡まっている有紀は、動く気配がない。逃げるのなら良いタイミングであり、啓介の提案に全員が頷いた。
「いま見たのは、まあ、いろいろあるさ。俺だってガキのころは無茶して施設に入ったんだ。兄貴の助けがなければ、一生塀の中暮らしだったよ」
啓介が硬い表情の夫婦に言うと、二人は力を抜く。崩れ落ちそうでなんとか立っている義男に、一二三が肩を貸した。啓介と千夏が手伝おうとするが、やんわりと遠慮された。胸の傷による出血は多かったが、致命傷までには至っていない。
「こんなの屁でもねえ」と言って、いかにも下劣な屁をたれた。心配されるのが心外なようであった。それ以上、彼の傷について触ることは不要であるとの空気が醸成された。
「りんちゃん、偉いね」
千夏がめいっ子の活躍を褒め称えると、りん子がガッツポーズをする。キャッキャと笑いながら、お尻を振っていい気になっていた。
「シャッターから出られそうだぞ」
車両出入り口に築かれていた死骸のバリケードは崩れ落ちていた。シャッターを開けるために、啓介がキツネやタヌキの死骸を足で蹴っ飛ばした。外の暴風雨は相変わらず強く、闇空を切り裂く風の音がゴーゴーと唸っていた。
「開きそうだべや」
外枠のレールから逸脱してヘラヘラと風に舞っているシャッター下部を、義男が掴んだ。あっさりと開いてしまうだろうとの予想は当たっていたが、唐突感とエネルギーは想定外であった。
「ぐひゃはっ」シャッターの扉ごと義男が撥ね飛ばされてしまった。
突然、外から車が突っ込んできたのだ。
塗装が剥げ落ち、錆とコケだらけの黒くて古いセダンである。樹木の枝が助手席のウインドウガラスを突き破っていた。ボンネットには蔦が絡み、枯れ枝がワイパーに挟まっている。
「きゃああああ」
一二三が悲鳴をあげた。切迫した響きがあった。トラウマを具現したものに遭遇し、突如としてパニック状態となっていた。それは、夫婦が四半世紀前に森の奥へ放置した、あのチンピラ車だった。
義男を轢き飛ばした車は加工場内でいったん止まり、やたらとエンジンを空吹かして毒々しい低重音を吐き出していた。積年の苦痛を訴えるかのような慟哭でもある。
ぶっ倒れている義男を助けようとする啓介だが、フルスロットルで空吹かしする車が危険で近づけない。逡巡している間に、一二三が泣き叫びながら駆け寄ってきて、夫に覆いかぶさった。
後輪が激しくスピンして白煙を上げる。悲鳴交じりの嗚咽を洩らし、倒れた義男に強くしがみ付いたまま、一二三が目をつむる。踏み潰されるのを覚悟した。
だが、数秒経っても背中に重圧を感じることはなかった。エンジンとホイルスピンの勢いはすさまじく、ゴムが焼ける臭いが気管支につっかえるほどだ。
チンピラ車は、一二三と義男の前で止まっていた。いや、正確には数センチ前進しようとして数センチ戻っていた。呪われた内燃機関のトルクを押し返している者が存在する。
「ちびちゃん」
りん子であった。フロントグリルに体を当てて、渾身の力で踏ん張っている。自動車一台分の重量と馬力を押し返そうとしていた。
「いまのうちに逃げるぞ」
「うちの人が動かないんだよ。大ケガしてるさ。ダメかもしれない」
「まだ死んでないよ。気を失ってるだけ。ただ骨が折れているかもしれないから、静かに動かしましょう」
千夏は最大値の大声で言っているのだが、唸りまくるエンジン音にかき消されて伝わっていない。一二三は泣きながら首を振るだけだ。
仰向けで倒れている義男の両肩を掴んで、千夏が後退する。夫に抱きついている一二三もろともだ。啓介も加わり、四人が一塊になって離れた。
「りんちゃんもこっちに来なさい。そんなのにかまっちゃダメ」
チンピラ車はイキリ立っていた。その猛進を抑え込んでいるりん子の足が床のコンクリへめり込んでいた。かまうのを止めるほうが、かえって危険な状態である。
「りんちゃんが潰さちゃう」
ある程度離れたところまで義男を引っぱると、千夏はすぐに戻った。りん子を連れ出そうとするが、その小さな体が絶大なる支えとなっていることをすぐに理解する。めいっ子の横に屈んで、叫びながら押し始めた。
「うおおおお」
啓介も加勢する。重症の義男を看ているのは一二三だけとなり、「あんた、あんた」と必死になって呼び掛けていた。
猛然と押し込んでくる車を、三つの人影が阻んでいる。千夏と啓介は、ほとんど戦力になっていない。押し返している主力は、りん子が有するこの世ならざる怪力なのだ。
チンピラ車の駆動輪が耐久の限界を突破した。タイヤがバーストし、ホイールが派手に火花を散らしている。りん子の体がフロントバンパーにめり込み、ボンネットが跳ね上がった。さらに女の子の拳が炸裂する。ラジエターが破壊され、灼熱の冷却液が飛び散ると、千夏と啓介が熱い熱いと喚いて逃げ出した。
りん子はフロント部分を叩き壊しながらエンジンの鋳鉄ブロックにたどり着き、鋼鉄の塊を板ガラスのように破壊した。
「なにさっ、なにさっ、この腐れチンポがーっ、死んじまえ、死ね、死ね」
千夏と入れ替わるように一二三がやってきた。よほどの恨みを思い出したのか、罵声を浴びせながら車体を叩いたり蹴ったりしている。所詮は人間なのでバケモノであるりん子のパワーには及ばないが、それでも車体のあちこちを凸凹にすることはできた。
性根が腐りきった不審車は、異次元の存在である少女と若干の人間たちによって撃破された。ひしゃげたボンネットから水蒸気と白煙を吐き出し、ホイールが息絶えたように回転を止めた。
さんざんに殴る蹴るをして激昂していた一二三は、ハッと我に返った。放っておいた義男のもとへと急ぎ、「あんた、あんた」と、ふたたび声を詰まらせている。
「とんでもないものが出てきたな。この子が、あの夫婦の夢を現実として呼んだのか」
数々の白日夢を作り出している元凶がりん子であると、啓介は疑っていた。
「りんちゃんが、そんなことするわけないっしょ」
千夏が強く否定すると、りん子が親指を上に向けて頷いた。心外そうな表情である。
「車が突っ込んだから、シャッターがぶっ壊れたのはよかった。さっさと出るぞ」
「待って。河本のおじさんを連れて行かないと。ケイタイがあれば救急車を呼ぶのに」
義男は床に倒れたままだ。ときおり手足が動くので死んではいないようだが、一二三の呼びかけには反応しない。人事不肖とまではいかないが、意識は混濁気味であった。生きていることに、妻はひとまずホッとしている。
千夏と啓介が夫婦のもとへ行き、義男を外へ連れ出そうとする。骨折しているのは確実なので、無理に立たせようとはせずに、そのまま引きずっていくことにした。衰弱していた智也は、体をくの字に曲げて横たわっている。
「さあ、あなたも行くのよ」
千夏が彼を引き起こすと、うーうーと唸りながらようやく立ち上がった。だが一人で歩くことはできなさそうなので、肩を貸りてヨタヨタと歩く。
りん子がスクラップ車体を外へ押し出した。シャッターには十分すぎるほどの開口部ができた。大嵐が吹き込み、少女の髪がデタラメに踊っている。
「おじさん、早く来てよ」
「わかってるって。でも、こいつがやたらと重いんだ」
中腰で義男の両脇を抱えるが、進むことができなかった。
「なんで動かないんだよ。引っかかってるのか」
「うちの人の足になんか絡んでるさ」
義男の足首に黒いヒモが絡んでいた。一二三が取り除こうとする。
「このヒモ、なんか増えてんだけど、おかしくないかい」
ヒモの数が増えていた。左足だけではなく右足にも巻きついていた。
「おい、そいつはヒモじゃないぞ。こっちこい」
なにかを感じた啓介が一二三を引っぱって離れた。義男の下半身は黒いヒモが幾重にも巻きついていた。それらはヌルヌルと気色悪く動いている。
「生きてやがる。たぶん、バケモノだ」
「あんたっ」
一二三が啓介の手を振り払おうとするが、ガッチリとつかまれて動けない。義男の脚に絡まり始めた黒いヒモ状のものは見る間に数を増やし、体全体を覆ってしまう勢いだ。
「なんなの、あれ。はやく取らないと」
「わからん。だが近づかんほうがいい」
千夏が前に出ようとする。叔父は片手で一二三を押さえながら、もう片方の腕で姪っ子を制していた。
床面がざわついていた。そこかしこに散らばっていた大小野生動物らの死骸が震えている。血まみれの毛皮から細長い管が何本も立ち上がっていた。モヤシの芽生えかカビの倍速成長である。
「放せよ。うちの人が喰われちゃうって」
啓介の手を振りほどいて、一二三が夫のもとへと行く。義男に絡みついているヒモを引き千切ろうとした。だが赤黒いヒモ状のものは見た目より強靭であり、彼女のか細い手が引っぱったくらいでは切れなかった。
「一二三さん、ちょっとどけて。なんだかよくわからないけど、切ってやるから」
千夏は機械の隙間に放置されていたニッパーを持っていた。針金などを切断する工具だ。錆びついていたが、切れ味は健在である。
「きゃっ」
切ると同時に悲鳴をあげた。彼女の手がびっしょりと濡れて真っ赤になっていた。ニッパーを落として、あわてて着衣で拭う。
一二三がニッパーを拾って、夫に巻きついたヒモを切り始めた。パチッとやるたびに、紅の液体がほとばしった。中年女は一瞬怯むが、やるべきことを躊躇っている暇はない。たちまち、彼女も夫も真っ赤な液体だらけになった。
「これって、血じゃないの。血よ、血。ああ、血管だわ。血管、血管」驚くべき事実を発見した千夏が騒いでいた。
「たしかに血管に見えるな。つうか、血管か。えらく丈夫な血管だな。まるで番線だ」
恐る恐るやってきた啓介が、それらをギュッとつかんで吟味し同様の結論を得た。握ったものから手を放し、鉄臭くて生臭い液体で真っ赤になった手のひらを胸で拭うと、ニオイを嗅いで、しかめっ面をした。
義男に巻きついていたものを、一二三がすべて切断した。動かせるようになったので、三人で引きずった。血管を切ってぶちまけられた液体が血だまりとなっている。
「どうして血管がおじさんに巻きついていたの。どこの血管、誰の血管なのよ、って」
言っているうちに自分の問いかけがおかしくて、千夏は笑いそうになる。
「そんなの、まわりを見たらわかるだろう」
啓介がアゴをしゃくり、そこかしこで蠢く死骸を指し示した。
「死んだ動物たちの体内から生えているってことなの。まだ終わってないの」
「そういうことだ。最後にデカいのが現れそうな気がする。さっさと出よう」
加工場内は異様な臭気が充満し、生温かな空気がたまっていた。外は強烈な風と雨が吹き荒れているのだが、不思議と静寂さを感じた。
意識がはっきりとしない義男を、啓介と一二三が引きずる。千夏は智也に肩を貸した。
「あっ、なんだよ」
チンピラ車が突っ込んで破壊したはずの大穴が塞がれていた。シャッターとボコボコになった車とガラクタ類、動物たちの死骸が混然一体となって新たな壁を形成していた。それぞれは血まみれの有刺鉄線により縦横無尽に縫いつけられ、しっかりと結合していた。いつの間に、という問いには一瞬であったと答えるしかない。
壁の前で、りん子が腕を組んで立っていた。仁王立ちのスタイルで微動だにせず、その不遜で前衛的な造形物をじっと見つめている。表情から考えていることは読み取れないが、力技で突破しようとの気迫は感じられなかった。
「おじさん、どうにかできないの」
「バラ線が絡みついて、しかも動いてやがる。ヘタに触るとスッパリとやられるな」
絡みついた有刺鉄線がギリギリと音を立てて動いていた。ゆっくりと駆動するチェーンソーであり、うかつに触ることができない。
「なあ、あっちから、なんかヘンなのが来るさ。なんか来るって」
上ずった一二三の声が、急迫不正の侵害がやってきたことを知らせた。啓介が覚悟を決めて振り返る。
「うおー、なんだ、ありゃあ」
それの形状を形容することは困難である。
三メートル以上の背丈があった。人間っぽいシルエットだが、顔もなければ手足もない。ただただ赤黒く、すべてがヒモ状であり、いやらしく波打っていた。
巨大なボーリングピンの表面を赤黒い大量のヒモが覆っている。超ロングヘヤーで全身を包んだような姿だ。ただし、時として散見する内部は存外にグロテスクだ。
「血管のバケモノか」
「見て、中に臓器がある。あれって心臓でしょう」
体は血管の塊だが、内部には臓器もあった。ミミズのように活発に揺らめく血管の隙間から、ぬるぬるとテカった艶めかしい臓器が見える。それらは体に比例して巨大であり、見せつけるように脈打つ心臓や、肺の存在感が過大だった。
「ああ~、有紀」
それに向かって、いかにも虚弱で貧血気味な男がフラフラと歩いていた。
「あ、だめ。なにしてるの」
制止する千夏の手をすり抜けたのは智也だった。血管のバケモノの後ろに有紀がいたのである。彼女の腕や太ももから何本もの筋が露出しており、それらはバケモノの体に連結されていた。彼女とそれは、血液の管を通して繋がっていた。
「有紀、どうしちゃったんだよ。こっちにこいって。テントに戻ろう」
血管のバケモノがざわめいた。わさわさと全身を揺らし、床を這っていた束が鋼鉄のパイプに巻きつくと、それが素早く空を切り、青年の足首を叩くように払った。
智也がぶっ倒れた。幸いにも頭部を床に打ち据えることはなかったが、右足首が直角に捻じれてしまう。いまの一撃で折れてしまったようだ。
「このヤロウ」
「おじさん、ダメよ」
拳を硬く握った啓介が突進しようとする。千夏が止めるが、ほぼ同時に血管のバケモノが、ざわっと動いた。
「きゃっ」
啓介が吹き飛ばされて、その後ろにいた千夏が受け止める。だが勢いがありすぎて止まりきれない。床の死骸を蹴散らしながら数メートル滑った後、ひっくり返った。
後頭部を練り物機械のカドにぶつけた千夏が、頭部を抱えながらバタバタと暴れた。血管のバケモノは触手だけではなく、なにがしかの超自然的な能力があった。その供給源は、血生臭い管で繋がれたサイキック女である。
「ナマンダブ、オー・マイ・ゴッド、悪霊たいさーん、死ねや」
今度は一二三が突撃した。武器も戦術もないが、やけっぱちな気合だけは十分に走っていた。
「ぐはべっ」
しかし、その突撃は跳ね返された。
血管の束がつの字にしなると、一二三の顔面を斜めに直撃した。行きの勢いと同じ力で後ろにひっくり返り、鞭の痕がしっかりと刻まれてしまった。しがない中年女であるが、顔だけは凶悪な面となった。
りん子が走り出した。一歩一歩がとても重たく、コンクリ床に確固とした足跡をめり込ませての疾駆である。深い前傾姿勢のまま、自らの頭部を弾頭にして血管のバケモノに迫った。その間は一瞬であり、まさに目にもとまらぬ弾丸の速さだ。そのまま突き抜けると思われた。
だが、りん子は止まってしまう。血管のバケモノの手前でピタリと静止していた。かけっこする姿勢のまま、まるで少女を包み込んでいる空気ごと硬化したようだ。
赤黒く脈打つ血管の束が、身動きできないりん子に巻きついた。手足と首にしっかりと絡みつくと、それぞれを引っぱった。空中で大の字にされた女の子は、ひどく無防備に見えた。
「よくもやったね、きたねえ管のくせにさー」
一二三が立ち上がる。スカーフェイスは不撓不屈な中年女の証なのだ。単管パイプを拾って、わあわあと喚きながらバケモノに向かって行った。
「わあわあ」
一二三の後ろから叫びながら追随するのは千夏だ。女二人の同じ声が重なり合って、立体的な響きとなる。血管のバケモノの気が、少しばかりそぞろとなった。
その隙をりん子は見逃さなかった。体を猛烈に回転させながら血管の縛りから脱出した。トンと床に着地すると、バケモノに立ち向かうことなく踵を返した。一二三の足首をつかみ、その後ろにいる千夏の手を握って走った。二人の女性は、少女に連れられるままバケモノから遠ざかる。すると床面が砕けて、機械の部品が散らばった。爆薬があったわけではないが、血管のバケモノの超常的な力で爆ぜているのだ。
「あひゃあ」
「きゃあ」
りん子が両手に握った女たちを放り投げた。千夏は前につんのめりながらも転ぶことはなかったが、足首から投げられた中年女は、モップのように体でゴミを集めながら壁に激突した。扱いが差別的だと、一二三の内心は憤慨していた。
二人が無事であることを確認したりん子が振り返った。そこへエゾシカの死骸が飛んできて、少女に衝突して圧し潰した。
「りんちゃん」千夏が駆け寄る。一二三も、三歩ほど距離をおいて続いた。
大きな雄鹿がりん子に覆いかぶさっていて姿が見えない。鹿を動かそうとするが、女一人の力では無理である。そこへ血管のバケモノが迫ってきた。タコ足のような触手が空中でつの字になると、力強く唸った。
「ほぎゃっ」
ただし、ぶちのめされたのは千夏でなく、後ろにいた一二三だった。一度では飽き足らず、二度三度と鞭打たれた。目標の選択が差別的であると、中年女は悲嘆にくれた。
「おんどりゃあ、オレの女房を、なしてー、ぶん殴ってんだーっ」
ぶっ倒れていた義男が、突如として起き上がった。汚らしい鞭で女房が凌辱される様を見て激高している。すぐさま一二三の前に行き、胸や腕の骨を損傷しているのにもかかわらず、気丈にも大の字になって庇うが、さっそく顔面をぶっ叩かれた。
夫婦に向かって複数の鞭が何度も振り下ろされるが、すべてを義男が受け止めている。皺とシミだらけの目尻から、血の涙が流れていた。
「千夏、チビは諦めろ。もう潰れてダメになってる」
「りんちゃんがダメになるわけないじゃない。バカじゃないの」
「とにかく逃げることが先なんだ」
啓介がやって来た。必死になって雄鹿をどけようとする千夏に向かって、りん子の救出を諦めるように言う。
「有紀、そいつから離れてくれよ。もう、やめよう」
智也の右足首は折れ曲がっていたが、左側はまだ健在であった。木の板を杖代わりにようやく立ち上がった。90度曲がったつま先が、ほんの少しでも床に触れると激痛が走る。
「きゃっ、な、なによ」
「くそ、気色悪くてヘドがでそうだ」
触手が啓介と千夏の体に絡みつき始めた。夫婦をぶっ叩いているのとは別の管だ。
「りんちゃん、どこなの。早く出てきなさい」
血管だらけになりながらも、千夏はりん子を心配していた。巻きつきの力に抗いながら、少女に覆いかぶさっている鹿の角を握って引っぱっていた。
「うおおおお」
智也が恋人を助けるためにバケモノへ突進しようとしたが、鉄パイプの触手に再び足を払われてしまった。今度の一撃は容赦なく強烈であり、千切れた左足首が勢いよく飛んだ。
「千夏、千夏」
千夏が持ち上げられてしまった。四肢と首へガッチリと巻きついた管が、それぞれ外側に向かう。りん子と同じことをされており、この世のものでない存在は耐えることができたが、ただの人間には中世の忌まわしき引裂き刑となる。
尋常ならざる力が千夏を六等分にしようとしていた。あと数センチ引っぱるだけで関節が抜けるだろう。その時、雄鹿の腹部が破裂した。
{ハイサー}
血と肉片とハリガネの破片とともに、りん子がとび出してきた。そして、回転しながら千夏に巻きついている管を断ち切った。先に着地したりん子が千夏を受け止める。少女の手には有刺鉄線が握られていた。獣の体を突き破った際に、武器として手に入れたのだ。
返す刀ではなく有刺鉄線で啓介に取りついていた管を切断すると、血管のバケモノ本体へ突進した。棘だらけの金属鞭を縦横無尽に振り回して、まとわりついてくる管を断ち切った。千夏や啓介は、すでに大量の返り血を浴びてびしょびしょに濡れているが、バケモノのまわりもひどい有り様だった。
「ああああー」
有紀が叫ぶと同時に、バケモノと連結している管が脈打つように膨らみ始めた。サイキックの覇気が血管のバケモノへと送られる。りん子が繰り出した硬質の鞭によって散々に痛めつけられていた管の集合体が、魔的な強靭さを発揮する。
切断していた血管組織が見る見るうちに修復し、出血が止まった。再強化された血管の束がしなり、何本もの触手があらゆる方向からりん子を襲った。少女は鞭打たれ、倒され、叩きのめされた。
「やめてー。りんちゃんをイジメるなー」
「あ、ばか、行くな」
千夏が助けに入った。当然のようにぶたれて床に這いつくばってしまう。それでも歩匍匐前進で、りん子のそばまで進み覆いかぶさった。背中の皮膚がずるりと剥けて、さらに裂けてしまっても、めいっ子の盾となることを止めなかった。
「うおお、なんだこのヤロウ、ぶっ殺してやる」
「うおお、なんだこのやろう、ぶっ潰してやる」
似たような気合を放って、満身創痍の男たちがバケモノに立ち向かう。啓介は姪っ子を、義男は女房を守るため野蛮人のように猛進した。とくに義男は魂のレベルまでキレてしまっている。怒りで痛みと我を失っていた。
{ふんぎょーっ、ふんぎょーっ}
りん子が唸っていた。不浄な鞭で打たれ続けている千夏の鼓動を背中で感じて、心底から憤慨していた。自分を庇っている者の温もりを受けながら、小さな体に怒りと力を貯めていた。
薄っぺらな鉄板で攻撃しようとした啓介が、図太い触手に、その盾ごとぶっ飛ばされてしまった。ローラーコンベヤーの残骸に腰を強打すると、こと切れたように動かなくなった。ただ、薄い呼吸はしているので死んだわけではない。
触手の一本をパイプ椅子で殴りつけていた義男が、ピタリと止まる。バケモノのサイキックが彼を縛っていた。細い管がシュルシュルと伸びてきて首に巻きつき、そのまま締め上げる。血流が止まり、呼吸ができなくなり、みるみる血の気が失せていた。さらに人の腕ほどの束がぐるりと巻きついた。
「うちの人になんするのさっ、このっ、バケモノ、ケモノナマケモノ」
一二三が、その細い管に噛みついて千切ろうとする。死に物狂いで歯を立てる一二三の頭を義男がポンポンと叩き、気づいた女房に向かって手を振った。一瞬なんのことがわからなかったが、自分にかまわず逃げろとの意思表示だと悟る。
「あんた、あんたー」
泣きながらしがみ付こうとする一二三を、義男が最後の力をふり絞って突き放した。中年女がカエルみたいにひっくり返った直後、音も立てずに首が折れ曲がった。管の束が緩み、中年男の体がするりと落ちる。義男が絶命した。
「いやあああ」
金切り声をあげたのは千夏だ。一二三は呆然として、夫の亡骸を眺めていた。事態を理解するまでに数秒のタイムラグがあったが、その間隙をついて血管の束が首に絡みついた。夫を屠ったのと同じ管ならいいのにと、妻の心情は少しばかり錯乱していた。
{ほぎょほぎょほぎょほぎょ、ぎょぎょぎょぎょーっ}
りん子が千夏のふところから脱し、謎の掛け声を発しながら真横に走り出した。短足胴長児童が、例のホイホイ走りで壁を上がり始めた。横壁では直角に、天井は逆さになって一周すると、勢いをつけたまま一二三を締め上げている管の束に手刀を叩きこんだ。
太い管の束が切れて、一二三が落下する。寸前のところで命拾いした女は、義男の亡骸めがけて血だらけの床を這い進んだ。
改めて、りん子と血管のバケモノとの血闘となった。
少女に向かって、たくさんの触手が唸りをあげて空気を切り裂いている。りん子の拳や足蹴りが、それらのすべてを防いでいた。触手と手足の動きが素早すぎて、肉眼でハッキリと見ることができない。バシバシバシバシと空気の弾ける音が響いていた。
「りんちゃん、こっちおいで。そいつから離れるの」
「千夏、逃げろ。チビが頑張っているうちに、そのババアを連れてここを出るんだ」
「でも、りんちゃんをおいていけない。あの時の千沙のようにおいていけない。あんなことは絶対にダメなの。私は、二度とおいていかない」
「いいから、早くしろ。チビはこの世の者じゃない。何度言わせるんだ」
乾燥しきったぞうきんを絞ったような、ひどく枯れた声だった。啓介自身の体も限界に達している。最期の火が消える前に、姪っ子の命を救いたいと切実に願っていた。
一瞬の躊躇いの後、千夏は動き出した。死んでしまった義男の体に覆いかぶさって泣いている一二三の腕をつかんで引っぱった。
「一二三さん、行くのよ。あれから離れないと」
「あたしはねえ、この人をおいていかないさ」
「残念だけど」もう死んでいると言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。しかたなく、二人で義男を引っぱって啓介のもとへやって来た。
「さあ、おじさんも一緒に逃げるの」
「俺は、はは、歩けんよ。たぶん、腰の骨が折れてるんだ。足に感触がない。かまわずに行け。ポケットにレンタカーのキーがあるから、とにかく走ろ」
「うるさい、一緒に行くのよ」
叔父の諦めを姪っ子は許さなかった。
「一二三さん、おじさんを運ぶから手伝って。私ひとりじゃ無理っぽい」
「こっちだって忙しいんだ」きびしくそう言ってから、一二三は義男の顔を愛おしそうに見つめた。数秒後、彼女は決心し夫の体から手を放した。
「ありがとう」千夏の言葉に、一二三は無言で応えた。
啓介は脊椎の損傷が疑われる。外へ連れ出すには慎重を期さなければならない。
「そうっとよ」
もどかしいほどスローに三人が動いていた。下半身に感覚がない啓介だが、上半身には痛覚があった。方々の骨が折れている。十センチ進むごとに、痛みで顔を歪ませていた。
母屋へ通じるドアも、外へ出るシャッターも固く塞がれている。ただでさえ突破は至難の業なのに、厄介な者が立ちふさがった。
「ちょっと、そこをどいてくれない」
有紀が立っていた。だらりと垂れた両腕から何本もの血管が出ていた。腕は青黒く変色し、組織が壊れているのがわかる。生気を相当に吸い取られたのか、ミイラか即身仏の一歩手前な風体だ。ただし、眼光の鋭さと不吉さは健在だった。魂の内側が爛れてしまいそうな瘴気が充填された視線だった。
有紀が腕を上げて、開いた手のひらを向けた。サイキックを発動させる気である。千夏が啓介の前に立ちはだかり、一二三も横に並んだ。
「有紀、有紀、その人たちを傷つけてはダメだ」
血だらけの床をカエルが泳ぐように這い進んできたのは、智也だった。もはや足で立つことはかなわず、うつぶせのまま、変わり果ててしまった恋人に話しかける。
「もう十分なんだよ。僕たちの旅は終わりなんだよ。子供の時に終わっていたんだ」
サイキックの能力は、いまだ発動しない。意外にも、歯を食いしばって耐えているのは有紀であった。
「奥さん、なにやってんだよ。行くんじゃないよ。殺さるって」
千夏が一歩前に出た。サイキックの手が彼女を狙いながら、ただならぬ気合を溜めていた。千夏はかまうことなく前進する。突き出ている手をすり抜けて、顔と顔が触れ合うばかりに接近した。戸惑ってなにか言おうとする彼女を抱きしめて、そっと呟いた。
「大丈夫。あなただけではないから。罪びとは、あなただけではないの」
やわらかく抱擁されて、ふいに訪れた温かみにハッとした。
「わたしは、お父さんを殺した。もう、戻れない。戻れないんだ」
絞り出すように言う。後悔と懺悔を否定し続けた人生を、よくよく噛みしめていた。乾ききった瞳を力いっぱいにつむっている。
「私も戻れない。私は妹を殺した。小さな女の子を殺したの。冷たい水の中へ落とした」
抗うことに疲れ切った女へ、千夏は吐息を吹きかけるように言った。
結氷した真冬の川。
小学生の千夏と妹の千沙が、その氷原を歩いていた。氷点下が当たり前の北国といえども、流れのある氷上は危険である。学校と両親から厳しく禁止されていた場所だ。
その日、父親が千沙に小さなフィギャアを与えた。取引先の事務員が置いていったものだ。安物であったが、小学生には喜ばしいプレゼントとなり、無邪気にも姉に自慢してしまった。もらえなかった千夏は父親に食って掛かったが、逆に叱られてしまった。姉さんなのだから我慢しろと、にべもなかった。
姉の内部に嗜虐心が沸き上がった。結氷した川へと妹を連れ出し、足元の氷を足で蹴ってみた。怖くて泣くだろうと思っていた。だが、小学校低学年年の千沙は、むしろ面白がっていた。姉の遊びに呼応するように、自らも跳ねだした。千夏はなんども妹の足元を蹴った。姉妹そろって、奈落の蓋が開きかけているのに気づいていなかった。
最後に一蹴りしてから終わりにしようと、姉は考えていた。意外にも妹が喜ぶので、イジメて憂さを晴らす気がなくなってしまったのと、結氷した川の上は凍えそうな寒さなので、温かい家へ帰りたくなっていた。
軽く蹴ったつもりだった。足元の氷は厚く見えた。だが水流は速くて、氷はしっかりとした硬度を確保していなかった。
千夏のかかとが当たるやいなや氷が割れて、千沙は両足を揃えた姿勢のまま崩れ落ちた。千夏もその穴に吸い込まれそうになるが、寸前のところで踏みとどまった。もう片方の足をのせていた氷が硬かったのが幸いした。
氷水へ浸かった少女は、すぐに氷の下へと流されてしまった。冷たい水の中で、小さな手が必死になって下側から氷を叩いた。かすかな振動だが、千夏はたしかに受け取った。しかし、彼女は逃げてしまった。恐ろしくなって、気持ちがグルグルと動転していた。
「おねえちゃん」と聞こえたような気がしたが、振り返らなかった。あの時、足を止めて振り返るべきだったと、千夏が過去を振り返らない日はなかった。毎日毎日、妹のことを想っていた。時が来たら、自らの命を妹に捧げる気であった。その時をずっと待っていた。
「私もね、ロクでもないのよ。そのときがきたら、精いっぱい苦しめばいいの。そうしたら、死んだ人だって気が晴れるでしょう。喜んでくれるでしょう」
血だらけになって床を這っていた智也が、シャッターの前までやってきた。獣の死骸と車の残骸などで造られた壁に手を伸ばして、一生懸命に崩そうとしている。
有紀が千夏を見ている。何度か小首をかしげ、鼻をすすり、そして頷いた。すべてに納得したわけではないが、良心に抗うことの愚かさを悟ったような表情だった。
「智也をどかしてくれない。それと、みんな少し離れて。まだドラッグが抜けきってないから、死ぬ気でやればいけると思うんだ。やばいヤツ打っちゃったから、どうせ廃人だし」
そう言うと、青紫に変色した両手を突き出した。精神と気合を集中する。千夏が智也を避難させた。
バチバチバチバチと壁の表面が弾けた。死骸と金属片が飛び散っている。有紀の超常的な能力、サイキックが連射された銃弾のように放たれていた。
よく乾いた瘡蓋が剥がされるように、獣毛と肉と金属でできた壁が薄くなってきた。開放の予感が濃密となる。
「うおおおお」
違法薬物の使用と限界値を超えた能力の発揮は、高い代償を要求することになった。左手はすっかりと干乾びて、ささくれてしまう。人体の一部としての寿命が尽き、役目を終えてだらりと垂れさがった。
だが、右腕はまだ下がっていない。最後の気合を、その一本から放ち続ける。壁に一か所穴が開いた。拳がようやく通り抜けるくらいの大きさだ。外の暴風雨が、そこから吹きつけてくる。
「もう少し、もう少しだから」
「ほらっ、がんばりな。親父のキンタマぶっ潰すつもりでやりな」
もし突破口が開いたら、二人の女たちは、二人の男たちを担いだり引きずったりしながら素早く脱出するつもりだ。超常的な能力を極限まで先鋭化させている有紀よりも、気持ちの面では尖っていた。
「ぐはっ」
サイキックがふっ飛んだ。
なにかが猛烈な勢いで飛んできて、彼女に激突したのだ。衝撃により、傷んでいた両腕が千切れてしまう。黒色に限りなく近い血を流しながら、ジタバタと暴れていた。
「りんちゃん」
りん子が転がっていた。血管のバケモとの死闘の最中に、投げ飛ばされてしまったのだ。それでも回転力の終わりごろにすーっと立ち上がると、猛然と突進した。しかし、ふたたび宙を飛んで転げ回った。手足を合わせて四つの少女と、無数の触手を持つ巨大な血管の塔とでは、質量差において歴然としていた。強靭な鞭でバシバシとぶっ叩かれ、投げ飛ばされてを繰り返している。
りん子は果敢に立ち向かう。髪も服も、まるで落雷の直撃を受けたかのような有り様だが、小さな手足が抗い続けていた。
りん子の手足が一段と早く動き、ヒュンヒュンと唸る触手の間隙をぬって体当たりした。
小さな体のくせして力は相当なもので、血管のバケモノが倒れた。
「お姉さん、ほら、やりなよ。超能力で壁を壊しなって」
一二三がハッパをかけるが、有紀は両腕をもがれて虫の息だ。骨をも溶かす麻薬の効力は、すでに消費つくされていた。
そこへりん子が来て、倒れている有紀の襟首をつかんで引きずった。血管のバケモノが起き上がろうとしている前に行き、尻を蹴飛ばしながら強引に立たせる。朦朧としている干乾びたサイキックの腰に抱きついて、おもいっきり腕を締めた。
「ギャアアアア」
上半身と下半身が千切れる苦しさで、有紀が目覚めた。両腕は失ってしまったが、肩から先が少しばかり残っている。穴の開いたゴムホースのように、ピュッピュと血が吹き出していた。
「な、なんなのさー」
加工場の内部に強風が吹き荒れ始めた。大量の死骸とゴミ、車や機械の破片が渦を巻いて舞っている。外の暴風が室内になだれ込んでいるわけではない。かろうじて残っていた有紀の超常的な能力が、りん子の気合入れで増幅されたのだ。
ネズミやキツネの死骸が一二三に当たる。本来は獣臭いだけの柔らかな毛皮なのだが、ところどころに鉄線が混じっているので触れると危ない。服が破けて、切り傷だらけとなった。たまらず床に伏せて辺りを窺えば、千夏や智也、啓介も同じ体勢をとっていた。
ローラーコンベヤーや加工機械が空を飛び、血管のバケモノに激突した。あちこち切れて血しぶきがあがる。バケツやスコップ、ロッカーなどが次々と体当たりし、最後には使われなくなった二台の大型業務用冷蔵庫が高速で飛んできて、左右から圧し潰した。
「はうっ」
りん子が手を放した。自由になった有紀が、血痰を吐いてその場に膝をついた。大概な能力を発揮したわりには顔色は悪くなかった。むしろ、生気が戻っているようにも見えた。
血管のバケモノは鋼鉄類に押しつぶされていた。仕事を終えたりん子がその前に立ち、偉そうに腕を組んで、勝利のダンスとばかりに下手くそなステップを踏んでいた。暴風が止んだ加工場内は水を打ったように静まっている。
「あのさ、終わったのかい。あのバケモノはつぶれたのかねえ」
「あのチビ、ただの幽霊じゃあないな。あの世で、千沙はどんなヤツと結婚したんだ。いや、させられたのか」
「りんちゃんと有紀さんがやっつけたのよ。うんうん、ちゃんとやっつけた。すごいねえ、りんちゃんは。うっ、背中が痛っ」
りん子が千夏のもとへ来て背中をさすった。ママごとみたいな介抱は、かえって傷口を刺激しただけだったが、その気持ちがありがたくて叔母は涙目となる。
一二三は亭主の亡骸のそばで、なにごとかを語りかけていた。両腕が吹き飛んでしまった有紀の傍には智也がいた。カップルは言葉を交わさない。お互いの傷口を見つめたまま、もぞもぞと動いている。
「この時のために、兄は命を賭してまで死んだ娘を嫁がせたのか。ひどい死に方をしてまで、千沙にあの世の子を産ませたのか」
啓介は一人呟いていた。足腰に力が入らず、歩くことはおろか立つこともできない。そこへ疲れ切った千夏が、百寿を迎えた老婆のように、のっそりと近づいてゆく。りん子が叔母の尻をペンペン叩いて笑っていた。
「あんた、そろそろ行こうよ。潮時さ。今度はどこにしようか。ジジババだからパチンコ屋は雇ってくれないし。そうだ、別海の牧場で働くかい。住み込みで募集してるってさ」
一二三も一人で呟いていた。その語りかけは、いつも通りの調子である。あの時の罪を忘れていないから、夫婦はさ迷うことを止めない。
「隣のおばさんに救急車を呼んでもらう」
「もう、バケモノは死んだからな。迷惑にはならんだろう。そうしてくれ」
千夏がカップルを見た。
「あの二人、大丈夫かな」
「大丈夫じゃないだろう。両方とも大ケガだ。早くしないとマズいそ、千夏」
啓介に促されるまでもなく、千夏は進みだしていた。ただし、背中のダメージが大きくてスローな動きだ。ヨタヨタしながら、ようやくシャッターまで歩いた。
「ヘンよ、こんなの。バケモノは潰れたのに、壁がしっかりしている。有紀さんの能力で穴まで開いたじゃないの。どうして」
獣と車とガラクタ類で織り込まれた壁が、しっかりと立ちはだかっていた。厚さと弾力性を感じさせ、いかにも堅牢そうである。壊れたパイプ椅子の脚で突くが、ビクともしない。
「千夏、そこから離れろ」
「えっ」
壁全体が蠢いていた。毛むくじゃらな絶壁から犬やタヌキ、キツネやタンチョウの顔が次々と迫り出してきた。
「キャッ」
それらが一斉に吠え始めた。犬は狂犬みたいに、ツルは鼓膜を引っ掻くような甲高い声だ。
びっくりした千夏が壁から離れようとする。本人は急ぎ手足だが、実際はじれったいほどスローだ。呪われた嘆きの壁が、ゆらりゆらりと揺れていた。
「ああっ、あぶねー」と啓介が声をあげ、「奥さんっ」と一二三が叫び、有紀と智也が注目した。ゆるく波打っていた壁が傾き、千夏へ覆いかぶさるように倒れようとしていた。
りん子が走って、千夏の尻に頭をつけた。そのまま押し込んで走り、啓介の手前で止まった。
その刹那、壁が倒れた。どっと埃が舞い上がり、外から風と雨が猛烈な勢いで吹き込んできた。りん子がホイホイホイホイと走り、一二三の首元をひっつかんで啓介と千夏のもとへ連れてきた。
「ちょ、ちょ、チビちゃん。首が痛いさ。ていうか、あの人をおいてきちゃったよ」
彼女を放り投げると、今度は有紀と智也を引っぱってきた。二人とも雑に置かれたが、一二三よりは扱いが若干丁寧であった。
獣の壁が芽生えていた。獣毛と車体と金属の絨毯が脈打ちながら、その表面からたくさんの芽を出している。螺旋を巻いて上へとスルスル伸びるそれらは有刺鉄線だ。数本が絡み合って枝となり、それらが合体して幹となって屹立した。そこへ潰されて破断した血管が、ヘビの群れのごとく這って集まっていた。
「くそ、まだ終わってなかったのか。最後の最後に痛そうなやつが出てきやがって」
生唾を飲み込むのを憚られるような、極めておぞましい姿をしたバケモノが出来上がった。血と肉片だらけの有刺鉄線の束が絡み合い、人型となった。大きさは血管のバケモノと同じくらいであるが、その姿の凶悪さが激痛の地平を見せつけていた。
「あ、チビちゃんが」
りん子が突進し、有刺鉄線のバケモノに体当たりした。ガシャガシャと金属がぶつかり合う音がするが、すぐに暴風にかき消された。
「りんちゃん、ダメ。そいつから離れて」
「チビ、これはムリだ。やられるぞ」
千夏と啓介が叫ぶが、りん子の暴走は止まらない。鉄線の棘をものともせずに、子供の短い手足が、目にもとまらぬ速さで殴打と蹴りを繰り出していた。
「キャッ」千夏が悲鳴をあげた。
攻撃していたりん子が、有刺鉄線のバケモノにぶん殴られて、ふっ飛んでしまった。壁に勢いよく激突して床に転がる。すぐに起き上がるが、老婆みたいに腰に手を当てて、さらに動物園で暇をもてあましているサルのようにさ迷っていた。
「チビがやられた、効いているぞ。やばい、逃げろ、みんな逃げろ」
有刺鉄線のバケモノが歩み出そうとしていた。脱出せよと啓介が言うが、誰も従わない。千夏はりん子の身を案じて離れる気がない。一二三は観念したのか、見上げたまま凍りついていた。
有紀が立ち上がる。両腕はなかったが、残り僅かになった部分を前に突き出して力強く宣言した。
「こいつは、わたしがやる。わたしがやってやる」
りん子との共同作業によって、有紀は自信と気力を得ていた。
「おい、やめろ。その体でなにかやったら腕だけでは済まんぞ。いいから逃げるんだ」
「有紀さん、ダメよ」
ただし、その姿はどう見ても満身創痍であり、言葉とは裏腹に悲壮感が漂っていた。
「有紀、無茶だ」
外から吹き込んでくる雨交じりの暴風で、智也の声がかき消された。
「みんなは下がってな。はあーあっ」
サイキックが発動された。新たなバケモノの表面が波打ち、鉄の柱に巻きついている血管が引き剥がれそうになっていた。有紀は表情を変えずに全力で気合を放っている。
有刺鉄線のバケモノが進もうとしたが、有紀の痛々しい体から放たれるサイキックによって押し返される。ただし決定打にはなれず、押したり引いたりを繰り返していた。
「ああ~、なんか出てくるさ」
有刺鉄線の幹がググっと開き、なにかがせり出してきた。ぶよぶよとした肌色の塊で、透明な粘液に包まれて産み落とされた。それはころころと転がり、有紀の前で止まった。花びらが開くようにゆっくりと、だらしのない肉塊が展開した。
「ギャアアアア」
それが何であるかを理解したサイキックの顔面が崩壊し、後ろに倒れて尻もちをついた。体を支える腕がないので、床に這いつくばってジタバタとしている。
「ゆ~っき。オレのゆ~っき。かわいい、ゆーっき~」
ジェル状の粘液にまみれた男は、あろうことか有紀の父親であった。下着の類は身に着けていなく、したがって全裸である。
「ロリコンオヤジじゃないのさ。気持ち悪いねえ」
一二三は、この世でもっとも汚らしいものを見る目つきだった。
「うわああああーっ」
禁忌な存在とまたもや遭遇し、有紀の動揺具合が痛ましいかぎりだ。号泣し、ヒューヒューと過呼吸を繰り返している。トラウマと罪悪の根源に我を失っていた
智也が匍匐しながら前進し、ベトベトなジェル男の足を殴ったが逆に蹴りとばされてしまった。それでも諦めずに這っていると、叩き切られた左足首にさらなる激痛が走った。
「うぎゃっ、な、なんだ」
手が噛みついていた。いや、それは死んだ雌鹿の頭部でもあった。獣の口の中から赤黒く爛れた小さな手が出ていて、智也の左足の切断部に爪を突き立てていた。
「ともくん、ともくん、ともくん」
口の皮をヘラヘラと動かして鹿がしゃべっていた。ただし、異物を咥え込んでいるためかボキャブラリーは多くない。単調な言葉のくり返しであった。
「ゆーっき~。ほら~、ほ~ら」
ジェル男の醜くだぶついたタヌキ腹の下に、小さくはあるがそれなりに屹立したものがあった。腰を上下左右に振ると、ぶらんぶらんと揺れた。水膨れした手がそれをつまみ、なにかを催促しているかのよういじりまわしている。
「なんだって、このヘンタイオヤジがー。ぶっ殺してやるよ」
一二三がつかみかかった。必殺の中年女爪がジェル男の腕へつきたてられたが、ぬるっとして滑った。逆に足を払われて顔を踏みつけられた。中年女の鼻が潰れて、血泡が吹き出している。息も絶え絶えで、いかにも苦しそうだ。
「このヤロウ、このヤロウ」
啓介が怒鳴り散らすが、体に力が入らず動くことができない。声も腹の底から出ていないので、脅しの効果はなかった。
「やめてー」
ヨタヨタと近づく千夏であったが、腰を蹴られて転倒した。背中が折れそうなほど踏みつけられて悶絶する。
有刺鉄線のバケモノに、りん子が近づいてきた。腰への強打が効いたのか、片足を引きずって、ゆっくりした歩調だ。手ひどくぶっ叩かれたが、すり傷が頬にある低程度である。ただし服の破れは相当だった。
小さな体が勢いをつけて跳びかかろうとした瞬間、有刺鉄線の腕がヒュンヒュンと唸って、ぶっ叩かれた。瞬間的に地面にへばり付いたりん子だが、弾けるように起き上がり突進した。
「ゆ~、き~」
ジェル男が一二三の頭をつかんで引き起こし、有紀の前に立った。全身のあらゆるところから粘っこい汁を滴らせて笑みを浮かべている。有紀は、ただただ脅えるだけだ。これより自分の身に為されるであろう虐待に、子供時代と同様、無抵抗であろうと観念していた。
一二三の頭が床に落ちた。ジェル男がバタバタと動いている。背後から、ヌルヌルの後頭部を潰さんばかりに握っている者がいた。
「汚ねえロリコンのくせして、オレの女房に手を出すんじゃねえ」
義男であった。顔は真っ青で血の気がなく、不自然と思えるほどに首が曲がっていた。客観的に見て、生きているという確信が持てない状態である。
「あんた」
気づいた一二三が亭主にすがろうとする。義男はジェル男の頭をつかんだまま、少しばかり離れた。
りん子の攻めが凄まじい。
殴って蹴って頭突きをかまし、いったん引いた。加工場内に撒き散らされた冷蔵庫や加工機械類、ローラーコンベヤーの破片などを力の限りぶん投げた。相当な勢いがついた鋼鉄がバケモノに衝突し、火花をあげて粉々に砕け散った。
だが、有刺鉄線の塊はビクともしない。向かってくるりん子に豪腕を伸ばしてぶっ叩き、ぶっ飛ばし、さらにバシバシと潰した。
「潰れろや、ロリ親父」
義男がジェル男を倒して踏みつけにする。傾いた首をガクンガクンと揺らしながら、足の裏をヌルヌルの柔肌にぶつけたが、つるりと滑って転倒した。ジェル男が抱きつき、頭突きを食らわし、首を絞めた。不利な体勢になった義男だが、すぐに援軍がやってきた。
「うちの人になにすんのさっ。怪我人なんだから、気ぃつかいな」
一二三がジェル男の背後から腕を回し締め上げる。プロレス技のスリーパーホールドであるが、相手は死者の体を模した異次元のバケモノだ。苦しむことはなく、平然とした顔で義男を絞め続けている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もう許してくれ。お願いだ、もう、放してくれよ」
コンクリートの床に顔をこすり付けて、智也は心底から許しを乞うていた。すると鹿の頭がメラメラと燃えだした、瞬く間に肉を焼き骨をも灰にした。残された子供の手も青白い炎に包まれている。
りん子と有刺鉄線のバケモノとの格闘は続いていた。ただし、状況は少女に不利である。一方的に殴打されてしまい、硬質の床を破壊しながら体が沈んでゆく。まるで、金槌でクギの頭を叩いているようであった。
「死ねえええ」一二三が力の限り絞め上げるが、ジェル男は義男を放さない。
「バケモノめ、このヤロウ」
威勢のいい啓介だが、麻痺が続いているので動くことができなかった。進もうと体をくねらせるのだが、まるで痙攣しているような動きだ。
ジェル男の左手が義男の首を絞め続け、右手が一二三の髪の毛を掴んだ。そのまま床面に顔面を押し付けて窒息させようとする。夫と女房の顔がくっ付かんばかりの距離だ。
棘だらけのハンマーで打ち込まれていたりん子が復活した。コンクリの破片を撒き散らしながらホイホイホイホイと、あの特徴的な児童スタイルで真横に突っ走った。壁を駆け上がり天井に逆さとなり、反対側の壁を駆け降りて有刺鉄線のバケモノに突進する。得意技である螺旋走りからの頭突きを食らわそうとしたが、あえなく鉄線の塊に薙ぎ払われた。
「やめてー」
めいっ子が危ない。
背中の激痛を押して千夏が駆け寄り、りん子に覆いかぶさった。有刺鉄線の腕がしなり、柔らかな肌を容赦なく引き裂こうとする。
「きゃっ」
デジャブだと覚悟する前に、りん子が千夏を突き飛ばした。叔母をバケモノの魔の手から遠ざける行為であったが、その代償のすべてを自分が受ける羽目になった。
「ぐ、ぐるしい」
一二三が虫の息一歩手前の状態だ。血流と呼吸を止められ、顔はうっ血し、まん丸な目玉がいまにもとび出しそうである。
「くそがあー」
義男が、突如として起き上がった。ジェル男の顔に何度も拳をぶつけて、さらに頭突きをした。そして恋人たちが愛し合うように抱きつくと、腰に回した腕を締めつける。ベアハッグとか鯖折りとか呼ばれる、相手の背骨に大きなダメージを与える技であった。
たまらず、ジェル男の左手が一二三を放した。ケホケホと咳き込んだ中年女が、夫の姿を探して這いつくばる。視力が定まらないのか、「あんた、あんたー」と叫んでいた。
義男がジェル男の股間を握り、「うおおおおーっ」と叫びながら引っぱった。その握力は人が持つ最大値をはるかに超えていて、馬力のあるウインチなみであった。有紀の人生を狂わせて、彼女の魂を腐敗させた元凶が、ブチブチと小気味よい音をたてて引き抜かれた。くすんだ肌色に染まったそれを義男が床に叩つけ、踏みつけた。
道端で気を失った貴婦人のように、ジェル男はあっけなく崩れ落ちた。小刻みに震えているが、動き出すことないだろう。生命体であるかどうかは不明だが、死んだ状態であることは確かだ。
役目を終えた義男も崩れ落ちた。一二三が這って行き、とぼけた顔で死んでいる夫に抱きついた。
「よくもー、よくもー」有紀が立って叫んでいた。
両腕がない女性が鬼の形相で見下ろし、ジェル男の顔を踏みつけた。幾度も幾度も、精魂が尽きるまで踏み潰した。足の裏に力を込め、腹の底から声を絞り出して吠えた。積年の恨みが内なる怨嗟の激流を促している。だが過去を清算することは、一生をかけても終わらないだろう。重い課題を背負ったまま生きていかなければならないのだ。
ジェル男の肉体が溶けだしている。腐敗の進行は早く、有紀の足が止まる頃には、すべてが液状になっていた。
りん子は劣勢だった。有刺鉄線にぶっ叩かれすぎて、上下赤のジャージはボロボロになっている。人間離れした頑強な体に深い傷が刻まれることはなかったが、あちこちがすり傷だらけだ。
「りんちゃん、こっちおいで」
「ダメだ、行くな。おまえもやらっれっぞ」
千夏がりん子のもとへ行こうとすると、啓介が彼女の脚にしがみ付いて離さない。か細い力だが全体重をかけている。背中に痛みもあって、彼女は進めなかった。
バシバシと派手な音を立てて、りん子が責め続けられていた。もはやよける余力もないのか、一方的な暴力にさらされている。一人リンチであり、過剰すぎる折檻であり、呵責のない児童虐待であった。
{びえーん、びえーん}と、りん子が泣きだした。闘うことを諦めて、小さな顔をくしゃくしゃにして涙を流している。ありふれた児童公園の夕暮れにて、女の子が号泣している様と同じだった。ただ、泣き方は相当な勢いがあり、空気のみならず壁や床までをもビリビリと震わせていた。
野生動物の死骸だらけの床から、ふたたび有刺鉄線が生えてきた。今度は一つに固まることなく、個々に触手を伸ばしている。無数の鉄線が空中でもつれてデタラメな形状になり、最後には網の目状に絡んだ。泣きじゃくる少女の頭上で鋼鉄の投網が展開されている。しかも常に動いているので、それはチェーンソーや電動ノコギリと同じく凶暴であり、あらゆるものを切り刻もうとする悪意に満ち溢れていた。
「ダメダメダメダメダメダメ」
千夏が叫ぶ。投網は激しく振動しながらその範囲を狭めていた。獲物を網目状に切り刻む準備が整い、あとはきっかけを与えるだけだ。
一気に収縮し、鋼鉄の網目が空を切り裂いた。千夏の心臓が破裂しそうになる。悲鳴が喉の中心で詰まってしまった。目を背けるどころか、まん丸に見開いてしまう。
「ふわーーーーお」
吃驚とも感嘆ともとれる吐息を洩らしたのは啓介だ。
「な、なんだありゃ」
真っ黒な何かが立っていた。どこからやって来たのか不明であるが、一瞬の間に、突如として出現したのだ。
凄まじく黒かった。すべての光源や光の反射を吸収しているのではないかと思えるほどの、底無しの漆黒である。大きさは人間の倍くらいで、真っ黒なシルエットが人の形をしていた。
有刺鉄線の投網は、りん子を引き裂いてはいない。なぜなら、その真っ黒な何者かが網を握っているからだ。悪意を持って縮もうとしても、恐ろしく巨大な力が持ち上げていた。ギリギリと金属が軋む音が響いていた。
少女は泣き続けている。真っ黒な何かは、その様子を気にかけているように見えた。
真っ黒が、網の目状に張り巡らされている有刺鉄線を引き千切った。鉄を切断するのはそれほど難しくないが、引っぱって破断させるのは至難の業である。それをやすやすとこなすということは、尋常ならざる怪力の持ち主なのだ。
しかし、千切られても千切られても有刺鉄線の成長は止まらない。多くのムチがりん子を引き裂こうと躍動するが、襲いかかるすべてを真っ黒が引き千切った。さらに機先を制しようと、根を生やす元凶である大木を退治にかかる。
有刺鉄線のバケモノにつかみかかった真っ黒な腕が、大きな衝撃波をともなって鉄線の幹にめり込んだ。バラバラになった金属片が空気中に散らばり、鉄線の雨を降らせていた。バケモノは激しく抵抗するが、真っ黒が繰り出す連打は圧倒的であり、瞬く間にか細い枯れ木となった。トドメとばかりに、大きな拳を作り振り下ろした。すると、まがまがしくも痛々しい有刺鉄線のバケモノが粉々に砕けて散ってしまった。散乱した死骸から有刺鉄線が芽生えることも止んだ。
りん子は、相変わらず号泣していた。落ち着く先を見いだせないのか、あっちこっちをふらついている。千夏が自分のほうへと呼ぶが、一瞥しただけで通りすぎてしまった。
「おおおおおー」と大声を出しているのは、またしても啓介だ。
シャッターの開口部から自動車が侵入してきた。りん子がフロント部分を叩き壊し、壁材の一部となっていた、あのチンピラ車だ。エンジンをふかすことなく、剥き出しのホイールでコンクリート床を傷つけながら、ゆっくりとやってきた。
唐突に、車体の表面が凹み始めた。数百発の殴打を浴びたごとく、柔らかで薄い鋼鈑が音を立てて陥没していた。ガラスが砕け、車体にタイル状のヒビが入った。それらの一枚一枚がめくれて回転し、摩訶不思議な造形物となる。絶え間なく変化する形状が幾何学的であり、あるいは立体の錯視を惹起させた。
車体表面が壊れて剥がれ、内部の部材がせり出してくる。さらにそれらが崩壊して、また内側の材質が露出した。それらが連続的に起こり前進している。たとえようもないシロモノだが、あえてたとえるなら、躍動するモザイク・スクラップ車である。
それがモザイク状に可変しながら少女に覆いかぶさろうとした時、一人の女性がふいにやって来て少女の肩に手をのせた。そして、一緒に歩んで千夏の前で立ち止まった。
「あなたは・・・」
千夏の前には、大人の女性と彼女に寄り添っているりん子がいた。
「おい、あぶねえっ」
啓介が叫ぶ。女たちにバケモノ車が接近している。あと二秒ほどで、モザイク鉄板車へ巻き込まれてしまうだろう。
だが、りん子と女性は動じていなかった。親しみを込めた、それでいてどことなく照れているような笑顔で千夏を見ている。りん子は泣き止んでいて、同じく笑みを浮かべていた。
モザイク車が彼女たちを喰らおうとする刹那、真っ黒が立ちはだかった。クシャクシャと著しく変形している異界の乗り物を、その漆黒がぶっ叩く。なんら躊躇うことなく、人知を超えた剛腕で無慈悲にぶっ叩いた。叩いて叩いて、叩きまくった。一発一発が剛力すぎて、地響きが鳴る。立っている者たちがよろめくほどだった。
モザイクなバケモノ車は、表皮を叩かれ剥がされても内側から次々と再生産される。しかしながら、真っ黒の手数の多さと容赦のなさは尋常ではなく、破壊のスピードについていけない。自動車一台分の大きさが自転車ほどになり、さらに児童用の三輪車となった。トドメの一撃は鉄分子を粉々にするほどの絶大なる踏みつけだった。それの最期の雄叫びは地獄の断末魔であり、千夏は両手で耳をふさぎ、目をつむってしゃがみ込んだ。
バケモノの気配が完全に消えた。水を打ったように静まり、ひどく冷たい空気が頬を焦がした。千夏は、立ち上がりながら躊躇いがちに目を開ける。
凍てついた川の氷原にて、女性と女の子が立っていた。北国の厳冬期にしては薄着であり、とくに小学生女児は上下がジャージだけである。寒そうな仕草はまったくせず、ニコニコと笑顔を振りまいていた。
「お姉ちゃん」
女の子が寄り添っている女性が語りかけた。千夏はなにもかも納得したように頷いた。
「千沙」
久方ぶりに姉妹が再会した。異なる世界の住民同士の、ありえぬ邂逅である。
「きゃははは」と笑って、少女が駆け出した。雪が積もった氷の上を楽しそうに跳ねまわる。千夏の心に一瞬不安がよぎった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。氷が割れたりすることはないから」
たしかに女の子が落ちることはないと、千夏は納得した。あらためて、成人した妹をまじまじと見つめる。自分よりもきれいな女性になったと、嫉妬も忘れて感心していた。鼓動を落ち着かせ、心の内の、けして日の当たらない領域に閉じ込めていた想いを吐露し始めた。
「千沙、あんなことをしてごめんね。私が落ちて死ねばよかったのに。私には生きる資格がないのに。千沙、冷たかったでしょう。私が凍え死ねばよかったのに。苦しかったでしょう。私が溺れ死ねばよかったのに」
「なんでもないよ、お姉ちゃん。もう、終わったことなの。気にしない、気にしな~い」
うふふと笑みを浮かべる。千夏は戸惑っていた。会話を続けるのが難しく感じ、目線が定まらなくなる。
積雪で真っ白くなった場所に真っ黒な影が立っていた。そこへりん子が走って行って抱きついた。おだった犬のようにじゃれついている。
「あれね、うちの旦那さんなの。りん子のお父さん。すごく強いんだ。だれも敵わないんだよ」
少しばかり、はにかみながら、それでいて誇らしげに見ていた。
「もう、逢えないかと思っていた。だって、あなたは、あ、あ、」
そこまで言って、その先を言うのが辛くて、千夏は口ごもってしまう。
「お姉ちゃんがりん子をたくさん愛してくれたら、私たちもここに来ることができたの。りん子を大事にしてくれたから、繋がることができたんだよ」
りん子がピースサインをして、うれしそうな表情を見せつけた。千夏も、ぎこちなくではあるが指をチョキにして応える。りん子がとび跳ねて喜ぶので心配したが、その必要がないことを思い出した。
「あの子、すっごくイタズラっ子で、やんちゃで、少しもじっとしてないの。だけど、りん子を産んだからお姉ちゃんに逢えた。りん子はどこでも越えちゃうし、私たちのかすがいになってくれた。おてんば娘だけど、やればできる子なんだよ。なんてね」我が子を自慢しすぎたかと、少し照れていた。
千夏が妹を見ていた。
「千沙。あなたは幸せなの」
「そうだよ」
「どうして」
「旦那さんがいて、りん子がいるからだよ」
それ以上なにが必要なのと、言葉に出さずとも穏やかな表情が言っていた。
「私は、生きていていいのかな。あなたを殺しておいて、のうのうと生きていていいのかな。いっそ、ここで川に落ちて死んだほうがいいのかもしれない」
涙が止めなく流れ落ちていた。とても濃く塩っ辛い涙滴で顔じゅうがびしょ濡れになる。それは氷上の冷え切った風にさらされても熱を失うことはなかった。
「お姉ちゃん」
千沙が千夏を抱きしめた。
「生きていいんだよ。うんと幸せになっていいんだよ、お姉ちゃん」
強すぎず、それでいて、ふいに離れてしまわないように配慮された抱擁だった。けして得ることは叶わぬであろう安堵に包まれた。ずっと抱えていた課題がじんわりと溶けてゆく心地良さに、千夏は、いつまでもそうしていたいと願っていた。
「じゃあ、行くね。りん子の世話をありがとう」
別れの言葉が唐突に思えて、ハッとした。りん子を真ん中に、千沙と真っ黒が並んでいた。お互いに手を繋ぎ、粉雪の舞う凍てついた川の向こうへと消えてゆく。
千夏は追わない。ただ、愛おしそうに見つめていた。
「ここは好きになれなかったなあ」
「あんた、いっつも客とケンカしてたからさ」
「常連のクソじじいどもが絡んでくるんだ。朝っぱらから焼酎ひっかけてんだよ」
「店で飲んでたもんね。店長が、なんも注意しなかったからねえ」
乾ききった粉雪がちらちらと落ちてくるパチンコ屋の駐車場で、二人は話をしていた。義男は地べたに胡坐をかいて座り、一二三は膝を揃えてしゃがんでいる。
「なんか、おまえと一緒になってから、おんもしろい人生だったなあ。楽しかったよ」
「あたしもさ。最初は貧乏くさくてやだなあと思ったけど、あんた、あんがいとやさしかったからねえ。仕事も転々としたけど、まじめにやってたし」
「それ、褒めてんのかあ」
折れた首の座りが悪く、義男は位置を戻そうとしていた。一二三が手を出そうとするが、頭を遠ざけて否の姿勢を示す。二人は他愛もない話をして時を過ごしていた。一二三は終始ケラケラと笑っている。やがて陽が沈み、暗闇が覆いかぶさってきた。
「そんじゃあ、そろそろだな。閻魔さまを待たせても悪いしよう」
「きっと天国さ。神様がいるんだよ。たくさんの光で迎えてくれるさ。美味しいものがたべれたらいいねえ」
なるべく光が当たらない人生を歩んできた夫婦である。死んだあとぐらいはまっとうな道を歩むべきだと、一二三は強く思っていた。
真冬の駐車場に照明が灯された。古びた水銀灯が一つだけで光量は物足りない。お互いの顔がぼんやりと見えてきた。義男は頃合いだと判断して立ち上がった。
「じゃあ行くかな」
「あたしも行くよ。あんた一人にしておけないっしょや」
「おまえは、まだだ。オレがいなくても、おんもしろく生きろや」
「なに、はんかくさいこと言ってんのさ。二人で稼がなきゃ食べていけないって」
「おまえは大丈夫だって。かっぱらうのもいいけど捕まるんじゃねえぞ。ほどほどにな」
「あたしが、あんたみたいなヘマするかいって。得意技なんだからさ」
へへへと笑う一二三を、ごま塩頭の中年男が見つめていた。
「あたしはさ、一人になりたくないよ。この年になって、一人でどうするんだい。さみしいのはイヤなんだよ、一人で生きてたってしょうがないっしょ」
義男は歩き出していた。水銀灯が照らす範囲から闇のほうへ外れ、ふっと姿を消した。
一二三は追いかけない。冷えた地面に両膝を開いて座り、両手で顔を覆って声もなく泣いていた。
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