第17話

 古い油とカビ臭が漂う安アパートで、小学生の女の子が夕食の支度をしていた。献立は寄せ鍋である。スープは出来合いであり、具材も肉や野菜がパック詰めされたものを入れるだけだ。簡単なので子供でも用意できた。

「今日は鍋か。美味そうだな」

 ギャンブルから帰ってきた父親は上機嫌だ。本日は三万円の稼ぎである。

「有紀、あした服買ってやるからな。起きたら店に行こうな」

 勝った時の常套句であり、その通りにしたことなど滅多にない。父親にとって大事なのは次なるギャンブルの資金であり、少しでも目減りすることを嫌っていた。小学生のおしゃれなど、金の無駄くらいにしか考えていなかった。

 晩酌の定番はお徳用の安焼酎だが、羽振りの良い今夜はガラス瓶のウイスキーだ。氷で濡らすこともせず、生ぬるくてむせかえるそれを、ストレートでちびりちびりと飲む。

「どうれ」

 食べカスと汁の残滓だらけのガスコンロにセットされた鍋を見て、だらしなく胡坐をかいた男が箸を出した。初めに数少ない肉をとり、さらにすべての肉をとった。我が子の分を気にかける素振りもなく、ガツガツと食った。

「この白いキノコ美味いなあ。ほんとに美味い。どこに売ってたんだ。高かっただろう」

 娘は、下の階のおばさんにもらったと答えた。自分が作った寄せ鍋だが、もとより食べる気はなかった。父親をチラチラ見ながら水ばかり飲んでいた。酔っぱらいは、娘がまったく食べようとしないのを訝しく思うこともなく、ほぼ一人で食いつくしてしまった。

 明け方近くになって、父親は猛烈な下痢と嘔吐で苦しみだした。内臓が灼熱と化し、体の中でどろどろに溶けた不浄物が、上下の穴から止めなく排出された。あまりの苦しみに病院へ行こうとするが、少し動いただけで下痢が止まらず部屋から出られなかった。

「有紀、救急車呼んでくれ」

 その部屋に固定電話はなかった。有紀が起きて食卓の上に置かれていたケイタイを渡そうとするが、手が滑って落としてしまう。さらに足で踏んでしまったので壊れてしまった

 電波という手段を諦めた男は、大声を出して助けを呼ぼうとしたが、すぐにやめた。有紀が素っ裸になって立っていたからだ。ここで第三者が来てしまうと、実娘との情事が露呈してしまう。それだけは絶対に避けたいとブレーキがかかった。なぜ娘が裸のままなのかを考える余裕はなく、悶絶する苦しさを、一秒一秒耐えしのぐのが精いっぱいだった。

 男の症状は有毒キノコによる典型的な食中毒だった。鍋に大量にあったのは、テングタケ科の猛毒キノコであり、大きいのを一本でも食べれば大人の致死量となる。中毒症状はコレラに似た激烈なものであり、畳を爪で引っ掻くほどの耐え難い苦しみであった。

 助けを呼べず、また助けを呼ばないまま一昼夜が経過した。途中、症状が一時的に治まり回復したかと思われたが、それはより破滅的な結末への中治りに過ぎなかった。

 まもなく多臓器不全に陥り、キノコの毒が肝臓をスポンジ状に破壊してしまった。洗面器いっぱいのドス黒い血を吐き出しながら助けを求めたが、娘は誰も呼ばなかった。相変わらず素っ裸のままで見ているだけだった。それどころか父親が自力で部屋から出ようとすると、足を引っ張って戻した。

 娘を顧みず青臭い肉体に溺れ続けた男は、丸二日間、十分すぎるほど苦しみぬいた末に絶命した。血反吐と下痢で凄まじい臭気の部屋を出た有紀は、下の階の住民に助けを求めた。すぐに通報され、救急車と警察がやってきた。

 警官には、父親がどこかで採集してきたキノコを食べたと言った。寄せ鍋の残りを冷蔵庫に保管していたので、それが証拠となった。図書館で借りたキノコ図鑑は、有紀のカバンの中にあった。

 

 そこにいる全員が目覚めた。幻覚から解放されて、急速に正気へと戻っている。夢の中で、なにが為されたのかを明確に理解した。

「おいおい、この姉ちゃん、ロリコン親父を殺してんじゃんか」

「毒キノコとは考えたねえ。でもさ、すごく苦しそうだったよ。むごい死に方さ」

 もっとも知られたくない過去が衆目に晒されてしまい、有紀は狼狽していた。言葉にならない声を発し、いかにも焦りながらうろついていた。さっきまでの気迫はなくなり、しきりに腕を掻いていた。

「有紀、腕がおかしい。どうしたんだ」智也が最初に気づいた。

「お、なんだ。姉ちゃんの腕からなんか出てきたぞ」

「あひゃあ、キノコじゃないのさ。キノコがグングンのびてるよ。グングンキノコさ」

 傷に胞子が付着していたわけでもないのに、有紀の腕はいたるところキノコだらけとなっていた。屹立した男性器を連想させる見事な大きさと形のキノコである。左右の二の腕が多くの毒キノコで覆われていた。

「こんなもの、こんなもの」

 駆け寄った智也が彼女の腕をつかみ、繁茂したキノコを手刀で削ぎ落した。

「ちくしょー、次から次で、どうなってんだ」

 キノコは強く根を張っていたわけではないので、なぎ払ったり千切れば容易に取り除けた。しかし、すぐに新しいのが生えてきて、腕は猛々しい白いキノコでびっしりとなった。

 有紀も必死になって取り除こうとするが、取っても取っても追いつかない。よく見ると、有刺鉄線が食い込んでいた痕から生えていた。

「きょえーっ」

 けたたましく叫ぶと、智也を突き飛ばして走り出した。バタバタと部屋を出て行った後には、叫び続ける彼女の声と白いキノコとキノコ臭が残された、すぐに追いかけようとする智也だが、夫婦が止めた。

「兄ちゃん、ほっとけ。バケモノにとり憑かれたんだ。自業自得ってもんだな」

「ロクでもないと思ってたけど、親殺しとはねえ。呪われて当然さ」

 義男が智也の腕をつかんでいたが、投げ飛ばすようにその手を振り払った。

「うるせえ。おっさんたちになにがわかるんだ。有紀は苦しんだんだ。有紀のことを   悪く言うな。ぶっ殺すぞ、ぶっ殺してやる」ひ弱な印象の智也だが、チンピラの口調だった。

「わかったよ。そんなに言うなら行けよ。おめえもキノコになっちまえ」

「なんだい、最近の若いのは怖いねえ。ゲームばっかりやってるからだよ」

 智也の目が吊り上がっていた。口を閉じたまま奥歯をすり合わせ、ゴモゴモと動かしている。彼の中で押さえつけられていた凶暴性が、カッと目を開いた。か細かった腕が人間の筋肉とは思えぬほど隆起し始めた。彼の体にも異変が生じていた。  

「ぶっ殺す」と怒鳴って、ドアのそばにあったパイプ椅子を持ち上げた。

「あんたっ」一二三が叫んだ。

「お、ばか、止めろ」義男が女房に覆いかぶさった。

「フンッ」と唸ってパイプ椅子が振り下ろされると同時だった。

 智也が吹っ飛んだ。夫婦の上を超えて顔から壁に激突し、鼻血の跡と前歯を石膏ボードに残した。当たった箇所に間柱があったので、脆い壁がクッションとならず、衝突のエネルギーを顔全体で受けてしまった。

 義男が壁の下でうずくまっている智也を確認しに行く。一二三も後ろに続いた。

「兄ちゃんがのびてるべや。顔が潰れてひでえ有り様だ」

「あんた、うしろうしろ」一二三が背中を叩いた。義男が振り返る。

 りん子がいた。ふてぶてしい微笑みに、さも得意げな目線が混じっている。胸を張って、してやったりの態度だ。背後から強烈なるとび蹴りを食らわしたのは、その女の子だった。

「うう、」

 智也が、もそもそと動き出した。醜く肥大した腕に青黒くて極太な血管が浮き出ている。危うい気配を察知した夫婦は、そろりと後方に避難した。

 入れ替わりにりん子が前に出た。智也を上目遣いに一瞥すると、軽快なステップで足踏みをし、体を左右に振って闘気を見せつけた。親指をぺろりと舐めると、左手を突き出して指だけで手招きしている。

「あのガキんちょ、ブルース・ホーみたいなことしてるぞ」

「あたしはチャッキー・チェンのほうが好きだねえ」

 男の剛腕が、うなりをあげて少女の頭上に落とされた。すかさずりん子が頭の上で両手を×にして受け止める。床板が割れて、小さな体が膝下まで落ちた。地響きが伝わり、義男がよろけたようになる。異常膨張した腕は何度も振り下ろされた。くい打ち機のような打撃の連続で、りん子が秒速六センチメートルずつ沈んでゆく。十数度目で、床面が胸元まできた。

「あんた、ちびっ子がいなくなっちゃうよ。助けなきゃ」

「おっしゃー、ガキんちょはまかせろ」

 木製の椅子を持ち上げて突進する義男であったが、すぐに足がつんのめって転んでしまった。その際にりん子を、その椅子が粉々に砕ける勢いでぶっ叩いてしまった。

「あんたー、ちびっ子を叩いたら捕まるよ。児童虐待なんだから」

 髪の毛に木っ端を付けたりん子が振り向いて、不機嫌な目線を投げつけた。義男はすまなそうに頭をさげる。その隙を見逃さず、智也の剛腕が唸って、女児をバシバシと殴打した。潰れた鼻の穴から有刺鉄線がぶら下がり、ジャリジャリと忌まわしい音を立てていた。

 りん子が床に手をついて、穴から這い上がってきた。その間もずっと殴られているのだが気にしていない。それよりも、たとえ過ちにしても自分の頭を椅子でぶん殴ったうす汚い中年男が許せないようだ。後頭部に殴打を加えられたまま義男の前にくると、そのお人形さんのような小さな手でペシリと額を叩いた。

「すんませんでした」

 頭を下げたごま塩頭にりん子は満足し、背後で蠢く不埒な輩に対処することにした。

 振り向きざまに智也の拳を手のひらで受け止めると、パッと飛び上がって顎に膝を入れた。潰れ顔がのけ反って壁に激突し、ふたたび戻ってきた襟首をつかんで巴投げをした。智也はやや上方へ直線的にふっ飛ばされた。

 ドアの枠木に背骨をぶつけ、そのまま落下した。さっきの衝突よりもダメージがあったようで、ほとんど動かずにうずくまってしまう。

「一本」

 義男のジャッジに、りん子は笑顔だ。キャッキャと黄色い笑い声をあげると、真横に動き出した。壁を駆け上がり、天井を走り回ると部屋を出て行ってしまった。

「あれれ、ちびっ子が行っちゃったよ」

「あのガキんちょ、なに考えてるかわからんけど、強えなあ」

 夫婦が感心していると、ドアの前でうずくまっていた智也が起き上がった。散乱した椅子の脚部分が握られている。それを高く振り上げた。


「このっ、このっ、しねっ、死ね」

 廃墟のラブホテルで、小学生の男子が同級生の女子を滅多打ちにしていた。凶器はバットであり、少しの手加減もなく執拗に振り下ろされた。女の子は、最初のうちは悲鳴をあげて懇願していたが、後頭部をぶっ叩かれてから声に張りがなくなり、さらに力の入った打撃を十発ほど顔面に受けて静かになった。

 荒い呼吸が治まらないまま、智也は足の裏で頬を踏みつけた。うす汚れて黒くくすんだ靴下が赤く濡れた。虫の息に近かったが、女の子はまだ死んではいかなった。生存を確認した少年は、トドメとばかりに大きく振りかぶってバットを振り下ろした。首元にガッチリと嵌り、しばし痙攣した後に絶命した。

 智也は少女の死体を引きずって階下に降ろした。もっとも奥にある部屋に行き、一息つく。そこは荒らされ放題で、瓦礫や粗大ゴミが山のように積もっていた。その一角を崩し、空いた隙間に死体を入れ込み、その上にゴミや瓦礫をのせて、しまいにはロッカーを倒してフタとした。

 完全犯罪をやり終えてしばし呆然としていたが、突如として激しく吐き出した。腹の中にわだかまっていたヘドロを勢いよく逆流させながら、自分が犯してしまった罪を反芻していた。頭蓋骨や首の骨を砕く音が、いつまでも耳の奥に残った。

 途方もない罪悪感に苛まれた智也は、この時から意志が細く覇気のかけらもない内気な少年へと変貌した。クラスでのヒエラルキーが逆転し、勝手気ままな狩人から逃げられぬ草食動物へと落ちてしまった。

 ラブホテルの廃墟は権利関係が複雑過ぎて、次の持ち主が決まらぬまま現在に至っている。ボヤ騒ぎがあって廃墟はよりいっそう廃墟となり、建物が朽ちて崩壊する一歩手前の危険な状態となっていた。

 そこに近づく者はいない。少女が行方不明となり調べられたが、焼け焦げたゴミの下に埋もれているものが発見されることはなかった。彼女は、いまでもそこに埋もれているのだった。


「あ、ああーっ」

 嗚咽とも悲鳴ともつかない智也の声が響いた。振り上げた腕を降ろして、絶望したようにへたり込む。夫婦は彼の過去を知ってしまった。

「脳張力の姉ちゃんだけじゃなく、おまえまでもが殺しちまったのか」

「二人そろってなにやってのさ。そんなことしたら、一生裏道を歩かないとならないよ」

 夫婦に言われて、いや、言われる前から智也は狼狽しきっていた。彼にとってあの廃墟で少女を屠ったことは、もっとも知られたくない過去であり、悔恨の濃密なる靄であり、沈降するしかなくなった人生の嚆矢であった。

「違う、違う。あの時は、僕はおかしくなってたんだ。先生に告げ口するって言われて、あのことを母さんに知られたら、他のみんなに知られたらどうしようって。あいつも悪いんだ。僕はイヤだったけど、あいつがいやらしいことしようって誘ったんだよ」

 廃墟ホテルで経験した性的な行為を、智也はいまだに恥じていた。彼の性は未熟のまま、殺人という凶行によって成長を阻害されてしまった。大罪を犯してしまい、肥大しかけた自我が委縮に転じた。何事に対しても積極的になれず、つねに受け身の人生となった。

「なにも違わねえだろう。おめえは女の子を叩き殺したんだ。まだ生きてたのに首の骨を折りやがって。ホントにバカタレだ」

「人を殺しちまったら取り返しがつかないんだよ」

「あれから僕は何をするにも怖くて、人と話すのが怖くて、先生か母さんに咎められるのが怖くて、怖くて仕方ないんだ。いままでイジメていたやつらにイジメられて、カスのように扱われた。ずっと閉じこもって体も痩せて、力もなくなった。女より弱くなった」

 懺悔をする智也は、赤ん坊のようにハイハイしながら左回りに円を描いていた。不憫に思った一二三が声をかけ、義男が足を出して前進を止めさせた。

「いっつもいっつも、あいつが夢の中にいるんだ。あのイヤらしい欲しがりの顔で、僕を見るんだ。僕はなにもできないよ。もう、できない。できないんだよ」

 異常に膨らんで凶悪さを見せつけていた腕が、急速にしぼんでいた。いつも通りのか弱き青年の姿へと戻っている。有刺鉄線も消えていた。

「まだ子供だったんだよ。悔やんでるんだったら、ちゃんとお墓作って供養しておやりよ」

 一二三になぐさめられて、智也は幼児のように泣きじゃくる。

「うっ、なんかすげえ粉くせえぞ。シメジのニオイだ」

 唐突に、強烈なキノコ臭がやってきた。一二三がなにか言いかけた瞬間に、智也の体が引っ張られた。

「あひゃ、バケモンだー」廊下から手を出したものを見て、義男は驚愕する。

 そこにいたのは有紀だった。過去の父親殺しが露見して部屋から逃げ出していたが、戻ってきたのだ。しかも、その姿と様相が悪夢としかいいようがない状態だった。

 白いキノコだらけなのだ。腕だけではなく、体のいたるところから生えていた。それらは着衣を押しのけて、あるいは生地を突き破っていた。とくにジーンズのファスナーからとび出した一本は猛っていて、女性の持ち物にしては立派すぎた。

 キノコだらけの手が智也の後ろ首をつかんだ。そのまま廊下を後退っている。いまさらながら許しを請うように、ありふれた女の子の名前を叫んでいた。夫婦は見ているだけで、二人に触ろうとはしなかった。

「とにかく、ここにたらやべえな。やっぱ奥さんとじいさんを連れて逃げるぞ」

「あの兄ちゃんはいいのかい。後悔してるみたいだし、置き去りは可哀そうだよ」

「ちっ、しょうがねえな」

 有紀と智也は廊下から加工場に入った。一呼吸おいてから夫婦も踏み込むが、場内の有り様を見て唖然として固まってしまった。

「おいおい、畜生どもがまた増えてんのかよ」

「ほんとに動物園だねえ」

 動物たちが増えていた。ヒグマだけでも三頭、エゾシカは七頭、犬やキツネなどを合わせると数十匹の大集団である。

 それらが牙をむき、ギャアギャア吠えながら突進し跳びかかり、そして返り討ちにあってひしゃげていた。激闘は加工場の中心付近であり、敗れた動物たちの屍が累々と散乱していた。床は肉片と血でひどく生臭くなり、生ものの加工場として久しぶりの活気を呈していた。

「あんた、見なよ。あの子だよ」

「あのガキんちょ、無双してるなあ」

 野生動物たちを手酷く屠っているのは、りん子だ。

 ヒグマが凄まじいトルクで突進し、その凶悪な爪で小さな女の子の体を粉々にしようとした。りん子はそれを腕一本で受け止めて、パッと跳んだ。ちっちゃな足を蹴り出して、毛むくじゃらの喉につま先をめり込ませる。ゲホッと、オヤジみたいな嗚咽を洩らすヒグマであったが、すぐに強烈なるフックをかまして、首元に突き刺さった足を除去しようとした。

 しかし、りん子の動きのほうが素早かった。サッと野獣のフトコロに抱きつき、重機顔負けの馬力で締め上げる。

「あ、あんた、クマさんが、くしゃげたよ」

「くしゃげた、なあ」

 くしゃげたという不明瞭な造語が、ヒグマの状態を端的にあらわしていた。

しがみ付いた箇所からりん子の手足がワイヤーのようにめり込み、巨大な皮下脂肪と強靭な毛皮を突き抜け、ろっ骨を砕いた。ヒグマの胸部と腹部がくしゃげ、小さく狭くなった。内部から突き破った骨がデタラメの方向にとび出している。この間が三秒にも満たなかった。

 次に雄のエゾシカが跳びかかった。シャンデリアのように派手なツノを向けていたが、りん子の両手がそれらの根元をつかむと同時にへし折った。間髪入れず股の間に鹿の頭部を挟んで潰した。驚くほどスリムになった顔は、ほとんど厚さを感じさせなかった。太ももが汚らしく濡れてしまい、りん子は残念そうな顔をしていた。

 絶え間なく攻撃してくる野生動物を、りん子は顔色一つ変えず処理している。エゾシカやヒグマの巨体が宙を飛び、小動物たちは叩き潰され、バラバラにされた。無数にたかってくるネズミも、超高速のモグラたたきで月餅となった。ルーチンワークは面白くないのか、ときおりアクビをしている。次なる強キャラの登場を望んでいるようだ。

「奥さんとじいさんはどこ行った」

「まさか、食べられてしまったんじゃないの」

 二人の姿が見えない。散らかされた肉片や肉塊の中に、人らしきものはなかった。

「俺たちならここだ」

 夫婦が上を見る。天井の鉄骨梁に啓介と千夏がしがみ付いていた。

「りんちゃんが~、またここに上げてくれたんだけど~、降りられないの~」

「なんだって、奥さんは高いところが好きだなあ」

 義男がすぐに梯子をかけて二人は降りてきた。床に足をのせた途端、啓介が言う。

「みんなで逃げるぞ。ここはヤバすぎだ。千夏も連れて行く」

 前言撤回に夫婦は異存なしだが、千夏はりん子も一緒に連れて行くと言ってきかない。

「いいか千夏、よく聞けよ。あの子が千沙の娘なら、おまえを助けるために戦っているんだ。あの子が注意を引いているから逃げるチャンスだ。外まで追ってこないだろう」

 戦いというよりも、一方的な殺戮であったが、どこからか動物たちが次々と湧いて出てくるので、りん子は休む暇がなかった。

「死んだガキのガキんちょってのがイマイチわからんけど、あのガキんちょは大丈夫だべや。もともとこの世のガキんちょじゃねえし、死にやしねえよ」

「あんたがくどいよ。もうちょっと、さっぱりした言い方にしなさいって」

 千夏はしぶっていたが、皆が急いているので気持ちが流される。結局、りん子に防いでもらっているうちに脱出するというプランに従うこととなった。

 強い風雨がシャッターを叩いていた。だが薄っぺらな金属でしかない扉が、なぜか動かなかった。

「ちくしょう、波打っているくせしてビクともしねえぞ」

「バケモノがやってんだよ。バケモノの呪いさ」

「バケモノっつったって、あのガキんちょは奥さんの味方だろうが。どこのバケモノだ」

「それは」と啓介が言ったところで口が止まり凍りついた。バケモノに相当するものがやってきたのだ。

「脳張力の姉ちゃん、またきやがったか」

「あやや、気持悪いよ。さっきよりもひどくなっるねえ。お腹痛くなってきたさ」

 有紀が現れた。体中に生えたキノコだけではなく、一度脱ぎ捨てたはずの有刺鉄線が、再び顔に巻きついていた。きつく締められ過ぎて、眼孔から目玉がとび出している。

「ほらあ、見てえ。これはねえ、すっごく強力なんだよー。最終兵器にとっておいたんだー。骨も溶かすぐらいハイになれるから」

 有紀が手にしているのは注射器である。細長いシリンダーの中には、すでに液体が充填されていた。しばし見せつけたあと、針先を舐めるようにしゃぶり、腕に突き刺した。

 彼女が注射したのは、粗悪な合成デソモルヒネに成分不詳な混ぜ物を加えた、極めて強力な麻薬である。即効性があり、しかも安価で、ついでに多大な副作用があった。すでに血管が真っ黒に壊疽し始めている。あまりにも危険なために使用を躊躇していたが、有紀は決断したようだ。

「この女は、完全にとり憑かれたんだ。もう人間じゃない」

「姉ちゃんは脳張力を使うからな。バケモノがくっ付いたんだったら、やべえぞ」

「もう吐きたくないよ。あんたは屁がでるけど、わたしはなんにもでないからね」

 有紀が接近してきた。もはや、なにが生えているのかわからないモップのような腕を振り上げて、サイキックの発動を示唆した。

「やられる」と義男が叫ぼうとした瞬間、有紀が勢いよくぶっ倒れた。その後ろから出てきたのは、りん子だった。

 なにが嬉しいのか、ひょっとこ顔をしてホイホイホイホイと走り回り、ようやく立ち上がった有紀の頭部に向かって、強烈な回し蹴り食らわせた。数本のキノコとジャリッとした金属音を散らしながら、有紀がぶっ倒れた。

「いまだっ」

 啓介が叫び、千夏の腕をつかんで走り出した。夫婦も続いた。

「あんた、あれ見なよ。兄ちゃんが背中にいるさ」

 床にうつぶせに倒れた有紀の背中に、仰向けになった智也が縛られて背負われていた。

 その様子をチラ見した義男は、珍しく無言だ。もたもたしている女房の手首をつかんで、とにかく急ぐ。四人は加工場から母屋へと脱出した。真っ先に玄関へと行く。

「なんだよ。ぜんぜん開かねえ」

 玄関のガラス引き戸は鋼鉄のように硬く、蹴っても突いてもビクともしなかった。

「窓だ」

 居間の窓も当然のように開かない。叩き割ろうとして、椅子やその他の堅物を投げつけるが、ヒビすら入らなかった。

「くっそう、なんだこれ。風の音がイヤというほど聞こえるのに、なして割れない」

「ほかの窓からのほうがいい。ここはダメだ」

 皆が居間を出て、一階の各所へ急ぐ。しかし風呂場やトイレの窓、使われなくなった子供部屋の窓も信じられないくらい頑丈で突破不可能だった。

「な、なんだい。小さいのが足元にいっぱいいるよ」

「ネズミだ。なんだってこんなに涌いてきやがるんだよ」

 ネズミが這っていた。一匹ではない。潮が満ちる如く大量にあふれ出てくる。

「上の事務所だ」

 脱出はあきらめて、二階の事務所へと退避する。千夏が先頭になり次が一二三、義男、啓介が一列になって昇った。

「ああ、ダメよ。事務所のドアは傾いているから、ぴったりと閉まらないの」

 思い出したというようであり、千夏の言い方には危機感がない。一二三が小言をぶつけ、男たちが急かした。正面の部屋をやめて、手前左側にある備品倉庫に入る。全員が入りドアを閉めてカギをかけた。窓のない部屋なので真っ暗だが、壁にあるスイッチで照明が点いた。ネズミの集団も階段を上ってきたが、ドアは閉められていて侵入はできなかった。

「ちょっと、ここは狭いねえ」

「物がいっぱいだからな。足の踏み場もねえ」

 備品倉庫の中は、金属棚はもとより床にも物品が溢れていた。まだ使われていない領収書やカレンダーなどをかき分けて、それぞれが座る場所を作った。隠した金のことを義男は忘れていたが、一二三は気にしていた。亭主にそれとなく目配せするが、気づいてもらえなかった。

「ここ、久しぶりに入った。ずっと来てなかったから」

 ぼそりと千夏が言う。狭苦しい室内を懐かしそうに見回していた。

「この家に住んでいるのにか。幽霊でも出るのかよ」

「お母さんが入るなって言ったから」

「なんでさ」

「お父さんが血を流して死んだから」多少ためらい気味ではあったが、千夏はハッキリと言った。

「縁起でもねえこと言うなや」不気味な言動に義男が渋い表情だ。

「きっとここで自殺したんじゃないの」

「兄貴は事務所で手首を切ったらしい。実際に俺は見てないが、そう聞いたよ」

「まあ隣の部屋だからな。子供を二階に近づかせたくないってのはわかる」

「違うよ、ここだよ。お父さんが死んだのはここ。だって、千沙が結婚式をしたんだから」

 沈黙は数秒ほどだった。空気の毛羽立ちが肌を刺激するのか、義男と一二三の腕や首筋に鳥肌が立っていた。

「そういえば、あの霊能力者が結婚のことを、なにか言ってたような気がするな」

 啓介は考え込んだ。昔の記憶に触れるのが億劫なのか部屋の四隅を見ていたが、ある事に気がついた。 

「おい、この部屋はおかしくないか」

「おかしいって、なにがだよ。これ以上怖がらせんなや。ションベンしてえのに」

「そうだよ。ヘンなこと言うから鳥肌たってきたじゃないのさ」

 じわりと漂ってきた恐れをうち消そうとして、夫婦は口を尖らせた。

「いや、ヘンだ。この部屋は、もうちょっと広かった。ここは狭すぎだ」

 啓介が壁に手を当ててまさぐっていた。千夏は真剣な表情で正面を見つめていた。

「ほら、この壁の先は事務所のはずだけど、廊下の長さと合わないだろう。もっと奥行きがなければならないんだ」

「じいさん、気のせいだべや。チュウ太郎に齧られて遠近感が頓珍漢になってるんだって」

「あんた、そういえばおかしいよ。壁がここじゃあ、事務所まで遠いんじゃないかい」

「事務所側に、もう一つ部屋があるんだろうよ。便所とか」

「いや、それはない」

 事務所には、ほかの部屋も物置もトイレもないと啓介が断言する。

「千沙が結婚したんだよ。真っ赤な綿帽子を被って、きれいな赤無垢を着て、ここでお式をしたの。お父さんがいて、太ったおばさんがいた」

 朗読のような口調の千夏を、一二三はイヤそうに見ていた。

「赤無垢ってなんだよ。結婚式なら白無垢だろう。薄気味悪いこと言うなや」

「奥さん、和式の婚礼はさ、文金高島田はさ、白いんだよ。それで花嫁衣装は白無垢さ。赤は聞いたことないねえ。お色直しのドレスだったらわかるけど」

「赤よ。赤くするために、お父さんは死んだんだから。赤にしないとダメ。血の赤」

 千夏の眉間に深い皺がよった。群発頭痛でも発生したように渋い表情だ。

「この壁紙、ほかの面と柄が違う。ここだけ石目調だ」

 白いクロスは事務所側の面が石目調であり、ほかの三面は織物調だった。

「カビたから、そこだけ取り換えたんだろ。それより警察呼べや。もう、しゃあねえだろう。陸自でもいいぞ」

 啓介は、壁の前にある金属ラックから書類ケースやら本を落とし始めた。義男がケイタイケイタイと騒ぐが、誰のケイタイも壊れていて不通である。通報は諦めるしかなかった。

「これ動かすから、ちょっと手伝え」

 空になった金属ラックといえども十二分に重く、しかも床に物が積もっているので滑らせることができない。義男と二人がかりで持ち上げて、後ろへと置いた。

「アーッ、アーッ、アーッ」

 突如、千夏が叫び始めた。大人の女性というより少女の奇声である。凍えているように体が震えていた。 

「奥さん、奥さん、どうしたんだい。なんだいこれ、ひきつけかい」

 叫びが徐々に小さくなって消えた。表情はうつろだが目線は鋭く前を見ている。震えも止まった。

「静かになったよ。なんなのさ」

 金属ラックを移動させたので、壁のすべてが露わになった。ところどころカビで黒くくすんでいる。下方に幅木がなく、湿気が多かったのか少しばかりめくれていた。啓介がその箇所をつまんで、壁紙を剥がしにかかる。

「壁の色がおかしくねえか」

 裏紙が残ることなく、壁紙が剥がれた。断片的であるが、赤茶けた壁の下地が次々と露わになる。六畳ほどの面積をほぼ剥がし終えると、四人は行儀よく並んで眺めていた。

「赤いお札だねえ。すごく赤くてイヤになるさ」

 コンパネ板の壁には、真っ赤な紙が貼り付けられていた。縦二十センチ、横十センチくらいの寸法で、やや斜めになったものもあるが、けっこうな数が秩序だって並んでいた。紙自体の色は濃い赤であり、見慣れぬ文字が黒色で記されていた。

「これ、なんだよ。魔よけの札か。壁じゅうにびっしりじゃねえか。気色悪いなあ」

「このヘンテコな文字はなんなんだい。意味があるのかねえ」

 毛筆で描かれたような漆黒の文字は、平仮名やある種の漢字、あるいは人の姿にも似ているが、それらとはあきらかに非なるものだ。 

「これは梵字だな」

「ぼんぢ、ってなんだよ。大木か」

「あんた、ボンドじゃないんだよ」 

「仏教とかで使われる文字だ。俺もくわしいことは知らんが、魔除けだろうな。おそらく、あの霊能力者がやったんだと思う。梵字が書かれた手帳みたいのを持っていたからな」

 梵字で書かれた文字の意味は理解できないが、一枚一枚を啓介が目を細めて読んでいた。

「なんで魔除けの札なんか壁に貼るんだべな」

「そりゃあ、あんた、この壁の向こうになんかあるんじゃないのさ」

 一二三が核心をついた途端、千夏が絶叫した。清らかな鼓膜を糞尿まみれの指先で突き破られたような不快さと痛みがあり、間近で聞かされた者は、えもいわれぬ不安のどん底に叩き落された。

「うっわ、なんだなんだ、びっくりしたなー」

「な、なんだいっ、うるさいよ、やめな」

 千夏が崩れ落ちた。啓介と一二三が慌てて介抱する。呼吸と脈を確かめると、弱いながらも滞りなく機能していた。気絶しただけのようだ。奥へ連れて行き、散らばった物を片付けて横になるスペースを作って寝かせた。一息ついてから壁の前に戻る。

「おい、これ見ろよ。いきなり皺くちゃになってるんだけど、なしてよ」  

 壁に貼られていた大量の赤札に異変が生じていた。ガラスを砕いたような細かいひび割れが縦横無尽に走っている。義男がそれらの一枚に触れると、すべての赤札が粉々に砕けて霧散してしまった。

「奥さんの大声で割れちまったのか。でもよ、紙が粉々になるって、わけわかんねえぞ」

「あんた、触んないほうがいいよ。ヤケドするって」

 夫婦が、ああだこうだと言っている。啓介は金属ラックの前で忙しく動いていた。

「じいさん、なに探してんだよ」

「千夏を見てわかったが、魔除けの札が守っているものが、そのコンパネ板の向こうにあるってことだ。木ねじで留まっているから、ドライバーで外せるだろう」

 プラスドライバーを見つけると、中央のコンパネ板にねじ込まれた木ねじを回し始めた。

「こういうのはなあ、インパクトじゃないと回んねえぜ」電動ドライバーのことである。

「いや、そうでもない」

 木ねじはドライバーの手回しでも容易く緩んだ。一畳ほどあるコンパネ板一枚を固定している数は十本に満たない。すべてを外し終えて、ドライバーの先端をコンパネ板同士の密着部分に突っ込み、テコを使ってグイッと持ち上げた。指を入れる隙間を開けて、数センチ浮かせてから夫婦を見た。

「外すぞ」

 一瞬の間を置いた後、コンパネ板が開け放たれた。その途端、なんとも形容できぬ異様な臭気が吹き込んできた。向こうには別の空間があり、縦よりも横に長さがあった。

「うっわ、くせえ。えらくすっかいニオイだなあ」

「やけに酸っぱいさ。なんか発酵してるのかい。べったら漬けだねえ」

 真っ暗闇だった部屋へ久しぶりに光が入った。ニオイを気にしていた夫婦だが、視界に入ってきた光景を見て鼻の穴が大きくなった。

「なんか、向こうの壁に描いてるぞ」

 義男が恐る恐る、首だけをその部屋へ入れた。真正面だけ備品庫のもらい光で照らされているため、右も左も暗くてハッキリとしなかった。ただ、目の前の壁に何があるのかは理解できた。

「絵が貼ってあるぞ。なんか人の絵だけど、あんまし上手くねえなあ。気色悪いし」

「上にあるヒモみたいのはなんだ」

「これは、なんだべな。電気の引っぱりじゃねえのか」

 その部屋に足を踏み入れてしまわないように、境界線の外から首と手を出して、細いヒモを引っぱった。カチッと音がして手ごたえがあった。義男の間のぬけた顔が見あげていると、十数秒経ってから蛍光灯が点いた。久しぶりの通電に臆したのか、やけに青白く遠慮気味な灯りだった。

「あ、じいさん、大丈夫かよ」

 啓介が足を踏み入れた。中に立って腕を組み、壁をじっくりと見つめていた。なにも起こらないことを確認した夫婦も入室する。啓介と同じく壁の前に立って眺めていた。

「ずいぶん絵があるけど、これ、子供が描いたのかねえ」

「上手くねえけど、子供じゃねえだろうと思うけどな」

 正面の壁はクロスが貼られていない石膏ボードであり、画用紙に描かれた絵が何枚も貼りつけられていた。筆のタッチは精緻な感じではなく、かといって子供の稚拙さでもなく、なんとも中途半端な技量で描かれていた。  

「結婚式っぽいのが多いよな。あと家族みたいのとか。誰が描いたんだべ」

「ねえ、この花嫁衣裳って色打掛なのかねえ。綿帽子には白無垢が定番だとおもうんだけどさ。なんだろうねえ、綿帽子も着物も真っ赤だし、なんだか粘っこい気がするさ」

「たしかに、赤い色だけやけに生々しい。その色だけ油絵具みたいだ。あとはサインペンかな。なんで統一されてないのか」

 絵を一枚一枚吟味しながら、それぞれが率直な感想をつぶやいた。

「白無垢が赤くたってべつにいいけどよう。となりにいる亭主みてえのが真っ黒だぞ、おい。顔もなんもかんも黒くて、なんじゃこりゃ。人間じゃねえのか」

 結婚式を描いているものが多かった。それらは一般的な結婚式場での場面ではなく、居間ほどの一室に少ない人数が対面し、内々で催された質素な式だ。古き良き日本のお祝いの光景であり、懐かしさと郷愁を感じさせた。

 婚礼のほかは、夫婦と赤ん坊、夫婦と小さな女の子が描かれていた。親子の団欒といったところだが、どの画も夫・父親の姿は黒色だけだ。輪郭はかろうじて人型であるが、とにかく真っ黒であり、顔や服装がまったく描かれていない。もともとの人物像を黒く塗りつぶしたというより、その存在をありのまま表したような力強さと強固な存在感があった。見入っていると不安を掻き立てられる闇の深さがあり、禁忌であることを想起させた。

「そういえば、さっき奥さんが言ってたよ。妹さんは結婚したって。ひょっとしてさあ、この赤無垢を着ているのがそうじゃないの」一二三が婚礼の画を指さした。

「バカ言ってんじゃねえ。千沙だかって妹が死んだのは小学生の時だぞ。この花嫁は大人じゃねえかよ。二十歳は越えてっぞ。奥さんの妹ならロリじゃなきゃおかしいって」

「そうだけど、この参列者って奥さんの家族じゃないの。ほら、あれはじいちゃんで、花嫁のそばに座ってニコニコしてるのが親父さんで、社長さんだよ。面影があるさ」

「おまえ、社長さんの顔をよく覚えてるな。頭いいのか」

 義男は呆れながらも感心する。彼の記憶の中に、故菅原社長の面影はまったくない。

「でもよ、奥さんみたいのがいねえ。妹の婚礼なんだから、当然いなきゃおかしいだろう」

 新郎新婦以外の出席者には、若い女性も小学生もいなかった。全員が中年以上である。

「この絵見てよ、ほらあ。新婦のほうは笑顔の人もいるけど、新郎のほうはみんな表情がないさ。マネキンみたいじゃないかい。薄気味悪い人相だよ」

 夫婦は正面の壁の絵だけに集中していたが、啓介は右側に注目する。

「こっちの壁にも貼ってあるな。これはなんの絵だ。よく見えん」

 蛍光灯の光量がまったく足りていない。真正面の壁は備品庫からの入光と合算でそこそこ判別できるが、右の詳細はぼやけていた。義男が後ろから近寄った。自分の見ているものより、誰かが注目していることが気になる性分なのだ。

「こっちは、赤ん坊やちっさいガキんちょの絵が多いな。ほら、だんだんと成長しているぞ。そんで、この真ん中にあるのはどっかで見たことあるようなガキんちょだ」

「この女の子、さっきの元気いっぱいのバケモノじゃないのかい。あんまり上手くはないけど、なんとなくだけど似てるねえ」

「この顔は、あのガキんちょっぽいなあ。どういうこっちゃ」

 啓介がいったん後退し、俯瞰するように正面と右の壁を眺めている。そしてなにかを悟ったのか、顎を掻いていた手をポンと叩いた。

「そうか。これは死後婚だ」

 死後婚という聞きなれぬ言葉を、義男は頭の中で雑に噛み砕いてから結論を出した。 

「しごこん、ってなんだ。ハローワークの求人か」

「あんた、しごと探しじゃないんだよ。ほんとにバカなんだから」

 義男のギヤ比は低く、馬力が足りていない。喝を入れるように啓介が言う。

「よく聞け、死・後・婚・だ。若くして亡くなってしまって、現世での婚姻がかなわなかった者たちを、死んだ後になって結ばせるんだ」

「はあ?」とは、夫婦が同時に示した反応だ。

「結婚せずに死んでしまった息子や娘を不憫に思い、婚姻を絵馬や絵に表したりしたりすることなんだ。死後の結婚については海外とか神話にもあって、幽霊結婚だか冥婚とか言われてるって、なんかの本で読んだことがある」

 義男と一二三が同時に口を開いた。死後婚についてのせっかち質問を浴びせる。

「詳しいことは俺もわからん。ただ、そういう風習があるってだけだ。幽霊や死人を呼んで婚姻をさせるわけじゃなくて、あくまでも婚姻らしいことをさせるというフィクションなんだ。遺族の心の中に、亡き家族の物語を刻むのだろうよ。現世では人生を全うできなかったけれども、あの世で幸せになってくれってことだと・・・、千夏」

 備品室で寝かされていたはずの千夏が入ってきた。度重なる騒動で路上生活者のように髪型が乱れていたが、表情には凛々しさがあった。

「そう。ここにある絵は、幼くして命を無くしてしまった者を、あの世で結婚させたものよ。そこに描かれた赤い綿帽子と着物の花嫁は千沙。ここじゃないどこかで大人になって、お嫁さんになったの。きれいでしょう。お式を挙げてない私よりもずっときれい」

 真紅の着物と綿帽子に包まれた花嫁を、千夏のか細い指先がそっと撫でた。

「赤い綿帽子と赤無垢は、あちら側の花嫁衣裳。これは色打掛じゃないの。だって、この赤は生きた血だから。娘を嫁にだす父親が命がけで絞り出したのだから」

 抑揚はないが太い軸心がある千夏の言葉に、その場が凍りつく。彼女は左後ろに座している者の前に膝を折って、労をねぎらうように語りかけた。

「おばさん、今日までありがとう。たった一人で千沙のそばにいてくれてありがとう。りんちゃんを見守ってくれて、ほんとうにありがとう」

 そこにいる人物はなにも返さない。じっと動かず、やや斜に構えて下を向きながら一点を見つめていた。

「おっわ、人だーっ。おい、人が座ってるぞ。うわあ、なんだ、てめえ、いつからいた」

「・・・」

 大仰に驚いている義男はまだ思考力があるが、一二三は吃驚のあまり声が詰まっていた。あんぐりと口を開けて、落ち着かぬ鼓動を鎮めようと胸に強く手を当てていた。

 啓介が千夏と同じくしゃがみ込んで、座している者と対面した。

「まさか、あの時の霊能力者か。ありえないぞ」

「おい、どうなってんだ。そいつはどこから来たんだよ。誰だ、女か。CGか」

 焦りと苛立ちと現実逃避を綯い交ぜにした義男の声がうるさかった。  

「この女は、あの時の霊能力者だ。もう死んでるよ」 

「霊能力者? 死んでるって、なんでだよ。そもそも、どこから入ったんだ。だってよう、壁がビス打ちされて塞がってたじゃねえか。墓場から瞬間移動か」

「あんた、そういうことじゃないよ。ずっといたのさ」

 義男の思考は浜辺に打ち上げられたクラゲのように脆弱だが、一二三の直感は芯が強い。

「おばさんはここにいてくれたの。お父さんとお母さんと約束した。お父さんは約束通り血を流したから、真っ赤な生地で縫い合わされた衣装を着て、千沙はお嫁にいけたの。おばさんも約束を果たした。だから、りんちゃんはここにきた」

「兄貴は手首を切って自殺したが、死ぬまでに時間があったと聞いている」

 佇む者の傍らにガラス瓶があった。啓介は赤黒く汚れたそれを手に取り、すっかり乾ききった中身のニオイを嗅いだ。

「ここでなにが行われたのか、わかってきたような気がする」

 危険はないと判断した義男と一二三が、座している者を恐る恐る覗き込んだ。

「えらいシワシワで痩せてるな。ほとんどミイラだぜ」

「ほとんどじゃなくて、完全にミイラだ。死んだのはだいぶ前だろう。きっと真冬に死んで、腐ることなく乾燥したんだ」

「なんだって、こんな狭いところに閉じこもったんだろうねえ。ナマンダブだよ」

 その理由を説明させようと、啓介が姪っ子に話しかける。

「千夏、言うことがあるだろう」

 千夏は黙っていた。体育の座り方で死んだ霊能力者と対面したままである。

「このミイラ、なにか握ってんぞ」

 干乾びた霊能力者の手に、茶色い紙製の長方形があった。

「封筒だな」

 啓介が取った。封は糊付けしてある。いったん蛍光灯にかざして中身を確認し、封を指で破った。きれいに折られた何枚もの便箋を取り出して広げた。

「手紙だね」

 夫婦はちょっと覗き込んでから、見るのをやめた。そして餌をもらう前の犬みたいな顔をする。細かい字を読むことが苦手であり、だから啓介に読んでもらうことを期待していた。文字は縦書きで整然と書かれていた。啓介が読み始める。 

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