第16話

 タンチョウに右手を突き出したまま、サイキックは固まっていた。いま見せられた夢をどうやったら砕き散ることができるか考えようとしていた。

「おいおい、なんだいまのはよう。あのオッサンって姉ちゃんの親父か。ってか、なんかエロい展開だったなあ」

「父親と娘でヤってんだよ、気持ち悪いねえ。エロマンガなのかい」

「ロリはやべえよな。通報もんだぜ、ったく」

 吐き気が治まった義男が感想を言い、勘の良い一二三は父と娘の間に不埒な関係があったと喝破した。父娘の禁忌な繋がりが周知された。血の気が引いていくかわりに、有紀の心の内側からドブ色の殺意が沁み出てきた。

「うるさいっ。おまえら死ねー」

 逆上含みのサイキックが夫婦めがけて発動した。潰れんばかりの圧力に一二三は尿を洩らし、義男がゲエゲエとやりだした。

「有紀、なにしてるんだ。やめろ、死んでしまうぞ」

「うっさい。こいつらはクズだ。大人のくせに、どうしようもないクズだ。叩き潰してやる」

「それ以上やると、うぐっ」

 有紀の暴走を止めようとする智也だが、彼の胃袋も締め上げられる。

「くっそー、おい、おまえら。なにやってんだ、コラア」

 激しい吐き気に苛まれながら、啓介が根性で立ち上がった。サイキックの集中に抗って、一歩二歩と足を進める。バールはまだ手放していない。一メートルほどの長さがあり、武器として見せつけるには十分だ。 

「女、もうやめろ。取り返しがつかなくなるぞ」

 啓介がバールを振り上げた。あくまでも威嚇のつもりであったが、パートナーの危機を察知した智也がタックルした。鋼鉄の棒が金属音を響かせながら床に落ち、いち早く立ち上がった青年がそれに手を伸ばした。


 智也の目の前で少女が泣いている。太ももを押さえている指の間から、血がたらたらと流れていた。そんな同級生を懐中電灯で露わにするだけで、手当や介抱などはしなかった。

「言ってやるから。みんなに言ってやる。いやらしいこともしてるって。委員長や先生や、智君のお母さんにも言いつけてやるから。ぜったい言うんだから」

 痛みというよりも、まとまった量の血を見たために少女は精神の均衡を失いかけていた。

「智君がうちにしたエッチなこと、ぜんぶ言ってやるんだ。なめたことも言ってやるから」

「うわ」

 気絶しそうなほどの恥ずかしさが、智也の心をぶっ叩いた。未熟な性は、行為に対しての割り切りと責任の所在について、まったく対応できない。禁忌を犯してしまった後悔と、その発覚を極度に恐れていた。

 血が流れている太ももを片手で押さえて、重くなった足を引きずりながら歩いていた。懐中電灯の光が落ち着きなく手振れしながら、その後ろ姿を照らした。

 智也が走った。途中で床に落ちていた木製のバッドを拾う。夜中に侵入したチンピラ集団が捨てていったものだ。

 少女は、孤独で危険な暗闇から早く解放されたいと願っていた。あれだけ執着していた智也という異性は、どうでもよくなっていた。いや、かえって憎しみの感情が沸き上がっている。ひどい怪我を負ってしまった不条理を、誰かの責任にしたかった。

 非常口のすぐ前までやってきた。草の匂いを嗅いでホッとした瞬間、背中に衝撃を受けた。背骨というより、肩甲骨に激痛が走り、さらに胸が詰まり一瞬息ができなくなった。

 バッドが執拗なまでに振り下ろされていた。少女は悲鳴をあげる。太ももだけではなく、額も切れて顔じゅうが血だらけになった。

「やめて、痛いからやめてよ。言わない、誰にも言わんから、かんにんしてや」

 彼女の人生で最後となる懇願をしたとき、バットを大きく振りかぶって目をまん丸にした智也の顔が見えた。


「・・・」

 絶句していた。

 啓介から奪い取ったバールを握りしめて、智也は棒立ちである。

「なんだ、いまのは。幻覚なのか」啓介が両目をこすって立ち上がる。

「智也っ、なにを見せられても気にするな。バケモノが仕掛けてるんだ」

 有紀がそう言った刹那、天井から落ちてきたものが直撃した。落下物が柔らかくてある程度の緩衝にはなったが、重量があったので相当な衝撃をもらってしまった。

 サイキックによって内臓をギュッと握られていた夫婦が、やっと解放された。

「なんだいもう、膀胱炎になるじゃないのさ。ところで、なして奥さんがふってきたのさ」

「あのガキんちょに蹴落とされたんだべや」

 上から落ちてきたのは千夏だった。わざわざ有紀と衝突するように、りん子が蹴飛ばしたと義男は断定した。落下が彼女の意志でない証拠に、千夏が有紀と一緒にのびていた。バールを持った智也の横を素通りして、夫婦のもとに啓介がやってくる。

「千夏、生きてるか。おい、大丈夫か」

 叔父に抱き起こされて、千夏はか細く呻いた。硬いコンクリート床であったが、有紀がクッションとなったので怪我はない様子だ。一時的に昏倒しているだけである。

「奥さん、とりあえず死んでないみたいだな。姉ちゃんは知らんけど」

 義男が千夏の呼吸を確かめるが、有紀には触らなかった。

「超能力のお姉さんは死んだんじゃないの。ゾンビみたいな顔してるさ」

「いや、気絶してるんだろう」

 有紀は両目を開いたまま動かないが、頬がぴくぴくと痙攣していた。鼻血がスーッとたれていた。

「その女は何者だ。さっきは俺たちになにしたんだ。おかしなガスを撒いたのか」

 啓介も触ろうとしない。疑いの目で見ていた。

「この姉ちゃんは脳張力者だべや。イタコの一種だな。あのガキんちょを退治するってよ」

「悪霊退散するサイキックなんだって。でもさあ、なしてか、あたしたちにばっかりやるんだよね。あたしは悪霊じゃないってさ」

「こいつは霊能力者か。そんなのがどうしているんだ。千夏が呼んだのか」 

「この姉ちゃんとそこの兄ちゃんは、河川敷でキャンプしてたんだ。そんでよう」

 サイキックのこと、りん子を消し去ろうとして返り討ちにあっていることを、義男らしい冗長的な口調で説明した。

「へんな幻覚を見せられたぞ。あの若い奴の子供の頃みたいだ」

「バケモノがさあ、みんなの記憶を掘り起こして見せてんだよ。このお姉さんは、父親とチョメチョメしてたみたいだよ。気持ち悪いねえ。お兄さんも女の子をイジメてたし」

 一二三がそういうと、有紀の充血した眼玉が右に左に動いた。呆然としていた智也が、突然大声で叫び出した。バールを振り上げて鬼気迫る表情で接近する。

「おっわ。おい兄ちゃん、やめろ。おちつけ」

 過去を知られてしまったという焦りが、智也の心の全領域に負圧をかけた。廃墟での出来事は絶対に秘密のままにしておかなければならない。そのためならなにをしてもいいと、無我夢中の心境であった。

「おい、後ろ」 

 彼の後ろに黒く巨大な毛皮が立ち上がっていた。口から血まみれの有刺鉄線がぶら下がり、それは尻からも出ていて床にとぐろを巻いている。鉄のトゲトゲには体液どころか、肉や皮の破片がベロベロとくっ付いて汚かった。ヒグマであった。

「ばかっ、逃げろ」

 啓介が叫ぶが遅かった。次の瞬間、智也が吹っ飛んだ。ヒグマが強烈なる張り手を放ったのだ。まるで氷の上を滑るように、軽々しくふっ飛んでしまった。

 その瞬間を見ていた誰もが、彼の即死を覚悟した。しかし衝撃は凄まじかったが致命傷ではなかった。ゲホゲホと咳き込みながら、智也が立ち上がる。幸運なことにヒグマは爪を出していなかった。

「この、バケモンが」

「じいさん、やめろって。ぶっ殺されるぞ」

 バールを拾い上げた啓介が突進しようとするが、義男が羽交い絞めして止めさせる。ヒグマは口から出した有刺鉄線をじゃりじゃり鳴らして威嚇していた。

「あんた、ここヤバいよ」

 緩慢な動きではあるが、死んだ動物たちが集まってきた。

「八時でもねえのに、ゾンビの大集合だべや」

「あの時よりもヒドイな。霊能力者の言った通り、より強力なのがやってきたってことか」

「じいさん、さっきからなに言ってんだよ。なんか知ってんのか」

「あんた、クマさんがきたよ」

 野獣が一歩を踏み出した途端、打ち上げられたクラゲみたいに崩れ落ちた。最後の精魂を使い果たしたようで、クマの敷物となっていた。義男が近づいて、足の先でそうっと突っついた。

「ぺしゃんこになってるけど、今度こそ死んだか」

 体から鉄線を出している動物たちの動きは鈍かった。未知なる内燃機関を回す邪悪なエネルギーは、まだまだ充填不足のようだ。

「ここから出るぞ。もたもたしていたら、そのうちやられる」

 啓介が動き出す。気絶している千夏を抱きかかえて、どの方向に行くか迷っていた。

「よし、奥さん連れて外に出るべや。バカップルは、どうするべか」

 カップルの女は鼻血を出したまま、いまだ伏せっていた。智也が酔っ払いの足取りで彼女のもとへ行き、両脇を抱えてズルズルと引きずる。夫婦と祐介は、とくに止めたり声をかけることなく見ていた。

「兄さんたち、どこに行くんだろうね」

「奥さんの家のほうだな。つか、クマにぶっ叩かれて、よく動けるよな」

「超能力者だからじゃないの。弱っちいけど」

 有紀と智也が母屋へと続くドアの向こうに姿を消すと、啓介が歩き出した。

「おい、じいさん。どこに行くんだ。そっちは寮で出口がねえぞ」

「千夏をおいていく。加工場の中は獣だらけで危ないからな」

「一緒に外に出るべや。こんなやばっちいとこに奥さんをおいていけるかよ」

「そうだよ。叔父さんのくせして、なんて薄情なことするのさ」

 夫婦が喚いているが、叔父はおかまいなしだ。たかってくる野生動物たちを蹴飛ばしながら加工場を出て、寮の廊下へとやってきた。

「じいさん、奥さんをよこせよ。オレが外に連れ出すから」

 窓一つない真っ直ぐな直方体の中を照らすのは、死にかけの蛍光管が一本だけであり、暗闇に親和的な空間となっていた。

「千夏が外へ出ることはダメだ。ここに置いていく。そのほうが逃げやすい」

「はあ? なしてさ。頭おかしんじゃないの。ゾンビの鉄線クマにくわれてもいいのかい。あんたの姪っ子さんじゃないのさ」

 目をヒステリックに吊り上げて、一二三が詰め寄った。義男も、したり顔である。

「千夏が、すべての元凶だからだ。悪霊をこの世に呼び込んでいるのが、俺の姪っ子なんだ。千夏を外に出すと災いもついてくるかもしれない。他のものに被害が及ぶとマズいからな」

 陰った暗闇を顔半分に受けながら、啓介は抑揚のない声で言った。

「まあ、たしかにさ、奥さんの妹さんへの未練がさ、あのちびっ子を呼んじゃったけども」

「そうそう。しかも死んだのがガキの頃だからな。なおさらあきらめきれんな」

「あたしは一人っ子だからわかんないけど、兄弟姉妹の情はなによりも深いのさ」

「オレは兄貴がいるけど、あいつはロクでもねえクソ野郎だけどな。死ねばいいんだ」

 いい話の腰を折る亭主を、一二三は冷ややかな目線で見る。

「おまえら、なんか勘違いしてないか」

 腕が疲れてしまったようで、啓介は抱きかかえていた千夏をそうっと廊下に寝かせた。自分の上着を脱いで丸めると、枕として頭の下に滑り込ませる。ゆっくりと立ち上がって夫婦と向き合った。

「工場の天井にいたのは、千夏の妹の千沙ではないぞ。俺は千夏と千沙を知っている。以前ここで働いていて、よく二人と遊んで面倒をみたからな。だからあれは千沙ではないし、千沙が化けて出てきたものでもない」

 夫婦は、りん子を過去に死んでしまった千夏の妹と考えていた。だから啓介の説明を聞いて、頭の中が?となってしまった。

「じゃあ、あの女の子はなんなのさ。誰の怨霊なのさ。全然知らない野良の幽霊なのかい」

「おいおい。まさか、まったく関係のねえ幽霊に奥さんはいじられてるんじゃねえだろうな。そいつは不条理だぜ」

「千夏を寮の部屋に寝かせておく。あの動物たちと接触させたくない。それからここを出る。レンタカーがあるから、とりあえずそれに乗って、今夜は離れたほうがいい。嵐が去ってから明るいうちに連れ戻しに来る。もし、あの子が俺の想像通りならば、かえって千夏は安全だ。説明は後だ」

 確信を込めた表情に、夫婦はひとまず納得する。千夏は夫婦の部屋に連れて行くことになった。啓介が姪を抱き上げた時、廊下の向こうに不吉な気配があることに気づいた。

「おい、ありゃあなんだ」

 突き当りの天井に黒い影がある。ただでさえ消え入りそうだった照明の光が、さらにフェードアウトしてゆく。その物体の輪郭がハッキリしなくて、三人は少しずつ近づきながら目を細めて見ていた。

「ありゃあ、あのガキんちょじぇねえか」

「ほんとだ。あんなところでなにしてるのかねえ」

 りん子が天井に貼り付いていた。背中と両腕、両足がべったりと天板に密着している。その状態で顔だけ正面を向いていた 重力が逆さにかかっているような有り様で、異様というしかなかった。人の体というより、未知の蟲を連想させた。

 りん子が横に移動しはじめた。胴体中心を基部として、ゆっくりと回転するように進んでいた。直線的につっぱった手や足がつっかえ棒の役目を果たし、半回転するごとに体を壁へ叩きつけていた。ドタンバタンと不穏で緊張感のある騒音を響かせている。吸盤があるわけではないが、蜘蛛のようにへばり付いて落下してしまうことはなかった。

「あれは、なんの冗談なんだよ」

 進みにくさを意識したのか、りん子は手足の関節を90度曲げて壁から床を這い、さらに逆側の壁を上り始めた。今度は若干転がりやすくなったが、それでも角ばった動きは極めて不格好であり、まがまがしさに満ちていた。

 前後左右へ、叩きつけるように進む。ある時はうつぶせのまま下半身を逆エビ反りして股の間から顔を出し、そしてキメ顔であった。またある時はバキバキと関節を鳴らして体を叩きつけた。蟲少女は、顔を常に正面へ向かせようとする。しかも、いかにも楽しそうな表情をしているのだ。

「あの子、なんだってこっち見るのさ。気持悪い、気持ち悪いって」

 亭主の太ももの肉を千切れるほどつねって、一二三が喚いていた。

「痛いって。てか、軟体クモガキがこっちに来るぞ。うっわ、なまら笑顔だって」

 体のあらゆる面を床に叩きつけたりん子が、回転しながら前進している。どんな体勢になろうと、満面の笑顔を見せつけようとするサービス精神は旺盛だった。

「後ろに行くさ」

 直角的で密着的なでんぐり返しで、りん子は後退し始めた。ごく一般的な少女が遊びで行うそれとは一味も二味も違った。不気味さと不吉さを、イヤというほど見せつけていた。

「止まったさ」

 りん子は数秒間停止していた。顔は見せていたが、遠くになって、その場所が陰っているせいか表情が失せているように見えた。

「いまのうちに部屋に行くべや」

「奥さんを部屋に残して大丈夫なのかねえ。やっぱり連れて行ったほうがいいんじゃないの。だってえ、あの子は妹さんが化けたんじゃないんでしょ。どこの馬の骨だかしれない幽霊なんて気色悪いっしょ」

 一二三の不安に亭主も加勢する。

「なあ、じいさん。あのガキんちょは奥さんの死んだ妹じゃないのか。どう考えても姉ちゃんにとり憑いて成仏しそこなった幽霊にしか見えんけどな」

「あれは千沙ではないが、千沙に近しい者だ。おそらくな」

 意味深長にそう言うと、啓介が歩き出した。

「なあ、知ってるんだったら、もったいぶらずに教えてくれよ。いったい何なんだよ」

「そうだよ。ちょっと知ってるからっていい気になってさ。しみったれてるねえ」

 二人が文句をぶつけた時には、四人は夫婦にあてがわれた部屋へと入っていた。酒臭い畳の上に千夏を寝かせると、啓介が話しを始めた。

「あの子は、千夏の妹の千沙の子だ。死んだ千沙が女の子を産んだんだ、と思う」

 一瞬、その場の空気が静止した。啓介は済まなさそうに目線を流した。

「はあ? じいさんボケたのか。死んだ人間がどうやってガキを産むんだよ。アホか」

「そうだよ。しかもねえ、妹さんが死んだのは小さい時だよ。川に落ちたのって、ちっちゃな小学生だったさ」

「俺にも100パーセントの確証はないんだ。ただ、あの女の子には千沙の面影があるし、なんといっても産まれるって言ってたからな」

「誰が、そんなはんかくさいこと言ったのさ」

「千沙が川に落ちて死んで、千夏が呼び出した不浄な霊を追っ払った霊能力者だ。もうだいぶ昔の話だが、あのことは忘れられない」

 苦々しい汁でも沸き上がってきたのか、さも不快そうに息を吐き出した。 

「また脳張力者だかイタコだかが登場かよ。もういいかげん飽きたぜ。あのバカップルでお腹いっぱいだって。イタコで白飯三杯は食えるぞ」

「あんたはうるさいよ、ちょっと黙ってて。なんだってもう、やかましいんだから、もう」

 一二三の声も十分に騒々しかった。啓介は静かになるのを待っていた。

義男は床に腰を下ろして胡坐をかいた。転がっていた飲みかけのカップ焼酎を手にしたが、少し考えてから元の位置に戻した。啓介は数秒ほど千夏を見て、大きく息を吐き出したから話し始めた。

「二十年ほど前だ。千夏がまだ小学生の頃、二つ違いの小学生だった妹の千沙が川に落ちて亡くなったんだ。二人で凍った川で遊んでいた時の事故だ」

「それは夢で見せられたぜ。冷てえ水の中にガキが落ちてたっけ。ひでえこった」

「あたしも見たさ。かわいそうでねえ。でも運命だからさ、仏様が連れて行ったんだよ」

 啓介は少し間をおいた。二人の意見を咀嚼しているのではなく、自分の気持ちを整えるためだ。

「千沙が死んでしまったことに、千夏はものすごく責任を感じてたんだ。よほどショックだったんだろう。ロクに飯もくわなくなって、まったく口を利かなくなってしまった。学校にも行かないし、一日中、加工場の隅の暗がりでじっとしていたよ。完全に心の殻にこもって出てこなくなってしまった。傍から見ているほうがつらいくらいにな」

 啓介はポケットからタバコを取り出した。もっとも安価なそれを一本咥えて火をつけると、両方の鼻の穴から吐き出した。 

「心理療法士のとこにも通わせたし、兄貴夫婦も俺も努力して何か月もかかったが、なんとか心をひらいてきたんだ。これはいい傾向だと思って、気分転換に海岸へ散歩に行ったんだ。砂浜と防波堤の隙間にテトラポットが積んであって、千夏はどういうわけかそこに吸い寄られるように行ってしまった。なんかマズイ気がして、俺もすぐに行ったが遅かった」

「?」という顔で、夫婦が啓介を見ていた。

「千沙の遺体は発見されていなかったんだ。死亡扱いにはなったが行方不明のままでな」

「ひょっとして、テトラに妹の亡骸があったとか」

「まさかあ」

 そんなことはないと一二三が否定する前に、啓介が大きく頷いた。

「その通りだ。もう夏になっていたのに、千沙の亡骸があったよ。波しぶきがかすかにかかるテトラポットの間にいた。あの光景は忘れられない。ひどいありさまだった。可愛かった女の子が、少しばかり肉がついている残骸だけになっていた。ニオイも相当でな、鼻の奥にこびり付いて離れなかった。千夏は瞬間的にわかったみたいだ」

「それは、なんともいたたまれない話だべや」

「偶然なのかねえ。見つけてもらいたくて、お姉ちゃんを呼んだんじゃないの」

 寝かされていた千夏が、もぞもぞと動いている。叔父が彼女の額に手を当てて、そっと撫でていた。

「千夏は落ちてしまった。腐った魂がヘドロのように蓄積した霊魂の肥溜めまで落ちていったんだ。そして不浄の塊のような存在に魅入られてしまった。そいつは千夏が宿してしまった邪気を媒介として、闇の底から這い上がってきた。そして、兄貴夫婦が経営するこの加工場が祟られてしまったんだ」

「それは、どういうこっちゃ」

「奥さんが暗黒面に堕ちたってことだよ。ほら、ベーダーさ、ベーダー」

「コホーコホーって奴か。あいつを見てると、こっちまで息苦しくなるな」

 夫婦のやり取りを聞いて啓介が苦笑する。ウケたことが嬉しくて、義男は得意顔だ。

「それって、おっかしな事故で何人も死んだ時か。ちょうどオレたちが採用された時だな」

「ああ、そうだ。加工場の従業員が立て続けに四人やられた。直接の死因は病死や事故死だったけども、じっさいはそんな生易しいものじゃなかった」

「あたしたちが働き始めた時だよ。警察まで来てさ、びっくりしたさ。人手が足りなくて、最初の仕事が葬式の手伝いだったねえ。あれは忙しかったさ」そのどさくさに紛れて、亭主が泥棒にいそしんでいたことは内緒である。

「そういえば、おまえたちみたいのがいたな。あまり記憶にはないんだが」

「あたしたちは、すぐにやめたから。だってえ、なんだかヘンな噂があったからさあ」

「わかるよ」

 じつは、夫婦は一週間ほどしかいなかった。事務所から金をくすねることができたのですぐにでも退散するつもりだったが、警察官がウロついていたために隠した金を手に入れることができなくて、仕方なく去ったのだった。

「なあ、見ろよ、千夏の顔を。美人さんだろう。千沙もすごく可愛い子でな、自慢の姪っ子たちだったんだ」

 姉妹が元気だったころを思い出して、啓介は優しい目となる。

「あたしの若い時に雰囲気が似てるねえ。もうちょっとスリムだったけどさ」

「オレはふっくらしているのもいいと思うな」

 真顔で黙ってしまった一二三を見て、義男は気まずそうにあっちを向いた。

「千沙の遺体を見つけたあと、千夏は人相が変わっちまってな。可愛い小学生の顔じゃなくなっちまった。三途の川で物乞いしている老婆みたいに老け込んで、醜くなってしまったよ。兄貴は魂が爛れてしまったと嘆いていた。まあ、さもありなんといった感じだった。様子を見に来た女教師が近づこうとしなかったからな。よほどだ」

「親父が娘を爛れたって言うのはひでえなあ」

「あんた、そこじゃないよ。奥さんがなにを引っぱってきたのかが大事じゃないの」

 建物全体が揺れているような感覚があった。おしゃべりをしていた夫婦が黙り、啓介は細めた目で天井を見渡す。タバコは三本目になっていた。

「またおっかしなのがきたのかよ」

「違うんじゃないの。大嵐になっているから、風で揺れてんでしょ」

 強風が空気を引き裂く音が壁を通して聞こえてきた。廊下の照明ほどではないが、室内灯も憂いを煽るほどにか細かった。

「停電したらら、イヤだねえ」

 一二三がそういった途端、蛍光管が沈黙し真っ暗となった。どこまでも落ちていきそうな闇の中で身動きできないでいると、啓介がライターの火をつけた。小さな灯だが、とても眩しく見えた。

「こういうの、おっかない映画でよくある鉄板シーンだな。ぜったいなんか出るぞ」

「あんた、よけいなこと言わなくていいからね。叩くよ」

 暗黒を嫌った一二三がケイタイを取り出すが、壊れていて作動しなかった。義男と啓介のも同様だった。サイキックに当てられて、電子部品がショートしたようである。義男が懐中電灯を探していると、蛍光管が生き返った。ただし息づかいは弱々しかった。

「とにかく奇妙なことが続いたな。野犬やネズミの群れが侵入きたり、俺もだったけど、おかしな幻覚を見る者が続出したり、機械が壊れたりな。凶事の予感みたいのがあったよ」

 二十年近く前、菅原水産の経営者である菅原晃の娘が死んだ。結氷した川の上で姉と遊んでいたのだが、薄氷部分が砕けて落ちてしまい、そのまま流されて水死したのだった。まだ小学生の低学年であった。その場にいた姉の千夏は精神に甚大な傷を負ってしまった。その頃から不可思議な現象が起こるようになった。

「そうこうしているうちに最初の死人が出た。フォークリフトから鋼鉄の水槽が落ちて、たまたま通りかかった若い従業員が死んでしまった。顔を派手に潰されて酷かったよ」

 最初の死者が出てから一週間のうちに合わせて四人が死んだ。鋼鉄で顔を潰された二十歳の女性、漏電個所に触れて心臓が破裂して焼け爛れた二児の母、鮭の腹をかっ捌く包丁で自らの腹部を十文字に切り裂いた男、救急車が到着するまで激烈なる痙攣を続けた挙句、背骨が折れた運転手。凄惨でおぞましい死亡が続いたと啓介は説明した。

「警察に話しても事故や病死だから事件ではないし、犬やネズミのことは保健所に行けと言われたよ。商売にかかわるから、おおやけにもできなくてな。従業員は怖がるし、どうしたもんだと困っていたら、自分は霊能力者だという女が現れたんだ。太っていて、すっぱいニオイのする汗臭い中年の女だったな」

 突然やってきた女は葛木と名乗り、自分には霊視や除霊の能力があるといった。そして、頼みもしないのに菅原家の霊視を始めた。啓介は訝しく思って追い払おうとしたが、兄夫婦は許可を与えた。なんらかの解釈を欲していたのだ。

「兄貴たちは新興宗教にすがるみたいだった。だが、それが正解でもあったよ。意外なことにな」

 数時間にわたる、いわゆる霊視の結果、霊能力者は続発する災厄についての結論を得た。彼女の見立てでは、この世ではないひどく穢れた領域から、非常に邪なエネルギーが導かれているとのことだった。

「穢れた領域、ってどこなんだよ。ボットン便所の中か」

「それはあんた、あの世の、もうちょっと先さ。お岩とか貞子とかがいる所だよ」

「人が死んだ後のことを話す。まあ、幽霊や魂のことになるかな。言っとくが、あの霊能力者の受け売りだからな。奇妙なことを言うが、俺の考えじゃない。宗教というより、科学者みたいなことを言ってたな」

 二十年近く前に、霊能力者の葛木が説明した通りのことを啓介が語り始める。

「人が死んでも、生きていたときの情報は消えることはない。肉体がなくなっても、生きて存在していた時に蓄積した情報は残る。ただし身体が死んでしまうから、それらは俺たちのいる世界にはいられない。それぞれの属性に合った次元へと収まるんだ。あちらの世界というわけだ。それらの次元と俺たちは繋がれない。別な存在になると壁を越えられないんだ」

 啓介は、いったん話を切った。夫婦は黙って聴いている。一拍おいてから続きを話す。

「情報には、まあ魂といってもいいのかもしれないが、たまに損傷しているものがある。事故や事件で不慮の死となったり、自殺した者は、混乱したり錯綜した情報となって通常の魂ではない波長を出して、それに見合った次元へ収まることになるんだ」

「波長ってなんだよ。怪電波のことか、怪電波。電波野郎だ」

「それは、あんたでしょ」

「俺も詳しくはわからないが、魂というか、情報には体や重さといった実体はないが、個々に特有の波長があるんだそうだ。次元は無数にあって、自らと波長の合う場所に導かれ、そこで格納というかなんというか、収まるんだそうだ」 

 遠い記憶を手繰り寄せながら、それでも躓かずに説明している。啓介自身、よくここまで憶えていると感心していた。

「幽霊が電波出してんだったら、それこそ心霊番組だべや」

「電波みたいなこといってんじゃないよ」

 強風でなにかが飛ばされて、壁に激突して大きな音がした。しばしの沈黙の後、啓介が話を続ける。

「厄介なのは、ひどく凶悪だったり怨念の塊みたいな魂だ。そういうのは強い波長をもっていて、力というかエネルギーが暴走しがちになる。だから、それに見合った特殊な次元へと落ちてしまうんだ」

「地獄みたいなところだね」

 感のよい一二三の言葉に、啓介の目がかすかに頷く。

「そう、そこは負の情報の溶鉱炉みたいな場所なんだそうだ。邪悪を凝縮させたエネルギーが渦を巻いていて、尽きぬ時を費やして、あらゆる悪を熟成させているらしい」

「そりゃあ、地獄だなあ」

 ぶっきらぼうに呟く義男の膝を、一二三がピシャリと叩いた。

「でもさ、なんだかややこしい話だよ。ふつうに幽霊とかバケモノとかでいいっしょや」

「ふだんは怨霊とか邪霊とか除霊とか、霊能力者らしい言葉を使うらしい。兄貴も俺も、そうしてもらったし、ここからはそう言うよ。死んだ後の情報とか、意味不明だからな」 

 蛍光管が瞬き始めた。両端が黒ずんで、放射する光量が極端に少なくなっている。もうすぐ寿命が尽きるだろう。暗闇が始まる前には話し終えたいと、啓介は思う。 

「妹の腐りきってしまった遺体を目の当たりにしてから、千夏は壊れてしまった。心全体が負のエネルギーに満たされて、無意識のうちに繋がってはいけない世界と同調してしまい、異様なものを引き入れてしまったらしい。千夏という生きた情報が、地獄のような場所からの通路になってしまったんだ」

「ショックだったにしてもさ、ふつうの人はそんなことにならないさ。奥さんも超能力だか霊能力があるんじゃないの」

「千夏はもともと霊感が強いというか、あの世の波長を拾いやすい体質だったんだ。そういう人間はたまにいるんだが、繋がる場所が悪すぎた」

 一般的な人間が大きな心的ダメージを負っても、異界の存在に触れてしまうことはない。違う次元の世界とは隔絶されていて、通常のエネルギーであればけして越えられない壁が存在している。

 だが、ごくまれに非常に強い能力を発揮する者がいて、その果てしのないほど分厚い壁を突破してしまい、本来は出会うことも知ることもない存在と繋がってしまうことがある。

 意識を戻しかけていた千夏が、また静かになった。かすかな吐息をたてている。眠ってしまったようだ。

「あのままではもっと死人が出て、最後には千夏も死んでしまうと霊能力者の女が言ったんだ。それで自分が除霊するから金を払えと要求してきた。家が買えるほどの大金だったよ。いくらなんでも弱みに付け込みすぎだろう。俺は兄貴夫婦と散々ケンカしたよ」 

 弟の反対意見に耳をかさず、菅原夫妻は葛木と契約を交わした。霊能力者は、魂のヘドロ溜まりから導かれた邪な存在を封じ込める作業を開始した。それは成功し、災いの類は起こらなくなった。別人のようになっていた千夏も、徐々に元の状態に戻っていった。

「昔のことは、まあ、なんとかわかったけどよう、なして、いまなんだって話だ。だってよう、除霊して悪霊退散したわけだろう、そのクズなんとかって女が」

「千夏が呼び込んだ悪霊は、とてつもなく強力で、とんでもなくしぶといんだそうだ」

 兄貴夫婦と気まずくなってしまったので、除霊作業全般に啓介は立ち会わなかったが、途中に何度か顔を出していた。

「除霊は一時的なものだったんだ。しばらくは抑えておくことはできるが、いつかは出てくるだろう。その時はより強力な災厄になって手に負えなくなるってな」

「最悪になるって、中途半端な脳張力者だなあ。一回でキメちまえよって」

「高いお金とったのに、おっかしいっしょや。詐欺じゃないの。金返せってさ」

 金のことに関して、一二三の意見は厳しい。

「それが復活した時、好んで千夏に絡みつくだろう。タチの悪い腫瘍のように内部を侵食し、身も心も腐りながら死んでゆく。まわりの人間もおぞましい不慮の死を遂げる。あの女はひどくいかめしい顔で、そんなことを言っていたよ」

 そう言う啓介の表情も厳めしかった。

「ここ何年かは、ときどき気持ちがおかしくなる時があるって言ってたから心配していたんだ。安定剤を飲んでるしな」

「たしかに、ガキんちょが奥さんに絡みつてるからな。調子も悪くなるぜ」

「でもさ、そんなに悪い感じにはみえないんだよね、あの女の子。やんちゃすぎるけどさ、どことなく無邪気っていうか。ひどいことはしないんじゃないかねえ」

「オレは蹴られたりして、けっこう痛かったなあ。ちょっとシッコ臭いし」

 蹴られた部位を照らしていた義男は、ハッとして気づいた。

「そういえばじいさん、さっきヘンなこと言ってたな。あのガキんちょは、死んだ妹の子共だって。イタコの女が言ってたって」

「そうだよ。あたしら、その話をしてたんだよ」

 ようやく本題に入ったところで、啓介は五本目のタバコに火をつけた。口の中がヤニで粘りつき唾を吐き出そうか迷ったが、結局飲み込んだ。

「あの霊能力者は、将来の災いから千夏を救うために強力な仕掛けをしておくと言った。何年後、何十年後になるかわからないが、その時のために備えておくってな」

「仕掛け?」

「何十年後って、なんかさ、すごい話になってきたねえ」

 非常に重要なことになるので、菅原夫妻だけではなく啓介も同席することになった。霊能力者は、覚悟をもって聞くようにと命じた。

「千沙に子供を産ませて、その子に千夏を護らせると言った。死んだ小学生に子供産ませるとか、この女は頭がおかしいか、兄夫婦から金を毟りとるためのウソかと思った。だから詳しい話を聞かないで、俺は出てしまったんだ」

 ばかばかしいことだと一蹴し、啓介は席を立ってしまった。とにかく霊能力者の話を最後まで聴こうという兄と激しい口論になり、仲違いをしたあげくに加工場まで辞めてしまったのだった。

「なんか、頭の中がこんがらがってきたぞ」

「あんたは頭が悪いんだから、紙に書きなよ」

 その気になった義男が紙とペンを探すが、女房に尻を叩かれて照れ笑いをする。

「それから間もなくして兄貴が死んだんだ。せっかく千夏も元通りになって、加工場も落ち着いてきたのに、突然だった」

「すぐに死んだのか。なんかあるな」

「いい人だったけどねえ。まさか呪い殺されたのかい」

「自殺だったよ。信じられなかった。なにがどうなっているのか知りたくて姉さんに訊いたんだけども、夫はやるべきことをしたのだとしかいわなかった。やるべきことの内容は教えてくれなかったよ。俺は嫌われていたからな。ほんと、嫌われてしまったよ」

 千夏の父親である菅原晃は死んだ。従業員に慕われる人格者だったが、自殺という結末を選んでしまった。

「ただ姉さんが死ぬ間際に、千沙の子供が千夏を救うから安心して死ねると、周囲に言っていたらしいんだ。もちろん、聞かされた者はなんのことかわからなかったけどな」

 菅原夫人は、千夏が高校を卒業してからすぐにガンで亡くなってしまった。

「ずっと半信半疑だったが、あのりん子とかいう女の子を見て、俺は千沙の子供だと思うんだ。確信までは至らないが、きっとそうだと思う」

「ほへ~。とするとだな、社長が自殺する前に、イタコと一緒にだな、死んだ娘にあのガキんちょを仕込んだ、ってことか」

「あんた、言っていることがわけわからんさ」

「だからあ、脳張力者が藁人形か泥人形を作ってだなあ、それにりん子って書いて、千沙って子が産んだことにしたんだろうよ。そういう昔話があったろう、なかったか」

「泥人形が動き回って、あんたに蹴りを入れるかいな。バカじゃないの」

 反論できずに義男は閉口する。まだ話の途中だった啓介が口を開こうとした時だった。

 突然、ドアが蹴破られて、甲高い金切り声をあげながら人が入ってきた。

「あきゃあ、バケモンー」

 それを見た一二三の悲鳴は、絶叫の域に達していた。

「お、おい、おまえは脳張力者の姉ちゃんか。どうしちまったんだ、その顔、つか体」

 有紀であった。ただしその有り様は見るからに血生臭く、ありていに言って残虐だった。

 彼女の顔面に巻き付いているのは有刺鉄線である。ヒグマの体内から吐き出されたのと同じく錆びついて、いかにも不潔そうだった。皮膚から血がにじみ出ていた。

「キイイイイイイ」

 有紀の叫びが部屋の空虚を鋭く切り裂いた。うれしくて興奮しているのか、憤怒を爆発させているのか、顔がひどい状態なので表情では判断できない。

「うぎゃあ、おなかが痛い」

「オエー。やめろ、ブス、バケモノ。やめろって」

 鋭利な金属に緊縛されているサイキックが、ぎゅっと手を握っていた。一二三は下腹を押さえてもだえ苦しみ、義男は罵倒しながら胃液を吐き出した。

 超常的な能力の発揮であると気づいた啓介が掴みかかろうとした。しかし、有紀が左手をサッと振ると後ろにふっ飛んでしまう。壁に背中をしたたか打ってしまい、数秒間呼吸ができなかった。

「クソどもー、バカにしやがってー、わたしのなにを知ってるー、なにを知ったー」

 有紀の握力が強くなる。唐突に照明が強くなり、部屋の中が不自然なほど明るくなった。おどろおどろしい顔に、たくさんのシワを寄せていた。  

「はあーっ、きえええええ」

 猿ぐつわをされているように、有刺鉄線が口の中央を真横に巻きついていた。有紀が血混じりの唾を飛ばしながら気合を入れる。その地獄じみた形相に一二三が恐れおののき、湿った放屁をしながら逃げようとするが、腰が抜けてしまい数歩も進めない。

「おま、なんだってオレたちを目の敵にするんだ。ぐえっ」

「わたしを見るな。もう二度と見れないようにしてやる」

 夫婦は動けない。義男は抗おうとするが、倍の力でねじ伏せられてしまう。 

「その女はとり憑かれたんだ。気をつけろ」啓介が叫ぶ。

「なに、どうしたの」 

 辺りの騒々しさで千夏が目覚めた。すぐに起き上がり、床に這いつくばっている夫婦を見て驚き、そしてパッと見ただけでそれがどういう状態なのか理解できない女を凝視する。

 蛍光灯が消えそうになったり、はち切れるばかりに強く光ったりを繰り返していた。拷問の極北を体現している有紀は、その明暗の下でサイキックの能力を発揮していた。

「ダメーっ」千夏が叫んで跳びかかった。

 危険な金属だらけの相手だが千夏はかまわずにしがみ付き、少しでも気勢を削ごうとしていた。

 次の瞬間、大きな物体が衝突し、有刺鉄線だらけの女が宙を飛んだ。夫婦の上を三メートルほど架空して壁にぶち当たった有紀は、仰臥したまま呻いている。

「りんちゃん」

 りん子の登場である。ただし、徒歩でやってきたのではない。乗り物に跨っていた。

「りんちゃん、危ないから降りなさい。ほんとに危ないんだから」

 少女が跨っているのは、またしてもヒグマであった。加工場で潰されたのよりも小さく細身で、まだ若い個体と思われる。有刺鉄線がヒグマの口の中にガッチリと食い込んでいて、それをりん子が引いて、器用に野獣を操縦していた。

 操縦者は楽しそうにキャッキャと笑うが、ヒグマは不機嫌そうに、その毛むくじゃらの体躯を上下左右に揺らしていた。部屋の中が、むせかえるほどの獣臭だらけとなる。

 少女の手綱さばきはなかなか堂に入ったものだったが、いかんせん、彼女の股下にいるのは常軌を逸した魔獣である。なぜなら、口や肛門から有刺鉄線を吐き出していたからだ。野生動物という自然の摂理を逸脱して、未知の次元に突入していた。比較的広めの部屋を、ジャリジャリと不吉な金属音を響かせながら、とにかく突進して壁に激突していた。

 魔獣がどんな体勢でも、小さなカウガールならぬベアガールは振り落とされることなく、背筋をピンと伸ばした模範的な姿勢で踏ん張り続けている。ただ、めいっ子が危なっかしいことをしているのを見ている千夏は気が気ではない。

「だめ、りんちゃん。もういいいい加減にしないさい。おばさん、怒るよ」

 突進するヒグマの前で大の字になった。りん子が棘だらけの手綱を力いっぱい引くと、魔獣は急ブレーキをかけて、さっと半回転して部屋を出て行った。

「待ちなさい」千夏が追いかける。

「ばかっ。千夏、行くな」

 姪っ子を追いかけて、啓介も部屋を出た。暴れ回るヒグマに接触しないよう隅で縮こまっていた夫婦が恐る恐る立ち上がり、壁の下で泡を吹いている有紀に近づいた。

「姉ちゃん、大丈夫か。つか、脳張力はやめろよな。つぎやったら、ぶっ殺すからな」

 念のため、義男は懐中電灯を振り上げた。有紀がサイキックを使いそうになったら、頭頂部を力の限りぶん殴ってやろうと心に決めていた。

「なんだって、顔にこんなもの巻いてるんだい。ひっどいねえ。夢に出ててきそうだよ」

「腕にも巻きついてるぜ。しっかし、気持ち悪くて鳥肌立ってきたなあ」

「自傷行為だねえ。死にたくなるようなことがあったんじゃないのかい」

「何回死にたくなったら気が済むんだよ、このバカ女」

「有紀、有紀」

 夫婦の後ろに智也が立っていた。走ってきたのか肩で息をしている。

「おめえは尻からバラ線とか出すんじゃねえぞ」

「こっちのはまともだよ。顔もきれいだし」

 有紀と違い、智也に有刺鉄線が絡みついていることはなかった。

「有紀がいきなりおかしくなったんだ。有刺鉄線を吐いて暴れ出した」

 言葉にはしなかったが、助けを求めているようだ。表情が困惑しきっている。

「悪霊に体も心も乗っ取られたのさ。さっきのクマさんやワンコと同じっしょ。悪さばっかりしてたらそうなるよ。ばあちゃんが言ってた」

「おまえらなあ、ロクなことしてこなかったから祟られたりするんだ、バカタレどもめ」

 智也には返す言葉がなかった。両親に叱られて子供が黙ってしまうように、一二三と義男の前で静かなままである。

「おわああ」

 カッと目を見開いた有紀が、突如として大声を出した。いきなりだったので、夫婦は腰を抜かしてしまい、おもわず尻もちをついた。

「言うな、それ以上言うな」

 勢いよく立ち上がった有紀は激昂していた。喚きながら、有刺鉄線が巻きついた腕を振り回した。心配していた智也が触ろうとするが、危なくて近づけない。

 夫婦は距離をとった。一分ほど一人暴れした後、「あーっ」と絶望したような声を洩らし静かになった。すると全身の皮膚にめり込んでいた棘の鉄線が、するするとほどけた。


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