第15話

 ほとんどすべての体力を使い果たし、鼻が痛々しく腫れあがって有紀は、脱糞して汚れてしまった下着とズボンを履き替えて横になっていた。ただし眼光だけは衰えず、真っ直ぐ天井を見つめている。

「あのバケモノ、わたしたちの過去をほじくっていた。頭の中を覗いて、わたしたちが思い出したくないことを好き勝手に見せてくる。こんなの初めてだ。どんな地獄から這い出してきたんだろう」

 静まった空間に押し殺したような声が響く。

「あれは僕たちの手に負えないし、きっと係わってはダメなんだよ。そういう存在なんだ。ここを出よう。来たのは失敗だった」

 智也は連れ合いにというより、自分に言い聞かせるようであった。

「あの人のことはどうすんの。さっきまでは助けたいって、バカみたいに言ってたじゃん」

「もういいよ。千夏さんは手遅れだ。すっかりと、とり憑かれてしまった」

「ふん」

 せせら笑うことはしなかったが、智也の弱気と怯懦を指先で弾くような態度だった。

「わたしはやめないよ。あのガキを始末して、この家の有り金を頂く。邪魔するやつがいたら痛めつけてやる。いまのわたしにはそれができる。できるんだよ、智也」

 有紀はサイキックの隆盛を感じている。除霊だけではなく、ここではなぜか物理的な超常能力まで発揮できる。いままで体感したことのない感覚に、手応えと自信を得ていた。

「有紀、千夏さんからはお金を取らないって約束したじゃないか」

「気が変わったわ。バケモノを消したら、あの女を脅して払わせる。いままでと同じよ」

 智也の眼前に有紀の顔があった。数センチしか離れていない。乾いた息を呑み込む男とは裏腹に、女は熱くて生臭い息を吐き出した。

「ここには、そんなにないと思う」

「バケモノが戻ってくるって脅かせば少しは出すでしょう。それに、もう智也の全てが知られているんじゃいの。ラブホテルであったこととかね」

「それはないはずだ。おじさんたちは、なにも言ってなかった」

 彼の夢を見ていれば、おしゃべりで詮索好きな夫婦が黙ってはいないだろう。智也は知られていないと思っているし、そうであることを強く望んでいた。

「あの女は知っていたでしょう。たぶん、全部知ったんじゃないの。あの後に智也がしたことも知ってるでしょう。当然知ってるわ。どうせ責められるんだったら、現金をすべて奪って、二度とここには近づかない。なんでもやるのよ」

 智也は言い返さなかった。しばし無言となり、小さく頷いた。

「わかった。有紀にまかせるよ」

 少しばかり湿った声を受けて、有紀の眼が笑みを浮かべる。

「それで、どうやるんだ。あの子には有紀のサイキックが通用しないし、それに体力も残ってないだろう」

「そう、わたしに体力はないよ。でも薬はまだまだある」

 有紀がリュックサックの中に手を突っ込んで、ゴソゴソとやり始めた。智也が止めに入るが、その手は振り払われた。

「さっき打ったばかりなんだぞ。続けざまにやったら廃人になってしまうよ」

「これは智也が知らないルートから仕入れた極上もの。まぜ物が入ってないやつだから、さっきとはぶっ飛びかたが違うんだ。いまのわたしの能力を最大まで引き出せるはず」

 幽霊みたいな顔に期待が満ちていた。

「やったことあるのか」

「ないよ。すごく高いんだ、これ。ここぞという時のためにとっておいたんだ」

 スプーンに粉をのせてペットボトルの水滴をたらす。ライターで底を炙る作法は同じだ。さっき使用した注射器に吸い込んで、シリンダーを中指で軽く弾いた。自分で腕を縛り、静脈を太くして薬液を注入した。

「ふう、ああ、ふう」

 柳の下の幽霊が生き返った。体の隅々まで薬効が浸透し、水気を得たワカメみたいに色艶が良くなる。瑞々しい女に戻った。

「ああ、ふう。なんなの、これ、すごくいい。こんなのいままで経験したことがない。力を感じる。負ける気がしない」

 ぶっ飛ばしてやると言って、有紀は意気揚々と部屋を出て行った。智也も後を追う。


「おい、どうなってんだ、これ」

「ありゃあ、ありゃあ、ひどいねえ。動物園かい」

 義男と一二三が加工場に行くと、見慣れた野生動物たちがいた。キタキツネやエゾタヌキ、エゾシカ、野良猫野良犬にプラスして白鳥やタンチョウまでいる。ただし、野生動物の楽園という光景ではなかった。

「動物園じゃなくて、屠殺場みたいだべや。いったいなにしたんだ」

 野生動物たちの大半が動いていない。死んでいるものが多く、生きていても虫の息や半死半生な状態だった。壁や床、加工機械に毛や血がこびり付いている。自ら体当たりしたか、誰かに叩きつけられたかのようだ。

「これはヤバいねえ。あんた、早く金とってズラかろうよ」

「あのガキんちょがやったのか。自分で動物を呼んでおいて滅茶苦茶なやっちゃな」

 口から血を流して横たわっている雌鹿をイヤそうに見ていた義男は、人の気配に気づいて、ふと真上を見た。すると、天井の鉄骨梁にしがみ付いている千夏を発見した。

「奥さ~ん、そんな高いとこで何してんだー」

「りんちゃんがね、ここに連れてきてくれたの。だって、下は動物さんだらけだから」

「そんなとこにいたら、落ちてしまうっしょや。早く降りておいで」高いところが苦手な一二三が心配していた。

「降りられませ~ん」

 千夏がしがみ付いている梁は、天井の中央部分に位置していた。壁際ならばまだしも、足場となるものがまったくない。降ろすにしても高い脚立か梯子がないと無理である。

「奥さん、動くなよ。いま降ろしてやるから」

 義男が梯子を探してシャッターに近づいた。高波を受けたように金属の板が波打ち、隙間からヒューヒューと湿った風が吹き込んでいる。

「外は大嵐かよ。さっきまではおさまっていたのに、いつの間に荒れだしたんだ」

「あんた、そこはいいから奥さんを助けてあげなよ。落ちたらケガじゃすまないよ」

「わかってるって。だけど、これを閉めねえと雨風が入ってくるし、ああ、わかったぞ。ここからキツネや鹿が入り込んだんだな」

 シャッターが両側のガイドレールから外れてしまい、風に押されるままヘラヘラと舞っていた。義男の手が掴まえて、元の場所に戻そうとした時だった。

「おわああ、な、なんだ、クマか」

 右側からなにかが押し入ってきた。ヒグマだと思った義男は、慌てて後退りして尻もちをつき、その様子を見た一二三が慌てて後退りをして尻もちをついた。わあわあと叫んでいる夫婦の前に、びしょ濡れの人間が立っていた。

「ったく、なんていう嵐なんだ。異常気象にもほどがあるぞ」

 その人物は、ぐっしょりと濡れた野球の帽子を頭からとって絞った。

「おまえら誰だ。近所の人か。千夏はどこにいる」

 その男は義男よりも少し年上な感じだった。筋肉質な体格の持ち主で、太い腕をガッチリと組んで、夫婦にただならぬ眼光を突き刺していた。

「お、おまえこそなんだ。強盗か。ここには犬猫の死骸しかねえぞ」

「あんた、きっとあの子の親玉だよ。あの世の底からやってきたんだ。地獄の鬼だよ」

「くそう、ラスボスがジジイの鬼か。これでも喰らえ」

 勇気というよりはヤケクソであったが、義男の闘争心がわずかに火を噴いた。近くに斃れていたキツネやタヌキをつかんで立ち上がり、目の前にいる男めがけて投げつけた。

「あっ、なにしやがるんだ、つうか、どうしてこんなに死骸だらけなんだ。いい加減にしろ。このヤロウ、ぶっ殺すぞ。」

 男が凄むと、義男はタヌキを置いて後方にさがる。

「おじさん、おじさん、ここよ」

 上から女性の声が落ちてきた。侵入者が反射的に見上げる。目を細めて驚きの表情だ。

「千夏、千夏か。おまえ、そんな上でなにやってんだ。危ないぞ、早く降りてこい」

「だから、りんちゃんがここまで上げたから、りんちゃんを呼んでくれなきゃムリよ」

「りんちゃんって、誰だ。なんだ、犬か」

「めいっ子よ。千沙の・・・」

 下と上では会話がしづらいのか、千夏が言い淀んでいる。

「おい、ジジイな鬼。ここであったら百年目の浮気ぐらい多めに見てチョ。オラ、ワクワクしてきてナチョスを食う。成敗するから覚悟しやがれ」

「あんた、ギッタンギタンにやっちゃいな」

 義男が啖呵を切り一二三が騒いでいる。男はバカを見つめる目で夫婦を眺めていた。

「おまえらがなに言ってるのかわからんけど、俺は千夏の叔父だ」上を指さして言った。

「そうそう、啓介おじさんよ。お父さんの弟」遠慮がちな声が上から落ちてきた。

 侵入してきた男は、千夏の叔父の菅原啓介である。

「どうにも胸騒ぎがしてな、いてもたってもいられなくなった。奇跡的に飛行機が飛んだんだが」強風でこの街の空港に着陸できず、隣の市へ着陸しまったとのことだった。

「帯広空港でレンタカーを借りたよ。やっとここまで来たけど、とにかく、ひどい天気だ。方々で停電しているからな」

 壊れたシャッターの下側が相変わらずヘラヘラと舞っている。義男が駆け寄って、キツネや犬の死骸を積んで抑えとした。それでも足りず、鹿を引っぱってきて重石とした。

「おじさ~ん。電話してくれたらよかったのに~」

「ケイタイに何度もかけたけど通じなかったぞ。ヤバいことになってるんじゃないかと思ったが、やっぱりだ。もしや、あれが来たんじゃないかと思ってな」

 上にいる千夏を地上に戻すために、啓介は梯子がないかと周囲を見回した。そこへ、義男が加工場の隅に置かれていた伸縮式の梯子を見つけて持ってきた。得意そうな顔して伸ばそうとするが、やり方がわからなくてまごついていた。

「ちょっと貸せ」啓介が梯子を強引に奪い取ると、ヒモを引いて伸ばした

「ああいうふうにやるんだよ。あんたは、なんにも知らないんだから」

「うるせえ。やろうと思ったら、このじいさんにとられたんだ」

 伸ばした梯子の先端が、千夏がしがみ付いている梁に掛かった。

「ほら千夏、降りてこい。ゆっくりだぞ」

 不器用なつま先が、梯子の踏み板をまさぐる様子が危なっかしかった。下で押さえている三人は気を揉みながら見上げている。彼らは集中していたので、急速に背後から接近しているものに気づかなかった。

「あぎゃっ」

 一二三の背中に第一撃があってのけ反り、その上を向いた顔へ間髪入れずに足の裏が乗った。それはリスのように階段を駆け上がると、あっという間に千夏のもとへ来た。

「りんちゃん」

 りん子であった。

「あれは、なんだ。誰だ」りん子を見て、啓介は驚いていた。

「じいさん、聞いて驚けションベンもらせ。あの子はなあ、あの世の底から這い出してきたバケモノなんだ」

 りん子は、千夏の足首を片手でつかんで天井に立った。場所が屋根の裏側なので、千夏は必然的に逆さにぶら下がった格好となる。髪の毛が垂れ下がり、両手はバンザイ状態だ。

「あの子、天井に逆さで立ってるさ。重力とか気にしなくていいのかい」

「んなことより、奥さん大丈夫かよ。ガキんちょが手を放して落ちたら死ぬぞ」

 りん子は、足裏に強力な磁石を仕込んだかのように逆さになって天井を歩いていた。梁に当たりそうになると持っている手を入れ替えて 千夏がぶつからないように気をつかっていた。もの凄い握力と腕力であるが、力んでいる様子はこれっぽっちもなかった。

「まさか、子供か。本当に子供なのか。信じられん。あの霊能力者が言ったことは本当だったのか。いや、こんなことが起こるなんてあり得んだろう。なんだ、くそう」誰に向かって言うでもなく、啓介は一人で呟いていた。

「あの子、天井歩いてなにやってんのさ」

「知るか。とにかく奥さんを助けねえと」

 立て掛けられた梯子を持ち上げて、義男が千夏を追いかけた。ただでさえ重い伸縮式の梯子である。それをいっぱいまで伸ばした状態なのでバランスがとりにくい。あっちにフラフラ、こっちにフラフラと頼りなかった。

「奥さん、梯子をつかめ。ほら、ほら」

 逆さ吊り状態の千夏は、それをつかむことができない。りん子が動き回るので不安定な姿勢の体が振られるし、そもそも義男自体がふらついているので、両者のランデブーが非常に難しい状態だった。

「おい、じいさん。あんたも手伝えよ。あんたの姪が大変なことになってんだぞ」

「いや、あの子供は千夏に危害は加えないはずだ。と思う」

「はあ? 思うってなんだよ。手が滑っただけで落っこちて、首の骨が折れてしまうぞ」

 りん子が千夏にしていることは、子供の遊戯というには危険すぎた。一歩間違えば命にかかわり、取り返しのつかない事態となってしまう。

「千夏、その子は妹の子か。千沙の娘なのか」

 叔父の問いかけに、逆さになってしまっている千夏は手をバタバタとさせながら、なんとか口を開いた。

「りんちゃんは~、千沙の娘~よ。私の~、めいっ子、めいっ子」

 返答を受け取った啓介が、義男から梯子を奪い取った。

「あ、なにするんだよ、じいさん。手伝うんだったら、オレが片方を持っているから」

 年配者の力づくにより、義男はあえなく排除されてしまった。豪の者が支える梯子は真っ直ぐに立ち、しっかりとした足場となった。

「千夏、降りてこい。その子供を連れて降りてこい。よく見せてくれ」

 千夏はりん子の保護者ではなく、保護および拘束されている状態だ。梯子を降りてくる決定を下せるのは、小さな力持ちなのだ。

「りんちゃ~ん。ねえねえ、下に~、いこうか」

 逆さになった千夏が、なんとか首を起こして語りかけた。だが、りん子の表情は固かった。見下ろす上目遣いの目線が、少女とは思えぬほどキツイものだった。

「りんちゃ~ん。お願いだから降ろして~。頭に血がのぼって、くるしいの~」

 千夏の状況は危険であると同時に、その体勢の継続は生理的に良くない。りん子は逆さの体を手繰り寄せるようにして持ち上げると、天井の鉄梁に千夏を置いた。

「おいおいおいおい、なんだなんだ」

「ちょっと、ちょっとう、なんなのさ」義男と一二三が騒ぎ始めた。

 加工場内に散らばっていた動物たちの死骸が蠢き始めたのだ。

 口から血を流したキツネやタヌキが、全身をワナワナ震えさせながら立ちあがろうとしている。死んでいるか、あるいは瀕死の状態なのに、体の内部から馬力のあるなにかが突き上げているようだった。シャッターを押さえる土嚢の役割をしていた鹿までもが、四肢を震わせながら立ち上がった。

 斃れていた種々雑多な野良動物たちが活動を始める。身体に相当なダメージを受けていたので素早くは動けないが、実際の脅威となるには十分であった。

「う、くっそ、こいつら」

 梯子を立てている啓介の足首にまとわりついているのは、柴犬のような野良犬とタヌキだ。野良犬は両前足が折れてハの字に開いていて、タヌキは首の骨が折れて頭部がおかしな角度に曲がっていた。二匹とも死んでいるはずだが、牙は健在であった。

「いてっ、このヤロウ。噛みつきやがった」

 たまらず梯子を倒すと、近くにあった錆びたバールでぶん殴った。野良犬の頭蓋が凹み、タヌキの脇腹にクギ抜き部分が突き刺さった。

「ちくしょう、あの時と同じじゃないか。また始まったのか」

 野良犬とタヌキはなかなか斃れなかった。鋼鉄の重い棒で頭部や全身の骨を叩き折られているのに、めげずに噛み続けていた。

 一二三はネズミにたかられ、義男はくちばしが根元から折れたタンチョウに突かれていた。半分死んでいる状態なので攻撃に勢いがなく、人間たちに目立った被害はなかった。

「おい、ここからいったん出るぞ。ゾンビ動物がたかってきて、どうにもなんねえ」

「あたしはネズミが嫌いなんだよ。尻尾がミミズみたいで、きしょいっしょや。ああ、やだやだ」

 タンチョウやネコやキツネを蹴飛ばしながら、義男は口うるさい女房の腕をつかんで引き寄せた。加工場から出て寮へと向かおうとする。義男がドアノブに手をかけて引くと、意外なほどに軽かった。内側から逆の力が働いたからだ。

「やってやるー、あのバケモノを地獄の底に叩き落してやるー」

 夫婦に向かって元気いっぱいに叫んだのは有紀であった。  

「オーラオラオラオラ」

 ドスの効いた声がオラついていて、若い女性とは思えぬ胆力があった。その気迫に押されるまま、夫婦はドタバタと後退りしてしまう。

「はあーーーっ」

 即座に気合が充填された。血走った眼から、血液が吹き出しそうな勢いである。再度の薬物注射により能力が喚起され、怪しいものは手あたり次第に攻撃する気だ。

「止めろ止めろ」と喚いて夫婦が這いつくばった。

 さっそく近づいてきたネコが押しつぶされる。口と肛門から金属の破片がとび出ていた。

「あんた、ニャンコが潰れたよ。また、トゲトゲのハリガネが出てるさ」

「さっきのヒグマと同じか。こいつら、なして体の中にバラ線があるんだよ」

 有紀は調子づいていた。高純度のドラッグが未曽有の活力を与えていた。力を小手調べするように、ネズミやイタチなどの小動物を次々と破壊していた。

「おい、なんだこの女は。どっからきた」

 啓介と有紀は初見だ。いきなり現れて摩訶不思議な力で動物を潰しまくる女を、目を丸くして見ていた。

「じいさん、その姉ちゃんにあんまし近づくな。ゲボ吐くぞ」

「なんのことだ、おえっ」と言って、啓介がさっそく嘔吐し始めた。

「ああ、言わんこっちゃない、って、おげえ」

 周りにいる者の巻き添えなど関係ないとばかりに、強烈なるサイキックが発動されていた。逃げようとしていた夫婦どころか、後ろについていた智也もゲエゲエと吐き出した。

 調子にのったサイキックがタンチョウを潰そうとした時、聞き馴れてはいたが忘却の彼方へと捨て去った声が語りかけてきた。


「有紀、そんなにむくれるなよ。とりあえず重役さんには風邪ひいたことにしておいたからな」

 六畳間で正座をしながら、有紀は父親の話を聞かされていた。分別のない情動に突き上げられて高価なビデオカメラを壊してしまい、さらに強情を張って大人同士の密約を反故にした。当然のように叱られているのだが、説教というよりも説得されている

「あのなあ、お客をとるのは週に一回だけだ。その時だけガマンしてりゃあいいんだよ。なにも痛いことされるわけじゃあないんだ。かえってやさしくしてくれるさ」

 悔しさと情けなさとやるせなさで、瞳から涙がこぼれ落ちてきた。膝に置いた手をギュッと握って、大声で泣きたい衝動を必死に抑える。母親の胸の中にすがりたかったが、少女の記憶に、そのあたたかな姿は微塵もなかった。 

「おまえのためなんだからな。おまえを育てるのは金がかかるんだよ。将来のために貯めなきゃならないだろう。結婚のお金とかな」

 父親はもっともらしいことを言うが、娘のために貯蓄する気などない。すべてを自分の欲望と快楽のために費やすのだ。  

「よし、じゃあ仲直りにな、風呂には入るか。おまえに教えることがまだまだあるんだよ。お父さんと一緒に気持ちよくなろうな」

 白膨れした手が有紀の両肩にのった。ポンポンと叩いて娘を立たせると、慣れた手つきで服を脱がせた。気持ちとしてはまだぐずりたいのだが、父親の手を拒絶するには経験値を積みすぎた。

 少女の涙は止まっている。ひどく傷ついた子供の心には慰めが必要だ。それは空っぽの言葉などではなく、より具体的な接触となって癒すことになる。

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