第13話

「智也君。ちょっとごめんなさい。なんだか眠くなっちゃって」

 いまではすっかり埃を被り、錆まで浮いた加工機械の前で、千夏はしゃがみ込んでしまった。練り物機械の前で調子よくセールストークしていたのだが、急に眠気がさしてふらつき、立っていられなくなった。硬いコンクリートの床だが、倒れ込むように横になった。外はすでに暗くなっているので、採光窓から入力される明かりはほとんどない。息絶えそうな照明が、ようやく灯っている。

 当然、彼女が臥せってしまった理由を智也は知っている。彼が飲ませた睡眠導入剤が効いてきたからだ。

「大丈夫ですか、部屋で休みましょう」

 有紀のサイキックは、尋常ではない集中力を燃料としている。りん子を消し去るまで戻すわけにはいかない。

 千夏の意識は眠りの底へと沈み落ちていた。頭が直接床面に触れないように、智也が手で支えている。抱きかかえて部屋に連れて行くのは難儀だと、非力な男の子は苦笑いする。機械にかけられていた古いウエスをとって、汚いそれを一時的に千夏の枕とした。

 顔を上げた瞬間だった。

「うっ」と驚いて凍りついた。

 立ち上がった智也の目の前に、ありえぬ生き物がいたからだ。

いつの間にそこまで近づいていたのか、なぜそれが建物の中に入っているのか、ぼんやりと考えていた。予想もしないものが唐突に出現し、それにどう対処したらよいのか、脳が最適の解を導き出そうと計算をしている。

 ヒグマを実際に見る機会は滅多にない。動物園やクマ牧場で、その猛々しい体躯を遠くから眺めることはできるが、それら以外での遭遇は極めて危険であり、そして致命的でもある。智也は獣の瞳を直視しないようにしていた。ヒグマは彼ではなく、床に横たわっている女に興味を持っているようだ。

 たっぷりの脂肪と筋肉が重なり合った肩が、右左に隆起する。野太い首が垂れて千夏の顔に近づいた。涎を滝のように滴らせ、獣臭い息を吐きかける。怖気づいた智也は一ミリたりとも動けない。貪欲な捕食者が肉を喰らう様子を直視するには絶好の位置だ。ヒグマは咬合力を最大値とするべく、顎と頬の筋肉を極度に緊張させた。

「ああ」と、智也が言葉らしきものを発した時、獣は千夏の顔面を噛み砕こうとした。

 しかし、その汚らしい牙は噛み合うはるか前で止められていた。上顎と下顎を押さえている者がいる。

 りん子であった。

 見るからに小学校低学年の女子児童が、三百キログラムをゆうに超える巨大なヒグマの上下の口を、両手でがっちりとつかんで、そのまま抑え込んでしまう。獣は振り払おうと暴れるが、全体重と全精力をかけると自らの口蓋が折れてしまいかねないので、その図体からすると遠慮気味であった。

 りん子は、しこを踏むようにして両足で踏ん張っていた。ヒグマの爪が執拗に攻撃するが、そのたびに短い足が瞬時に蹴り上がり、その凶器を弾き飛ばした。人の目では追えないほどの高速であり、バチバチと音が鳴っていた。

 りん子は、ヒグマの頭部をひねるようにして地面につけてねじ伏せた。口から手を離すと首に足を巻き付けて、絞め殺さんばかりに脚力を込めた。口が自由になった獣は暴れ回る。散々ひっくり返り、床を凹ましながら駆け出して、錆び付いた機械に衝突した。生身といえども数百キロの突進は破壊力があった。鋼鉄が凹み、ひしゃげ、部品類がとび散った。錆の粉が舞い、獣の体毛がそこかしこに引っかかっていた。 

 ようやく智也の尻に火が点いた。

 千夏の両脇を抱えて逃げる。爆ぜまくる獰猛なピンボールの射線の入らぬように、数十センチ進んでは止まり、地に伏せては腰を上げて進んだ。

 ヒグマに跨ったりん子は、どんなことがあろうとも手を離さない。その華奢すぎる指を毛皮の奥まで差し込み、けして切れぬ部位をしっかりと握っていた。何度も機械類に激突したが、とくにダメージを負った様子はなかった。逆に、ロデオを楽しんでいるカウボーイみたいに片手をあげて、キャッホーと黄色い奇声をあげていた。

 ヒグマの猛り狂いが止まらない。

 地雷の塊が縦横無尽に動き回っているようであり、危険物でもあるそれの経路が読めなく、千夏を引っ張っていた智也は右往左往することもできず、再び動けなくなっていた。

{ハキャー}

 女児の叫びが加工場内に響き渡った。もちろん悲鳴ではない。暴れ馬に喝を入れたのだ。

 ヒグマが少女に操られていた。耳を引っ張れば止まり、頭をぶん殴れば歩きだす。野蛮さは影を潜め、従順で愚鈍なロバとなってしまった。

「う~ん、ああ、もう朝なの~」

 薬で眠っていたはずの千夏が意識を取り戻してきた。完全に覚醒したわけではないが、微睡みの海を徐々に浜辺へと漂っていた。

「千夏さん、どうして」

 予想よりも数時間早いが、有紀が消し去るはずだったりん子が現れてしまっている。作戦は失敗したということであり、そうすると彼女を眠らせておく意味がない。

「千夏さん、ここから逃げましょう。クマが暴れてます」

「え、なに。クマさんは千沙が大好きなのよ。千沙もね、クマさんが好きなの」

「ちさ、ってなんですか。とにかく出るんです。とにかく動いて。早く、早く。うっ」

 千夏を立たたせようとした時、智也の視界がグラッと揺れた。


 とろんとした瞳で見上げている少女を、少年が蹴飛ばした。それほど力を込めていなかったが、へなへなと倒れた。ゆっくりと、もったいぶった動作に智也は苛立った。

「このブス、おまえがチクったせいで先生に怒られたんだ。ブス、死ね」

 足の裏ではなく甲で軽く蹴った。肉体的ダメージを与えるのではなくて、精神的に責め立てている。少女は避けたり反撃したりはしなかった。

「べんしょうしろよ。べんしょうだ、べんしょう」

 少女に対するイジメが発覚して、智也は叱られてしまった。彼女が担任に告げ口したわけではなく、彼を嫌っているほかのクラスメートが密告したので、八つ当たりであった。

 二人は、川沿いに放置されているラブホテルの廃墟にいた。ゴミやガラクタ類が散乱して、壁には卑猥な言葉が落書きされている。室内に窓がないため、非常口からさし込んだ光が、少しばかりの灯りとなっていた。

「どうすんだ。おまえのせいだ。母さんにも怒られるんだぞ」

 そこに少女を連れ込んでも、智也は具体的にすることを考えていなかった。ただ、人気のない怪しげな廃墟で一方的に責め立てれば、退屈気味の嗜虐心が刺激されるのではないかとの期待があった。性的に倒錯する年ではなかったし、異性に対する目覚めも、まだ小学五年生では期待できないが、それらに類するものを欲する年頃でもある。営業を止めたとしても、その建物には未熟な精神を刺激するほどの妖しい空気が漂っていた。

「あやまれよ。オレにあやまれ」

 シミだらけで毒々しい色合いのベッドに少女を突き飛ばし、智也は居丈高に言った。

「智くん」

 転校生である少女はクラスに溶け込めていなかった。誰にもかまわれない日々のなかで唯一手出しをしているのが智也であり、それは悪しき行為であったにせよ、彼女が欲するものであった。

「うち、智くんが好きなんよ。だから、なにしても誰にも言わん。なにしてもいいんよ」

 カビ臭が漂う薄闇の中で、幼くとも凛とした瞳が少年の顔を見据えていた。同時に、彼の神聖不可侵な領域を焦がすほどの熱量を発していた。

「う、うるせー。ブスがなに言ってんだ。ブスがヘンなこと言うな。この、ブス」

 泣くか謝るかすると思っていたので、突然の告白に少年は戸惑い狼狽した。イジメている側が、もっとも受けたくない反撃だった。少女の気持ちが真っ直ぐな分だけ、ウソ偽りがない直球が重くて打ち返せない。

「智くん、智くん。なんでもするよ。うちのハダカ見たいなら見てもいいよ」

 少年の本性を見透かしたようにそう言うと、立ち上がってジャージを脱いた。パンツにうっすらとシミができており、智也の胸が高鳴った。すべてを知ってしまいたい衝動が、体の中心付近でバンバンと弾ける。

 下着姿の少女が一歩前に出た。智也とほぼ密着した体勢になる。年齢に関係なく、女は本能的な決断には男よりも積極的となるものだ。少年は腫れ物にでもさわるように、きわめてゆっくりと手を当てて、未知の感触を確かめるようにまさぐっていた。さらに永遠の時間をかけて下着を脱がした。

「だれっ」

 気配がして振り返った。

 部屋の出入り口に二人の子供たちが立っていた。分厚い防寒着をまとい、手と手を繋いでいる。さほど歳は変わらないが、体の小さなほうは、なぜかびしょ濡れだった。足元に水が溜まっていて、全身から滴る水の粒が絶えなかった。二人とも女の子である。

「なんだよ。だれだよ。先生とかに言うなら、オレがいうから。ちゃんと言うから」

 恥ずかしい部分を見られてしまった。小学五年生の子供といえども、羞恥心や自尊心は小さくない。焦りすぎて、みっともないくらいに狼狽えていた。頭の中が真っ白になってしまい、握りしめていた布っ切れのニオイを嗅いだ。

 我に返って持ち主に返そうとするが、そこに少女の姿はなかった。いかがわしい廃墟の一室で、少年はオロオロしていた。人には知られたくない、とくに母親だけは絶対にイヤだと脂汗をかいていた。


「うわあ」

 体全体が激しく揺れていた。衝撃が股の下から幾度となく突き上げてくる。加速と減速が短い間に繰り返されて、振り落とされないように、智也は獣臭い毛皮をしっかりと握った。目の前にはりん子の背中があり、キャッキャとした笑い声が聞こえてくる。

「これはなんだ。止めてくれーっ」

 智也はヒグマの背中に乗っていた。獣は静止することなく、いやむしろ勢いよく突進しては壁にぶち当たり、またもや加速しては加工機械に衝突するを繰り返していた。振り落とされまいと、精いっぱいの握力でしがみ付くしかなかった。

 獣を操るための手綱をなかったが、りん子の獣さばきは上手く、ただし滅茶苦茶だった。わざとぶつけているようで、そのたびにヒグマの顔面は潰れて、涎と鼻血が飛び散り、何度目かには脳震盪を起こしてふらついた。

 それでも驀進を止めないのは獣の本能ではなく、首に巻き付いている女の子の強力な意志だ。子供の遊び心はとどまることを知らず、鳥肌が立つほど執拗だった。アクシデントが起こらない限り、ロデオを止まらない。

 急に獣が静かになった。りん子が遊びに飽きたわけではない。ヒグマの精魂と体力が尽きてしまったのだ。ローラーコンベヤーの出口付近でうずくまって動かなくなり、苦しそうに息を吐き出していた。この機を逃すまいと、智也が慌てて降りようとしたがバランスを崩した。っとっとと倒れそうになったところを支える人物があった。

「大丈夫、智也君」

「千夏さん」

 恣意的な眠りから覚めることはできた千夏だが、脳と体の活動は全回転ではない。ふらつきながら、ようやく立っていた。人の支えになっているのが辛そうであり、そのことを察して智也が逆に肩を貸す格好となった。

「ねえ、どうしてクマがいるの。すごく臭いんだけど。ニオイがひどくてたまらない」

「危ないから離れましょう。僕も、なにがなんだかわけがわからないんです」

 ここにりん子がいて、元気いっぱいにはしゃいでいる。有紀が失敗したことはあきらかだ。連れがどうなったのか気になったが、いまは逃げることが第一だと智也は考えた。足元がおぼつかない千夏を気づかいながら、とにかく獣から遠ざかりにかかる。

 だらりとのびているヒグマから降りたりん子は、二秒ほど真顔で見つめたあと、その疲労困憊な顔を蹴っ飛ばした。

 すべての毛並みが逆側に振り切り、首があらぬ方向に曲がった。息絶えたそれの頭を鷲づかみにして歩き出し。幅狭なローラーコンベヤーの傾斜路をのぼり始めた。ローラーは空回りしているのだが、なぜか上へ歩いていた。しかも、ヒグマの成獣を引きずったままである。

「りんちゃん、なにしてるの。ローラーの上は滑るからダメよ」

「千夏さん、危ないからそっちに行ってはダメです。クマがいます」

「だってえ、ああ~」

 千夏が倒れ込む寸前で智也が抱きかかえた。半分白目な顔がうつろだった。意識がふたたび濁りかけている。考える力が鉛の鉄球を括り付けたように重い。りん子の姿を記憶の底から引き出そうとするが、脳裏に浮かび上がったそれが誰であるかハッキリしなかった。

「千沙、こっちに来ても平気だよ。なんにも怖いことないって。ほらほら」

「ちさ、ってさっきも言ってたけど、何ですか。千夏さん、大丈夫ですか」

 大丈夫ではないとわかっていた。智也が有紀と行動をともにするようになってから、睡眠導入剤を使用してきた。薬を盛られた者は、たいていはぐっすりと眠るのだが、ごくまれに副作用が強く出ることがあった。錯乱するといったことはなかったが、意味不明な言動を口にして困惑させられることになった。

「千夏さん、部屋に行って横になってください。寝たほうがいいです」

「千沙、冷蔵庫にイチゴあるから持ってきなよ。お母さんが食べていいって」

 中二階のローラーコンベヤー上にいるりん子を、千夏は眠そうな顔で見上げていた。女児の後ろにあるヒグマの姿が猛々しくて、智也はそれ以上近づかないように衣服を引っ張るが、彼女はその手を振り払った。

「千沙、降りてきなさい。お母さんに怒られるよ。今晩はきしめんだって。ちくわの天ぷらもあるって」

 ローラーコンベヤーの上を、ヒグマの死骸を蹴っ飛ばしながらりん子が滑り落ちてきた。傾斜で速度がついた獣は、二人の脇を豪快に飛んで床に転がった。りん子が降りてきて、千夏の前に立った。

「千沙、行くよ」

 りん子は、うんと頷いて千夏の手を握った。唖然としている智也にかまわず、彼女たちは加工場から寮のほうへと行ってしまった。

 千夏の様子があきらかにおかしい。すぐに追いかけるべきだと思っていたが、りん子が一緒なので、智也は二の足を踏んでしまっている。自分一人ではどうすることもできないし、場合によっては危害を加えられるかもしれない。言い訳じみたことをあれこれ考えながら、そばに横たわる巨体へ、なんとなく目線を向けた。

「なんだ」

 ヒグマの頭部が震えている。口蓋を内部から押し広げるような奇妙な動きがあった。口の中に生き物がいると直感した時、それが出てきた。

 血まみれだと智也は思った。いままで見たことのないような鮮やかな朱色の、しかもやたらに刺々しい肢が口の中からゆっくりと出てきた。

 それは腫れ物にでも触れるように周囲を用心深く探っていた。ありえないほど巨大で毒々しい色彩の蜘蛛が獣の胃袋から這い上がってきたと、智也は驚愕する。

「うわあ」 

 たまらず逃げ出した。寮のほうへは行かず、母屋へと通じる引き戸にしがみ付いた。

「ちくしょう、開かない、なんで開かないんだ。なんか引っかかっているのか」

 押したり引いたり蹴ったりするが、鉄製の引き扉はビクともしなかった。

「ああ、出てきた出てきた」

 ヒグマの中にいたものが、徐々にその奇っ怪な姿を晒していた。肢以上に本体も棘だらけであり、毒々しいまでの朱色が目に痛かった。

「ダメだ。なんぼやっても全然動かねえわ。戸の滑車がイカれちまったんかなあ」

「さっきは軽く開いたのに、おっかしいねえ」

 向こう側で夫婦が話している。智也の口がせわしなく動きだした。

「おい、このドアを開けてくれ。早く開けてくれ、すぐ開けてくれ」

「智也、あのバケモノがそっちにいるかもしれないから気をつけて」 

「有紀か、よかった。無事だったか」

 連れの声が返ってきて、智也は多少の落ち着きを取り戻した。

「あの子はいない。クマがいるんだ。それでバケモノの蜘蛛が口から這い出している」

 智也がそういった途端、扉が勢いよく引かれた。

「うっわ、びっくらしたあ。なしていきなり開くんだよ」

 鋼鉄の引き戸が枠に衝突し、グアングアンと金属音を響かせた。入ってきた三人を智也が押し止めようとするが、中年たちのあつかましさには勝てず押し込まれてしまう。

「おいおい、なんじゃありゃあ。ヒグマか、でっけえなあ。初めて見た。死んでるのか」

「クマは生きたまま腹を食い破るっていうからさ。おっかないねえ」

 ヒグマが目の前にいる非日常な状況に対し、義男も一二三もわりと冷静な態度だった。

「近づくな。あのクマは死んでいるけど腹の底からバケモノ蜘蛛が出てるんだ」

 警告は遅滞なく発せられたが、夫婦はすでに接近しすぎていた。

「あひゃあ、な、なんだい。クマさんの口から赤いのが出てるよ。あんた、捕まえな」

「バカ言ってんじゃねえ。んなもん、さわれるか」

 そう言いながらも義男が近づく。しゃがみ込んで興味深そうに覗き込んでいた。

「おじさん、離れろ。それは毒蜘蛛のバケモノだ。やられるてしまう」

「はあ? こいつは蜘蛛なんかじゃねえぞ。第一、こんなにデカいクモがいるかよ」

 恐れを知ろうとしない義男が指で突っつくと、朱色のなにかはその身を強張らせた。

「おじさん、それ以上はやめときな。ここに現れるものは、この世界のものじゃないんだ。顔に貼り付いて取れなくなるよ」

 有名なSFホラー映画の怪物を想定して、有紀が警告する。

「姉ちゃん。これよう、花咲だぞ。蜘蛛とかのバケモンじゃねえよ」

「はなさき?」

 ハナサキと言われても、有紀はなんのことだか見当がつかなかった。

「花咲ガニだって。しかもよう、なんでか茹でガニだ。茹でられてるのに生きてんだよ。おっかしことによう」

「カニって、なによ。毛ガニのこと?」

「だから花咲ガニだっつうの。姉ちゃん、知らねえのかよ。このへんで獲れるんだ。生きてるときは黒っぽいけど、ゆでると真っ赤になるんだ。けっこう美味いんだよ」

 ヒグマの口の中から出てきた花咲ガニは、半分ほどで止まっている。危害を加えられたら、すぐにでも獣の腹の中へ逃げ込む体勢だ。

「あらまあ、ほんとに花咲だわ。でもさあ、クマさんの口からなんでカニなのさ」

「ちょっと引っ張り出してやるべか」

「カニタマにすると美味しいんだよ。あたしはあんまり酢を効かせないほうが好きだねえ」

 たかがカニごとき恐れずに足らずと宣言し、義男が肢を掴んでヒグマの口から引っ張り出そうとした。

「こいつ、意外と力あるぞ。全然出てこねえ。オレの屁が出そうだ」

「あんまり力入れてつかむと、手に穴あくよ」

 義男が花咲ガニの肢を掴んで引っ張るが、なかなか出てこなかった。口の奥で引っかかっていると考えた一二三が、ヒグマの口に手を入れて上顎と下顎をグッと広げた。すると開け放たれたまま、閉じることはなかった。 

「智也、離れて。たぶん、やばいことになるから」

 智也の背中をつかんで、有紀がゆっくりと後退する。ある程度の距離をとったところで、右手を突き出して気合を込め始めた。疲れ果て出涸らしとなった体だが、気力はまだ残っている。

「もうちょっとで、出そうだ。ああー、出る出る、出る出る」

「あんた、そのまま後ろに下がりな。屁は出すんじゃないよ。臭いんだから」

 義男が花咲ガニをつかみ、一二三が亭主の腰に腕を回して後退りする。ヒグマの口の中でわだかまっていたモノが徐々に引きずり出されてきた。

「おいおい、この花咲、おかしいぞ。片方の足が毛だらけだ」

「毛ガニだったんじゃないの。ミソが美味しいんだよね」

 花咲ガニの隠れていた片方の肢が細長く毛だらけだった。カニというより蜘蛛であった。オニグモやジョロウグモといった見慣れた種類ではなく、タランチュラを思わせた。

「おわっ」

 半分蜘蛛なカニが猛烈に動き出した。義男の手を振り切って、カタカタと音を響かせて床を疾走した。地球上のどの種類のカニよりも素早く、その姿どころか動き方もひどく醜怪だった。

「こっちに来る」

 智也に向かっていた。コテコテコテコテと不吉な音をたてながら、尻に焼きゴテをあてられたネズミのごとく、とても素早い動きだった。

「はーっ」

 有紀の右手のひらが迫り来るカニ蜘蛛を追っていた。サイキックの意識集中が能力の発揮へと至る。辺りの空気がピリピリと弾け、埃が舞った。「ひいー、またやるのか」、「もうやめてよ」と、再度のサイキックを察知した夫婦が悲鳴をあげた。

 智也も声を出そうとしたが、できなかった。すでに真っ赤な花咲ガニ蜘蛛が顔に貼り付いていたからだ。SFホラー映画のもっとも印象的なシーンの再現であり、それが意味するものは底無しの絶望だ。バタバタと転げ回りながら苦悶を表現していた。

「智也から離れやがれ、腐れガニ」

 突き出した手を叩つけるように振り下ろした。なにがしかの圧力が放たれ、智也の顔面にくっ付いた真紅のカニ蜘蛛の外骨格が軋んだ。

「このーっ」

 有紀の目が充血してきた。カニ蜘蛛のカニ側の肢がバキバキと折れた。砕けた赤い殻がとび散り、ほどよく茹であがった白色の身が露出し、カニ風味のいい匂いを漂わせた。

「死ねやーっ」

 絶叫とほぼ同時に花咲ガニ蜘蛛が爆発した。智也の顔がカニのミソまみれとなる。黄色いジェル状のそれは、見た目は最悪だが、悪臭ではなくて食欲をそそる潮の香りがした。

 サイキックを瞬時に炸裂させた有紀の疲労は大きく、鼻血を吹き出して片膝をついた。嘔吐し、脱糞までしている。智也は、幸いにして腹の中に不吉な生き物を産み付けられるということはなかった。

「智也」

 起き上がった有紀が、ふらつきながらやってきた。彼女のジーンズは尻が汚れていて、悪臭を放っていた。義男が、さも臭そうに顔をしかめる。   

「姉ちゃんよう、脳張力を使うときは前もって言ってくれや、いったん遠くへ逃げるからよ。いまので膀胱が痛くなっちまったべや。ションベンから血が出るって」

「あたしは被せものが取れたよ。歯医者行く金ないのにさあ、大損害さ」

 夫婦の小言が勢いを増そうとする矢先に、サイキックからの喝が入った。

「黙れ、このバカ中年。うかつにバケモノになんか触るな。危ないのは、あの女の子だけじゃないんだ」

 この建物の内部は非常事態宣言の最中であるということを、上下から臭い息を出して叱咤する。

 バカだ役立たずだと散々になじられて、嫌気がさした夫婦が逃げるように離れた。義男は有紀が糞を洩らしていることを大声で指摘しようとしたが、一二三が止めさせた。逆上したサイキックにあてられて、ひどい目に遭いたくないからだ。二人はヒグマの前に座って愚痴をこぼしていた。

「あれえ。あんた、また出てきたよ」

「なに、またカニか。もう腹いっぱいだって」

 ヒグマの喉が内側から盛り上がり、口元がモゴモゴと動いていた。二人は立ち上がり、二歩三歩と後退する。

「どきな」

 夫婦の背中を押しのけて有紀が前に出た。右手を突き出し、手のひらをヒグマに向けて眉間に深いシワを寄せた。

「有紀、止めろ。それ以上はもたいないって」

「智也は、ちょっと離れてて」

 わが身のダメージを顧みず、おもいっきり能力を使うとの意思表示であった。智也は一歩後退し、夫婦がわあわあ喚いて十歩ほど離れると、うずくまった。

「はあーっ」

 充填した気合が瞬間的に放たれると、ヒグマの巨体がぐしゃっと潰れた。ビル解体用の鉄球が、数トンの質量でもって真上から落下したかのようだった。

 今度こそ精魂尽き果てた有紀は、吹き出した鼻血で上唇を濡らして崩れ落ちるように倒れた。智也が駆け寄り抱き起す。夫婦も恐る恐るやってきた。若いカップルにはかまわず、潰れて毛皮の敷物となり果てたヒグマをしげしげと見ていた。

「おい、このクマ。ケツからとび出てるのなんだよ。こんなの、あり得るのか」

「内臓でしょ。超能力で潰されたから押し出されたんだって」

「じゃあ、これはなんだ」

 大きな圧力で瞬時に潰されたため、ヒグマの肛門から内容物が出ていた。

「なにこれ、ハリガネかいな」

「いいや、番線じゃねえ。バラ線だ。腸に巻きついてやがる」

 脂肪がのってやや白みがかった赤茶けた腸に、錆びた有刺鉄線が絡まっていた。一二三が制止するが、義男は端っこを掴んで引っぱる。血まみれの消化器官と、それに絡みついた有刺鉄線が引きずり出された。

「ひゃあ、なんだい。このクマさん、牧場の策でも食べたのかい」

「んなことねえ。いまどきは電気柵だ。それに、ほら、こっちのカニにも絡まってるぞ」

 義男がヒグマの口をこじ開けて、中にあったモノを引っぱり出した。やはり茹であがった花咲ガニであったが、甲羅と足に有刺鉄線が巻き付いている。

「どんな祟りだよ、こりゃあ」義男はヒグマを見下ろして腕を組んだ。

 気絶寸前の有紀だが、智也の手を借りてなんとか立ち上がる。獣の前に行き、しっかりとトドメがさせたことを確認した。汚らしい有刺鉄線をじっと見つめている。  

 どこからか悲鳴があがった。女性の声だ。 

「なんだ、寮のほうだ」

「あっちに誰かいるのかい」

 千夏とりん子が手を繋いで行ってしまったことを、智也が知らせた。

「おいおい、ってことは奥さんが襲われてんじゃねえか。カニかなにかによう」

「お姉さん、超能力でやっつけてやりなよ。クマかもしんないさ」

 一二三が有紀に檄を飛ばすが、顔面蒼白で鼻血をたらし、脱糞と失禁で汚れた下半身は震えている。自分の力で立っているのではなく、智也にようやく支えられている状態だ。とてもじゃないが戦える状態ではなかった。

「この姉ちゃんは無理だな。もうガス欠だべ。オレがいって連れてくる」

「あんた、ダメだって。そうやって人の厄介ごとに手を出して、何度も痛い目にあってるじゃないのさ。警察を呼んだほうがいいって」

「警察は、まあ、そのう、なんだ。オレたちがいなくなってからでいいんじゃねえか」

「警察がきても事故で片付けられてしまう。やつらは一時的に姿を消して、また戻って来るだけだ」

 義男には目的があって、それを成し遂げるには公権力の介入は邪魔となる。有紀と智也にしても、サイキックであることを説明できないし、ほかにも係わりたくない理由があった。

「そうだねえ。警察はロクでないからねえ。留置所は冷えるし」

 結局、警察には通報せず、彼らだけで対処することになった。頼りになりそうなのは有紀のサイキックだが、その本人は青色吐息で立っているのがやっとの状態だ。義男が残れと言うが、自分が行かなければならないと気丈である。ああだこうだと言い合い、妥協案で合意となった。

 全員で行くこととなり、まず義男がドアを開けて寮へと続く廊下へ侵入した。一二三と智也に肩を借りた有紀が続く。

「あれ、奥さんじゃないか」

 もっとも端にある部屋の前に千夏がいた。やや中腰になって、ドアノブに手をかけて入ろうか止めようか逡巡している様子だった。義男は気にすることなくズカズカと進み、千夏のそばまでやってきた

「奥さん、なにやってんだよ。いま叫んでたけど、なんかあったのか」

 義男の問いに、千夏は不安そうな表情のみで答えた。

「奥さん、この部屋の中に誰かいるのか」

 千夏は両手で胸の中央をつかんで背を丸めた。力のかぎり両目を瞑り、切なげに息を吐き出している。心中にわだかまっている重苦をあらわしているようだ。

「この中に、あのガキんちょがいるのか」

「行くな。そこにはあのバケモノがいる。やられっぞ」

 ドアノブを握り、その部屋の中へ入ろうとした中年男を、ひどいダミ声が止めた。有紀が智也の肩から離れ、足を引きずりながらその部屋の前に来た。千夏を一瞥してから右腕をあげて、手のひらをドアに向ける。体が崩れ落ちそうになるが、必死に堪えていた。

「姉ちゃん、また脳張力をやると死んじまうぞ。それに、あの女の子なら、たぶん大丈夫だと思うけどな。クソガキだけど、そんなに悪者って気がしねえんだよ」

 ドアノブを握った義男の手が向こう側に押し出された途端、景色と状況が一変した。


 積雪に覆われた河川敷を、二人の小学生が走っていた。

 分厚くてカラフルな防寒着姿で先を行くのは、後に続く子よりも一回り大きな子だった。二人は河川敷から川辺へと下りた。さらに結氷した川に足を踏み入れる。大きな女の子は溌溂としていたが、臆したのか小さな女の子の足取りはおぼつかなかった。それでも遅れまいと、一生懸命に歩いていた。

「おい、ガキどもがこっちに来るぜ」

「危ないねえ。凍ってないところもあるのにさ。追い返したほうがいいさ」

 義男と一二三が心配して見ていた。

「あの子たちを川岸に上げよう」

「そうしたほうがいい」

 智也と有紀が氷原を歩き出したが遅かった。白い景色の中に重なっていた色のうち、小さいほうが落ちてしまった。大きいほうの女の子がぼう然と立っていた。どこからか金切り声がやってきて、夫婦とカップルの鼓膜を引っ掻いた。氷水は冷たすぎるので、せめて自分の服を着せてやりたいと、耳を押さえながら一二三は思っていた。

 

「あんたねえ、寒いのにジャンパーも着ないでなにやってんの」

 パチンコ店を出たところですっ転んでしまい、尻を押さえながら立ち上がると、細身の女性店員が声をかけてきた。

 みっともないと自覚した義男は、ズボンからショートホープの小箱を取り出してカッコつけるが、すでに空箱であった。 

「あはは、毎日負けてんのにタバコもないのかい。みっともないさ」

「うるせー。店員がサボッてんじゃねえよ。店に戻って仕事しろ、仕事」

 田舎のパチンコ店員は、休憩時間に融通が利いた。

「うちの店は出ないよ。だから客も少ない。夕張はダメさ。札幌にでも行きたいねえ。ほら、タバコ」

「おう、悪いな」

 二人は駐車場の隅で身を隠すようにしゃがみ込んだ。

 義男は一二三が景品棚からちょろまかしてきたセブンスターを吸っていた。細長くて甘いホットコーヒー缶を飲みながら、まだ青臭さが残る年頃の二人が親しそうに話し込んでいた。

「ところで、あんた何やって稼いでんの」

「ちり紙交換。くだらねえから辞めてやった」

「へえ、そうなんだ。職安とかいってんの」

「いい求人がなくってよう。どっか金になる仕事ねえかなあ」

「ねえ、うちで働けばいいじゃん。いま募集してるしさ。誰も来ないって店長がぶつくさうるさいんだよ。あたしの仕事も減るし」

 一二三は気さくな性格の義男を気に入っていた。

「うう、寒っ。中に入らねえか。まだ五百円あるから最後の勝負ができるぞ。って、なんだあいつら。ガキんちょが、なにやってんだ」

 粉雪が舞う駐車場に二人の子供がいた。

 陽が落ちた場内に停めている車はまばらで、広い空き地のようである。大きいほうの女の子が、その場でしきりにジャンプしたり、足元を蹴って踏みつけていた。小さいほうは楽しそうな感じである。パチンコ屋の看板に照らされているが、よそ見をしていると闇に消え入りそうだった。

「ちっ。最近さあ、ちびっ子を放っておく親がいるのさ。どうしようもないよ」

「このクソ寒いのに、さすがに風邪ひくべ。店の中に入れてやるか」

 駐車場で奇妙な遊びをしている女の子たちを、二人は店内へ連れて行こうとした。

「ダメだーっ。見るなっ」

 突然、後ろから金切り声が響いた。

「うわあ、な、なんだよ、びっくりするなあ」

「あの子たちを見るな。呪うぞ」

 背後にいたのは千夏だった。半分だけネオンに照らされた顔は、目が吊り上がって鬼気迫る表情だ。

「なにいってんだ。あんた、どっから出てきた」

 女がキーキー喚きながら若い男の腕にしがみ付いて、ぐんぐんと引く。網を引っ張る漁師ほどの異様な怪力で、義男は振り払おうと苦労していた。 

「いてえな、放せよ。頭おかしんじゃねえのか」

「ねえ、あの女の子、様子がヘンだよ。だって、沈んでるっしょ」

 一二三が指し示す先には、冷えたアスファルト地面に腰まで沈んだ女の子がいた。

「なんだよ、あれは。あのガキ、穴に落ちたのか」

「駐車場に穴なんてないよ。どういうことさ」

 少女の体はアスファルト地面に胸まで落ちていた。少し離れたところにいた年長の女の子が呆然と見ている。

「きゃ、沈む」

「おわっ、しゃっけー」

 突然、二人の下半身も落ちた。さらに全身がどっぷりと氷水に浸かる。身を切り裂く冷たさよりも水のニオイが気になった。河口の街を流れる川にありがちの、生活臭が混じったすえた臭気が不快だと、氷の下を流れされながら一二三は思った。


「なあ、智君。またあそこに行くんか。あそこは楽しいなあ、おもしろいなあ」

 少女は溌溂としていたが、智也の気分は晴れなかった。生活指導主任の教師と担任に呼び出され、イジメについていろいろと訊かれたからだ。

 五年生の間では、智也はわりと名の知られたイジメっ子であった。

 特定の子に固執することはなく、その時の気分次第で反抗してこなさそうな気弱な児童を狙っていた。とくに腕力に秀でているわけでもなく、人の先頭に立って皆を率いる力量があったわけではないが、いかにも典型的なイジメが、ある種の欲望に魅せられた子供たちを従わせていた。

 ところが、被害に遭った児童の親から学校に抗議がきて発覚してしまった。今日は事情聴取の初期の段階だが、明日は母親を呼ばれる。イジメという楽しみが封じらたうえに叱られてしまう。口惜しさと逃避願望で、気持ちの底にドブ臭い淀みができてしまった。

 放課後、少女と川沿いにあるラブホテルの廃墟にやってきた。すべての出入り口がコンパネ板で塞がれてしまったが、二階の非常口の板は薄くて、子供でも蹴破ることができた。

 床に転がっていた懐中電灯で、内部を照らした。少女は、前に来たときにされたことを期待する素振りを、しきりと見せていた。暑いと言って、ジャージを脱ぎ下着だけになった。しかし智也の関心は、そちらのほうには向いていなかった。

「あいつ、ただじゃおかない。キンタマ踏み潰してやる」

 親に告げ口した同級生に対する憎しみがおさまらない。埃だらけの幅広ベッドに腰かけて、一人でブツブツ言っていた。呟けば呟くほど、心のうちにドブ臭い闇が広がった。

「なあ、智君。ほら、またしようよ。なにしてもいいんよ」

 少女は無邪気であり、幼いながらよほど淫靡であった。上のシャツを残して、下は脱いでいた。場末の安ストリッパーのように、懐中電灯で下腹部を照らしている。

「うるさいっ」

 イライラした智也が大声を出して立ち上がった。びっくりした少女が尻もちをついて転んでしまった。運悪く、床に割れた鏡の破片が散らばっていた。緩衝するもののない素肌は、瑞々しく張りがある分だけよく切れた。致命的な血管の切断は避けられたが、それでも血の気が失せるほどの出血だった。

 ネズミのような嗚咽と泣き声を聞きながら、智也は突っ立ったままだ。薄汚れた赤い絨毯に少女の鮮血が滲んでいた。ひどくまずいことになったのは理解できた。

「ねえ、助けて。あの子を助けて」

「うっわ、な、なんだ」

 千夏が突然現れて智也にしがみ付き、なにごとかを懇願していた。

「おばさん、だれ。なんでいるの」智也の問いに、千夏はバスルームを指し示した。

 懐中電灯が照らす先に女の子がいた。スキーウエアのような分厚い防寒着に、頭部はフードを被っていた。バスタブには白濁した氷がいくつも浮かんでいる。見るからに冷たそうで、じっさいにその中で立っている女の子はガタガタと震えていた。

「助けてくれるでしょう。凍えているから。早く助けてあげて」

 千夏が言っている間に女の子が沈んでゆく。腰が浸かり、もう首まで氷水面の下になった。バスタブは女の子が立って首まで沈むほど深くないように見える。だとすると水深の計算が合わない。これは不可解な状況であると、小学生でも理解できた。 

 智也が駆け出した。この場にいてはいけないと、本能が彼を蹴飛ばした。怪我を負った同級生の少女を放置し、暗いホテル内を走った。後ろから誰かが追ってきている気配にパニックとなり、出口とは逆の方向をさ迷っていた。   

「ううー、冷たい」

 足元が濡れていた。廊下も部屋の中も水浸しであった。水の色は透明だが、ほんのりと川臭さがしている。濡れた足先は、体のすべての温もりを奪うぐらい冷たかった。

 どこに向かっているのか智也自身も見当がつかなかった。ただ、一歩進むごとに水深が増していた。徐々に深みへ嵌って止まりそうになるが、背後から迫り来る影が嫌で前進するしかなかった。さらに廊下を十歩も進むと、水は顎までつかった。

「うわっ」

 誰かが彼の足首を掴んで水中へ引き込んだ。きっとそれは怪我をした同級生の少女に違いないと智也は思った。彼女は自分を恨んでいるはずで、それは地の底で熟成された怨念であり、あるいは愛憎となる。どこまでも沈んでゆく感覚に気が遠くなった。  


「有紀、寝くさってないで起きろ。これから撮影するからよ」

 警備員の父親は夜勤のはずであり、起こされるとは思っていなかった。

「知り合いのツテで、建設会社の重役さんを紹介されてな、いま飲み屋で会ってきたところだ。おまえの写真を見せたらすごく気にいって、ぜひとも会いたいと言ってきたよ。まあ、とりあえず一回三時間から始めるってことで話をつけてきたよ」

 胡坐をかいて座った父親は、でっぷりと突き出したタヌキ腹の前に箱をおいた。自分になにか買ってきてくれたかと思い、半分寝ぼけ眼の有紀が、のそりと起きる。

「中学生になったら、とたんに値が下がるそうだ。だから小坊のうちに、うんと稼いでおかないとな。安くなっても高校生までなら大丈夫みたいだぞ。それでも一回三万になるっていうから、世の中には金持ちがいるもんだよなあ」

 その荒い鼻息は熱く酒臭かった。

「いまから、おまえのプロモーションビデオを作るからよ。そういうのがあったほうがいいんだそうだ。ひいきの顧客がつけば面倒くさくないから楽だぞ」

 箱の中身はビデオカメラであった。この父親は、自分の娘に下着一枚買うのにも出し惜しみするケチな性分だが、よこしまな稼ぎに対する投資には豪放となっていた。高価で高性能なそれの説明書を、目を細めながら読んでいる。

「なんだか難しいなあ。ま、とりあえず撮ってみるか」 

 深夜の撮影会となった。まだ目覚めきっていない有紀は、父親がいじくる電子機器をまぶしそうに見つめていた。

「有紀、ほら、ポーズをとれや。セクシーポーズだぞ」

 父親に促されて、小学五年生は、じつに子供らしい無邪気なポーズをとった。

「そんなんじゃねえって。シラケるだろう、バカ。シャツをはだけて胸見せて、ほんでパンツはこうして膝までずり下げるんだよ。全部脱いじまったら、妙味が出ないからな」

 隠すべき箇所が露わにされてしまい、少しだけ見せるとは程遠い状態にされてしまった。有紀は、自分の裸が知らない誰かに見せられてしまうことを悟った。とたんに表情が硬く動きはぎこちなくなった。脱がされた下着を元の位置に戻してしまう。

「コラッ、おまえ、なにやってんだ、このバカ娘。余計なことするな、このう」

 父親は、まだまだ発達途中の尻をぶっ叩いた。愛のムチという要素がビタ一ミリもない叱咤である。

「面倒臭いことさせんなよ。明日までに撮って持っていく約束してんだからよ」

 少女は嫌がるが容赦なかった。再び下着がまくり上げられ、ずり降ろされてしまう。ビデオカメラの電源が入れられ、少女の裸体を舐め回すように撮り始めた。

「ほら、早くしろよ。それっぽくやれって。父さんには見せてるだろう」

 父親は焼酎を飲みながら撮り続けている。二度ほど放屁し、酒焼けした赤ら顔で、あれやこれやと下卑た要求を繰り返していた。 

 少女の中で膨らんでいた嫌悪の感情が破裂した。

 父親からビデオカメラを奪い取ると、そのままの格好でアパートをとび出した。ほぼ裸のまま小さな川沿いの歩道を走っていると、隣に子供が並走していた。夏だというのに分厚い防寒着姿で、頭にはフードをすっぽりと被っていた。夜道なので表情は確認できないが、女の子であることがわかる。

 その子に引き寄せられるように、ダダダと勢いよく斜面を駆け下りた。二人は川に入った。住宅地を流れるそこは幅が十メートルもない、ゴミだらけのドブ川だった。深さもせいぜい大人の膝くらいで、自転車やテレビ、便座などが捨てられていた。

 入水するなり、有紀は沈んだ。すでに水面が胸の上まで達して、水草の腐ったような臭気が鼻をついた。泳げない少女は、四肢をそれぞれ別の方向に突き出して暴れていた。

「あそこにいる子を助けてあげて。だって、氷はとても脆いから。川はね、流れているの」

 誰かが耳元でささやいているのだが、溺れかけて藁をもつかむ者には念仏に等しかった。その女の声には苦悶と後悔が色濃くて、とても不快に感じた。いつまでも耳に残っている感触がたまらなく嫌になり、早く水の底に沈みたいと少女は願った。

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