第11話
「あんた。ちゃんと開けたのかい。あんまり小さかったら映らないよ」
「しー。ケイタイで撮るからよ。ちょっと静かにしてれや」
猿払にあるホタテ水産加工場の寮で、河本夫婦が色めきだっていた。個室を仕切っている内壁を、手製の千枚通しで穴をあけているのは義男だ。必要以上に崩壊しないよう、少しずつ時間をかけて削っていた。
「うっは、やってるやってる。こりゃあエロいぜ」
「明日は休みだからねえ。今夜はオールナイトだよ」
壁の向こうから女性の喘ぎ声が聞こえていた。激しくはないが、ある種の悦楽を想像させるほどに艶めかしく、十分に湿っていた。
「でもよう、外国人のレズって微妙じゃねえか。そんなの、あんまし再生されねえだろう」
「裸でいちゃついてたら、なんでもいいんだよ」
「だったら、オレたちのを動画にあげればいいんじゃねえか」
「あんたやあたしの裸見て、おっ勃つ奴なんているかい。若いのがいいんだよ」
頃合いの穴を開けた義男が、ケイタイのカメラ部分を当てる。
「映んねえなあ。この穴じゃだめだ」
「ちょっと貸してごらん。ズーム機能を使うんだよ」
穴の前で一二三がケイタイをいじくっていると、突然、壁から足がとび出してきた。
「うきゃ」
生白い足のあとには、今度はいかにも硬そうな拳が突き抜けてきた。さいわいなことに、一二三へ直撃することはなかったが、顔のすぐ前をかすっていた。
寮の個室と個室を仕切る壁は薄かった。耐火性には優れる石膏ボードであったが、べニヤ板よりもよほど強度がない。力を込めれば女性の手足でも容易に突破できる。
「あひゃあ」
バリバリと壁を壊してやってきたのは、ホタテ加工場に研修生として出稼ぎに来ている外国人だ。若い女性が二人、異国の言葉をけたたましく叫びながら乱入してきた。女同士でイチャついていたところを、隣人の中年夫婦に覗かれていると気づいて怒り心頭に達し、殴り込みに来たのだ。
「あた、あたたたた。ちょ、やめろやめろ。まだ撮ってないべや」
「ひゃー、やめてよ。痛いって。骨折れたじゃないのさ」
夫婦は、半裸の若い外国人女性に尻を蹴飛ばされて部屋から逃げ出した。
「え、クビかよ」
「そんなー、まだ働けますよ。あたしら歳だけど頑張ってるんだから。若い人たちに負けてないっしょや。残業だってやってるし」
ホタテ加工場の工場長が、河本夫婦に今日限りで雇わないと宣言した。
「まあ、仕事はあるんだけどなあ。あんたらは評判悪いんだよ。研修生がロッカーから物が盗まれたって騒いでるんだ。現金もあったって話だぞ。警察呼ぶって息巻いてるし」
あくまでも責任は夫婦にあることを、工場長は明確にする。
「イヤイヤ、そんなの知らないよう。なんのことだかわからんって」
「そうだよ。あたしらが他人の物なんか盗むわけないっしょや」
夫婦は、窃盗の罪をやんわりと着せられていた。ふだんから口と手癖が悪く、なにかと差別的な態度をとるので外国人から嫌われていた。
「あんたらがいると仕事できないっていうんだよ。彼女らがいないとな、うちの工場は回らんだ。このご時世、外国人様様なんだよ。やっとこ使えるまでに育てたのに、一年たっても殻剥きもまともにできない年寄りに邪魔されたら、たまらんって」
工場長は、にべもなかった。金がかかるわりにはなにかとうるさい日本人よりも、賃金が安い外国人のほうが重宝するのだ。
「給料は来月末に振り込んでやるから」
「冗談じゃないよ。クビならいまここで頂戴よ。そっちの都合で辞めさせられるんだから、退職金だって出しなよ」
一二三が食ってかかるが、給与の支払いは会社の規定通りとなった。非正規労働者なので、しかも短期間だったので、退職金など微塵もなかった。次の日には寮を出されてしまった。
「おい、どうする。あんま金ねえぞ。また住み込みでパチンコ屋にでも行くか」
「五十過ぎのジジイとババアを雇うパチ屋なんか、もうないよ。若い子だけだってさ」
リュックを背負った夫婦が、バスターミナルでしょぼくれていた。
「そういえば、おまえと出会ったのは夕張のパチンコ屋だったなあ。オレもおまえも若くてよう、ピンピンしてたなあ」
「そんなことよりどうすんのさ。今夜寝るところないよ。振り込みは来月なんだから」
夫婦の手持ちは少なかった。主な原因はギャンブルと酒である。
「そうだ、菅原水産にいくべや。河川敷の向かいにあった小せえ工場よ。社長さんがいい人でよう。あそこだったら寮あるしな。だいぶ前だけど、おまえも憶えてるだろう」
その記憶は何度も話題になっていたので印象深く、一二三も憶えていた。
「あそこはイヤだよ。何人もヘンな死に方してたし、それに倒産したっしょや。たぶん、もうないよ。更地になってるさ」
廃業したことを忘れていた義男であったが、もっとも重要なことを指摘する。
「あそこに八十万隠したって、前に何度も言ってるべや。回収しに行くんだよ」
「勝手に入ったら捕まるんだよ。あんときだって警察に怪しまれたんだから」
「テキトーなこと言って、家に上がり込めばいいんだよ。まかせておけって」
バスが来たので義男が先に乗った。一二三が根拠希薄な夫についていくのは、いつものことだった。
「お、ここじゃないのか。ほら、菅原水産って看板あるぞ」
「あんましパッとしないねえ」
新聞の職業紹介欄をもって、二人は㈱菅原水産の事務室で社長と対面していた。菅原晃は中肉中背のどこにでもいそうな男で、歳は中年の初めのほうに達したところだ。話し方は温和で、格下相手でも居丈高にはならず、余計な緊張感を与えなかった。
「夫婦で働きに来るのは珍しいなあ。若い人は大歓迎だよ。ぜひとも頑張ってくれよ。研修期間の一か月で社員登録だから。とりあえず寮を見てきな」
事務所を出た夫婦は、狭い廊下を降りて右に曲がった。
「あんた、そっちは違うよ。左に行けって言われたっしょ」
「ちょっくら覗くぐらい、いいだろう。へへへ」
ゲスで意味深な表情だった。金目のものを物色する際の顔である。
「まあ、ちょっとだけならいいよね」
稼ぎになるかもしれないので、一二三もついていくことにした。廊下を歩くと左に部屋があった。引き戸が開いていたので、そっと覗く。そして物音を立てずに侵入した。
「子供部屋だな」
「女の子みたいね。二人いるのかねえ」
机が二つ並んでいる。少女の好きそうなキャラクターのシールが貼られ、グッズが置かれていた。
「一人だよ」
「わっ」
突然、背後から声をかけられて二人はとび上がった。
「千沙はね、お嫁さんになったんだよ。きれいなお嫁さんになっていっちゃったの」
女の子が立っていた。ランドセルを背負っている。
「びっくりしたなあ、ああ、そのう、なんだ。ははは」
「ここの娘さんかい。ごめんねえ、あたしたち迷っちゃったんだよ」
勝手に入ってしまった後ろめたさから、一二三はすっとぼけて誤魔化した。
「そっちは千沙の机だからさわんないで」少女は左側を指さした。
「あたしらはなんもとらないよ。今日から社員だからね。あはは」
愛想笑いをして、少女に背中を向けた。コソ泥の姿勢で退室しようとする。
「呪われるよ」
「え、なんだい」
思いがけない不吉な言葉に、一二三が感度よく反応した。振り返って少女を見た。
「みんな呪われるの。すごく冷たくて寒いから。千沙はね、お嫁さんになったんだよ」
一二三は困惑していた。この少女にどういう言葉を返したらよいのかわからなかった。義男は自分のこめかみに人差し指を当てて、くるくると回した。頭のおかしな子供と係り合いになるなとの注意を発した。
「妹は怖い人と結婚したんだよ、すっごく怖いんだから。真っ黒で大きいんだ。誰もかなわないんだ。叩いて叩いて、つぶしてつぶして、ぜったいに許してくれないんだ。だって地獄の王なんだから」
最初は消え入りそうな話し方だったが、少女の声は徐々に大きく活気を帯びてきて、しまいには跳ねるような調子になった。ただし、内容は意味不明で気味悪いものだった。
夜でもないのに部屋の中が暗くなってきた。毒虫が羽ばたいているような低周波が鼓膜の裏側を通過する。寒気に震える季節でもないのに、背中が寒いと感じた。唐突に軽い吐き気を催した一二三がパニックとなり、義男の二の腕を強く握った。
「ほらっ、そこにキターッ」
夫婦の後ろを指さして、大きく鋭い声で少女が言い放った。小魚のような瞳がまん丸に見開いて、さもそこに邪悪なものがいるという臨場感に溢れていた。
「おっひゃあ」
「きゃあ」
二人はとび上がった。二十歳の恋人同士のように抱き合って、力を込めて目をつむった。それらの悲鳴を静寂が押し流して数秒経った。恐る恐る目を開けた夫婦の前には、りん子が立っていた。毛むくじゃらの小さな手を突き出して、自慢げに笑みを浮かべている。
「あれえ、いまのはなんだ。夢か、酔っぱらって夢みてたんか」
「あたしもいたよー。あんたの夢にいたさー。そういえば、前に来た時、女の子がいたね」
「ああ、そうだ。思い出したぞ。夢に出てきた女の子がいたっけ」
二十年近く前、居間の奥にある子供部屋で女の子に出会ったことを思い出した。そうだそうだと言いつつ、りん子が差し出した毛の塊を掴んだ。
「うっわ、なんじゃ、この毛は。うわっ、くっせ。猫臭え」
それのニオイを嗅いで、あまりの獣臭に顔をしかめた。
「あんた。血い出てるじゃないか。どっか切ったのかい」
義男の右頬のあたりに鮮血が滴っていた。一二三がそっと触り、続いて義男自身の指がなぞり、指に付着した血液を興味深そうに見ていた。
「いや、どこも切ってねえし」
血は滴り続けている。出所の見当をつけた二人は、ほぼ同時に上を見た。その刹那、大きくて生臭いモノが落ちてきた。
「うわあ、なんか落ちてきたー」
「犬だよ、さっきの犬だって。うきゃー、なんだい、腹が破けてるじゃないのさ」
落下してきたのは先ほどの犬だった。天井を突き破っていたが、壁が耐え切れず落ちてきたのだ。腹部が裂けて、ねっとりとした内臓がとぐろを巻いていた。
りん子は笑っていた。ゲラゲラと腹を抱えながら足を踏み鳴らし、さらに後方へ数回転してから走り去ってしまった。呆気にとられた夫婦が立ちすくみ、足元に横たわっている生々しい死骸を見つめていた。
「おげえっ」
「ぎゃあ」
突如、胃袋を内側から掴み上げるような感覚に襲われ、二人の中年は膝をついた。
「どこだー、あいつはどこにいったーっ」血走った眼で喚いているは有紀だった。
サイキックの能力でりん子を消し去ろうとしたが、あえなく弾き返されてしまい、居間の隅のほうで臥せっていたのだが、意識を混濁させながらもサイキックを復活させていた。
「やめろ、やめてくれー」
胃袋だけではなく頭の神経も痛めつけていた。両耳を押さえた義男が転げ回る。なんとか立ち上がった一二三が有紀に抱きついた。血相を変えてすがり付いてくる中年女を見て、サイキックがハッと我に返る。気合入れを止めて、一二三の首元を締めつけた。
「あの子はどこ行った、どこ行ったんだっ」
「あっちだよ。走って行ったよ」
一二三がそういうと、有紀はすぐに廊下へ出た。左を見て右を見る。すると、りん子がいた。細長い長方形の暗闇で、小さな目玉に脂ぎった光を灯している。
右手を突き出して、手のひらのすべての面積をりん子に向けた。
「はーっ」と唸りながら、息をとても長く吐いた。集中力を極限まで引き上げると、廊下がガタガタと揺れ始めた。とばっちりを恐れた夫婦は、廊下から極力離れるようと居間の窓際に身を寄せてうずくまった。胃液を少しばかり吐き出した一二三に、義男が覆いかぶさっている。
サイキックによる全身全霊の気合がりん子に集中していた。廊下の床板が、まるで波の出るプールのようにうねり、壁にボコボコと穴ができた。
「ぎゃがあああああ」
もはや人ならざるモノの咆哮だった。有紀の顔がふたたび鬼となり、目や鼻から血を滴らせながら、ありったけの力をぶつけている。
相手の本気に、りん子も応えないわけにはいかない。いつもの不敵な笑みはそのままに、背中をかいたり鼻をほじったり、小さな尻を向けて手でペンペンと叩いたりした。
「このー、クソがー、なめるなっ、ガキー」
違法な薬物を注射してまで集中力を高めたのに、彼女のサイキックはりん子に一切の危害を加えていない。女児は大人しくなるどころか、小ばかにする態度ばかり見せつけている。有紀の怒りが収まらず、廊下の破損がひどくなった。
「おい、犬っころがそっちに行ったぞ」
死んだと思われていた犬が唐突に起き上がり、多くの内容物を引きずりながら突進した。りん子に意識が集中していた有紀は、スキを突かれてしまう。跳びかかってきた犬が首へ激突し、絡みついたままぶっ倒れた。
「ちくしょう、なんだ」
ふらつきながらも立ち上がり、首に巻きついている犬の骸を捨てさることができた。だが濡れた床に足を滑らせて、ひっくり返ってしまった。
「ぷっはー」
お湯から顔を出した瞬間、「生臭い」と感じた。恍惚とした表情の父親が目の前に仁王立ちし、しばし体を震わせている。狭苦しい湯船に浸かりながら、少女はお湯をすくって顔を何度も拭いていた。
「ふう。有紀、体を洗ってやるからな。あがってこいや」
女の子の体格は、小学校高学年の平均から超えない。だが、ある種の経験値は大人のレベルに達していた。
下腹が突き出ただらしのない男が、半畳ほどの洗い場で胡坐かいている。水垢で汚れた鏡の中に、仲の良さそうな父娘が写っていた。
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