第9話
一時的に天気が回復した。雨はちらほらと降っていたが、風は凪いでいる。飲み疲れていた義男と一二三は、部屋で昼寝に勤しんだ。有紀と智也も、彼らの部屋に閉じこもったまま出てこなかった。
夕方近くになって千夏がそれぞれの部屋へ行き、一緒に食事をすることを提案した。
「そうめんを茹でるの。メロンもあるからね。一人半分ずつの大盤振る舞いよ」と、さも嬉しそうに誘った。有紀の頭痛は、薬の効果かだいぶ和らいでいた。
「では、ごちそうになります」
そう返事をしたのは智也で、有紀はうつむいたまま無言だった。
「いや、オレたちはいいわ。後でコンビニベントー買ってくるから」
若者からは快諾を得たが、隣の部屋にいる中年夫婦は遠慮深かった。
「どうしてお金を使うのよ。もったいないでしょう。メロンがあるよ、夕張メロン。お酒飲みたいんだったら、好きなだけ飲んでいいし」
「まあ、あんまし世話になってばかりも悪いしな。タダで泊めてもらってっから」
ははは、と中年男が力なく笑う。遠慮というよりは尻込みの要素が強かった。スルメのゲソを噛んでいる一二三は、黙ってくちゃくちゃと口を動かしていた。
「そう。だったらしょうがないか。またみんなでお食事できると思ったのに」
あきらめた千夏が部屋から出て行こうとする。
「ちょっと待って。ご馳走になるわ。そうめん食いたいし」
一二三が申し出を受けた。義男は驚いた表情だ。
「じゃあ、時間になったら来てよね」
夕食の時間を言ってから、千夏が母屋に戻った。
「おい、正気かよ。またあのガキと絡むのはイヤだって。呪われるぞ」
「あんたアホかい。ここにいたってお金は手に入らないんだよ。スキを見て、あの部屋に忍び込むんだよ」
食事の合間に金を頂くのだと、一二三が言う。
「そうめん食べたら、みんなで酒飲むから、あんたは便所に行くとか何とか言って二階に行きな。そこでお金を探すんだよ。あの女の子はこっちでおさえとくから」
「なあ、あのガキはきっと怨霊だって。となりの奴らが言ってたろう。そういえば、あんときも人が死にまくったし、やっぱしここはやべえんだよ。明日までじっとしといて、朝一番のバスで逃げるべや」
義男は、水産加工場がまだ稼働していた二十年近く前の出来事を思い出していた。
「あたしらは金ないんだよ。金なくてどこに行くのさ。しっかりしてよ」
いつになく弱気になっている亭主を女房が叱咤している時、誰かがドアをノックした。そして夫婦が返事をする前に、彼らは入ってきた。
「ちょっとう、なにさ。勝手に入ってこないでよ」
有紀と智也だった。一二三の制止を気にすることなく、二人の前に来て正座した。
「少し話したいんだけど」と話しかけたのは有紀だ。
「お金ならないよ」
一二三は警戒し、油断のない目つきで若者たちを見ている。義男も目力だけを真似する。
「この家のこと、千夏さんのこと、そしてあの子のことです」
細い声であったが、硬度は十分だった。夫婦は聞き耳を立てた。
「さっきも言ったけど、あの女の子は人間じゃない。この世のものではなくて、あの世のバケモノ。ヘタにかかわったら骨の髄までしゃぶられて、そのうち気がヘンになって、最後は不慮の死を遂げるの。あれは、そういう邪悪な存在なんだ」
そこまで言って、有紀はいったん話を切った。嘲りや罵声があるのだろうと予測している。この手の話をすると、いままでがそういう反応だったからだ。
「ああ、わかるぞ。あのガキはとんでもねえバケモンだ」
「やっぱりね。あたしもさ、そうだと思ったんだよ。そうかい、やっぱり人間以外かい」
だが、予想外に夫婦の態度は好意的であった。智也とともに身構えていた有紀は、少しばかり拍子抜けした。二度ほど咳払いをしてから話を続ける。
「ええ、だから、あれはおそらく千夏さんにとり憑いていて、彼女の生きる力を吸い取っている。生きる者のエネルギーを糧に、どんどん負の力を増して凶悪になっていくの」
「なんだか吸血鬼みたいだねえ」
「あの奥さんよう、最初はマトモだったけど、だんだんおかしくなってるべや。イタチの口ん中に生きたカラスがいても平然としてたからな。ふつうの主婦なら、びっくらこいて、ションベン洩らして屁えたれてるってよ」
中年男は、最後のほうを嬉しそうに言った。智也は愛想笑いを短めに、有紀は前段階の話を詳しく知りたがった。
「イタチって、なんのこと」
「イタチの口でカラスがカーカーやってたのさ。気色悪いったら、ありゃしないさ」
母屋の階段で起こったことを、夫婦はさも自慢げに話した。有紀と智也は黙って聞いていていたが、徐々に表情が険しくなる。
「あれが、獣たちの本能と情緒を狂わしまくっている。さっきは鹿やヘビだったけど、だんだん見境がつかなくなってきた。自然の理を乱せるのは、悪辣な霊の証拠だから」
「しかも、異様な力の持ち主だ。千夏さんがおかしくなっているのはマズい状況なんだ」
どれほど困難な事態に陥っているのかを、二人がそれらしい表情で示した。
「なあ、あんたら昼めしの時は陰陽師みたいことやってたけどよう、ほんとうにイタコなのか。悪霊を退治できるのか」
「霊能者にしては、あんたら若いけどねえ」
素朴な意見である。二人はいろいろと説明しなければならなかった。
「わたしはイタコじゃない。恐山とかに行ったこともないし、あの世の言葉をしゃべらない。っていうか、ああいうのはたいていがフェイクだから。一緒にされると腹立たしいわ」
憤慨したように言うが、智也は少しだけ笑みになる。
「僕たちは霊能者とか呼ばれるのは、あまり好きじゃないんです。ちょっと違いますので」
「じゃあ、なんなんだよ」
「さっきも言ったけど、サイキックよ」素っ気なく有紀が言った。
「ああ、なんかそんなこと言ってたっけ」
「そういう海外ドラマがあったねえ。いい男が主人公でさ」
夫婦へ説明するようにと、有紀の目が智也を見た。
「サイキックとして、僕は存在してはいけないモノが見えるだけですけど、有紀のサイキックは、それの超常的な力を分析して、もとの世界に戻すというか、放り込むというか、そういうことができます。除霊という人もいますが、あまり神秘的な表現になるのも、どうかと思いますね」
超自然的な現象や存在に対し、処理する能力が有紀にはあるのだと説明した
「なんか、よくわからないねえ。ようするに祓い屋ってことでしょ」
不服そうな表情の有紀であるが、智也は否定も肯定もしなかった。
「でもよう、さっきは負けてたんじゃねえか。なんだか眉間にしわ寄せて力んでたけど、全然ダメだったぜ。はあーとか言っちゃって、見てるこっちが、こっぱずかしかったべや」
「そういえば、そういうのが猿払にもいたねえ。トンボみたいな顔のあんちゃんでさあ」
「あれ、アニメバカな外国人だったな」
悪口が大好きな夫婦は、いつものように本題から遠いほうに離れていく。以前働いていたホタテ加工場の出稼ぎ労働者を、なじって喜んでいた。
「聞いて」
苛立った有紀が大声を出す。夫婦は黙った。
「たしかに昼は失敗したけど、今度はちゃんとやる。絶対にやり遂げるから」
夕食に招かれているので、そこで決着をつけると有紀が宣言した。気合のこもった目線を投げつけられた夫婦は、茶化したりすることができず大人しく聞いていた。
「だから、おじさんたちにも協力してほしいんです」
「協力ったって、オレたちは幽霊とかにシロウトだから、どうにもならんぞ」
「そうだよ。それに危ないことや痛いことは、あたしはイヤだねえ」
「有紀とあの女の子を二人っきりの状況にしたいので、その時は席を外してくれませんか」
智也が適当な理由をつけて一時的に千夏を連れ出して、りん子から離す。その隙に有紀と二人っきりになり、りん子を消すという作戦だ。
「別に一緒にいたいのなら止めやしないけど、その時は覚悟することね。相当に痛いかも」
なんにせよ、修羅場に立ち会いたくはないとの思いは夫婦に共通していた。サイキックたちの指示通りにすることを承諾する。
「そうだ」
突如として一二三が閃いたようだ。義男の耳たぶを自分のほうへ引っ張って、声が漏れぬよう耳打ちし始めた。
{あの子供は一筋縄じゃいかないんだ。きっと大騒動になるよ。すったもんだになるから、あんたはそのスキに二階に上がって、お金を探してきなよ。見つけたらすぐにトンズラするからね。こんなヤバっちいとこ、一晩でもゴメンだよ}
練りこまれた女房の策に、義男はウンウンと頷く。さらに右手の親指を真上にあげて、サムズアップをキメてニヤリとした。一二三が、その指をへし折るように隠す。
「それにしてもよう、あのガキは、なんであの世から出てきたんだべな。奥さん絡みか」
「さっき家に行ったら、子供部屋があって、そこに女の子の机が二つありました。おそろく、千夏さんの姉か妹が亡くなったんじゃないでしょうか。その子に対する千夏さんの想いが強い執着となって、あれを呼び寄せてしまったんじゃないかと」
千夏に詳細を確認してわけではないのだが、智也はほぼ間違いないと思っていた。
「おじさんたちは、前にこの工場で働いていたんでしょう。女の子のことおぼえてないの」
有紀に言われて、昔のことを思い出そうと夫婦そろって右上を見ている。
「ああ、そういえば小学生がいたっけなあ。女の子だったかな」
「でも、一人だけだったんじゃないの。一人娘だったような気がするけど、わかんねえさ」
紙のように薄っぺらな記憶である。信憑性に欠ける話は、すぐに立ち消えとなった。
段取りを決めた後、有紀と智也は夫婦の部屋を出た。自室に戻り、二人だけの作戦について話し合いをする。
「あの人たち、自分たちにもサイキックがあるのに全然気づいてない。バカみたい」
「女の子が見えているってことは、そういうことだからね。教えておいたほうがいいのかな」
「放っておこうよ。なに仕出かすかわかんないし」
有紀は自分のリュックサックの中から細い棒を取り出し、底を止めているゴムを回し始めた。智也が感情の抑揚を感じさえない目で見ている。
「やっぱり、それをやるのか」
「そうよ。とてもじゃないけどシラフでは闘えない。あの女の子の力は底が見えない。さっきはまったく歯が立たなかった。集中力を天井まで上げないと、こっちがやられちゃう」
振り出し式の延べ竿の底にある止めゴムを外すと、細い注射器と小さなビニール袋がいくつか出てきた。
各袋の中には少量の粉剤が入っている。粘り気のあるビニールの小袋を歯で少しばかり千切り、中の白い粉をスプーンに落とした。ペットボトルから水を数滴たらして、底をライターの火で炙る。十分に冷ましてから、注射針でその液体をすべて吸い取った。一人ではなく、智也との共同作業である。
「僕が打つよ」
「うん、お願い」
静脈注射となるので、有紀の右腕の血管を浮き立たせる必要がある。適当なヒモが見当たらないために、充電ケーブルを使用した。コード部分が布繊維のそれを、智也が有紀の腕に巻きつけた。肘窩をトントンと指で叩くと、青っぽい筋が浮き出てきた。
「外さないでね。この前は中で血管を探したから、すごく痛かった」
「うん、わかってる」
注射針が薄い皮を突き通して血の管へと入った。シリンダー部分を押し込むと、中の液体が血管へと流れ込んでゆく。処置はすぐに終わり、智也は針を引き抜いた。有紀は目をつむって壁にもたれかかっている。ゆっくりと鼻で呼吸をしていた。
「そろそろ夕食の時間だけど、どうする」
「もうちょっと待ってて」
しゃべるのも億劫な様子だったが、時間が経つにつれて虚ろな目に生気が戻ってきた。
「おじさんとおばさん、指示通りに動いてくれるかな。勝手をしそうな気がしてさ」
「その時は、あれにやられてしまうまでよ。たぶん、心筋梗塞か脳溢血で死ぬと思うけど、寿命だと思えばいい。きっと、くだらない人生だから自業自得よ」
両手で顔をバシバシと叩いて、有紀が気合を入れていた。タイミングを見計らって智也が言う。
「有紀、千夏さんのことだけど、その、だから・・・」
言い淀んでいる智也を見ているのは冷めた目線だった。
「なに、ハッキリ言って」
「僕は、千夏さんは助けてあげたいんだ。あの女の子を追いやった後、だから、あんまり取らないでほしいんだ」やや伏し目がちに言うと、さらに首をたれた。
「とり憑かれるような人間は、もともとロクなもんじゃない。その時は解決しても、どうせ違うヤツらのエジキよ。何度も見てきたでしょう。そういうたぐいの人は、結局は救われない。だから、わかるでしょう」
「うん」
智也は有紀のいうことに強く反論はしない。そうやって、数年間を共に歩んできた。
「わたしたちはアレらがとり憑いた人に付け入って稼ぎにしてるんじゃないの。智也があの世のものを嗅ぎつけて、わたしが追い返す。そのあとにマヌケな人たちを脅して現金を巻き上げる。あの人だけ特別扱いはできない」
「ここには、そんなにお金はないよ。家の中は質素だし、工場がやってないんだから金の動きはないはずだし。あるのはたいして価値のない不動産だけだと思う」
「どうして、そんなにムキになっているの。あの人が好きになったの。ババアじゃないのさ」
痛みが感じる程度の嫉妬を混ぜ込みながら、嘲るように言い放った。
「そんなんじゃないよ。ただ人のよさそうな感じだから可哀そうで。それに」
「それに、なに?」
「あのバケモノの女の子は、いままでのとは違うと思う。力が桁違いなのは間違いない。お金を得るどころか、失敗してヒドいことになるかもしれない。千夏さんに事情を話して、どこかに逃げるように説得したほうがいいのかも」
親切にしてくれている千夏の不利益を望まないと同様に、智也は、りん子に対する強い危惧を感じていた。
「ちょっとう、ここを嗅ぎつけたのは智也じゃないの。なに弱気になっちゃてるのさ。自分のサイキックを信じられなくてどうするの。あの世の存在を嗅ぎつけるのが、あなたの得意技じゃないの」
「いや」
なにか言いたそうに口を開くが、智也はその言葉を飲み込んだ。
「大丈夫よ。今度は仕留めてみせるから。さっきは体調が悪くて集中できなかっただけ。薬も打ったし、あんな貧乏くさい子供、楽勝だから」
しゃべり方に跳ねるようなリズムがあった。薬によって活力がみなぎっている。
「万が一危なくなったら、あのおっさんとババアを盾にする。心配はいらないわ」
有紀にとって中年夫婦の優先順位は、犬や猫を通りこしてハエや石ころに近かった。
「じゃあ、いくよ」
「待って」
意気揚々と出て行こうとする有紀を、智也がいったん止めた。千夏には穏便に対処するように再度頼み込んだ。
「いいよ。そんなに言うんだったら、あの人からは何もとらないから。今回はタダ働きになるけど、この次の稼ぎは智也の分までもらうよ」
智也は、その交換条件を了承した。千夏のことは気がかりだったが、りん子の存在が心の柔らかいところに引っ掛かっている。悪い予感が振り切れずストレスを感じていた。
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