第8話

「おっとう。おいおい、なんだよ兄ちゃん。ちゃんと歩けよ」

 廊下の突き当りを曲がろうとしたところで、智也は義男とぶつかりそうになった。

「おっかしなやつだなあ、牛か」

「はんかくさいんでないかい」

 一二三子も一緒だった。智也にかまわず通りすぎる。

「なあ、あのあんちゃん、泣いてなかったか。どこかにチンコでもぶつけたか。オレも気をつけなきゃな」

「あんたのは、ちっさいから大丈夫さ」

 二人は家主の許可がないのに、遠慮なく居間へと入った。

「奥さんいるかあ」ソファに寝ている千夏を見下ろしながら言う。

「ああ、なに」

 千夏は、ひどくだるそうに返事をした。声だけ出して目は開けていない。眉間にしわを寄せて、機嫌が良くないことを、それとなく告げていた。

「備品の倉庫に行ってもいいべか」

「ええっと、なに」

 義男の話が千夏の頭に入らない。眠いというより億劫だとの気持ちが強かった。

「オレよう、前に働いてた時に事務所の倉庫の係だったんだけども、財布を落としちまったんだ。あんときはゴタゴタしてて見つけられなかったから探してえんだよ」

「あそこはゴミしかないけど」

 水産加工業を止めてから二十年近く、母屋にある旧倉庫は後片付けされられぬままの状態であった。もはや価値のなくなった雑貨類しかない。

「ちょっと探してもいいべか。なあに、すぐに済むからよう」

「ええ、まあ」

 薄弱であったが、家主の許可は下りた。夫婦はニンマリとする。

「奥さん、なしたのさ。具合悪いのかい」

「いえ、薬を飲んだので、ちょっと眠いだけだから」

 いかにも心配しているような社交辞令は、なにかの企みをするには必須であり、煙幕となる。二人は居間を出て廊下を歩いた。

「奥さん、なんか薬で寝てるみたいだよ」

「ありゃあ安定剤かな。なんにしても好都合だ。こいつは春から縁起がいいぞ。へへへ」

 大幅に増築した住宅部分には事務所や倉庫、従業員の休憩室などがあった。

「ねえ、倉庫ってどこだったっけ」

「久しぶりに来たから、わかんねえなあ」

 夫婦は目的の部屋が見つけられず、風呂場に入ったり便所の戸を開けたりしていた。 

「たしか、二階にあったんじゃなかったっけ」

「そうだ、思い出した。この階段か」

 廊下の真ん中に階段があった。いかにも急ごしらえの造りで、急な隘路である。

「こんなに急だったかい。梯子みたいだねえ」

「まあ、もともとでかい家だけど、それをまた無理矢理増築してたからな」

 夫婦が左右それぞれから顔を出して、使われなくなった斜面を見上げていた。壁にある照明のスイッチを押すが、はるか上に設置された灯の力は乏しかった。薄暗い急階段をそろりそろりと登ってゆく。二階には、一畳ほどの踊り場の正面と左側にドアがあった。

「向かいが事務所で、こっちゃが倉庫だったな」

 義男が左側の戸を押し開けた。窓のない部屋は真っ暗で、埃とカビのニオイがむわっと押し寄せた。壁の照明スイッチを押すと、何度も瞬きしながら、ようやく点灯した。

「しっかし、暗えなあ。もうちょっと明るくなんないのか、これ」

「点くだけマシさ。早く八十万を頂くよ。もう、金がないんだからね。わかってんのかい」

「わかってるからここまで来て、あぶねえ橋を渡ってんじゃねえか」

 ささやかな発光量の下、夫婦は小さくない声で囁き合っていた。

 備品倉庫だった部屋は、備品庫というより完全に物置となっていた。がっちりとしたスチール製の棚が二つ並んでおり、その間隙に使わなくなった物品が放り込まれ、散乱していた。家電製品、廃灯油ストーブ、事務用品、雑貨類などがあった。

「ほら、早くとってきなよ」

「とってこいって言ったって、すぐにはムリだあ」

「ムリって、なしてさ。あんた、どこに隠したのさ」

「床のフローリングが腐って浮いていた場所があったんだ。そこを引っ剥がして入れたんだけど、どこだったかなあ。あんときはこんなに物がなかったけど」

 雑多な物だらけで、フローリングの床面が見えなかった。

「まあ、あのときは死人が続いてゴタゴタしてたからねえ」

「だから、金をかっぱらってもバレなかったんだけどもなあ」

 昔の出来事を思い出し、掃除中に古いアルバムを見つけた時のように懐かしんでいた。

「ひどい事故だったねえ。あたし、つぶされた人を見たんだよ。血がすごかったさ」

「オバハンだったか。心臓が爆発して死んだのはよう」

「どこだかの電気触って感電したっしょや。焼けちゃってさあ、ひどかったみたいよ」

「アバラから心臓がとび出してたっていうしな」

 過去に何度も話題になった内容を、初めて話すような口調だった。同じことをダラダラと繰り返すのが、この夫婦の十八番である。

「どっからきたのか野犬がたかってきて、ひっどかったなあ。何人も噛まれて保健所くるし、事故で警察もくるし、てんやわんやだった」

「あんた、あのどさくさでよくかっぱらったもんだよ。手癖が悪い男は立派だねえ」

「事務所に忍び込んだら札束があったからな。死んだやつの家族に見舞金でも渡すんだったんだべか」

 耳にタコができるほど聞いた自慢話だが、一二三は嬉しそうだった。

「さあさあ、早くお金を頂こうよ」

 一二三の顔が火照っているのは酒が残っているだけではない。

「奥さん寝てるうちに探したいけど、こんなに物があると床をひっくり返せないべ」

「ありそうな場所をほじくればいいべさ」

「あんまし憶えてねえし、この鉄のラックの下かもしれねえし、少しずつやるしかねえ」

「なんだい、たよりないねえ」一二三がタバコを吸い始める。義男が片付けの段取りを考えている間に一本目を吸い付くし、二本目に火をつけた。

「ぐずぐずしないで、あの時に持ってくればよかったんだよ」

「あんなあ、警官がウロウロしてんのに現金もってたらヤバイだろう。刑務所行きだぜ」

「ふん、なにさ」両方の鼻の穴から極太の煙を勢いよく排出する。

「まあ、とりあえず奥さんが寝てるうちに、やれるだけやるか」

 雑多な物を、倉庫の空いたスペースに積み上げていくことにする。産業革命時の炭鉱夫のように、義男は狭苦しい暗闇の中へ身を入れた。

「ねえ、あったのかい」

「そんなに早く見つかるわけねえだろう。焦らすんじゃねえよ」

 物をかき分けるが、フローリングの床材にたどり着くには、まだまだ頑張らなければならない。そうしていると、義男の尻がスチール製ラックのフレームに当たってしまった。

「うわっ、ありゃりゃりゃりゃあ」

 ガラガラと派手な音を立てて、棚に置かれた物品が落ちてきた。

「あんた、なにやってんの。奥さんが起きるじゃないのさ」

「ちょっと触ったのに、こんなに落ちてくるかよ。ラックの足が錆びて傾いてんだな」

 丈夫なスチール製といえども、四つの足のどこかが破損しているとバランスが悪くなり、少しの衝撃でも傾いてしまう。その棚に置かれていたのは書類の類で、アナグマみたいな姿勢で物をどかしていた義男は、大量の紙を頭からかぶってしまった。

「ひでえよなあ」ブツブツ言いながらも、乱雑に積み重なった紙を片付け始めた。 

「ん、なんだ」

 コピー用紙をかき分けていた義男の手に奇妙な感触があった。

「あんた、見つけたのかい」

 金が見つかったと思い、一二三はタバコをもみ消した。

「いや、金じゃないけど、なんだこれ。おい、ちょっと見てみろや」

「なんだい、お宝かい」

「お宝っていうか、ええーっとう、鼻?」

 折り重なった紙の隙間から小さな突起が生えていた。義男は目を凝らして見た。

「鼻か。いや、鼻がこんなところに落ちてるわけねえし」そうつぶやいて、ちょんちょんと人差し指で軽く突っついた。すると、ガバッとそれが起き上がった。

「おぎゃ」

 義男が、カエルのようにひっくり返った。彼の背後から覗き込んでいた一二三も重なりながら同じ体勢となった。

 キャッキャッと黄色い笑い声とともに起き上がったのは、りん子だった。

「おい、ガキんちょじゃねえか」

「ちょっと、あんた、どいてよ」

「あ、こら、痛い、痛いって」

 熟れた上半身を引き起こし、一二三は亭主の後頭部をポカポカと叩いた。二人はじゃれ合いながら後退し、部屋から出て階段の縁にいた。一二三の体半分が空に浮いている。

 りん子がニヤリと笑った。弾かれたように突進すると、義男の顔面を右足で蹴って、間髪入れずに一二三の顔を左足で踏んで、そのままジャンプした。十数段ある急勾配の階段上を斜め下へと滑空し、ノーバウンドで一階の廊下に着地した。

ドン、とすごい音がした。

 新藤家の巨大な母屋が傾くと思われるほどの地響きと揺れであった。なんとか階段からずり落ちないように頑張っていた一二三であったが、起き上がった時に女児に顔面を踏み付けられ、さらに大きな揺れがあったので辛抱できなかった。

 ガガガガガガと、背中で段差を削りながら一階まで滑り落ちてしまった。

「いたたた、ふぎゃっ」

 下半身をまだ階段にのせていた一二三の顔を再び踏みにじって、りん子が駆け上がってゆく。ただし階段を使ったのは初めの二歩であり、残りは蜘蛛のごとく壁をよじ登った。

 あっという間に二階の天井に到達し、そのまましがみ付いた。仰向けに倒れている義男と、りん子の目と目が合った。女児は四つん這いで、しかも逆さまだった。

「あひゃあ」

 その幼顔が音もなく落下して、中年男の顔に激突した。衝撃で撥ねた義男が階段を転がり落ちて、下にいた一二三とぶつかる。りん子は再度側面を駆け上がり、天井に立って静止した。コウモリ人間のように下を向いて二人を見ていた。

「ほへ~、あのガキ、天井に逆さまに立ってるべや」

 ありえない光景を見て、能天気な酔っ払いもさすがに驚いていた。

 二階廊下の窓がガタガタと揺れている。逆さに立っていたりん子が鋭い目線を向けた。

 突如として、ガラス窓を叩き割って黒い羽ばたきが飛び込んできた。鼓膜と聴神経の伝達を阻害しようとする醜い泣き声を撒き散らしながら、複数が落下してきた。

「な、なにさ」

「おひゃあ、カラスだ。一二三、あぶねえぞ。突っつかれるべや」

 じっさいに突っつかれたのは義男であり、一二三はうまく体をかわしている。

四羽のハシブトガラスが中年男にたかっていた。ガアガア鳴きながらバタバタと羽ばたき、おもに中年男の頭部に対してくちばしを突き立てていた。

「あんた、目玉やられるよ。カラスは死人の目玉を食うんだ」

「オレは死人じゃねえぞ。つか、うわっ、マジでやられる」

 顔は手で防いでいるので目玉をくりぬかれることはなかったが、その代わり手薄となっていた頭部に攻撃が集中していた。フケと脂で汚れた中年男の頭髪が抜き取られている。

 一二三がポケットに手を突っ込み、小さなスプレー缶を出した。「死ねや、オラー」と、育ちの悪さを吐露しながら中身を吹き付けた

「あひゃ、ばか、やめろ。オレにかかってるべや。うわあ、辛い、痛い、熱い」

 外国人労働者から仕入れた催涙スプレーは強力であり、熟成されたスコビル値がただならぬ臭気を発散し、カラスではなく義男を苦しめていた。

 たまらず義男が逃げにかかり、カラスたちがあとを追う。鋭い爪が廊下で滑り、羽ばたいてはお互いにぶつかり、壁に衝突しながら相変わらずのダミ声を響かせていた。

 甲高い笑い声が聞こえた。夫とカラスたちを見ていた一二三が階段を見上げる。すると天井に逆さに立っていたりん子が、そのまま落ちた。上から二段目の踏み板に脳天から激突し、倒立しながら一瞬止まった。

「はへ」

 一二三が呆気にとられながら見ている。すごい音がしたので、板が割れたか女児の頭蓋が砕けたと思っていた。

 踏み板に頭から突き刺さるように倒立しているりん子が、ゆっくりと傾いてきた。逆さで気をつけの姿勢のままバタンと倒れると、そのまま足から滑り落ちて、いまだに床に寝そべっている一二三を、向こうの壁まで蹴り飛ばしてしまった。「ぎゃっ、ほげっ」

「お、痛っ、うわ、ぎょぎょ、助けてくれ~」

 カラスに襲われている義男が助けを求めるが、強打された一二三は動けない。

りん子が立ち上がり、子供とは思えぬふてぶてしい笑みを浮かべた。キャッキャと奇声をあげて走り出し、中年男の毛髪を毟り取っているカラスをつかんだ。

 グエエエエー。

 首を絞めつけられたカラスの悲鳴が凄まじかった。バタバタと大仰に翼を動かして逃れようとするが、女児の握力は万力のごとく苛烈だった。

 違う一匹が仲間の窮地を察して義男から離れた。凶暴な猛禽がりん子に向かって羽ばたき、そしてまとわりついた。さらに別の二羽も追随し、合計四羽となった。

 りん子は、空いているもう片方の手で飛んできたカラスをつかんだ。両手に真っ黒くて不潔な鳥を握って、バタバタと本人が羽ばたき始めた。女の子の笑い声と、首をへし折られかけているカラスたちの苦悶の呻きが重複する。

 りん子の両手が激しく上下している。その先にガッチリと捕獲されているカラスたちは、上下に激しく揺さぶられていた。女の子の遊びに否応なしに付き合わされているが、ダミ声で呻きまくっていて楽しくはなさそうだ。

 りん子は残りの二羽もつかまえてしまう。手は塞がっているので、なんと足のつま先であった。カラスの首を、左右それぞれの足指で器用に挟み込んでいた。

「うおー、オレの頭が血だらけだべや」

 カラスが義男の頭を傷だらけにした。たいした怪我ではないが、こと自分のことに関しては大げさに振る舞う男である。頭を何度もさすりながら、些細な出血を気にしていた。

 一二三が立ち上がった。腹部にダメージが残っていたが、ふだんからゲラゲラ笑うことが多いので腹筋は鍛えられていた。

「な、なんだい、ありゃあ」

 りん子が浮いていた。四肢でつかんだカラスを激しくバタつかせ、薄暗い廊下でホバリングしている。凄絶なる鳴き声が、聞く者の清廉な鼓膜を引っ掻いていた。耳の奥から顎にかけてのリンパ節が、じくじくと痛むほどだ。

 それは例えようもないほどの醜怪な飛行物体に見えた。もしもこのような生物が存在していたら、神が有している造形美を全否定いたい衝動に駆られるだろう。歓喜に満ちる飛行少女の声と、もはや化け物の咆哮となり果てたカラスの喘ぎ声が猛烈にうるさかった。

 見たこともない不定形の魔物が、床上数十センチ上空を飛んでゆく。一二三は固まっていた。義男が呼んでいたが、この時ほど夫の存在を気にかからなくなったことはなかった。気まぐれな蝶のように廊下を行ったり来たりしている不気味な飛行物体に、夫婦はすっかり心と目を奪われていた。

 それは、急な階段を羽ばたきながら上昇する。横幅が狭いので、手足を折りたたんで、二階まで羽ばたいてしまった。さらに割れたガラス窓をサッシごと破壊して、強風と大雨で大荒れの外へと出て飛び出した。

「なあ、一二三。いまのはなんだ」

「そんなの、見たまんまさ」

「あのガキんちょ、カラスをつかんで飛んじまったぞ。やっぱよう、いまの子供はすげえよな。ゲーム世代っていうか、オレたちとは違うんだべや」

 ゴマ塩頭のあちこちが切り傷だらけだ。痒いのか、しつこく頭を掻いては指先のニオイを嗅いだ。

「あんた、バカじゃないの。あんなの、この世のもんじゃないよ」

「この世のものじゃねえって、さっきの姉ちゃんたちも、そんなこと言ってたなあ」

 義男がポケットから焼酎の小瓶を取り出して、グビグビと飲んだ。一二三がそれを横取りして、すべて飲み干した。二人はその場に座ってヒソヒソ話をしている。

「そこに座ってなにしてるの」

「うわあ」

「ひゃあ」

 突然声をかけられて、夫婦は酒臭い息とともに凍りついた。

「私、ちょっとシエスタしちゃったみたい」

千夏だった。夫婦を見て、さも眠そうに目をしょぼつかせている。

「ちょっと、おじさん、その頭どうしたの。血が出てじゃないの。うわあ、黒い羽がたくさん落ちてる。これ、カラスかなにか」

 廊下には、りん子に蹂躙されたカラスの羽根が散らばっていた。いかにも黒々としてピンと真っ直ぐな一つを手に取った千夏は、ニオイを嗅いでから元の場所に置いた。

「奥さんよう、あんたの娘さん、ありゃあヤバいぜ。ヘンなものでもついてんじゃねえか」

「そうだよ。絶対おかしいよ、ありえないよ。見たことないって」

 多少酔っぱらっているが、二人の表情は真剣だった。

「りんちゃんのことで、またまた失礼なこと言われてるんだけど」

 そう言って、千夏は腕を組む。はあ~あと大きなあくびをした。

「だいたい、私の娘じゃなくて、妹の子供。めいっ子だから。さっきも言ったけど」

「いやいや、人間ワザじゃねえぞ。でっかいカラスふん捕まえて飛んでるんだからな」

「そうだよ。バタバタやって、二階の窓から外に出て行ったさ。バケモンだよ、あれは」

 夫婦の必死さは、酒臭い息のせいでかなり緩和されていた。

「ちょっとちょっと落ち着いて。さっきも若いお二人さんにひどいこと言われたけど、なんなの。ゲームかなにか。お酒の飲みすぎはよくないなあ」

「奥さん、あの女の子はさ、ほんとうに姪っ子さんなのかい」

 一二三がそう言うと、千夏はややあきれ顔だった。

「めいっ子よ。当り前じゃないの。妹の娘。名前はりん子、りんちゃんよ」

「墓場から拾ってきたんじゃないの。妹さんの幽霊が玄関の前に置いて行ったとかさ」

「ほら、一二三、あれだよ。井戸から出てくる女。呪いのなんだかの、エロいやつだ」

「あんた、それはパチンコっしょ。なに言ってんのよ、もう」

 それは有名なホラー映画でしょう、とツッコミを入れたい千夏であった。ちょっと顔を背けてクスクスと笑う。

「奥さんねえ、笑いごっちゃないんだよ。バケモノの話をしてんだからさ」

「ごめんなさい。でも、ご心配には及びませんから」

 失礼にならないように、千夏は真顔となって言った。そして上半身を後ろに半回転させ、そこにいたものを前に出した。

りん子だった。

「あんれえ、いつの間に戻ってきたんだよ。だって、カラスをくっ付けて二階の窓から飛んで行ったじゃないのさ」

「おお、そうだよ。なしてここにいるんだ」

 やんちゃな女の子は腹でも壊したのか、拾われてきた子猫のように大人しかった。千夏の体に半身を隠して、臆したように大人たちを見つめている。

「りんちゃんは私と一緒にいたよ。ソファで寝ているときに、床でお人形さんをいじってたから。カラスとどこかに行ったのは、ええーっと、たぶん気のせい?お酒のせい?」

 とぼけた顔で首をかしげながら、またクスクスと笑う。

「気のせいなんかじゃないよ。ほら、あそこ見てみな。ガラスが割れてるじゃないのさ」

「とにかくカラスがとび込んできて、オレの頭をこんなにしやがったんだって」

 夫婦は、それぞれ頂点を指さした。あそこだここだと、口を尖らせて言っている。

「ガラスが割れているんだったら、片付けないと。りんちゃんはここにいてね」

 千夏はいったん台所に行って、箒と塵取りをもってきた。

「奥さん、行かないほうがいいさ。ロクなことにならないよ。バケモノがでるって」

 階段を上る千夏の背中にそう言ってから、一二三はチラリとりん子を見た。女児は所在なさげに鼻をほじっている。ドロッとした黄緑色のスライムを指先に付けて、興味深そうに見ていた。

「うわ、気持ち悪い」

 階段の踏み板をあと二段ほど残して、千夏が立ちすくんだ。

「やっぱり、ヤバいもんでも出たか」義男が遥か下から声をかける。

 千夏は返事をしない。きっちりと足を揃えて突っ立っている背中しか見えなかった。

「あんた、行ってきなよ」

 一二三が義男の手を引っぱった。夫は戸惑い、狼狽したが、意を決して登ってゆく。 

「奥さん、あぶねえもん、いるのか」

「それ以上来たらダメよ。ガラスが散らばっているから」

 不用意に近づいて来る中年男を、千夏の後ろ手が静止させた。ふだんはカドのない柔和な声なのだが、鋭くて躊躇いのない言い方だった、 

「カラスじゃなくて、ガラスか。まあ、ガラスのほうが危ねえかもな。へへ」

 予想の範囲内であるので、義男は安心している。うつむいている千夏から出ている否定的な雰囲気を見逃していた。

「ガラスの前に、これらをなんとかしないと」

 千夏がつぶやいて半身を反らした。義男が二段上がって窓下を見た。そして横たわっているモノを発見する。

「なっ、なんじゃこりゃ」

「多分、イタチだと思うんだけど」

 千夏がイタチだと見做す動物が一匹、二階の廊下に横たわっていた。

「イタチが、なしているんだ。死んでんか、これ」

 死んだように動かないイタチと思われる動物は、イタチとは思えぬ形状をしていた。なにがどういう具合になっているのか、瞬間的に見ただけでは、その映像を脳内で再構築できないくらいに奇妙で不可解なモノだった

「どうなってんだ、これ。こいつ、なに食ってんだ」

 イタチの口から黒いものがとび出していた。舌ではない。獲物を咥えているのだと義男は判断した。

「たぶん、カラス」ボソリと千夏が言う。

 アゴが外れるほど開け広げているイタチの口からは、カラスの頭部がとび出していた。ハシブトガラスの湾曲した極太くちばしが、イタチの喉から出ているのだ。

「こいつ、猫より小せえくせしてカラス食ったのか、すげえな。大食い選手権だ」

「食べたんじゃないよ」

 グエーッと、そのくちばしが鳴いた。驚いた義男の体が後ろに傾いたが、千夏がガッチリと腕をつかんだので、ひっくり返ることは免れた。

 カラスが喚いていた。イタチの口の中で、さもイタチが発しているかのようにである。

「こいつ、喰われたのにまだ生きてやがる」

「だから、そうじゃないって」

 喰われているにしては、カラスの声に生気がみなぎりすぎている。逆に、イタチには生きている感触がまったくなかった。顔は何度も動いているが、それはカラスのくちばしで口が押し開かれているためであり、裂けたアゴはすでに外れていた。

「これヘンでしょう」

「なにがだ」

 極めて異常な状態であるのは一目瞭然なのだが、義男の思考が停止状態だ。

「だって、このイタチの体の中にカラスが入るわけないでしょう。猫よりも小さいのよ」

「そりゃあ、カラスの首だけなんじゃねえか」

「首だけのカラスが、こんなにも鳴くわけないじゃないの」

 イタチの体の内側からなにかが突き上げているらしく、胸の毛並みがバタバタと揺れていた。カラスは、相変わらず不吉なハスキーボイスを披露している。

「おわっ」

 ソレが突如として起き上がった。イタチ自体は死んでいると思っていたので、義男はびっくりして、また後ろにのけ反った。今度は千夏のつかみが弱く支えきれなかった。ひっくり返りはしなかったが、足元から崩れて階段を滑り落ちてしまった。

「うー、いたたた。死亡したんじゃないか、オレ」

「あんた、なにやってんだい。やっぱり上になんかいるのかい」

 口からカラスの頭を突出させたイタチが、ブルブルと痙攣しながら歩き出した。自分のすぐ横を通って階段を降りるハイブリットな獣を、千夏はうつろな目で見ていた。

「なんか来たよ。あんた、なんか降りてきたって」

 それが近づいてきた。イタチのくせにガアガア鳴いて、四肢を不格好に動かしている。たまらず、夫婦が階段からかなりの距離をとった。

「あれ、なんなのさ。鳥なのか犬なのか、ハッキリしなよ」

「カラスをイタチが食ったから、イタチカラスなんだよ。イタチなんだけど鳥みたいな」

 この異様な生き物の分析を終えた義男が、その結果を伝えた。

「あんたの言ってること、わけわかんないよ。あぎゃっ」

「うわっ」

 りん子が夫婦の尻をパンパンと蹴ってから、イタチカラスとの間に入った。例のごとく不敵な笑みを浮かべる。

 鳴き続けていたカラスが沈黙した。イタチの体勢が低くなり、アバラ付近がバサバサと盛り上がった。警戒しているのか、少しずつ後退していく。カラスの頭部が小首をかしげると、イタチの頭も傾いた。見た者の頭の中が混乱せずにはいられない。

 それはカアカアとではなくて、シャーと唸った。声の出どころが鳥なのか獣なのか判然としない。りん子が駆け出した。

「おかしいだろう、あのガキ」

 真っ直ぐにではない。真横にである。左側の壁を駆け上がり、長方形な廊下の内側をらせん状に走る。短い手足をホイホイと動かし、いかにも児童な走り方は相変わらずだ。

 あっという間にイタチカラスの頭上に位置すると、気をつけの姿勢をして逆さまのまま頭から落ちた。それの背中に激突すると、すぐさま絡みつく。イタチカラスと女児がゴロゴロと転がりながら夫婦のもとへやってくる。

「あんた、きたよ、こっちきた」

「おい、くるなよ」

 りん子は、それを完璧に組み伏せていた。膝で首をガッチリと押し付けているので、身動きできず、喘ぎ声をあげることもできなかった。

「ガキんちょ、なにやってんだ」

「ひっぱってるう」

 引き抜いていた。

 ぐへへへと笑っている女児が、イタチの口の中から突出していた黒いくちばしを握って、ぐいぐいとやっている。カラスの頭部が徐々に露出してきた。イタチの体がしぼみ四肢が痙攣している。

「なんなのさ、気持ち悪いー」

「ホルモン出てきた、ホルモン」

 出されているのはカラスの本体である。血と体液が混じったローションたっぷりのカラスが引きずり出された。足の爪がイタチの内臓に引っかかっていたのか、白赤の柔らかそうな臓器が絡んでいた。バサバサと羽ばたくので、ねっとりとした汁が周囲へ飛び散った。

「あちっ」

 数滴を頬に受けた義男は、人肌ほどの温度でしかない汁を熱いと錯覚した。

 りん子はくちばしを握って離さない。苦しいのか、カラスは暴れまくる。なんとか羽ばたいて飛ぼうとするのだが、羽が濡れているのと頭部を固定されては無理だった。

「おっわ、このガキ、なんてことしやがるんだ」

 その鳥は壁に打ち据えられ始めた。石膏ボードが割れて穴だらけとなり、壁紙に薄朱色の飛散染みが出来上がった。りん子は奇声を発しながら振り回し、下半身は喜びに踊っている。楽しさを爆発させていた。

「りんちゃん、それ離しなさい。汚いでしょう。もう、汁を飛ばさないで」

 二階から降りてきた千夏が、めいっ子の暴走を止めさせようとする。後ろから抱きついて、手首をつかんだ。カラスは、すでにめちゃくちゃになっていた。翼が折れているのは当然として、体内の骨という骨が破壊されている。すでに死んでいた。

「カラスとイタチが家の中に入ってくるなんて、やっぱり異常気象ね。地磁気が狂っているから、動物たちがヘンなふうになっているんだわ」

 千夏は、クラゲのように柔らかくなったカラスを、溺死した犬のように横たわるイタチの上にのせた。手についた汁を破れた壁紙で拭う。

「奥さん、気候とかの問題じゃねえって。だってよう、そのカラス、イタチの体ん中に入ってたんだぞ。どう考えても無理無理だべや。ありえねえって。なあ、そうだろう」

 援護射撃が欲しくて、義男が一二三に視線を流す。

「そうさ。そんでイタチの中に入ってるのに、カラスが生きてるってマンガだよ」

 夫婦へ向かって、りん子がふざけて手を伸ばすと、二人そろって短い悲鳴をあげて後退した。千夏は笑っている。

「すみませんけど、この動物たちを外に捨ててきてくれない。私は二階のガラスの片づけと、それと割れた窓になにか貼らなきゃならないから」

 千夏は役割分担を申し出るが、夫婦の心境としてはそれどころではない。

「なあ奥さん、オレの言ってることわかるかい。片付けどころじゃないんだよう。なんかヤバいことになってんだって。その女の子もさあ、なんていうか、こう、わかるだろう」

「あんた、ハッキリしなよ。言ってやりゃあいいんだ。バシッとさあ」

「だから、なんつうか、なんだ。こう、そのう、こりゃおかしいぜ」

「なんだい、その言い草は。なさけないねえ」

 煮え切らない亭主に、女房は失望の表情を隠さない。おもろい夫婦のやりとりを、千夏は生温かい目で見ていた。

「じゃあ、お二人さん、この動物たちを頼みますね。りんちゃんは二階の事務所にいようね。おばさんが後片づけするまで待ってて」

 千夏はりん子の手を引いて、急な階段を二階へと上がった。中年夫婦の横を通り過ぎる間際、女児が顔を向けた。もはや恒例となった不敵な笑みを、これでもかと見せつけて行ってしまった。

「ほら、行っちゃったじゃないのさ。どうすんのさ」

「どうするって、とりあえずカラスとイタチの死骸をどっかに捨ててこねえとよう」

「そういうこっちゃないよ、お金だべさ。八十万がないと、どこにも行けないっしょや。もう一万円もないんだ。ここはヤバいから、用が済んだらさっさとドロンするんだよ」

「いまは奥さんとガキんちょが上にいるから無理だべ。それよか大丈夫かよ、ここ。なんかよう、祟られてる気がするんだよ。通報したほうがいいんじゃねえか」

「バカなのかい。金を頂くまで、警察とか余計なものを呼ぶんじゃないよ。また逃げるハメになるからね」

 夫婦にとって部外者の介入は邪魔になってしまう。どんなに不可思議なことが起ころうが踏ん張らなければならい。とくに警察の姿は見たくないと思っていた。

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