第7話

「あれは、いままでのとは全然違う。わたしのサイキックがまったく効かなかった」

 智也に寄りかかりながら、有紀は悪いものを吐き出すように言っていた。一時の失神状態よりは大分落ち着いたが、具合は良くなさそうだ。二人は寮の部屋にいた。

「横になって休んだほうがいいよ。鼻血が出るほど意識を集中させたんだから」

「鼻血が出たのは、あの子の霊気にあてられたから。あれから感じたのは異様で底無しの黒さだった。どういう素性なんだろう」

「あの子のことは後で考えよう。それより休まないと」

「わたし、すごくのどが渇いた。脱水しているかも」

「千夏さんに飲み物をもらってくるよ」そう言って、智也が部屋を出た。

 軽い脱水症状なのかもしれないと有紀は思った。敷かれていた布団に横たわる。

「ふう」

 楽な体勢になって気持ちに余裕ができた。軽く目を閉じゆっくりと呼吸をして、さっきの出来事について考えていた。

「あんなに真っ黒なのは初めて」とひとり言を呟く。

 りん子と対峙していた時に感じた真っ黒な色相が、有紀の脳裏にこびり付いていた。どんな光でも吸い尽くしてしまう底無しの闇に、根源的な恐れを感じてしまったのだ。

「いたっ」

 畳の上に置いていた手に痛みが走った。小指の付け根付近に刺されたような感覚があり、待針でも落ちていたのかと手を上げて確かめてみる。

「うわ、アリ」

 小さな赤いアリが、尻の先端を皮膚に押し付けて毒針を差し込んでいた。あわてて払い落とすと、有紀の周りに多数のアリが動き回っているのを発見した。畳と畳の隙間から、ワラワラと湧き出ていた。すぐに立ち上がり、なるべくアリを踏みつけないように、バレリーナのごとくつま先立ちとなる。

「なに」

 視線を感じた有紀が顔をあげた瞬間、目と目が合った。少し開いていたドアの隙間に、小さな顔が貼り付いていた。

 りん子である。さらさらおさげ髪の隙間から、切れ長で眼光鋭い目線がやや上目づかいで放たれていた。足元の危険生物のことなど忘れて、有紀の体が凍り付いてしまう。

 寮の部屋には窓がない。明るさを担保しているのは昔ながらの細長い蛍光灯だが、人の気持ちを安寧に保つには光量が不足していた。

 廊下の照明が落ちているのか、ドアの隙間の背景は闇である。りん子の顔は左側半分が見えていた。顔には蛍光灯の光が当たり、闇の中から浮き出ているように見えた。

「あ」

 隙間の真ん中付近にあった顔が横向きになった。左顔だけが見えていたが、今度は両目が縦に並んでいる 誰かが女児の体を床面と平行に抱えているか、または机のようなものに横たわっていなければ不可能な体勢だ。

「ああああー」

 顔がすすーっと上がってゆく。ドア上端の角でいったん停止すると、何の合図かまばたきを二回した。次の瞬間、その縦に並んだ両目はドア上部の左端の隙間に移動した。

 その場所に目があるということは、ドアの向こうに立っているか、天井から逆さにぶら下がっているかのどちらかである。立っている場合には、りん子の身長以上の高さであり、天井からぶら下がっているというのは物理的に説明不能である。

 えもいわれぬ戦慄が有紀の背中を突っ走った。あの世の存在とは何度も対面していたが、こういう感覚は滅多にない。

「いたっ、痛っ」

 くるぶしから鋭い痛みが幾筋も走った。アリに刺されて何度も跳ね上がる。ドアの隙間にへばり付いている女児が、楽しそうにキャッキャと奇声をあげていた。

「バケモノめ」

 暗黒の隙間の、そこかしこに顔が現れていた。ほとんど瞬間的な移動だが、ゆっくりと上がったり下がったり、直角に滑ったりもしていた。

 有紀は、地団駄を踏むようにアリたちを圧し潰した。りん子の笑い声はより高らかに響いている。虫けらをあらかた殺し終えると、ドアを睨みつけながら走り出した。

 少しばかり開いていたところに蹴りを入れた。ドアが勢いよく放たれ、部屋の明かりと後背の闇が交じり合う。その境に立っている有紀は、耳を澄まして目をぎらつかせた。小さくはあるが魔的なまでに騒々しいあの気配を察知しようとしているが、どこに隠れてしまったのか見つけることができない。どこかに行ってしまったのだと諦め、覗かれないようにしっかりとドアを閉めた。そしてアリの残骸を片付けようと、ゆっくりと振り返った。



「おう、帰ったのか」

 聞き憶えのある声に、驚きのあまり全身がビクンと撥ねた。目を大きく見開き口を半ばあけながら、信じられないという表情をしていた。

「今日な、スロで万枚出したんだ。有紀、ほしいものあるなら買ってやるぞ」

 男がいた。缶酎ハイをグビグビと飲みながら、イカのゲソ揚げをつついていた。食品のカスとシミで汚らしい丸テーブルの上には、スーパーで買った総菜が六品もあった。しかも、半額シールが貼ってあるのは一つもない。珍しく、びんちょうマグロの刺身まである。

「とりあえず飯食えや。おまえ、マグロ好きだろう」

 そう言って、次の缶を開けた。本物の黒ビールをマグカップに注ぎ入れ、茶色がかった泡が溢れそうになってから口をつけた。目をつむって、まるで末期の水を飲むようである。

 有紀は児童会館で十分に時間をつぶしてから帰宅した。父親が帰ってくるのは、いつもは夜になってからだ。それが五時前にいる。今日は交通警備員の仕事をしていない。朝からパチスロに興じて、珍しく大勝ちしたようだ。

 下腹の出っ張りが、まるでタヌキの置物であった。チューブのにんにくをマグロに塗りつけて、さらにしょうゆをぶっかけて食っていた。ズボンもパンツも履いていないので下半身は露出している。だぶついた肉が垂れさがり、大事な部分を絶妙に隠していた。

 背負っていたランドセルを降ろして、有紀は寝部屋である六畳間へと行く。居間と六畳間しかない安アパートなので、そこは父親との共同使用の場となっていた。リサイクルショップで安売りしていた勉強机に教科書をおいて、ノートを開く。

「有紀、飯食えや。マグロ腐っちまうぞ」

「宿題してから食べるから」返事だけして、有紀は机から顔をあげなかった。

「いいから食っちまえよ。やることやって、早く寝たいんだって」

 ぶよぶよの手が小学五年生少女の背中を撫でまわした。安酎ハイとニンニクが合わさった口臭が背後から吹きかけられる。味がしそうなので、有紀はなるべく口から息を吸わないようにしていた。算数の問題を解こうとしているのだが、数字が頭の中に入ってこない。

「まあ、やってから飯でもいいか」

 そう言って、父親は娘の頭を叩く。彼女はうつむいたままだ。初歩的で簡単な問題を、ひどくゆっくりと解こうとしていた。

 でっぷりとした体を娘に押しつけながら、男は少女を立たせた。まだ暗くはなっていないが、分厚い遮光カーテンが勢いよく閉められる。



「有紀、どうかしたのか」

 智也の手が肩にかかっていた。有紀は振り返り、驚愕の表情で彼を見た。

「な、なに」

「千夏さんから炭酸水をもらってきたよ」

 薄いレモン味の炭酸水が差し出されて、有紀は反射的にそれを握った。すぐにキャップをひねってゴクゴクと飲む。ぬるかったせいか炭酸がきつく感じられた。半分ほど飲んで、オヤジのようなゲップを吐いた。

「大丈夫だから。ちょっと昔のことを思い出してただけ」

 そう言って、残りを一気に飲み干した。

「そこ、アリいるから」

「アリ?」

「刺すアリ。かなり痛い」

 畳の上に不定形なゴマ粒がいくつもあった。智也は、かがんでから指でつまんでみる。

「気をつけて、たぶんヒアリだよ。手と足を刺された」

「ヒアリって、特定なんとか生物だろう。いくらなんでも北国にはいないだろう」

「あのバケモノが呼び込んだんだ。シカもヘビも、全部そう」

 手を見せた。小指の付け根が赤く腫れている。足も持ち上げるが、数か所が同じような状態だった。りん子が覗いていたことと、その時の印象も話した。 

「変わった霊だと思ったけど、これは相当だな。有紀が感じた色相が真っ黒だっていうのも気になる。あの女の子は、どういう素性なんだろう」

「いままで、あんなに底無しの黒さはみたことがない。だいたいの霊は淡い茶色で、強烈な邪霊でも赤色だった。だけど、あの子が力を出すと、底が抜けるほどの漆黒なんだ」

「僕には霊の色相がわからないから、あの子を見ても、そんなに深刻だとは思わなかったよ。千夏さんはどうなるんだろう」

 霊が示威的になる際に、オーラのような色に包まれることがある。たいていは薄っすらと淡いものだが、力や属性、執着の強さで変化すると、パートナーから聞かされていた。 

「助けたいんだろうけど、あの人は完全にとり憑かれているよ。たぶん手遅れ。って、痛い」

 有紀が頭痛を訴えた。ヒアリの毒にあたったようで、智也が薬をもらってくると言う。

「何度も行かせてごめんなさい。わたしは、しばらく寝てるから」

 智也が再度母屋へと行く。途中、何匹ものネズミが足元をかすめてヒヤリとした。シマヘビが食い散らかされて、骨と皮が散乱している場所もあった。生臭さが鼻を突き、それが爬虫類なのか、加工場だった頃に沁みついた魚類のニオイなのか判然としなかった。

 背後に気配を感じているが、あえて振り返ったりはしなかった。迂闊には触ってはいけないとの警戒心だ。歩を速めて、その場を通りすぎて母屋に着いた。

 台所や居間に家主の姿はなかった。早く有紀に薬を飲ませたい智也は、見知らぬ家の中をうろつく。一階部分は広く、いくつも部屋があった。加工場だった頃は自宅と兼用していたと、さっき飲み物をもらいに行ったときに千夏から聞いていた。 

 なんとなくではあるが、智也は仏間にたどり着いてしまった。十畳ほどの和室の奥まった場所に仏壇があった。黄金色が眩しい重厚な造りで、値の張るものだとわかる。

 声をかけえてみたが返事はない。家主はいなかった。であるならば、そこへ入る理由がないのだが、智也は足を踏み入れてしまう。まっすぐ仏壇の前へと進み手を合わせた。

 頭の上には遺影があった。男女四人が正面を見ていた。二人は明らかに老人であったが、もう二人は比較的若くて、中年の男女だ。

 小さなぬいぐるみや幼児が好きそうな人形、お菓子などが畳の上に置かれていた。大人ばかりの仏さんに、どうしてこのようなものがお供えされているのだろうと、智也は不思議に思った。なに気なくであるが、ハムスターのぬいぐるみを手に持った。

「けっこう重いし生々しいな。本物みたいだ」

 布地とは思えない手触りと肉っぽい弾力があり、さらにモフモフとして感触が心地好かった。よくできた作り物だと感心していた。すぐに元の場所に置かずに、しばし手の中で遊ばせる。

「痛っ」

 右人差し指の第二関節に、突然の激痛が走った。瞬時に手をはらったために、ハムスターは少し離れた畳の上に着地した。指から血が出ていた。縫い針でも刺さったままになっていたのかと考えたが、事実は斜め下方からやってくる。

「うわっ」

 ハムスターが飛びかかってきた。野生のネズミ並みのジャンプ力で智也の手にしがみ付くと、間髪入れずに歯を立てた。

「いたたたた」

 今度は右親指の付け根、肉がこんもりと盛り上がっている箇所をガッチリと噛みつかれてしまった。わあわあと喚きながら手を振るが、それは執拗に喰いついて離さない。

「なんだ、生きているのか、これ」

 それがぬいぐるみではなくて、生きたハムスターであることに智也はようやく気づいた。

「うっわ、うわあ」

 左手で握り潰してしまえばハムスターは絶命するのだが、そうすることの決心がつかなかった。パニックになって振り回したので、傷口が広がって皮膚がめくれてしまう。

 突然、その腕になにかがまとわりついた。すごい力で押し下げようとする。

 りん子であった。女児とは思えぬ厳しい表情で智也の腕にしがみ付いていた。

「あ、それだめだ」

 親指の付け根に噛みついていたハムスターを、その小さな手が毟り取った。すぐに智也から離れると、彼に確認させるように手を突き出して、そしてギュッと握り潰した。

 ぶちゃっ、といやらしい音が出てハムスターが弾けてしまった。肛門から赤い内臓を噴射して死んでしまう。

 りん子は智也に向かって、手の中にいるそれを投げるふりをした。何度も何度も空を切った。ぶつけられることはなかったが、生臭い汁が彼の顔を汚した。

「ぺっぺ」と、口の中に入った汁を唾ごと吐き出す。目を×印状につむって、きわめて不愉快であることを示した。味わってくれたことに満足したりん子は、それを床に投げた。

「ねえ、なにやってるの」

 聞きなれた声がしたので、智也は目を開けた。怪訝な表情の千夏が立っていた。

「ハムスターが噛みついてきたんで、それをりん子ちゃんが潰して」と言い訳をする。

「うちにハムハムなんていないよ」

「いや、いるじゃないですか、ほら」モフモフを指さして、口を尖らせて言った。

「ええーっと、これはハムスターのぬいぐるみなんですけど」

 千夏が、それを拾い上げて智也に見せた。おなかの部分が破けて中身のスポンジがとび出していた。正真正銘のぬいぐるみである。

「あちゃあ、ボロボロになってるけど、これ智也君がやったの」

「ウソだ。たしかに生きていたし、つぶされて内臓がとび出ていた」

「もう、ヘンなこと言わないで。とにかく物を壊さないでよね」

「だから、やったのはりん子ちゃんで」

「そっかあ、犯人はりんちゃんか。そしてどこにもいないさ。またもや逃げられたか」

 りん子がやったと納得した千夏だが、いちおう、それを智也に手渡した。

「ねえ、どうしてここにいるの。人の家の仏さんなんか見ても楽しくないでしょう」

「そのう、千夏さんを探していたら迷い込んじゃったみたいで。すみません」

「そう、なにか用かしら」

 頭痛で有紀が寝込んでしまったこと、鎮痛剤を分けてほしい旨を告げた。毒アリのことは黙っていた。千夏はすぐに用意すると返答する。智也は気になっていることを訊ねた。

「千夏さんの家で、小さい子が亡くなったことがあるのですか」

「え。そんなことないけど、どうして」

「仏壇の周りに、おもちゃとかあるんで」

「これは、りんちゃんのものよ。だから、あなたが勝手にいじって怒ったみたい」

 納得できなかったが、それ以上は詮索しなかった。

千夏のあとについて、智也は居間へと行った。どこの家にでもある退屈な広間で、その家独特の匂いがある。ソファに枕とタオルケットが無造作に置かれているのを見ながら、智也は待っていた。

「お薬箱は、どこか~しら、どこか~しら、そこだなあ」

 千夏がおどけていた。智也が愛想笑いをする。サイドボードの引き出しからプラスチックの箱を引っ張り出し、CMなどで有名な頭痛薬を箱ごと智也に手渡した。

「けっこう薬があるんですね。どこか悪いんですか」

 深く考えもせずそう言って、智也はしまったと後悔する。他人の病歴を訊くことは失礼にあたる。引き出しに処方薬が大量に散らばっていたので、思わず言ってしまったのだ。

「そうね。そういえば薬を飲んでいなかったわ」

 声のトーンが急に下がっていた。千夏は引き出しの中に散乱していた薬をいくつかつまむと、水もなしに飲み込んだ。

「これ、すごく眠くなるんだよ」

 そう言ってソファーに横たわる。元気のなくなった目が一点を見つめていた。

 その時間に介入することが憚られた。千夏に礼を言って、智也は居間を出た。寮に戻ろうとして、ふと立ち止まる。背後に気配を感じて振り返った。廊下の向こうに、りん子がいた。まっすぐ彼を見つめていた。

「ん」

 お互いの視線がかち合うと、りん子はすーっと左側に移動して見えなくなった。あの子のことは気にしないほうがいいと思いつつ、智也は行ってしまう。左側に部屋があり、引き戸が開け放たれていた。

 そこが子供部屋であることはすぐにわかった。八畳間に子供用の二段ベッドがあり、窓際に学習机が二つ並んでいる。きれいに整頓され、埃を被らぬよう掃除もされているが、使われている形跡が感じられなかった。

 ランドセルが机の側面にかけられている。淡い紫色が色あせず擦り切れた個所もなく、買った時の光沢が保たれていた。それほど使われていないことがわかる。

 学習机に付属している椅子に座った智也は、机に手をおいて、その感触を確かめていた。幼いころの懐かしさに触れてみたいと、無意識が命じていた。引き出しを開けると、筆記道具のほかにノートやプリント、女の子が好みそうなおもちゃが収められていた。

 右側に並んでいる学習机にランドセルはなかった。ためしに智也が引き出しの中を見ると、なにも入っていない。空っぽの箱には、消しゴムのカスもなかった。

「このランドセル、誰のだろう」

 脇にかけられていた紫色のランドセルをとって、机の上に置いた。開けていいものかと思ったが、懐かしい気持ちがブレーキを失わせている。皮革の匂いのほかに、かすかに海っぽさを感じていた。窓から潮風が吹き込んでいるのだと思っていた。

 なにかが擦れる音がした。鼓膜の表面を虫けらが走り回っているような響きに、背筋がぞわぞわとした。それ以上先に進むことを躊躇うべきだったが、彼は手を動かし続けた。錠前を外し、かぶせをめくり、四角い箱の中を覗き込もうと顔を近づけた。

「うぎゃっ」

 突如、ランドセルの中身が爆発したように吹きつけた。小さいが大量の物体が智也の顔をバシバシと叩く。その勢いに押されて、後ろにひっくり返ってしまった。慌てて起き上がろうとする智也の目の前を、見るも汚らわしい虫たちが動き回っていた。カサカサとうるさい一匹をつかまえて、まじまじと観察した。 

「ゴキブリ、いや、フナムシか」

 海岸に住み着いているフナムシだった。体長は五センチくらいで、触覚が長くて俊敏なダンゴムシといった風体だ。たいていの人間が気色悪い虫と認識するのは、ゴキブリと同様である。キャンパーでもある智也には顔なじみの生物だ。潮の匂いがきつくなっている。 

「どうしてランドセルの中からフナムシが。って、臭いなあ」

 強い悪臭が鼻を突いた。灼熱下に放置されたネズミの死骸と三角コーナーの生ごみをかき回して熟成させたような、呼吸をすることも憚られるほど強烈であった。漂っていた磯臭さは一蹴され、フナムシが蠢くほどに腐敗しきった臭いが拡散される。智也は息を止めて、その部屋から立ち去ろうとした。

「うっ」

 だが、りん子がいた。引き戸の敷居に立っている。智也よりよほど小さな体だが、その鉄壁さは強く、彼を見上げる顔が不敵な笑みに満ちていた。

 りん子が一歩前に進むと、智也が一歩後退した。二人は、その調子で部屋の真ん中まで来たが、フナムシを踏み潰したくないと思う智也の足がもつれて転んでしまった。その時を見逃さず、りん子が背中に馬乗りとなって彼の頬を引っぱった。



「やめろよ」

 田んぼに沿って流れる水路のわきで、小学生の男子たちが騒いでいた。いかにも気弱そうな男の子に、数人がちょっかいを出している。

「なあなあ、ザリガニ食ってみろよ。ザリガニ。これ、やるからよう」

「いやだ、いらない」

「いいから食べろって。カエルもあるぞ、へへへ」

 U字型のコンクリート枠の水路にはザリガニやカエルなどがいて、子供でも手掴みできる。男の子たちは早速、いじめられっ子の顔に押し付けた。

「やめろって、やめてくれ、がうああ」

 大ぶりなザリガニを口の中に入れようとするが、抗ったのはいじめられっ子ではなくて甲殻類のほうだった。自慢のカニ爪を限界まで反らして、自身を掴んでいるいじめっ子の指を挟んだ。

「うわあ、痛っ。いててててて」

 人差し指に紅のザリガニをくっ付けて、いじめっ子は泣き声を撒き散らしていた。彼に背乗りされ、背後から顔面の肉を引っ張られていたいじめられっ子は、その隙をついて逃げた。

「逃げるなよ、智也」

 だが、すぐにほかのいじめっ子に捕まって組み伏されてしまう。

「クソ智也、おまえのせいで指から血い出たんだぞ。これ食って弁償しろよ」

 智也の口の中に、潰れた甲殻類が無理矢理詰め込まれた。吐き出そうとして暴れるが、四人がかりで手足を押さえつけられているので身動きできない。生臭くて強い苦みのあるそれがぐいぐいと、子供特有の容赦のなさで押し込まれた。



 りん子が、畳の上を蠢く虫けらをとっ捕まえては智也の口へ押し込んでいた。

「ぐあああ」と叫んで、腐った味のするフナムシを、すべて吐き出してからりん子の前に立った。怒りで炎々と煌めく眼で女児を見下ろしている。陰湿な制裁を予感させた。

 男の手が伸びると同時に、女児が瞬時に動いた。迫りくる手を楽々とかわし、彼の右足親指を、えいやと踏み付けてから部屋を出て行った。

「ぎゃっ」

 呻きながら靴下を脱いで、親指を確かめてみる。内出血により、爪の全域がドス青く変色していた。智也が怒って廊下に出ると、向こう端にりん子がいた。いつもの上目づかいで不敵な笑みを浮かべている。

 女児は床を蹴って走り出した。ただし真っ直ぐにではない。壁に足をかけて駆け上がり、天井を逆さになって進み、反対側の壁に降りてまた同じことを繰り返した。重力を感じさせない疾走であり、らせんを描くようにぐるぐると回る。短い手をホイホイホイホイと振って、児童走りが忙しい。風圧で髪の毛が後ろに流れ、大きなおでこが露わになっていた。

 勢いにのったりん子の飛び尻が智也の顔面にさく裂した。そのエネルギーをまともに受け取った者は、ぶっ飛ばされた。長い廊下をゴロゴロと転がり、二回転半して正座した。

「あご、アゴが外れた」

 アゴというより、奥歯のあたりを押さえていた。深刻な痛みなのか顔をしかめている。りん子に体罰をする決意はどこかに消し飛んでいた。あがあがと呻きながら、逃げるように廊下をはい進んだ。そんな彼を蔑むような目で、りん子が見ていた。

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