第6話

 お昼となる少し前に、バーベキューの支度が整った。場所は閉鎖されてから二十年近く経つ水産物の加工場である。

 天井付近の採光窓から外の光が入ってくるのだが、密度を増した灰黒色の雲が薄暮のような暗さしか提供してくれない。天井の照明は点いたが、耐用年数相当の光量しか落としていなかった。

「炭は頃合いみたいね。じゃあ、お肉を焼きましょう。じゃんじゃん焼くからね。お酒は好きなのを飲んでくれれば、って、もうできあがってるかな」

 大きめの炭火台を囲うようにパイプ椅子が用意され、めいめいが好きな場所に座っていた。千夏の隣はりん子で、キョロキョロと落ち着かぬ様子で周囲を見渡していた。

「海産物が欲しいとこだけど、この天気で買い物に行くのもおっくうだから、ごめんなさいね。ほんとはホタテとか買ってこようと思ってたんだけど」

 肉と野菜だけでは興をそいでしまうのではないかと、主催者は過剰に心配していた。

「気にすんなよ、奥さん。オレは焼酎さえあればいいから」

 義男のグラスには、新藤家所有の高級ウイスキーがなみなみと勝手に注がれていた。

「そうだよ。ホタテなんか猿払でさんざん食ってきたからねえ。毎日毎日、寮のおかずはホタテばかりでやんなっちゃったさ。外国人の従業員なんかさあ、刺身なんか食いやしないよ。半額のフライドチキンとか買って食うのさ」

 ありがちな中年女のように、一二三は饒舌であった。千夏の不安を和らげるというより、とにかくしゃべりたがり屋なのだ。

「ほら、おまえらよう、ぼけらーっとしてねえで、奥さん手伝ってやれや。ったく、最近の若えやつは使えねえなあ。乳繰り合うだけかあ」

 有紀と智也は、揃って肉が焼ける様子を見ていた。千夏だけが忙しく肉をつまんではひっくり返したりしている。

「千夏さん、手伝いますよ」と智也。

「いいのいいの。お客さんなんだから座ってて。私ね、こういうの得意なんだから」

 それでも手伝おうとするが、千夏が手で払うように遠慮する。

「肉が焼けてきたから、悪いけどりんちゃんの皿にのせてくれない。あなたたちも、じゃんじゃん食べてね」

 りん子の世話を頼まれてしまう。

一瞬、智也は有紀のほうを見た。彼女はかすかに首を振る。それがどういう心意の表れなのかわからず、家主の言われるままに動いた。 

「ええーっと、この肉はいい感じかな。タレとかは、なにがいい、かな。僕は塩ダレが好きなんだけど、子供はしょうゆ味のほうがいいかな。どうしようか」

 智也はひとり呟きながら焼けた肉をぎこちなくつまみ、りん子が膝の上に置いている皿に放り込んでいた。

「あのう、まあ、食って、どうぞ」

 妙な気を使っているので、言葉づかいがおかしくなっていた。千夏がクスッと笑うが、有紀は真顔で見ていた。

 おいしそうに焼けた肉が提供されたが、りん子は反応しない。加工場の隅にわだかまっている暗い空気の靄を、じっと凝視していた。

「おい、一二三、あれあったべや。出してこいや」

「ああ、そうだね」

 中年女がどこかへ行ってしまった。千夏がどうしたのかと訊くと、義男は、まあいいからいいからと、もったいぶった口ぶりだった。

 一二三が戻ってきた。右手には、スーパーなどでおなじみの白いビニール袋を握っている。食材が置かれているテーブルに、どうだと言わんばかりに中身をぶちまけた。

「うわあ、それなんですか。ずいぶんいっぱいありますね」

 立ち昇ってくる煙が目に沁みるのか、上体をやや後ろに反らしながら千夏が訊いた。

「白シメジだよ。ここに来る途中で見つけてさ。たくさんあったから、全部採ってきたさ」

 大量の白いキノコが山盛りである。根こそぎ採ったことを、さも正義であるように語る。

「シメジだったら、フライパンでバター炒めしたほうがいいかなあ」

 なにやら怪しいキノコを一つ二つ摘まんで、千夏はフライパンを用意すべきかどうか迷っていた。

「そんな面倒くせえことしなくても、焼けばいいんだ。まあ食ってみな、美味いから」

 一二三がさっそくキノコを鷲掴みにして、金網の上にのせた。シイタケよりも若干大きくてよく裂けるそれらは、食欲をそそる香ばしい匂いと若干の粉っぽさを放っていた。

「ぎゃっ」

 悲鳴とも嗚咽ともつかない声を出して、有紀が立ち上がった。勢いがよかったためか、パイプ椅子が倒れてガタガタと耳障りな音が響いた。

「てめえ、そんなの出してくんな。おまえらバカなのか。キモいんだよ。どっか行けよ」

 いきなり激高し始めた。あきらかに取り乱したようで、ただならぬ様子だ。

「有紀さん、有紀さん、落ち着いて。ただのキノコだから大丈夫よ。ほら、スーパーで売っているのと変わらないから。ほら、ほら」

 鬼の形相でまくし立てる女に向かって、つまんだ白いキノコを突き出す千夏であるが、それは逆効果であった。

「そんなもの、わたしに向けるなっ。あーーーーっ」

 奇声や嗚咽ではなく、絶叫だった。それが恫喝めいていなかったのは、誰かを直視しながらではなく、まっすぐ下を向いて吐き出したからだ。

 有紀はなにごとかを言い続けている。独り言というより、念仏に近いリズムがあった。

「有紀、落ち着こうか。なんでもないから大丈夫だよ。食べなきゃいいんだって」

 智也がパートナーに寄り添い、腫れ物に触るように宥めていた。

「すみません。有紀は前にキノコにあたっちゃってひどい目にあったことがあるんです。それからアレルギー反応が出るようになって。そのう、すみません」

 有紀は、一般的な女性が口にするにはふさわしくない汚らしくて粗野な言動を続けていた。ただし声はあまり大きくなく、目線は足元の一点に集中していた。彼女が患った経験の深刻さが、十二分に伝ってくる。

「うん、わかったよ。有紀さんが嫌いなら、こんなもの、捨てちゃいましょうか」

 えい、と軽快な掛け声をかけて、千夏はテーブルに山盛りとなった白いキノコを、ゴミ箱へ捨ててしまった。ついでに金網にのせられた分も、洩れなく破棄した。

「おいおい、なにすんだよ。かってになげんじゃねえよ。ゴミじゃねえぞ」

「そうだよそうだよ。アブやブヨにあちこち刺されながら、苦労してとったんだ。アレルギーだがヘチマだかしらないけど、もったいないことするんじゃないってさ」

「すみませんでした。弁償しますので、そのう、いくらですか」

 夫婦が怒るのは当然であると、智也は理解している。非礼で癇癪持ちのパートナーに代わって、何度も頭を下げた。

「はいはいは~い、そういうのはナシにしましょうね。ナッシングだよう」

 妙な序列が出来上がってしまいそうな空気を嫌って、千夏が積極的に介入した。

「気にしない~、気にしな~い。だいたい捨てたのは私なんだから、お金払うとかはナシね。私、お金ないからねえ。お肉とお酒と、あとは宿泊費でチャラね」

 家主の権利とばかりに、千夏はその場の空気を穏便に仕切ろうとする。中年過ぎの二人はブツブツと文句を言うが、険悪になるほど深入りしてこなかった。

「あんさあ、あたし、焼酎はロックで飲みたいんだけど、氷はどこさ」

 缶ビールやウイスキー、ワイン、麦焼酎、ペットボトルのジュースなどが用意されているが、氷はなかった。

「冷蔵庫にあるんだったら取ってこようか」

「ないよ」

「え」

「うちにはないから」

「冷蔵庫に製氷機ぐらいあるべさ。ちょっとでいいんだよ」

「ない、って言ってる」

 一二三と千夏の会話だった。

「一つもないのかい」

「ない」

 返事というより、態度が素っ気なかった。千夏の、混じりっ気なしの本気の他人行儀はとりつくシマがなかった。チェッと舌打ちして、一二三は自分の椅子に戻った。

「オレはストレート派だから、氷なんかいらんけどな。ダンデーな男だから」

「はーんっ。あんたなんか、ワンコのションベン飲んでもわからんっしょや」

 すっかり出来上がった義男は、調子にのって千夏の肩を持つようなことを言って、女房の顰蹙を買っていた。

「あ、どこいくの」

 突然、りん子が走り出した。紙皿に取り分けた焼肉が宙を飛んで、義男の顔にへばり付くように当たった。

「熱っ」

 すでに十分に冷めていたので熱くはなかったが、酔っ払いの肌感覚はデタラメである。

「りんちゃん」

 りん子が走る。胴長の小さな体が胸を張り、短い手足をちょこちょこと動かしながら、加工場の中をぐるぐると回っていた。

「もう、一分だって静かにしてないんだから。肉焼いているのに、どうしようか」

 千夏は金網の上に肉をのせながら、走り回る女の子を捕まえに行こうか迷っていた。

「奥さん、オレにまかせろや。こうみえてもなあ、ガキんちょには好かれるんだ」

 子供に人気となる要素など微塵もない風体の男が、ウイスキーが注がれたコップを持って、よたよたと危なっかしい足取りで女の子の後を追い始めた。

「ほらほら、ピーヒョロロ。こっちゃにおいで。ルールルれー、れれれのっラー」

 その姿もさることながら、言動までも滑稽であった。

「うちの呑兵衛は、ほんとバカだねえ。ったく、使えないさ」

 一二三が亭主をなじると、千夏がくすくすと笑う。いまさっきまで凝り固まっていた有紀の表情も若干柔らかくなった。

「お嬢ちゃん、おじちゃんと一緒に遊ぼうかあ」

 アルコール濃度の高い息を吐いて、千鳥足で追う。しかし愚鈍な酔っ払い男につかまるほど、りん子はおしとやかではない 二次元的な疾走から、三次元の機動へと加速した。

「おいおい、そんな高いとこは、おじちゃんにはムリだなあ」

 水産加工場は場内に二階部分があり、上で捌いた魚を箱詰めにして階下へと流すためのスロープがあった。公園にある滑り台よりも、よほどなだらかな傾斜だ。底面はローラーとなっており、箱を軽く押すだけでスーッと滑ってゆく。りん子が、まさに滑り降りようとしていた。

 ガラガラガラと、さび付いたローラーが回転する音と、滑り落ちてくるりん子のキャッキャ声が交じり合う。降下速度は、スロープの緩い傾斜角度からは存外なものであり、満面の笑みを浮かべた女の子が下で待ち受けていた中年男の股間を蹴り飛ばした。

「ぎょっ」と呻き、下腹部を押さえながら義男が悶える。

「あら、たいへん」と言いながらも、千夏は相変わらず笑顔だ。

「ガキにキンタマ蹴られてちゃあ、世話ないよ」

 りん子が戻ってきた。自分の椅子には座らず、一二三の横に立った。

「なんだい、あたしの肉はやらないからね」

 中年女は子供に甘い顔を見せなかった。りん子はヒモ状のものを握っていて、その端をつかんだまま、鞭のようにしならせて炭火台をバシバシとぶっ叩き始めた。

「うわっ、なにすんだい、このガキは。炭がとび散ってヤケドするじゃないのさ、あちっ」

 一二三が慌てて席を立った。皿に置いた肉を意地汚く食いながら、この小さな怪獣をなんとかしないさいよ、と千夏を怒っている。女の子が振り回している細長いものは、しなやかでありながらも金網を凹ませるほど強靭でもあった。

「ああ、りん子ちゃん、それ、危ないからやめようか、あちっ」

 止めに入ったのは智也である。暴れん坊のめちゃくちゃな振り回しにより、火の粉がコバエの群れのように立ち昇っていた。腰が引けながらも、なんとか触ろうとしている。

「あちっ、いたっ」

 だが遠慮気味で中途半端なボディータッチは、相手にその弱気を見透かさられることとなった。りん子は両方の手を大車輪のようにぶん回し、真っ赤に焼けた粉炭を撒き散らす。

「あちちち、あんた、お母さんなんだからなんとかしなさいって。ヤケドするっしょや」

「私は母親じゃないんだけど」

 そこのところはハッキリさせておきたい千夏であった。

「りんちゃん、お願いだからやめて。それ、ヤケドしちゃうから」

「母親じゃないんだったら、母親連れてきなって。ぜんぜん言うこときかないじゃないの」

「りんちゃんは、めいっ子よ。妹は遠いところに住んでいるから、来るのは無理」

「姪っ子なんて預かるんじゃないよ。暴れるガキを、ていよく押し付けられたんだって。しょうもないねえ」火の粉はバチバチと音を立てて、なおも舞い上がっていた。

「妹の娘なのよ。引き取らないわけにはいかないでしょう」

「だからって、なんなのさ、このガキ。うきゃ、熱っ」

 赤の他人に毒づかれて、りん子はますます調子づく。ブンと空気を切り裂いて、なにかが回転しながら飛んできた。それは一二三の首にぐるりと巻き付いた。

「ぎゃっ、あたしの首になんかがいるう。これなにさ」

 火の粉に続き得体の知れないものの襲撃に、中年女は軽くパニックとなった。

「そんなに騒ぐなや。ガキんちょが振り回していたヒモだべや」

 ほろ酔いオヤジが女房のもとに来て、首に絡まったヒモをつかんだ。

「うっわあ、なんだー。これ、ヘビだ。ヘビじゃねえぁ」

「え、ヘビ、うわ、うぎゃあ」

 一二三の首に巻き付いたのは、ヒモではなくヘビであった。

 りん子に散々振り回されたうえに、灼熱の炭火と鋼鉄の炭火台に叩きつけられたので、もはや生きてはいないが、生前のしつこさは健在だった。一二三の首に巻きついて離れない。酔っ払いのふるえる手が、それを解きほぐそうとしていた。

「おえ、生臭せっ」潰れた頭部から、爬虫類の生臭い血がダラダラとたれていた。

「あんた、早くとって、とれってさ。なにやってんだい」

「わかったから発狂すんなよ、うっせーな」

 アタフタする夫婦を尻目に、千夏には心配しなければならないことがあった。りん子が、別のヘビを振り回していたからだ。

「毒ヘビだったら」小さな女の子が手にするオモチャとしては適当ではないだろう。

「大丈夫、シマヘビですから。ただし、けっこう気性は荒くて噛みついたりします」

 智也がヘビの端をつかんだ。もう一方を握っているのはりん子で、邪魔されて不機嫌なのか、眉間にしわを寄せてウーウー唸りながら引っ張っていた。

「あの子、どこでヘビなんて捕まえたの。工場に住み着いているのかな。イヤだなあ」

「シマヘビは珍しくないですけど、ふつうは建物の中にはいないですね」

 千夏と智也が、ヘビの生態域について話し合っていた。

「この子が呼んでるんだよ」

 久々に有紀が口をきいた。生焼けのホルモンを咀嚼しながら、そっけなく言う。

「ええーっと、呼んでるって、意味わかんないんだけど」

「さっきも智也が言ったでしょう。この類の霊は動物と親和的なんだって。それも、どういうわけか、あまり可愛くない、できれば避けたいたぐいのやつらとね」

「霊とか、どういう意味なの。ねえ、あんまりおもしろくない冗談なんだけど」

 怪訝と憮然が交じった声色だ。有紀は即答しない。チラリと智也を見た。

「あのう、これから話すことは、ちょっとショッキングなことなので心の準備、あいたっ」

 智也の向う脛を、りん子が蹴った。猛禽の鋭い目で睨みながら、二度三度と蹴った。慌てて距離をとる。

「おいおい、いっぱいいるぞ、なんだなんだ。ヘビ野郎の確変か」

 足元で爆竹が爆ぜているかのように、義男がバタバタしていた。

「あぎゃ、ヘビだらけっしょや。うわ~、きもちわるー」と一二三も騒ぐ。

 炭火台を中心として、床に多数のヘビが蠢いていた。ニョロニョロと縦横無尽に這い回り、変温動物とは思えぬ生きの良さを見せつけていた。

「千夏さん、ちょっとこっち来て。話がある」

「あ、なによ」

 有紀が千夏の腕をつかんで、その場を離れた。いまは閉鎖されているが、外部出入り口のある壁際まで行った。河本夫婦に聞かれないようにする配慮であるが、千夏は有紀の顔を見ていない。ヘビ溜まりの中心にいるりん子が心配なのだ。

「りんちゃん、触っちゃだめよ」

 恐れを知らぬ女児は、足元に蠢く爬虫類を四方八方に投げつけ始めた。嬉々としているのは、ネズミの時と同じである。

 可哀そうなのは智也で、さんざんヘビを投げつけられ、さらにそれに噛まれ、飛び散った火の粉で顔を焼かれ、きりきり舞いになっていた。

 ひとまずヘビのいないところまで避難した夫婦は、不快で危険な生物がどうして大量発生しているのかなど考えることもなく、ぐだぐだと文句を言いながら飲み続けていた。 

 有紀は千夏の目線の前に立ちはだかり、千夏の肘の付近をつかみ真顔で話しかけた。

「千夏さん、あの子は生きてないのよ。人間でない。わたしたちの世界の存在ではないの」

「そんなにつかまないで、痛いって。離してよ」

「ごめんなさい、つい」

 困難な説明をしなければとの気持ちが、有紀の握りによけいな力を足していた。

「落ち着いて聞いて。あれは、あの世のほとりから滴り落ちてきた不浄の存在、ここに現れてはいけない存在なんです。たまたま力を得て、あるいは力のあるものに導かれて、この世に顕現化したんです」

 キョトンして数秒後、アハハハと乾いた笑いが千夏から洩れた。

「ちょっと言ってることが、わけわかめ~なんですけど」 

「端的にいうと、あれはバケモノというか、幽霊です。人間の子供ではないし、あなたの姪っ子でもない。あの存在は、わたしたちの世界とは別の世界の物理法則と道理によって支配されています。邪悪でしつこく、人にひどい害を及ぼします。この世の人間が気安く係わってはいけないんです」

 幽霊という言葉を使うには抵抗があった。まやかしで詐欺的で、すべてがうさん臭くなってしまうからだ。信憑性を担保しないと、自分の人格まで嘲笑の的にされることを、有紀は経験的に知っている。しかし他の何かにたとえようとも、よい言葉が見つからない。

「さっきもヘンなこと言いかけてたけど、いい加減にしてくれる。りんちゃんが幽霊なわけないじゃないの。妹の娘なのよ。だいたい、お化けやバケモノが飛行機に乗ってくるわけないでしょう。昼間っから元気いっぱいで走り回るし。ほら、いまはヘビをブン回して喜んでいるよ。いたって普通の、人間の子よ。アホらし」

「ほんとうに、妹さんの娘は生きていますか。大きな病気とか事故の記憶はないですか。こういうのは、当事者の記憶が改ざんされている場合があるんです。女の子は死んでいないという虚構を本人も望んでいるので、気持ちが強いほどつけ込まれてしまうんです」

 千夏は露骨に嫌な顔をした。有紀はかまわず質問をぶつける。

「あの子の学校はどうしたんですか。ここの夏休みは終わってますよね」

「道外は、まだ夏休みでしょ」

「飛行機で来たっていってましたけど、付き添いは誰でしたか。まさか子供が一人で来たんですか」

「CAさんがいるんだから、子供一人でも大丈夫よ。私が迎えに行ったんだし」

「妹さんに連絡して、姪っ子さんのことを訪ねてみてください」

「ケイタイは壊れちゃって使えないって」

「わたしのを使ってください」

「ちょっとー、もうやめてよ。聞きたくないわ」

 有紀が自分のケイタイを差し出すが、千夏は受けとらない。口をへの字に曲げて厳しい視線を突き刺している。

 その時、ドンドンと大きな音が響いた。空気が断続的に揺れて振動が伝わってきた。

「なにっ」千夏の怒った顔が、戸惑った表情になった。

「外から、誰かが叩いているみたいです」

 有紀が出入り口のシャッターを見ている。その向こうは加工場の外だ。

「なにかしら。風でゴミが当たっているのかな」

「誰かが意図的に叩いているみたいだけど」

「誰かって、お客さんが来ているってことなの」

「来ているのは人じゃないかも」

 不機嫌を当てられたのを根に持っているのか、有紀はスカした態度だった。

「ヘンこと言わないで。りんちゃんのことといい、冗談のつもりだったら止めてよね」

「だって、人が叩いている感じがしない。もちろん、風で物が当たってふうでもない」

「だったらなによ」

 ガッシャーンという大音響とともに、シャッターが内側に突出した。その響きと凸になった部分が唐突であり、二人の女性は、ほぼ同時に後ろに転び尻もちをついた。

「なに、なんなの」青ざめた千夏が、口の端から泡状の唾を飛ばす。

 シャッターへの暴虐は続いていた。恐竜でも来たのかと、千夏は本気で思っていた。

「なんだ、どうしたんだ。有紀、なにがあった」

 智也がきて、激しく揺れるシャッターを見て唖然としている。

「これは・・・。外で暴れているのは誰なんだ」

「誰じゃなくて、たぶん、何か」有紀の言動は不吉な示唆を含んでいた。

「ええーっと、僕が外に出て確かめてみようか」その漢気は、やや遠慮気味に言われた。

「襲われたらどうするのよ。出るのはダメ。上の窓から見えるから」千夏は慎重である。

 壁の上側には採光窓がある。ただし、人の背の高さよりも上だ。

「台に乗らないと」そこから外を確認することはできない。

 脚立を探すが、それらしき物は見当たらなかった。智也がウロウロしている間にも、シャッターへの物騒な器物損壊は続いていた。

 窓からの偵察をいったん中断した智也はしばし考え、シャッターを触ろうとした。

「智也君、危ないから離れたほうがいい、離れたほうがいいって」

「おわーっ」

 それまでで、最も激烈な衝撃がシャッターを震わせた。内側に大きく凹んだ金属板を、木の枝状の突起がいくつも突き破っていた。寸前でよけた智也は無事であった。

「な、なんなの」

 シャッターの鉄板を貫通しているものに、千夏が恐る恐る近づいた。

「ちょっと、どいて」そこへ有紀が割り込んできて、大胆にもそれを指でつまんだ。

「なんか、たぶん、タヌキ臭い」

 指先にかすかな獣臭がするので、確認のためもう一度つまもうとした時だった。

 シャッターの鉄板が激しく波打った。突き出した枝状の突起が暴れて出たり入ったりしているが、先端の枝分かれ部分が引っかかって抜けない。そのことが耐え難いのか暴れ回っている。

 直面している人の気持ちを不安にさせるほど無軌道であり、悪心を予感させ、なによりも得体のしれないパワーがあった。数十秒が長く感じられた。

 バシャ、と最後に大きく揺れた。そのあとは強風が唸る音が残されるが、いままでのやかましさを経験すると、静寂のような心地良さがあった。

「終わったの」

「みたいだけど」

 千夏と智也がそろりと近づいた。有紀と共に、三人がそろって検分する。

「これ鹿の角だね」

「ツノ?」と訊き返して、千夏が眉をひそめた。

 鉄板に突き刺さったそれを、有紀が力を込めて引っこ抜いた。枝状の部分は大概が折れてしまって太い芯の部分だけだが、重量感があってなかなかの迫力だ。

「ええーっと、それじゃあシカが追突しまくったってことか」

 信じられないと言いたげな智也に、有紀はツノを素っ気なく渡した。

「そうだよ。この扉に突っ込んできて、ツノで突き破ってぬけなくなって、そんで暴れすぎて根元からポッキリ逝ったんだ」

 折れたツノの根元部にはべっとり血がついていた。頭を死に物狂いで振り回した結果、ツノだけ残して鹿はどこかへ行ってしまったようだ。

「このへん、エゾシカが多いから。きっと異常気象で磁気が狂ってヘンになったのね」

「違う。これは、あの世の存在が・・・。まあ、心霊現象みたいなものよ。さっきも言ったとおり、奴らは動物を使うのよ」

 有紀が幽霊説を唱えるが、千夏はまったく信じていない。首と手を振って否定する。

「おおーい、おまえら、そこに集まって何やってんだ。乱交か」

 ダミ声を吐き出しながら義男がやってきた。酔いがさめていないので、フラフラと接地感のない動き方だ。ボリボリと尻を掻いて、だらしなくシャツの裾を出している。

「肉があまってんだから、焼かねえと腐っちまうぞ」

「そうさ、もったいないねえ。もったいないお化けがでるよ」

 続けてやって来た一二三も、夫にふさわしい泥酔妻となっていた。

「そうそう、焼肉してたんだった。ていうかヘビはどうしたの」

「うんなもの、もういねえよ。どっか行っちまった」

「うちの敷地にあんなにいるなんて。なんかもう、キモいわ」

 両手を胸の前で交差させた。少しばかり身をよじると、さも不快であるという態度が出来上がる。

「ところでよう、なしたんだよ。シャッターがボロボロじゃねえか」

「外からシカが体当りしたんですよ。さんざん暴れてツノが折れました」

「それ、ツノか。血いついてんじゃねえか」

 智也が持つ鹿のツノを、酒臭い息を吐きかけながら舐めるように見ていた。

「ほら、いまは異常気象で地球の磁気がおかしくなっているから、動物も狂っちゃってるのよ」千夏は地球磁気異常説にこだわっていた。

「ああ、だからヘビが沸いてきたのか。あいつら尻尾がS極で鉄にくっ付くからな」

「温暖化なんだよ。政府が隠してるからねえ。金持ちしか助からないさ」

 千夏の素人学説は夫婦に共感されていた。ヘビ異常発生の原因にもされてしまう。

「だからそういうのじゃない。何度も言うけど、心霊現象なんだ。わからないの」

 有紀はやや語気を強めて言った。霊というフェイクのニオイがする言葉を聞いて、義男が「なんのことだと」と言う。   

「なんかね、りんちゃんが、バケモノ的な幽霊だって言うのよ。なんだかよくわからないけど、この世に顕在化?なんだって。私にはわけわからんわ。ごめんね、ちょっとついていけない」

 ため息交じりに説明する千夏へ、有紀の目線が突き刺さっている。

「はあ? あのガキんちょが幽霊なわけねえべや。おめえ、中二病ってやつかよ」

「幽霊とか、はんくさいねえ、最近の若いのはダメだよ。だから少子化になっちゃうのさ」

「まあ、ガキんちょの中ではバケモノ的に元気だけどよう。てか幽霊かあ、アホくさ」

 さんざんの言われようであった。有紀は反論せずに黙っている。過去に何度も経験した反応であり、それなりに耐性ができていた。

「だいたい、なんでそんなことわかるのさ。あんたら、霊能者なのかい」

 一二三が大胆に切り込んだ。酔っていたのでテキトーに投げつけのだが、有紀は真顔になった。

「そう、わたしは」

 それを宣言することは躊躇われたが、すでにサイは投げられている。

「サイキックだから」

 数秒の沈黙があった。

「ぷっ」、と千夏が吹き出した。笑ってはいけない場面なのは重々承知しているので、笑顔を見せないように顔だけ明後日の方を向いた。

「なんだ、タイキックか」

「お尻を蹴られるのはイヤだねえ」

「タイ人のキックはよう、ありゃあ、ハンパねえんだよ」

 夫婦の会話内容はとぼけているが、顔だけは真面目だった。そのギャップに萌えた千夏が声を出して笑ってしまった。

「ええっと、サイキックって超能力のことね。たしか霊能力もサイキックよね」

 いったん笑いを収めてから、千夏がサイキックの解釈を披露した。 

「有紀、そのことはまだ言わないほうがいい。誤解されるから」智也がそっと耳打ちした。千夏は、「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝るが、くすくす笑いは続いていた。

 自分の極秘事項についての告白を嘲笑されてしまった。悔しさと恥ずかしさで、ケイタイで千夏の妹に連絡をさせることも忘れていた。ある種の突撃願望が浮かび上がってくる。

「だったら、わたしが幽霊を消してやる。もしあの子が突然消えても驚かないでよ」

「ちょっとなにするの。りんちゃんに暴力とかダメよ。絶対にダメ」千夏の顔色が変わる。

「おいおい、さすがにガキんちょ相手に手をあげるのは見逃せねえぜ」

 義男がシャツをまくり、その細くシミだらけな腕を見せつけた。

「落ち着いて。わたしは手を出さない。ただ、ここで意識を集中させるだけ。それだけ」

 宣言通り、その場から動こうとしない。彼女は小柄で華奢な体格である。対して、りん子と有紀の間に入って構える千夏は百七十センチ近くあり、力技での突破は困難だろう。

「有紀、まだやっちゃだめだ」

「智也は黙ってて。あれがタチの悪いバケモノだと、そこの人は知ったほうがいい」

「やるにしても、千夏さんの準備が整わないと、いきなりはマズいよ。トラブルになる」

「もたもたしてたら、あれにとり憑かれていずれ正気を失う。早いほうがいい」

「いや、でも」

 智也は小刻みに首を振る。

「いいからやれよ。霊能力だか脳張力だか知らねえけど、ようするに姉ちゃんはイタコだろ。イタコのナマ板ショーだべや」

「コックリさんかい、なつかしいねえ。小学校のときよくやったもんだよ」

 夫婦が面白がって囃し立てる。義男の酒がすすんでいた。

「なにをしようというの」

 千夏の警戒感は緩まない。有紀を見つめ、何度か振り返ってりん子の様子を確認した。

「わたしの力で、その子を本来いるべき場所へ落とす。完膚なきまでに叩き落すまでよ」

「サイキックの能力で除霊するっていうことかしら。中学生じゃないの」

 千夏の言い方に多少の侮蔑がこもっているのは、わざとであった。身内を幽霊呼ばわりされて、少しばかり意地悪になっていた。

「わたしは、あの子に指一本も触れない。ここから一歩も動かない。ただ処置をするだけ。あの子が人間ならば、なにも問題はないでしょう。すぐに済むから見てなさい」

 有紀は眉間に力を入れて、吸入量の多い呼吸を繰り返し始めた。千夏が動こうとする。 

「奥さん、いいからやらせてやれって。超能力だか脳張力だか知らねえけど、おもしろそうだべや」」

「そうだよ。タダなんだからさ」

 警戒はしていたが、必死の形相でハアハア言っているサイキックが滑稽に思えた。若いのにオカルトオタクみたいであり、夫婦の嘲りもあってまた失笑しかけたが、それは失礼にあたるので自重した。千夏がもう一度振り返ってりん子を見ると、少女らしからぬ不敵な笑みを浮かべている。なるほど、これは遊びなのだと理解した。

 千夏が体を少し横に移動させた。有紀とりん子が数メートルの距離を隔てて対面する。

「はーっ」有紀が右手を突き出して、その手首を左手が握り支えとした。そこからどのようなエネルギーが放出、あるいは抑制されるのか定かではない。

 夫婦は光線を出せと喚き、千夏は、ああ、これアニメで見たやつだと冷めた目線で見ていた。中二病の安いパフォーマンスでしかないと、その場の雰囲気は、なにも起こらないことを想定していた。

「ううーっ」だが異変は現れた。

 ただし、りん子にではない。

「有紀、大丈夫か。有紀、有紀」 

 アニメチックなサイキックポーズをとっている女が血を流していた。アゴの先から真っ赤な血液が滴り落ちている。

「なんともない、ただの鼻血だから」

「なんともないわけないだろう。けっこうな量だぞ。とりあえず、鼻になにか詰めないと」

「いいから、こっちに来るな」

 ポケットからティシュを取り出した智也が近づこうとするが、有紀の尖った声が止めた。右手の手のひらを突き立てたまま、左手で鼻血をぬぐっている。

 りん子の笑みに凄味が増していた。

 アゴを引き気味にして、やや深くなった角度で上目遣いに睨みつけている。典型的なおさげの前髪から垣間見える直角三角形の瞳が、ギラギラしていた。見知らぬ大人との遊戯を存分に楽しんでいるようである。

「はーあっ、はーあっ」

 焼肉と炭の匂いが充満する加工場内に、若い女の掛け声が響き渡っていた。粘度のない液体を鼻から出しながら、表情は必至である。 

 物騒なことを言っていたわりには単純な呼吸法だけなので、千夏は安心し、さらに呆れてしまった。

「集中しているところ悪いんだけど、もうやめたほうがいいんじゃないの。気絶しそうよ」

「いえ、やめません」片膝をついてしまったが、有紀の右手は下がっていない。気迫だけは、いまだネバー・サレンダーである。

「りんちゃんは楽しそうだけど、あなたは大変そう。顔色悪いよ。鼻血が止まらないみたいだし。遊びは一時中断して、楽しくお肉たべましょう」

「遊びじゃない」鼻血混じりの声が飛び散った。有紀は、あくまでも必死の形相である。

 りん子が接近し始めた。眼力は凄まじいが、体は踊っている。珍妙な腰つきだ。

「ふざけてんじゃねえぞ」

 怒りの感情がぎっしりと詰まっている重いセリフだった。奥歯をギリギリと噛みしめながら、なおも意識を集中し見えない力を放ち続けていた。

 りん子のはしゃぎ方が、ますます調子に乗っていた。懐かしのモンキーダンスに勤しんでいる。可愛らしいのと滑稽なのと、なんともいえぬ愛らしさに溢れていた。

「アハハハ、なんじゃこりゃあ、傑作だ、ハハハ。脳張力って、おもしれえなあ」

 ハアハアと青筋を立てて、荒い呼吸を繰り返すだけの若い女と、その周囲をおだったサルのように踊りまくる女児の対比に、義男は手を叩きながら大ウケしていた。 

 りん子が洗練されてきた。踊りを静かにして有紀の周囲を歩き回っているのだが、その姿勢が、まるでランウエイを闊歩するファッションモデルのように凛としていた。ときどきセクシーなポーズをキメたりするのが小憎たらしいかぎりで、義男がやんやの声援だ。

「ふあう、ああ、うぐ」

 有紀の体調が芳しくなかった。表情から、まったくといっていいほどに血の気が失せている。その割には眼球の充血がすさまじく、結膜炎の患者か深夜の吸血鬼のようだ。

 鼻血の勢いは一定だが、いつまでも止まない。りん子が周囲を回ることで、毛細血管の中に潮汐力が働いているかのごとく押し出されていた。 

「超能力ごっこはもういいでしょう。りんちゃんもいい加減にしなさいよ。おしまい」

 宴の終了を告げるのは家主の特権である。千夏がそう宣言すると、りん子が静かになった。あれだけ動き回っていたのに汗一つかいていない。おさげ髪はサラサラのままだ。

「有紀」

 智也がそう叫ぶと、有紀が崩れ落ちた。床に横たわり、ぶるぶると痙攣している。白目をむいて口端から泡を吹いていた。智也が抱きかかえているが、そこに千夏も加わった。

「たいへん、ひきつけ起こしてる。救急車呼ばなきゃ」

「いや、いいですから。有紀は大丈夫です。横になっていれば治まりますから」

 智也は近くにあった布巾を枕代わりにして、彼女を安静な状態にした。面白がっていた夫婦もやってきた。いちおう、心配そうな顔で見ている。

「なに言ってんの。死にそうじゃないの。このケイタイ借りるね」

 千夏は、有紀のジーンズのポケットにスマホがあったので引き抜いた。その際に手がもたついて床に落としてしまう。すぐに拾い上げようとするが、違う手がそれを奪い取った。

「りんちゃん、それ返して」

 りん子がスマホを持って、いきなりぶん投げた。繊細な電子デバイスが壁に当たって壊れてしまう。割れた画面を見て、弁償するには数万円の出費になるだろうと千夏はため息をついた。

「僕は有紀を部屋に連れていきますので」

「ええ、ああっと、彼女は大丈夫なの。救急車呼んだほうがいいんじゃなの」

「回復してきたので心配ないです。前にもありましたから」

 血の気がなかった顔に温かみが戻ってきた。白目の代わりに瞼が被さり、鼻血は止まり乾いている。智也がティッシュで顔をぬぐっていた。こういうことが何度かあったのだと、千夏は納得する。

「じゃあ、おひらきにしましょう。後片付けは私がやっとくから。それと」お客様はお部屋でおくつろぎください、とそこだけ大きな声で言った。

 義男は夜まで飲み続けるとグダを巻いたが、一二三が襟首を引っ張って連れて行った。有紀はなんとか立てるまで回復し、うつろな表情で、すみませんと何度も頭を下げた。

 薄暗い加工場内に一人残った千夏は、炭火台や食器類の後片付けをしていた。ふと妹の顔が思い出せず困惑したが、りん子がやってきて楽しそうに走り回る姿を見て安心した。

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