第5話

 千夏は外にいた。雨は混じっていないが、いったん止んでいた強風が、またきつくなっている。風圧で、シャツの生地がべったりと体に貼り付いている。

「ええーっと、それじゃあ、うちで働きたいってことなの」

 二人の男女が彼女の前にいた。

「だからそうだって言ってるべや。前によう、社長さんにまた来いって言われてんだ。ほんとは猿払にいるつもりだったんだけど、わざわざ来てやったんだって」

 居丈高に言うのは、ごま塩頭で細長い顔をした中年過ぎの男だ。ヘソから上は、シャツの上からでも骨格が見えそうなほどの痩せ馬だが、下腹は寄生虫症でも患ったのかと思えるほどに突き出していた。

「はあ、そうですかあ、猿払から来たんですか」

「おうよ。オレら夫婦はよう、猿払のホタテ加工場にいたんだ」

「あたしらね、稼ぐからさあ、辞めないでほしいって何度も言われたさ。給料いいから猿払にいようって話してたんだけどさあ。ほら、ここの社長さんと約束してたから」 

 女のほうも五十を越えているだろう。中年の女を凝縮したような安物のニオイと、厚かましくも馴れ馴れしい態度を隠すことなく示していた。

「ああーっと、ごめんなさい。うちの工場、もう閉めてるのよね。だいぶ前に両親が亡くなって。だから、いまは人を雇ってないの」

 ㈱菅原水産が、すでに廃工場であるのは一目瞭然だ。二人がわからないはずもなく、だから千夏に断られても困ったふうな様子ではなかった。

「あんねえ、あたしらも困るのさ。ビジネスホテルに泊まるってのもお金かかるべさ。いきなり仕事ないって言われても困るわあ」

「そうだあ。あんとき社長さんがな、絶対に来いって言ったんだって。雇ってやるからって。だから来たんだべや。いまさら猿払に帰れってか。ひでえこと言うなあ」 

「そうは言っても、うちはもう商売してないし、父も亡くなっているし」

 千夏は困惑する。相手の言い分に理があるとは思わないが、無碍に突っぱねるのも不憫だと思っていた。

「あたしら、あやしいもんじゃないよ。前にここで働いてたんだから。名簿に名前のこってるって。調べりゃいいんだ。河本一二三と、こっちは亭主の義男だよ」

「おうよ。社長さんにきいてもらえれば間違いねえ」

 元従業員の名簿は事務所のどこかにあるはずだが、探すのに手間がかかる。社長に訊こうとも、父親はすでに他界している。そのことを説明するが、夫婦からはお悔やみの言葉の一つもなかった。仕方がないと、千夏は安易な妥協案に手を出してしまう。

「仕事はないけど、泊る場所ならなんとかできるよ」

 一泊くらいならいいと思った。不遜な輩だが、大嵐が接近しているのに追い返すのは、さすがに気が引けたようだ。

「元は寮なんだけど、そこでいいのなら」

「ああ、いいよ。前に働いた時も、ここの寮に住んでたから」

「なっつかしいなあ。よくみんなで花札やったなあ。弱っちいのばっかで、給料日に稼がせてもらたっけ。間抜けな奴らばかりで、カモがネギしょってたっけ」

 ごま塩頭の義男は無精ヒゲだらけのアゴをさすって、いやらしく微笑んだ。

「じゃあ、使わしてもらうよ」

「ええ、どうぞ」

 一二三と千夏の会話であるが、二人とも止まっていた。とくに家主のほうは、ん?という表情でつっ立っていた。

「ちょっとう、黙ってないで案内しなさいよ。あんたの工場なんだから、ぼさっとしてたって、あたしらどうすればいいのさ。ったく、社長さんと違って娘はだめだねえ」

 容赦なくダメを出されて、千夏は弾かれるように反応した。

「そ、そうでした。すみません。じゃあ、案内します。布団とかはありますか」

「あたしら、バスで来たんだから、そんなの持ってるわけないっしょや」

「見ればわかるべや、ったくよう」

 バカじゃないのと言われると思い、千夏は身を固くした。

「とにかく中に入るべ。雨降ってきたんじゃねえか」

 吹きつけてくる強風の中に水滴が混じっていた。すぐにも大雨になりそうである。

「じゃあ、こっちへ来てください」

 千夏が二人を自宅へと案内する。加工場への出入り口はシャッターで閉鎖されていた。従業員用のドアは、前に賊が侵入しようとしたので大工に頼んで塞いでしまった。寮に玄関はない。母屋からしか出入りできないのだ。

「あら千夏ちゃん、お客さんなの」

 母屋の玄関前に隣家の主婦がいた。風にかき乱されて、髪の毛が鳥の巣のように荒れている。

「ええ、昔の従業員さんです」

「従業員、むかしの?」

 主婦は怪訝な表情だ。一二三と義男は彼女と目線を合わさず、あいさつすることもせずに通りすぎた。

「なにかあったかしら」

「ミニトマトをもってきたっしょ」

 主婦が抱えているアルミボウルには、不ぞろいの大きさではあるが、熟れたミニトマトが山盛りとなっていた。

「うわあ、美味しそう。もらってばっかりで、すみません」

 千夏はミニトマトが好きである。とくに隣の主婦が育てる無農薬のそれが大好物で、ネギをもらうよりも十倍はうれしかった。

「私、従業員さんを寮に案内しますので」

 千夏としてはちゃんとお礼がしたかったが、元従業員の二人はさも退屈そうな態度をしているので主婦にかまっていられなかった。

「そうだ。冷蔵庫に中標津の栗羊羹があるんだけど、食べていきませんか。お茶を淹れますので、ちょっと台所で待っててください」

「あら、それじゃあご馳走になろうかしら」

 栗羊羹は主婦の好物である。大爆発の頭を整えもせず、勝手知ったるキッチンへと向かう。

「あ、それとりんちゃんが朝ごはん食べているから、二つ三つあげてください」

「姪っ子さんだっけ。さっきは見かけなかったけどもねえ」意味深にニッコリと笑って、千夏は夫婦を寮へと案内する。

 しばらくして千夏がキッチンに来ると、主婦はすでにお茶を淹れて栗羊羹を食べていた。

「お先に頂いてるけど、いいよね」

「もちろん」

 こういうことは、お互いの家でよくあることだ。

「あれえ、りんちゃんがいないけど、どこかに行きましたか」

「わたしが来たときは、誰もいなかったけどね」

 テーブルには食べ終えた食器類が、そのままの状態で残されていた。

「ねえ、千夏ちゃん。さっきの人たち、なんなの。なんか怪しい感じがしたけど」

「あの人たちは」経緯を手短に説明した。

「こんなこと言うと気分悪いと思うけどね、千夏ちゃんは人が好すぎるよ。前に働いてたからって、もう関係ないっしょ。物騒だからね、なにされるかわかんないよ」

 千夏は苦笑いしながら、お茶の葉っぱを新しくする。

「断るってことを知らないんだから。そのうち痛い目に合わなきゃいいけどねえ」

 隣の主婦は、小言を始めると止まらない性分である。あえて望んだわけではないのだが、千夏は彼女を沈黙に至らせるモノを発見してしまう。

「おばちゃん、動かないでっ」

「えっ」と主婦が固まる。ちょうど、お茶を飲もうと湯飲みを持った時だった。

「ネズミ」

「は?」

「ネズミがいるから、動かないで」

 主婦の左腕手首にネズミがいた。体躯は小さめのハムスターくらいだが、毛並みがドス黒く濡れていて、いかにも不衛生だ。

「ひっ」

 一瞬で全身に鳥肌を立てて、小太りの主婦はがっちりと固まった。

「いま、追い払うから」

 千夏が台所の引き出しからお玉を取り出した。ドーム型の面を下にして振りあげる。硬質の料理器具で叩き潰そうという作戦だ。

「ちょっとやだ、千夏ちゃん。潰さないで」

 動物愛護の精神ではない。バイ菌だらけの返り血を浴びたくはないのだ。

 隣人の意図をくみ取り、お玉の裏面をネズミにそうっと押し当てた。すると、その汚らしいげっ歯類は、驚いて逃げることもなくお玉にじゃれつき始めた。

「どうしよう、このまま床に落とすか」

 床に落とされたネズミは、そのまま走って逃げてしまった。後でネズミ捕りの罠を仕掛けようと思って顔を上げた千夏は、「ぎゃっ」と唸った。

 座っている主婦の体が多数のネズミに覆われていた。大きさや、色つや、不潔さなどはいまのと同程度だが、数が多かった。十匹以上の汚らしい奴らが、へくへくと鼻を動かしてくっ付いている。

「ちなつ・・・」

 それ以上声を出したら、ネズミたちの獰猛スイッチが入ってしまって、自分は生きたまま喰われてしまうという妄想が、主婦の頭の中に沸き起こっていた。顔面蒼白ながら、いちおうはポーカーフェイスだが、心理的にはパニック寸前である。

「お、おばちゃん、動かないで」と千夏が言うが、具体的な手立てはお玉しかない。目を見開いてオロオロしていた。

 どこから補給されるのか、どんどんとネズミの数が増えてくる。主婦は顔以外がネズミだらけとなり、まるで蠢くネズミの着ぐるみを纏っているかのようだ。

「あのう、すみません。いま来たヘンな人たちが焼肉するから、炭と七輪貸してくれって言ってるんですけど」

 智也が台所にやって来て、ハッとした千夏の目線とかち合った。

「わっ、なんだ」

「ちょっとー、お兄さん。なんとかしてっ」

 命令とも懇願ともつかぬ呻きを聞いて、どうやら生きた人間が大量のネズミに覆われているのだと悟った。

 千夏が手にしたお玉でネズミたちをぶっ叩こうとする仕草をしていたが、智也が手のひらを見せて、止めろの指示を出した。

「さあ、チューチューども。大人しく巣に戻りな」

 刷毛ブラシで女性の裸体を撫でるがごとく、智也の手がゆったりとした優しい動作で不快生物を落としていった。それらは、よく飼い慣らされたハムスターのように、とくに暴れることもなく方々へ散った。

 生きた着ぐるみを、なんとか脱ぐことができた主婦は、感極まったのか目を力いっぱい瞑って、ナマンダブツナマンダブツと繰り返し呟いていた。千夏もホッと息をつく。

「きゃっ」

 だが安心したのも束の間、ネズミどもが空中を飛んで千夏や智也にぶつかってきた。

「こらあ、やめなさい、りんちゃん。そんなものをつかんじゃダメだって。痛っ、もー」

 りん子が現れて、せっかく放ったネズミどもを拾い上げては投げつけていた。

「うわ、うわっ。っぺ、っぺ」

 ネズミが智也に集中していた。口に嵌った不潔なそれを、青年は思いっきり吐き出した。絶好の攻撃目標を見つけたりん子は、嬉々として投げることを止めない。

 ネズミの弾は尽きることがなかった。次から次へと湧いて出てくる。りん子はそれらを捕まえては人にぶつけるだけではなく、あろうことか壁に叩きつけていた。

「はい、そこまで」

 駆け寄った千夏が、タックルするように女児を抱えた。りん子はそれでもネズミ遊びをやめようとしない。小さな手で腹のあたりを掴みグシャリと握り潰して、ケラケラと笑いながら千夏の口元に押し当てた。

「な、生臭っ」

 ネズミの肛門から血と体液がほとばしる。内臓らしき赤い肉片も露出していた。げっ歯類の断末魔の悲鳴が、女児の奇声と家主の呻きにかき消された。智也が駆け寄ってきて、りん子の手からグロテスクな物体を奪い取った。

「私、この子を連れて行くから」あとの処置を任せたと智也に目配せし、千夏はキッチンを出た。智也は、ありがたくない後始末に忙殺されることとなった。

 あれだけ湧いていたネズミどもは、叩きつけられて死んだものを除いて、すべていなくなっていた。壁やテーブルに激突して、けっこうな数の死骸がへばり付き落下していた。

 隣の主婦はヒューヒューと小うるさい呼吸を繰り返し、獣臭くなった湯飲み茶わんを握りしめていた。目は完全に閉じきっている。

「おばちゃん、大丈夫だった」

 千夏が戻ってきた。りん子がネズミを投げつけたことを謝罪し、女児を部屋においてきたと説明した。青ざめた顔が、ようやく目を開けた。

「えっ、りんちゃんって、だれ。昨日から変なことばかり言ってるけど」

 ネズミ臭のする顔をしかめて、主婦は震え声だった。

「いや、だから、いまネズミを投げつけていたでしょう」

「ちょっとう、千夏ちゃん、大丈夫なの。あなた、また病気が」

 そこまで言って主婦は口をつぐんだ。気まずそうに明後日の方向に目線を這わせる。

「おばちゃん、ネズミの大群にびっくりして、りんちゃんが見えなかったのね」

「いいや、子供なんていないっしょ。ずっといないって」

「おばちゃん、まだボケる年じゃないでしょう」

 千夏の言い方が嘲笑しているように聞こえて、主婦はムキになった。

「ちょっと、そこのお兄さん、子供なんかいなかったでしょう。どこにもいないでしょ」

 ネズミの後片付けをしている智也に確認を求めた。

「え、あ、まあ」

 死んだネズミをスーパーのビニール袋に入れながら、智也はあいまいな返事をした。

「ちょっとなに言ってんの。りんちゃんと会ったでしょう」

 責めるような圧力だが、智也は愛想笑いでやり過ごそうとする。

「だから、そんなのいないんだって。千夏ちゃん、また始まったのよ」

「また始まったって、なにがっ」

「それは」

 主婦が言い淀み、二言ばかり口の中で噛んでから言った。

「とにかく、旦那さんに連絡したほうがいいよ。それとネズミは駆除業者に頼んでほうがいい。だいぶ前にもあったからね。わたしは帰る。もう、吐きそうだよ」

 主婦は機嫌が悪くなり、ドシドシと床板を踏み抜く勢いで帰ってしまった。千夏は、いちおう玄関まで見送るが外までは出なかった。天気はさらに悪化して、雨粒が屋根に音を立てて当たっている。

 千夏がキッチンに戻ると、智也がビニール袋を持っていた。それらは死んだネズミでパンパンになっていた。思ったよりも、りん子の手数は多かった。

「これどうしましょうか。中におくと臭くなりそうで」

 白い袋は少し破けて、そこからねっとりとした血が糸を引いて滴り落ちていた。自分の家ではないのだが、智也は床の汚れが気になっていた。

「外に置いてくるから」

 彼から袋を受け取って、千夏が外に出た。雨に濡れながら、加工場が稼働していた時に使用していた鉄製のゴミ箱に入れた時、背後にただならぬ気配を感じて振り返った。

 痩せたキタキツネがいた。一頭ではない。十頭ほどが集まっている。ただならぬ気合で千夏を見ていた。

 背後で、「ボンッ」と大きな音がした。

「きゃ」

 死ぬほどびっくりした千夏は思わず両耳をふさいで、その場にしゃがみ込んだ。数秒後、なにかが降ってくる気配を感じて顔を上げた。

 ボタボタとアスファルトの地面に叩きつけられているのは、ビニール袋に入れられていたネズミの死骸だ。どういう現象が起こったのか知れないが、ゴミ箱の鉄蓋が勢いよく開いて、中に入れたはずのモノが空に向かって投げ出され、そして落下したのだ。

 湿った路面に汚らしい潰れ肉がまき散らされた。飢えたキツネたちが、野生の獰猛さを剥き出しにして喰らいついた。ガリガリと、不気味だが小気味よい咀嚼音が聞こえてくる。尖った口から、唾液とともにネズミの体液がほとばしった。その生臭い味を自分の口で味わっているようで、千夏は吐きたくなった。

 誰かの声がした。玄関のほうからだ。 

 千夏が見ると同時に、りん子がとび出してきた。そのすぐ後を智也が追いかける。

 りん子は走っていた。まだ七歳でしかないので、大人のように華麗な姿ではない。腕や脚をちょこまかと動かして、胸を大仰に突き出しながらの児童走りである。それでも逆風をものともせず、髪の毛をオールバックにしながらの疾駆は力強く、子供とは思えぬトルク感が溢れ出ていた。

「待って、待って」

 それにひきかえ女児の後を追う智也は、男としての気迫を欠いていた。風に吹き飛ばされそうになりながら前後左右によろめき、追跡に関してまったく精彩を欠いていた。

 りん子がキツネたちに突進した。走りながら獣の尻尾を両手で掴み、二匹を引きずっている。弱いところを握られたキツネたちは抵抗しようとするが、キャッキャと喜んで走り回る女児に引きずられていた。ある程度走ると、りん子は大きく弧を描き、その勢いのままキツネをぶん投げた。

「ぶひゃっ」

 二匹のキツネが、つっ立っていた智也の顔面と下腹に命中し、そのまま一塊となった。毛皮に包まれた柔らかい肉なのだが、勢いがあったために衝撃は強かった。青年が悶絶している。 

 一匹のキツネが狂犬のように唸っていた。四肢に力を入れて身を低く構えると、猛然と加速する。向かう先にはりん子がいた。

「やめてっ」と千夏が金切り声で叫ぶ。

 向かってくるキツネに気づいたりん子は、自らも突進した。

ガツン、という音が響いたような気がした。獣の頭部と人間の頭が激突したのだ。りん子はその場にしりもちをついてから、頭を撫でてケラケラと笑っていた。

 いっぽう、キツネのほうは甚大な被害を被っており、両前足を頭の上に置いて呻いていた。その仕草がいかにも人間臭くて、千夏はぷっと笑ってしまう。

 ほかのキツネたちが逃げた。地面に放置された血まみれのネズミを踏まないように気をつけながら、千夏がりん子のもとへ行き手を握った。急ぎ家の中へと戻る。キツネと戯れていた智也も、ふらふら歩きながら帰ってきた。

「あなた、すごく猫臭い」

 玄関で体についた汚れと臭いを掃っている智也に向かって、千夏は鼻をつまむ。

「すみません。でも、猫じゃなくキツネでした」

 生真面目に訂正する智也を見て、千夏はクスッと笑う。

「どうして、智也君まで出てきたの」

「とにかく姪っ子さんが走り回って、つかまえようとして外に出ちゃったんです」

「この子、キツネがことのほか好きみたいで、かならずぶん回すのよ。あ、どこいくの」

 りん子は二人をおいて、さっさと家の中へ入ってしまった。

「子供の霊体は動物と親和的になる傾向があるんですよ。犬猫などが、なにもない空間を見詰めたりしてよく反応するでしょう」

 突風が吹きつけて、大粒の雨が屋根のガリバリューム鋼板をバシバシと叩いた。ごうごうと空が唸って、智也の声のほとんどがかき消されてしまった。

「え、動物がなに?」

千夏が耳に手をあてて、よく聞こえないという仕草をした。

「いえ、なんでもないですよ。子供は動物が好きだって話で」

 そう言ったのは有紀だ。いつの間に来ていたのか、腕を組んで立っていた。

「動物が好きなのはいいけれど、野生動物とかには触らないでほしいなあ。あ、やば。りんちゃんに手洗いさせないと。エキノコックスになっちゃう。智也君も手洗いしてね」

 千夏は家の中へと駆け出した。残された二人が話し始める。

「あの女の子は、あの人にとり憑いてしまっているよ。さっきも言ったけど、あそこまではっきりと顕現した霊は珍しいね。初めてじゃないの」

「本人はまったく気づいてないな。にしても、触った感じは生きた人間そのものだった」

「あれだけのモノが出てきているのだから、ここには相当なトラブルがあったみたいね」

「そうだね。生き血を啜る有刺鉄線の昔話も、ただの都市伝説じゃないのかも」

 二人は、お互いの目線を合わせないで話していた。意識しているわけではないが、ヒソヒソ声になっている。

「おい、炭はどうなった。七輪どこにあんだよ」

 ゴマ塩頭の義男もやってきた。ただでさえひん曲がった顔を不機嫌そうに歪めている。

「来ねえからよう、ずっと待ってたんだ。なにやってんだあ」

「ええっと、とりあえず千夏さんには言っときましたけど」

「とりあえずじゃねえだろう。おめえがもってこいよ。おめえに言ったんだからよう」

 ゴマ塩頭は、重たいだけで熱量が感じられない言葉を投げつけた。

「すみません。千夏さんに、もう一度頼んできます」

 智也が腰を低くして行こうとするが、有紀が彼の腕をつかんで止めた。

「あのさ、自分で行けばいいでしょう。さっき会ったばかりで、しかもいきなりわたしたちの部屋に入ってきて、ああしろこうしろ、あれもってこいって、なんなのよオッサン」

 早口でまくし立てると、最後にバカじゃないのと付け加えた。

「ああー、なんだー、コラア」ゴマ塩頭が女を睨みつけた。

「有紀、やめろって」

 智也が勝気なパートナーを諫めようとする。だが一度勢いがついた女の口は、たやすくは閉じない。その時の感情を一通り吐き出さなければならないのが通例となる。 「雇われていたって威張ってたけど、何十年前の話なんだよ。ここはもう商売してないのに、よくのこのこ泊まる気になったもんよ。バカなの、ねえ、バカなの」 

「てんめえ、黙って聞いてりゃあ、人をバカにしやがって」

 親子ほども歳の離れた女に愚弄された男は、激高してつかみかかるのが定番である。有紀が身構えて、腕力に自信のない智也は肝を冷やす。

「オレだって、昔は社長に褒められたこともあるんだぞ」

 義男がポケットからカップ焼酎を取り出して、グビリと呑んだ。赤ら顔から酒臭い息を吐き出して愚痴を言い始める。攻撃されないとわかった智也は安心し、有紀は軽蔑のまなざしだ。

 酔っ払いがグダをまいていると、りん子が走ってきた。そのまま減速することなく、義男の尻をキックした。

「うぎゃっ」

 パコーンといい音がした。タイ人格闘家顔負けの見事な蹴り上げであった。

「りんちゃん、乱暴はやめなさい」

 千夏の叱り声が響くが、りん子は笑っている。 

「このクソガキ、なにしやがる。ぶっ殺すぞ」義男が激怒する。カップ焼酎を半分まで呑み、とろんとした目で睨みつけた。

 りん子は続きをしたいようだ。今度こそトドメとばかりに足をバタつかせる。

「こら、そういうことは絶対にダメだからね」

 千夏がりん子の肩を押さえて、それ以上動かないように押さえた。

「ごめんなさいね。子供だから悪気はないのよ。まだ七歳の女の子だから」大目にみてほしいと、千夏が合掌のポーズで許しを請うた。

「ちゃんとしつけとけよ。ったく、なんだよ、もう。だからガキんちょは嫌なんだ」

「あははは。オッサン、だっさ」

 口先だけの無力な男だったので、有紀が嵩にかかって蔑んだ。

「うっせー、このう。炭用意しとけ、このう。ふざけんなよ、このう」

 捨て台詞らしい言葉を残して義男は行ってしまった。有紀がケラケラと笑っている。

「ねえ、すみ、ってなんのこと」

「さっきも言ったんですが、なんか焼肉したいみたいで、七輪と炭が欲しいそうです」

 智也が申し訳なさそうに言った。 

「ほんとにバッカじゃないの、あのオッサンたち。こんな天気で焼肉なんてできるはずない。だいたい、肉なんて持ってきてないよ。きっとこの家にたかろうとしてるんだ」

 迷惑そうな表情で有紀は吐き捨てるが、家主はそれほど悪く思っていないようだ。かえって、なにかひらめいたようである。

「うん、肉ならある。冷凍庫にたっくさんある。食べちゃわないと冷凍焼けしちゃうし」千夏は納得したようにウンウン頷いた。

「そうだ、お昼は焼肉にしましょう。みんなでするの。うちには肉も炭もたくさんある」

「外は大嵐ですよ。やめたほうがいいと思いますけど」

 天気を気にする智也を、千夏は小ばかにしたような眼差しで見た。

「ノンノン、イケメン君、外でするわけないでしょう。中でやるのよ、中で。智也君と有紀さんは、お酒は強いほうかなあ。うちにはいろいろあるから飲み放題もプラスよ」

「ひょっとして、ホットプレートで鉄板焼とかなの」

 有紀は、その家庭的で地味な場面を想像する。あの夫婦と同席というのが看過できない難点だと考えていた。

「なにいってんの。工場でやるのよ。あそこなら広いから炭火をしても中毒にならない。煙がもうもうでも近所迷惑にはならないし、調子に乗って歌っちゃってもOKよ」

 千夏はバーベキューをすることの楽しさを、頭の中であれこれと描いていた。

「りんちゃん、お昼は焼肉よ。焼きたてのジュージューなんだから」ギャアギャアと奇声を発して、りん子が喜んでいた。 

「君たち、準備するから手伝ってくれない。あ、それと河本さんたちを呼んできて」

 智也をバーベーキューコンロ設置係に、有紀を伝令へと任命する。

「りんちゃんは、静かにして食べる係ね」

 りん子は、いかなる場合でも静かになどしない。さっそく、廊下を突っ走った。慌てて千夏が追いかける。玄関には、またもやカップルが残された。

「あのバカ夫婦と一緒って最悪だわ。わたし、断ろうかな。カップ麺あるし」

「有紀、それは千夏さんに失礼だよ。張りきっているみたいだし」

 敬遠したい雰囲気をじわっと吐き出すパートナーを、智也がやんわりと説得する。いろいろと親切にしてくれる千夏の気持ちをおもんばかっていた。

「そうね、一宿一飯の恩義に甘えたほうがいいのかも」

 珍しく古風な表現を使うので、智也がフッと微笑する。

「ねえ、そういえばあの子、オッサンを蹴ってなかった」

「そうだな、そういえば蹴ってたよ。そして、あの子に対して怒ってた。見えていたんだ」

「とり憑かれている千夏さんが見えるのはわかるけど、あのオッサンにも見えているのね。しかも触れることができるなんて、どういうこと」

「あの人、ひょっとして僕たちと同じ能力があるのかも」 

「よしてよ。アホ丸出しの、ただの貧乏くさいオッサンじゃないの。あの子の正体を知っているようには見えなかった。ふつうの子供だと思っているはずだよ」

 うーん、と智也は考える。

「だとすると、とり憑かれている本人だけでなくて、一般人にまで姿を示威しているのか。ああ、でもお客のおばさんは見えてなかったし」

「相当に異様だよ、あの女の子。よほど強い怨念が、千夏さんにまとわりついてるみたい」

「今回は深刻なことになるのかもしれない。手を引いたほうがいいのかな」 

「そんなにビビらないでよ。わたしたちは、いつも深刻じゃないの」

 遠くで千夏が呼んでいた。二人は、それぞれの務めを果たすために動き出した。

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