第3話

 翌朝、千夏は風の音で目覚めた。昨日までの晴天とは打って変わっての重苦しい曇り空であり、強い風がゴーゴーと唸っていた。

 時計を見る。午前七時になろうとしていた。いつもは六時前には起きるので、今朝は寝坊となった。

「そうだ、りんちゃん」

 寝つきの良くなる薬を飲むと、だいたい寝過ごしてしまう。ここ最近は控えていたのだが、昨夜の騒動で久しぶりに服用してしまった。しかも、普段は一錠のところを倍の二錠服用していた。少しばかりふらつきながら歩き出す。

「りんちゃん、おはよう。もう起きてるの」

 めいっ子にあてがった部屋に行くが姿はなかった。布団は乱暴にまくれ上がっていた。すでに起床し、どこかに行ってしまったようだ。

「っもう、子供らしく、朝寝坊してなさいよ」

 これくらいの小言は許されるだろうと思う千夏だが、口に出してから周囲をそっと見まわした。なんらのリアクションもないので、背筋を伸ばして二度ほど頷く。

「さあてと、どこにいるのかなあ、やんちゃ姫は」

 りん子を求めて台所や居間、夫の書斎や風呂場まで探すが、小さなじゃじゃ馬はいなかった。家屋は、いまは使われなくなった加工場へ繋がっている。外は強風が吹いており雨も降りそうな予感があるので、りん子は建物の中のどこかであると判断した。

「さては工場で遊んでいるのかな。あそこは、あんまし行かせたくないなあ」

 無軌道な子供が一人遊びをする場所として、水産加工場内は危険物が多すぎた。廃業して二十年近く経過しているが、当時の機械類が撤去されずに残り、一部倉庫代わりにもしているので、資材や工具なども片付けられぬまま放置されていた。場内は暗いし、走りながら躓いてしまえば怪我をしてしまいかねない。

「あっ」

 千夏がなにげなく窓の外を見ると、りん子を発見した。吹き飛ばされそうな強風に向かって、その長髪を後ろにバタバタとなびかせて走っていた。

「いたいた」

 すぐに家を出たが、いまのいままでそこにいたはずの女児はいなかった。

「千夏っちゃん」

 唐突に後ろから声をかけられた。渦巻く風にかき消されないような大声だった。

「おばちゃん」

 隣家の主婦だった。昨日はネギを持ってきたが、今日は固そうなものを手にしていた。

「これ、あんたのとこのでしょう。うちのほうまで転がってきたわ」

 彼女が手に持っているのは、プラスチック製の植木鉢だ。今朝からの強風で、千夏の庭先に放置してあったものが隣の家まで転がってしまったようだ。

「わざわざ拾ってきてもらって、どうもすみません。ほんとに、なんて風なんでしょうね」

「嵐になりそうだからねえ。千夏ちゃんは、朝から庭の片づけかい」

「いえ、りんちゃんが外に出てしまって、連れ戻しに来たんですよ」

「ああ、昨日言ってた子ね。もうすぐ雨が降りそうなのに、子供はほんとに鉄砲玉だわ」

「どこ行ったのかなあ。いままでここにいたのに。おばちゃん、見てない」

「さっきから庭に出てたけど、ここには誰もいなかったよ」

 隣の庭からは、新藤家の庭をほぼ一望できる。

「ええーっと、りんちゃんは小さいから」

「いくらなんだって、子供が見えないほど年はとっちゃいないよ。どこか他で遊んでるか、家の中にいるんじゃないの」

「でも見たのは、いまさっきで」

 千夏の目線がある方向で止まった。物置に使っているプレハブ小屋の前に、りん子がいた。風が強い中、珍しい虫でも見つけたのか、しゃがんで地面を見つめている。

「ほら、あそこにいた」

「え、どこ」

 千夏と隣の主婦はまったく同じ場所を見ているが、それぞれの認識には差があった。

「どこって、りんちゃんが、あそこにいるでしょう」

「どこにもいないけど」

「あのう」

 目にゴミでも入ったのか、あるいは少しボケてしまったのではないのかと、年長者に対して失礼なことを考えていた。

「うわあっ」

 突風が吹きつけた。立っているのがやっとであり、隣家の庭にあるビニールハウスの骨組みが、くしゃっと潰れた。

「あーっ、うちのハウスが」 

 苦労して組み立てたビニールハウスが壊れてしまい、他人の子供どころではなくなった。聞き取りづらい言葉を発しながら、主婦は行ってしまった。

 隣人を見送ってから千夏が物置小屋を見ると、女児の姿は消えていた。

「っもう、またいなくなった。今度はどこかな」

 どうせ、その辺を走り回っているはずだと見回すが、現実は斜め上をゆくものだった。

「えっ」

 りん子は屋根にいた。どこからよじ登ったのか、家の一階部分の屋根の上をさっそうと歩いていた。

 どういう言葉をかけてやればいいのか、千夏は戸惑っていた。ヘタに叱ってしまえば、不貞腐れてより危険な行動をしてしまうかもしれないからだ。

「りんちゃん、りんちゃ~ん。そこでなにしてるのう。寒いからお家に入りましょうよ。そうだ、プリンがあるよ。すっごく甘くて、たっかーい、やつ。三百円もするんだから」

 甘い食べ物で篭絡しようとの魂胆である。

「ねえ、りんちゃん、プリンだよ。りんちゃん」

 しぶとく呼びかけるが、りん子は聞く耳を持たない。それどころか屋根の縁沿いを歩き始めていた。数センチ横は空中であり、少しよろけただけで落ちてしまう。ノッポな大人が万歳したほどの高さだが、落下した児童が怪我を負うには、ちょうどよい頃合いだ。

「あっ」ぶないと、千夏が叫んだ時だった。

 強風に押されたりん子が、ふわっと傾いた。その体勢は、すでに取り返しがつかないくらいになっていた。

 千夏が息を吸い込んで目を見開く。最悪を経験することの既視感に、腹の底が一瞬で凍りついた。

「おっとう」

 誰かが来た。そして屋根から落下した女児を、硬い地面に激突する前にキャッチした。

「ふう、危なかった。ギリギリだったね」

 青年だった。いかにも着古しのジーンズ、上は安物のパーカーで、見苦しくない程度の無精ひげを生やしている。二十台前半の男性に見えた。

「りんちゃん」と叫んで叔母が駆け寄る。抱っこされていたりん子は、彼が解放するより先に脱出した。すぐにどこかへ行こうとするが、逃がさんとばかりに千夏が捕まえた。

「どうして、あんなところに登ったの。絶対にやっちゃダメ。わかった、わかったのっ」

 いたずらっ子は、真剣な態度の大人とは目を合わせないものだ。りん子も、あっちのほうを向いて知らん顔である。

「高いところが大好きなちびっ子って、けっこういるみたいですよ」だからそんなに怒らないで、というニュアンスだ。話しかけているのはパーカーの男ではない。いつの間にか現れた若い女性だった。

「ええーっと、あなたは」誰だと、千夏は自分の敷地に無許可で入ってきた見知らぬ人間を、当然のように訝った。

「あ、勝手に入っちゃってごめんさい」

 女はジーパンに薄手のジャンパーを羽織っていた。化粧を施せば見栄えのする美顔なのだが、服装含めて色気が皆無だ。まるで具材が一切無しのかけうどんのようである。二人の仲を認知さるかのように青年の横へ並んだ。

「わたしたち、そこの河川敷でキャンプしてるんです」

「キャンプ?」

「ええ、はるばるバイクで東京から来ました」

 千夏の家がある元水産加工場の前は、町道を挟んで広大な河川敷だった。河口に近いので川幅が広く、簡易的ではあるが、河川敷には公園や野球のグランドが整備され、パークゴルフ場などもあった。キャンプ場はなかったが、たまにバイカーが訪れてテントを張り、寝泊まりしていた。

「バイクっていっても原チャリなんだけどね。わたしたち貧乏なんで」

 金銭的に余裕がないことを、やや自虐的な言葉で匂わした。

「公園の水道が壊れて水が使えなくて。赤の他人で図々しいお願いなんですけど、できれば少し分けてほしいと思って来ました」

 そう言うのは、男のほうだ。丁寧で腰の低い態度であった。キャンプでよく使うような簡易水タンクを差しだして、申し訳なさそうに頭をかいている。

「ああ、それはもう、タダだから、なんぼでも持っていってよ。じゃんじゃんあげちゃう」

 一般家庭の水道は無料ではないが、りん子の恩人のささやかな頼みである。若いわりに礼儀正しく接するので、気を良くした千夏は大盤振る舞いをしたい気分になっていた。

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 水タンクを受け取り、りん子を引っぱって家の中へと戻った。台所のテーブルに暴れ女児を据え付けて、ひとまず高級なプリンを差し出す。朝食はまだだったが、りん子はなにも言わず食べ始めた。

 水を入れてキッチンを離れるさい、振り返ってめいっ子を見た。女児は大人しくプリンを食べている。高価なそれを気に入ったのか、少しずつ、こそげるように食べていた。

 外の風はますます強くなっていた。庭にあった雑多な物が吹き飛ばされてしまい、原付バイカーのカップルが、あっちにこっちに行って散らばった物を集めていた。戻ってきた千夏が合流し、三人で片付ける。

「ひどい嵐になりそうだな」

「全国的に暴風雨だって。とくにこの辺はひどそう」

 女がケイタイで天気予報を確認しているが、それほど困った表情でもない。

「ねえ、あなたたち、河川敷でキャンプして大丈夫なの。不審者とかいるんじゃないの」

「わたしたちみたいな貧乏人を狙わないでしょう」

「なにせ、食べ物もできるだけ自給自足なんです。野草を採ったり魚を釣ったりで」

 そう自嘲的に言うのは男のほうだ。

「そこの川はドブ臭いウグイしか釣れないよ。川原に鉄線があって危ないし」

 地元の住民として、千夏は注意すべき情報を惜しみなく提供する。

「そう、それなんですが」

 男が左足を出して、くるぶしを見せた。ショートソックスなのでその部分の肌が露出しているのだが、大きな絆創膏が数枚貼られていて、しかも血がたっぷりと滲んでいる。

「釣りに行こうとしたら足に引っかかったんですよ。なんか、草の中に隠してあるような感じで、ぜんぜん気づかずに切っちゃいました」

「わたしも危なくケガをするところだった。あっちこっちにあったけど、なんなの、あれ」

 男と女は、千夏が話してくるのをなんとなく期待している雰囲気だった。

「そこの川って、昭和の初め頃に造った人工川なのよ。その時に労働者が逃げ出さないように、小屋をとげの鉄線で囲ってたみたい。たくさん小屋があったみたいで、川原がトゲトゲ鉄線だらけだったらしいよ」

「有刺鉄線ですよね」

「そう、その時の有刺鉄線がね、残ってるんだって。子供が怪我するから何度も撤去してるみたいだけど、いつまでたってもあるのさ。ちょっと怖い話にもなってるけど、そういう都市伝説を聞きたい?」

 千夏はニヤついていて、ぜひとも聞かせたいようだ。カップルが苦笑いしながら頷く。

「洪水の時に逃げられなくて、かなりの人がトゲに引っかかって死んだそうよ。死んだ労働者たちの怨念が棘の鉄線にとり憑いて生き血を求めてるって、ばあちゃんが言ってた」

「それって、マジな話ですか」じっさいに出血した男は、イヤそうな表情である。

「なんてね。たぶん地面に放置したのが、雨や増水で出てくるってことじゃないのかな。昔は川原をトゲの鉄線で囲んで、馬を放していたみたいだし、よくわかんないけど」

 千夏の話を聞き終えて、二人は微笑で応えた。

「それよりあなたたち、これから大嵐になるのにテントはまずいっしょ。とばされるよ」

 その兆候は、すでに十分すぎるほど確認できていた。

「ええ、まあ、そうかも。どうしようか、智也」女は否定しなかった。

「とりあえず橋の下へ退避するか。橋脚にくっ付ければ風の影響を小さくできると思う」

「そうね」

 いやいや、暴風雨になったら、たとえ橋の下にいても吹き飛ばされてしまうよ、と千夏の心の声が言っていた。彼女は、持ち前の親切心を発揮したくなっていた。

「もしよかったら、うちに泊まっていかない。母屋に余分な部屋はないけど、もうやめちゃったけど、工場に従業員さんたちの寮があるから。お布団はお客さん用を出してあげるよ」

 千夏の両親が水産加工場を営んでいた頃、季節労働者を住まわせる部屋をいくつか造っていた。使われなくなって久しいが、いちおう整理整頓はされている。

 思いがけない申し出に、なにかと節約的なカップルは二つ返事で受けた。暴風雨の中、テントで寝たいキャンパーは、そうそういない。

「自己紹介しましょうか」

 見ず知らずの人間を、まったくの手放しで泊めるほど千夏はお人好しではない。出会ってからの短い時間に人物評定をしっかりと行い、彼らは人畜無害であると判断した。念のため自分の家ではなく、元加工場に併設されている寮をあてがう。さらに狂暴なめいっ子の世話を手伝わせる・子守作業をシェアする、ということまで企んでいた。

「私は新藤千夏ね」

「僕は飯塚智也です。そんで、ツレが乾有紀。いちおう、僕たち付き合ってます」

「まあ、それは見てわかるかな」

 のろけている気はなかったが、二人は照れ笑いをする。

「さっきの元気いっぱいな女の子は、めいっ子のりん子。りんちゃんって呼んでるの。妹の長女なんだ」

 りん子の紹介も忘れない。なにせ彼らに世話を押しつけるのだから。

「あのう、さっきの女の子なんですけど」

 どこか申し訳なさそうな表情で有紀が話しかけた。

「ん?」

 なにか不穏なことを言われるのではないかと、千夏はほんの数ミリほど身構えた。

「有紀」

 智也が彼女の前に半歩ほど体を入れて、目と目で短い会話を交わした。 

「いいえ、そのう、なんていうか、すごく元気ですよね。こういうパターンは滅多にないんで、びっくりしちゃった。ははは」

 有紀の言葉には、彼女の偽れざる心境が吐露されていた。

 千夏は、七歳の女児が家の屋根に上がってしまったことだと思い、それほど考えることもなく聞き流した。智也は、なにかに耐えるような表情でフリーズしている。

「それじゃあ、わたしたちはテントを畳んできます。ここにバイクを置かせてもらってもいいですか」

「車庫があるから、二台とも入れたほうがいいよ」

 家主は快く承諾した。二人は強風に抗いながら、いったん河川敷へと戻った。

「さてと、とりあえず、りんちゃんの朝ご飯を作るとするか」

 テントを仕舞うには多少の時間がかかる。その間にめいっ子の朝食を用意することにした。千夏が台所に行くと、りん子は二つ目のプリンを食べていた。勝手に冷蔵庫を開けて、おかわりしたようだ。

「ああ~、りんちゃん。それ私のなんだけど」

 嘆きの目線を流す甘いもの大好き千夏だが、りん子はまったく気にしていなかった。小さくため息をついて、朝食の準備を始めた。

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