第2話

「それで、どうなの。売れ行きは」

「よくないな。目標達成はほど遠いさ。これだけ景気が悪いと、なにをしてもダメだよ」

「みんなお金がないのよ。海産物って安くないからね。必需品ってわけでもないし」

「まあ、そういうことだな、まいったよ」

 通話の相手は、千夏の夫である新藤秀一である。首都圏のデパートで地元海産物の物産展をしているが、調子は芳しくないようだ。

「大阪で挽回してくれるといいけど、望み薄だな」

「たくさん稼いで出世して、早く帰ってきてね」

「はいはい、俺のお嫁さんはお金が大好きだからな」

「お金を大事にしないお嫁さんは、ダメダメなんだよ」

 千夏はクスッと笑うが、その言葉には確信がこもっていた。 

「ところで体はどうだい。そのう、まあ、いい調子かな」

「いたって元気よ。ご飯もおいしいし」

「薬は」

「忘れてないって。ちゃんと飲んでいるから」

「そっか」

 少し間ができてしまった。気まずくなりそうな雰囲気に焦った秀一がキメセリフを放つ。

「俺がいなくて寂しいだろう、ハニー」

「そういうセリフは新婚一か月までよ。一人を満喫しています。いや、二人かな、ふふふ」

「二人って、おいおい、浮気してるんじゃないだろうな」

「ええ、してますとも。ただし七歳の女の子ですけど、なにか」

「ん?」

「子供だから、元気で元気でとび回っているの。あんなにエネルギーを使われたら、晩ご飯が足りないような気がしてきた」

「陽菜ちゃんが来てるのか」

 陽菜は新藤家のご近所である中村家の次女で、歳は七歳だ。そこの母親と千夏はお茶友であり、親子そろって遊びに来ることがある。

「あ、ちょっと、ダメだって」

 火にかけているコンソメスープの鍋の前に、りん子がいた。背が低いのでようやく届いてはいるが、持ち方をしくじれば顔に灼熱の液体をぶっかけることとなる。 

「悪いけど、切るね。あの子が火傷しちゃたいへんだから」

「あ、ああ」通話が切られた。

 千夏はガスコンロのそばに駆け寄って、まずは火を止めた。りん子が鍋の取っ手をつかもうとしているが、素早くその小さな手を握る。女の子は、ブーたれた表情になった。

「今日ね、オムライスとコンソメスープなの。りんちゃん、オムライスは好きかなあ。うちのはね、卵焼きが甘いんだよ~」

 オムライスは千夏の得意料理の一つだ。卵は甘めの味付けで、焼き方が絶妙にトロトロふわふわである。秀一の好物でもあり、仕事で疲れていても食卓にそれがあると子供のように喜ぶ。中村家の次女には、母親よりも三倍くらい美味いと評されていた。

「もうすぐできるから」

 同じ年頃の陽菜に大好評なので、りん子も気に入ってくれるはずだとの目論見である。食べ物で釣れれば、これから先のしつけも楽になるだろうとの皮算用があった。

 だが料理を食べてもらうことよりも、テーブルについてもらうほうが大変だった。りん子はとにかく元気であり、気が触れたかのように走り回っていた。

「りんちゃん、ごはん食べようよ。鬼ごっこは、また明日にしようね」

 女の子の鬼ごっこに相手はいない。一人で駆け回っていた。

 数分後、千夏はようやく小さな鬼を捕まえることができた。抱きかかえて椅子に座らせて、スプーンを持たせる。りん子は、じっとオムライスを見つめていた。

「もう冷めちゃってる思うけど」

 りん子は手をつけることなく、まだ見つめている。冷めてしまったので機嫌が悪くなっているのだろうと、千夏は考えた。

「そうだ、サイダーあったんだ」

 冷蔵庫を開けるが、そのシュワシュワとした甘い炭酸飲料の缶はなかった。買い物をして玄関に置きっぱなしにしていたことを思い出し、千夏はすぐ取りに行った。

「あれえ、なにこれ」

 白いビニール袋が靴箱の上にあり、サイダーの缶が五つ入っていたのだが、すでに全缶飲みつくされて空になっていた。この家には千夏とりん子しかいない。犯人は明白である。

 千夏は怒らないことにした。飲んではダメだと言ってなかったのは自分だし、買い物袋を放置していたのも怠慢だった。ただし、注意はしておこうと思った。なるべく、やんわりと言い聞かせなければならない。

「りんちゃんね、ジュースを飲むのはいいけど、おばさんに言ってからに・・・」

 台所に戻ってきた千夏の口から小言がでるが、すぐに止まってしまった。

 冷蔵庫が荒らされている。体をつっ込んで中を漁っているのは、りん子だ。食い散らかした食材が散乱して汚らしかった。

「だめ、それを食べちゃダメッ」

 りん子が食っているのは生の挽肉だった。パック詰めされているのだが、ラップを指で引き千切り、小さな手で中身をぐちゃぐちゃに握って口の中へ運んでいた。

「豚挽きなんだから、生で食べたらあたっちゃう」

 やめさせようと千夏が駆け寄った。

「きゃ」

 りん子が冷蔵庫の中を物色した際、液体をこぼして床が濡れていた。それで滑ってしまい、背中からひっくり返った。千夏は、後頭部を床にイヤというほどぶつけてしまう。

「痛ーっ」

 頭を抱えてしばらく固まっていた。ようやく立ち上がるが、りん子は千夏のことなどまったく気にせずに、相変わらず挽肉をむしゃむしゃと食い続けていた。

「ダメー」

 りん子の手から挽肉のパックを奪い取って、遠くに投げ捨てた。それはシンクの角に当たって、粉々になって散らばってしまう。

「お肉は、ちゃんとお料理しないと食べられないの」

 そう言い聞かせるが、りん子は聞いちゃいない。挽肉がないのならと、今度はバラ肉のブロックをつかんで分厚い脂身にかじりつく。

 千夏がりん子の額に手を当てた。向こう側へ押しやるようにバラ肉ブロックから引き剥がそうとするが、七歳児とは思えぬ顔力で押し返してくる。

「ちょっとちょっと、なんなのよ」

 最初は手加減していた千夏だが、思わず余分な力が入ってしまった。フンと口を固く結んで放り投げるように押した。

 次の瞬間、りん子が後ろにひっくり返ってしまった。硬質の床面に後頭部をゴンとぶつけて、勢いがおさまらぬままその小さく柔らかな身体は、さらに後方二回転を演じた。

「あっ」

 やってしまったとの焦りと後悔が、千夏の全身を硬直させた。慌てて駆け寄り、りん子を抱き起こした。ボウリングの球を磨くがごとく頭をまさぐり、とくに後頭部は念入りに擦った。

「りんちゃん、大丈夫なの、痛くなかった」

 過保護な大人の付きまとわりを嫌ったのか、りん子は千夏の顎に手の平をあてて、ぐぐーっと押し込んだ。顔が明後日の方向へ曲げられてしまう。大人の僧帽筋でも抗いきれず、首がどこかへ飛んでいきそうな勢いだ。

「ちょ、ちょっと、やめて」

 さすがにきつくなった。これ以上子供の反抗に耐えていると、首を怪我してしまいかねない。絡みつきを自ら解いて、千夏が立ち上がる。なにがおかしいのか、りん子はケラケラと笑いながら台所を出ていってしまった。

「なんなの、これは。私が悪いの。子育てしたことないから、バカにされてるの」

 ブツブツと愚痴っていると、ケイタイの着信音が鳴り始めた。

「はい」と応答する。いちおう目線はりん子を探すが、ドタバタと音が響いてくるだけで、姿を視認できなかった。

「千夏か、啓介だ」

「おじさん、お久しぶりです」

 通話の相手は亡き父親の弟で、叔父の菅原啓介である。

「そっちはどうだ。相変わらず夏でも寒いのか」

「だいぶ暖かくなってきましたよ。千葉ほどじゃないけれど」

「こっちはそんなに気温が上がらないな。過ごしやすくていいくらいだ」

「私は、もっと温暖化になってほしい。ここは寒くて、ホントにイヤ。夏くらい、せめて夏日になれってね」

 北国の、しかも冷たい海流がぶつかる海沿いの街は、夏でも気温が上がらない。温暖化とは程遠く、暑がりではあるが冷え性気味の千夏は疎ましく思っていた。

「ところで法要なんだけどな」

「法要?」と聞いて、千夏の頭の中に疑問符が浮かび上がる。

「低気圧で飛行機が飛ばないみたいで、どうも今日中には行けそうにないんだ。ひどい風で、物置のトタンがぶっ飛ぶくらいだからな。台風並みらしい」

「ええーっと、ごめんなさい。法要って、なんのこと」

「十七回忌だって。この前言っただろう」

 そう言われて、千夏は頭の中のアーカイブを検索する。めいっ子の相手に疲れてしまったためか、演算装置のクロックが上がらない。やや右上を見ながら、叔父の言葉がどのフォルダに収められているかを探したが、該当するデータを見つけることができなかった。

「おじさん、そんなこと言ってたっけ」

「言ったよ。本当は一昨年だったけれど、おまえの体調で、ほら、のびのびだったろう」

「おじさん、ごめんなさい。もの覚えが悪くて。私、忘れてたみたい」

「あ、いや、まあ、いいんだ。ああ、ええっと、どうしようか」啓介は若干戸惑っている様子だった。

「なんにも用意してないんだけど。ああー、どうしよう。なにも考えていなかった。どうしたんだろう、私。大事なことなのに」

「法要っていったって、坊主を呼ぶわけでもないし、俺とおまえら夫婦だけだからな。内輪で念仏唱えて、飯食うだけだよ。気楽にやろう」

 ケイタイの向こうから不安が伝わってくる。啓介は姪っ子を困らせたくなかった。

「飛行機が飛ぶようになったら行くからな。明後日には低気圧も通り過ぎるだろう」

「あ、うん。わかった。あ、でも、旦那さんは出張中なんだけども」

「まあ、いいよ。線香あげて、久しぶりにおまえと飯食うだけで。じゃあな」

 啓介が先に通話を終えようとした時、千夏の前に、りん子がやってきた。

「あ、そこに登っちゃダメよ」

「えっ、なにがだ」

 りん子は、なにを思ったのか冷蔵庫に登り始めた。

「ごめんなさい、おじさん。ちょっと手が離せなくなったので。気をつけてきてね」

「そこに誰かいるのか」

「ええ」

 妹の娘が泊りがけで来ていると言おうとしてが、めいっ子は、千夏がその言葉を口にする余裕を与えなかった。

「あぶないっ」

 冷蔵庫の頂上まで登ったが、バランスを崩してしまい背中から落ちる格好となった。

「はっ」

 たいして機敏でもない体を精一杯に動かして、間一髪で抱きしめることができた。ただし、鍛えられたことのない千夏の足腰はその衝撃に耐えきれず、体勢を崩してしまう。ゴン、とにぶい音が響いた。

「痛っ」

 テーブルの脚にしたたか頭を打ち付けてしまい、顔中を皺にして悶絶した。大人に抱かれていたりん子には衝撃がほとんど伝わらず、なんら損傷を受けなかった。その活発すぎる女児はすぐさま立ち上がり、また登り始める。

「ああ、もうダメだって、りんちゃん。おばさん、本気になって怒るよ」

 大きな声であった。少しばかり叱りの気配が混ざっていたために、さしもの暴れネズミも動きを止めた。台所のシンクの上に立って、いかにも不服そうな顔で見下げている。

「おい、どうした、なにかあったのか。なにかいるのか」

 テーブルにぶつかったために、ケイタイが手から床に落ちてしまった。幸いにも、画面が割れたり電子的な機能が損なわれたりすることはなかった。啓介のがなり立てる声が、はるか太平洋を越えて、なおも健在だった。

「千夏、そこにいるのは誰だ。おまえ以外に誰がいるんだ。まさか」

 ガッシャーン、という大音響とともに叔父の声が粉々になった。シンクの上にあったオーブンが落下して、スマートフォンに激突してしまったのだ。

「なんてことをするのっ」

 それを落としたのは、りん子である。

 ふう、と深いため息をついて、千夏はノロノロと立ち上がった。後頭部が痛いことも忘れて、「このスマホ、買い換えたばかりなのに」と、ただただ落胆するしかなかった。

 りん子は、やってしまったとの認識があるのか、やや沈痛な表情で見ていた。シンクの上に鎮座しているのだが、千夏は叱ることなく黙って後片付けをした。

 その夜、ようやくりん子を寝かしつけたのは、日付をまたごうとする直前だった。お風呂に入れてやることも出来なかったと、千夏は自分の不甲斐なさを恥じた。溌溂過ぎるめいっ子を明日からどうやって大人しくさせるか。困難な課題を背負ったまま眠りについた。


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