めいっ子、りん子

北見崇史

第1話

「りんちゃん、りんちゃん、そんなに走らないで」

 りん子は制止も聞かず、空港内を走り回っていた。

「ここはお家じゃないから、そんなに走ったらダメでしょ」

 女の子を注意する千夏の声は、少しばかり遠慮気味だった。実妹の娘であるりん子を、どこまで身内として叱咤していいのか距離感がつかめていなかった。

 地方都市の空港なのでたいして広くもないが、設備は新しくて清潔であり開放感があった。よほどうれしいのか、りん子はキャッキャと笑いながら止まることがない。

「あっ、りんちゃん、よけて」

 りん子は、レンタカーの受付窓口前を疾走していた。すると真正面から、大きくて重量のあるスーツケースが、その用途にしては分不相応な猛スピードで迫ってきた。

 母親が知り合いと世間話をしているスキをついて、小学四年生と二年生の兄弟が、遊び道具として押しまくっていたのだ。

 兄弟の共同作業は、あっけなく終了した。二人そろって転んでしまって、その拍子に押していた重いスーツケースを勢いよく突き飛ばしてしまった。

「あぶないっ」

 千夏が絶叫する。耳の奥を切り裂くような金切り声に、周囲の者たちが注目した。

「ぎゃっ」

 ものの見事に正面から衝突し、小さな顔から呻きの声がとび出した。

 ただし、りん子ではなかった。

「きゃあ」と、千夏とは別の悲鳴があがった。

 速度を増したスーツケースの角に顔面をえぐられたのは、りん子の後方でぼーっと立っていた幼稚園児だ。質量と運動エネルギーのすべてを顔で受けたために、床にひっくり返って悶絶してしまった。殺虫剤を噴霧された虫けらのように仰向けになって、潰れた鼻から血を噴き出している。

「ああああー」

 駆け寄ってきた幼稚園児の母親が、硬い床に倒れている我が子を抱き上げた。閑散としていた空港内が騒然となった。

「りんちゃん、こっち来なさい」

 りん子は無事であった。どこにも怪我はない。迫りくるスーツケースがぶつかる寸前に、ひらりと体をかわしたのだ。そして、後ろにいた幼児が犠牲になった。りん子は騒ぎが大きくなったことがうれしいのか、さらに元気よく動き回っていた。

 怪我を負った幼児の母親が半狂乱になって、加害者である兄弟を叱り始めた。意識が遠ざかっている我が子を抱きかかえ、鬼女のような表情でまくし立てている。加害者らの母親がきて、謝ることを忘れてオロオロしていた。

 幼児は泣き叫ぶことなく、静かに昏倒していた。空港職員が救急車を呼ぶが、街から遠く離れているために到着は遅くなるだろう。

「りんちゃん、いくよ。ここにいちゃダメだから」

 騒動のさなか、ようやくりん子を捕まえた千夏は、足早にその場を離れて駐車場へと急いだ。


 軽自動車の後部座席にりん子を乗せて、千夏は運転席に座りエンジンをかけた。さっきの混乱に巻き込まれたくないので、早々と脱出して良かったと安堵している。

千夏の手がハンドルを握る。ギアがドライブに入り、足がブレーキから離されようとしていた。発進の予感に、七歳の少女は胸の高まりを抑えきれない。

 キィーーーー、と甲高く叫んだ。

「うわあ、な、なに」

 びっくりした千夏がブレーキを強く踏む。動いていないので慣性の法則はないのだが、後ろにいたりん子が運転席と助手席の隙間からとび込んできた。

「ちょっと、りんちゃん、りんちゃん」

 りん子はダッシュボードの下の空間でひっくり返っている。天地逆さまな体勢になったのがうれしくて、キャッキャと笑っていた。

「ほんとに、この子は元気すぎるわ」

 千夏はいったん車を降りて助手席側へと回った。ドアを開けて、ケラケラと笑っている逆さ少女を抱き起し、今度は助手席に座らせる。シートベルトをしっかりとかけてから運転席へ戻った。

「りんちゃん、これからおばさんの家までドライブよ。田舎だけど、ツルとかキツネとかシカとかがいるからね。窓からお外を見ていてね」

 空港から市内にある千夏の家までは三十分くらいである。途中は牧草地と原野が広がる平野が続き、酪農家以外の住宅はほとんどない。北国らしく、キタキツネやエゾタヌキ、エゾシカなどの野生動物が道路に出てくることがある。 

 少し走ったところで、さっそくキツネが車道の際を歩いていた。姿をさらすとエサをもらえることがあるので、車が通ると野原からわざわざ出てくる個体がいる。

「ほら、りんちゃん、キツネさんだよ」

 千夏は軽自動車のスピードを緩めた。後続車がいないので、歩くほどゆっくりとした速度でも迷惑とはならない。キツネはエサをもらえるという期待感を込めて見ていた。

 するとりん子は、まだ停止しきれていない車の外にとび出してしまった

「あ、りんちゃん、なにするの。ちょっと待って」

 すぐに停車した。運転者が乱暴にサイドブレーキを引くと、慌てて降りる。

「それに触っちゃあ、ダメよ、噛まれるから。それと」寄生虫の説明をしようとする千夏であったが、間に合わなかった。

「ああ、どうしよう」

 すでに、りん子はキツネを撫でていた。

 その野生動物は、よく飼いならされた子犬のようにおとなしくしている。噛まれる心配はないようだが、ほかの懸念事項が重大であった。

 北国に棲みつくキツネの体内にはエキノコックスという寄生虫がいることがあり、宿主の体内で卵を放ち、フンの中に混じる。卵が混じった水や山菜を人間が口にすると、エキノコックス症という感染症を引き起こし、しばしば重篤な症状となってしまうのだ。

 キツネやタヌキや野犬などには卵胞が付着していると思われ、千夏が住んでいる地域の人々は、幼い頃よりそれらの野生動物には触らないようにと教えられている。

 りん子はキツネに触っているだけではなくて、抱き着いたりもしていた。千夏は離れるように叱るが、かえって喜んでしまう。キャッキャと歓喜の声をあげながら、くんずほぐれつのじゃれ合いまでやり始めた。

「口を触っちゃだめよ」

 寄生虫は、おもに経口感染となる。必要以上に神経質な千夏の声がヒステリックに跳ね上がった。久しぶりの後続車が、何事かと確認しながら追い越してゆく。

「りんちゃん、齧られちゃうから離しなさい」

 千夏は少し離れた場所から言い放つ。彼女自身は、キツネが怖くて近づけない。

 りん子はキツネの首ねっこをつかみ地面に組み伏せていた。野生動物なので力は相当なものなのだが、少女の腕力は強く、いっさいの反撃を封じていた。あろうことか肛門に人差し指をつっ込み、グリグリとやる。当然ながら、キツネは目の色を変えて呻いていた。

「あっ」

 ブンと、それをぶん投げた。小さな投射機のわりに弾はよく飛んだ。幸い、着地したのが原野の草むらなのと、もともと身軽な野生動物なので、四肢のどこかを骨折することもなく足早に逃げ去った。

「りんちゃん、あんなこと絶対にダメだから。もう二度としないで」

 千夏にとって、りん子は自分の子供ではない。妹の娘なので、気持ちの中にかなりの遠慮があった。しかしながら、やっていけないことに関しては、きっちり叱らないと大きな事故へとつながってしまう。叱咤と教育とのバランスが難しいと感じていた。

 車に戻ってウエットティッシュを持ってきた。さんざん野生動物に触った小さな手を、とくに人差し指は念入りに拭き、さらに顔や首などもゴシゴシと擦った。くすぐったく感じたのか笑い声が絶えない。最後に小さな指先のニオイを嗅いで満足する。

「うん、臭くない。きれいになったね」

 軽自動車が、ようやく再出発した。

 夏だというのに車体に当たる風が冷たかった。千夏はエアコンの温度を少しばかり上げる。暑がりではあったが、めいっ子が風邪などひかぬように気を使いながらの運転だった。



「さあ、着いたよ」

 軽自動車が玄関の前に停止した。無事に我が家へ戻ってきて、千夏はホッとした表情だ。

「ここがおばさんの家よ。あんまり走り回らないでね。古いから床が抜けちゃうかもよ」

 七歳の女の子が走り回ったくらいで壊れるほど老朽化がひどいわけではないが、最初に釘を刺しておかないと、なにをしでかすかわからない。一緒にいるのはほんの一時間ほどでしかないが、りん子がどれだけ元気溌剌過ぎるのかを十分に理解していた。

「どうしたの、りんちゃん」

 りん子は静かにしている。シートベルトは外しているが、さっきまでの元気がどこに行ってしまったと思うほどに大人しかった。

「車に酔っちゃったかな」

 窓ガラスに両手をあて、さらに顔をくっ付けて外を見ていた。初めての場所で気後れしたのか、あるいは多少怯えているのかと千夏は思った。

 少女の小さくてまん丸な瞳が、なにかの強い情動を感じたようにギラギラと光っていることには気づかなかった

「りんちゃんは、しばらくここにいるんだよ」

 車を降りたりん子は、わーっと叫びながら駆け出した。キャッキャと笑いながら、まるで尻に火を点けられたネズミのような勢いだ。臆していたように見えたのは杞憂だったと、千夏は理解する。

 新藤家の庭はけっこう広い。彼女の両親が小さな水産加工場を経営し、母屋をその敷地内に建てたために、余分な面積があった。両親が亡くなり、商売を廃業してもそのままの状態だった。

「千夏ちゃん」

 後ろから声をかけられて振り返った。隣の家の主婦が歩いてくる。

「おばちゃん、どうも」

 主婦といっても還暦をすぎていて、実年齢は年寄りの範疇に入っている。古くからの隣人であり、千夏の両親のこともよく知っていた。

「ネギとってきたから食べなよ。余ったらね、畑に植えとくといいよ」

 差し出されたバケツの中には、自家菜園から引っこ抜いてきたばかりのネギが大量に入っていた。

「いつもすみません、もらってばかりで。こんど、なにか買ってきますね」

「ああ、いらない、いらない。気をつかわなくていいんだよ。余ってるんだから」

 千夏は主婦からバケツを受け取って、チラリと中身を確認する。先端部分が枯れ果てた葉ネギがたくさんあった。さぞかし硬くて辛そうだと、心の中で味見をする。

「そういえば、旦那さんはいつ帰ってくるんだい」

「今度の出張は長いです。たぶん、一か月以上はかかるって言ってました」

 千夏の夫、新藤秀一は海産物の卸会社に勤めていた。地元産の海産物や加工品を扱っており、年に数度、都会のデパートなどで物産展を開催している。

「ここは広いから、一人じゃ寂しいねえ」

 母屋と元加工場は一体化した建物だ。居住するだけなら、有り余るほどの空間である。

「それが、今日からめいっ子を預かることになったんで、しばらく退屈はしなさそう」

 りん子の元気っぷりを頭の中で反芻し、本人しかわからない自嘲でクスッと笑う。

「姪っ子さん? ええーっと、どこにいるの」

「それが男の子顔負けの元気さで、さっそく走り回っていますよ。どこ行ったかなあ」

 手のひらを水平にして、おでこにあてた。頂上から遠くを見るような仕草をして、もう近くにいないことを示す。

「あらあら、それはたいへんねえ。いくつなの」

「七歳になったばかりです」

「一番言うこと聞かない時期だわ。暴れるよう」

「おばちゃん、おどかさないで」ハハハと二人は笑う。

「まあ、子守をがんばってよ。じゃあね」

 主婦の姿が見えなくなると同時に、りん子が猛スピードで走ってきた。手にふさふさとしたもの持っていて、さも自慢げに、さらに満面の笑顔で差し出した。

「あれえ、りんちゃん。それなにかなあ」

 どこかに落ちていた、リスかハムスターのぬいぐるみだと思っていた。

 それを手に取ってみた。見かけよりはズシリと重くて、さらに水っぽくて、少し生温かった。約二秒後、千夏は驚愕の事実を気づかされた。

「きゃっ」

 短い悲鳴をあげると同時に、手にしたそれを放り投げた。

「ネズミじゃないの、っもう」

 ネズミの死骸であった。死んでから間もないのか、温もりが抜けきっていない。

「りんちゃん、あんなの触ったらダメでしょ」

 手のひらをジーンズの太もも部分で何度もこすり、最後にニオイを嗅いだ。千夏がりん子の前でしゃがみ、彼女の両腕に手を添えた。

「生きていて噛まれたら病気になっちゃうのよ。さわってもダメ。もし見つけたら、そのままにしておくの。いい、わかった」

 自分と対等の高さにある顔が怒っていた。ふつうの子供であるならば不安になって泣くか、シュンと首を垂れるのだが、りん子は違った。

「な、なによ」

 睨み返していた。小さな眉間にぶっ太い皺を寄せて、目じりを限界まで吊り上げて千夏を凝視している。やや伏せ気味の顔から放たれる眼光が、いかなる束縛も許容しない意志で満ちていた。

「もう、なんなのよ」

 女児らしからぬ気迫の重さに、千夏は思わず手を離した。スーッと立って、上から見下ろすことで圧力をかける作戦をとった。

 しかし、りん子は負ける気など微塵もないようだ。

 熟練した暴力団員のような威圧的でドス黒い目線を、ズンズンと下から押し上げていた。睨み合いは七秒ほど続いた。風の音も、虫の鳴き声や鳥のさえずりも止まっている。

「ハムスターならいいんだけどね。そうだ、あしたお店に行って見てこようか。キンクマさんとか可愛いよう」

 たまらずに日和ってしまったのは千夏のほうだ。めいっ子への視線を外し、どこか定まらぬ光景を見ながら、のん気そうに言った。

 どういう感情の発露なのかは不明だが、りん子は駆け出した。体勢を低くしたまま、極端に前傾を深めて疾駆している。

 止まることのない小さな猛獣を見ながら、千夏は生温かな息を漏らした。

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