第2話

キツネたちの晴れの日だ。文句は言いたくなかった。だけど、あの日。雲の切間からのぞく太陽には不釣り合いな雨に打たれて、私は困っていた。こんなに嬉しくない天気雨は初めて。キツネの嫁入り、今日じゃなきゃダメだったのかなぁ。ぼんやり考えながら、足を動かす。とにかく、どこか屋根の下に入らなきゃ。図書館で借りた本をぎゅっと抱いて、身を縮こませる。濡らしたら、司書さんは困るだろうな。


やっと見つけた屋根の下に、体を滑り込ませる。その瞬間、イヤな予感がした。抱えていた本が軽くなったのだ。厚い本の間に挟んでいた一冊が、するりと抜け落ちていた。ツーッとおでこから汗が流れる。どうしよう、どうしよう。体が固くなって動けない。早く拾わなきゃ。分かっているのに……!

こうしている間にも本は濡れる。早く、早く。しゃがんで震える手を伸ばす。雨音が遠のくような感覚の中、自分の荒い息だけが響く。どうしよう! 頭の中に司書さんの悲しい顔が浮かんで、フッと手の力が抜けた。


「あっ!」


気づいた時には遅かった。持っていた全ての本が、雨の中へ放り出されている。……もうイヤ。いっぱいいっぱいになって、わんわん泣いた。こんな姿、学校の子に見られたら絶対笑われる。「中学生にもなって」って。どうか、誰も来ませんように。


「すごい雨だね」


知らない男の子の声で、ハッと我に返る。涙を袖で拭いながら、鼻をズズズとすする。恥ずかしくて、顔を上げられない。


「キツネの嫁入り、今回はすっごく豪華なんだろうね」


楽しげに笑いながら、男の子は言う。そっか、そんな風に考えることもできるんだ。イヤだったはずの雨が、急にキラキラと輝いて見えた。


「これ、君の本?」


涙はすっかり引っ込んでいた。だけど、きっと目は赤くなっているだろう。やっぱり恥ずかしくて、私はコクンとうなずくことしかできなかった。


「濡れちゃってるけど、乾かせばなんとかなるよ」

「え、本当?」

「うん、多分。しわくちゃにはなると思うけど」


視界の隅っこで、男の子が動く姿が見える。本を丁寧に拾い上げて、その表紙を優しく撫でる。


「はい、どうぞ。ここに置いておくね」


顔を隠したままの私を気遣ってか、そばにあったベンチに本が置かれる。お礼を言わないと。「ありがとうが言えない子にはなっちゃダメよ」と、お母さんの口癖が聞こえた気がして、背筋が伸びる。泣き顔を見られたら恥ずかしい。だけど伝えないと。心からの感謝を。一瞬の迷いを振り切って、バッと顔を上げる。だけど、すでに男の子は近くにいなかった。数メートル先、彼だろう背中だけが見えた。特徴的なキャラクターが描かれたTシャツを目に焼きつけて、いつか会えますようにと呟いた。思えば、一目惚れだったのかもしれない。




「で、その男の子が快斗くんって話ね」


思い出に浸る私を邪魔するように、咲香が話を遮った。何回も話したことは悪かったなぁと思うけど、もうちょっと何かこう、興味を持ってくれたっていいんじゃない? かれこれ数十回目だから、無理もないかもしれないけど。少し寂しい。ぷくっと頬を膨らませると、咲香がそれを潰すように両手で挟んだ。


「まあ、話したくなる気持ちも分かるけど。でもさ、その度に……」

「あ」


私は立ち上がって辺りを見渡す。セーフ、かな?まだ快斗くんは来ていない。こんな思い出話でも、センサーに引っかかる場合がある。油断はできない。今日は調子が悪いのか、はたまた他の人のところに行っているのか飛んでこない。助かった。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。教室のドアが開け放たれ、快斗くんが姿を現した。肩にかけたスクールバッグ。そこについていたぬいぐるみキーホルダーが左右に激しく揺れる。あの時、背中に描かれていたのはアレだ。蛍光色の謎のキャラクター、ハウくん。公式サイトで何度も見たその子は、お世辞にも可愛いとは言えないお顔をしている。って、そんなことより! 私はイスに座り直し、素知らぬ顔で前を向く。


「うーん、気のせいかな」


クラスメイトたちへの挨拶もそこそこに、快斗くんがくんくんと鼻を動かす。


「ここらへんから、好意を感じたんだけど」

「またやってんのかよ、快斗」

「まあね。最近、反応が悪いから困ってるんだけど」


話しながらも、その足は確実に私の方へ向かってきている。大丈夫、いつもみたいにごまかそう。早鐘のように鳴る心臓のせいで、緊張はピークに達していた。ピタッと快斗くんの足が止まる。そろりと顔を上げると、満面の笑みを浮かべた彼と目が合った。バレた。絶対バレた。次に言われるだろうセリフにビクビクしていると、ナイスタイミングで先生が入ってきた。


「すまない。誰か手伝ってくれないか」


担任の高山先生が手を挙げる。それにつられるように、何人かが手を挙げかけてやめる。みんな、面倒なことはしたくないんだろう。気持ちは分かる。だけど、困っている人を放ってはおけない。小さく右手を挙げると、先生の目が輝いた。


「俺、今から職員会議なんだ。だからコレ、図書室に返却しておいてほしい」

「分かりました」


手渡された数冊の本を受け取って、私は立ち上がる。快斗くんの横を足早に通り過ぎて、振り返る事なく目的地を目指した。

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