97話 どれが箱庭か…④

 スーっとカッターがスチレンボードを切り裂く音がする。まず一枚紙を切って、次に中のポリスチレンを切って、最後に裏面に残ったもう一枚の紙を切って。一気に切断しようとすると、どうしても切れ目が美しくならないものだ。

 切ったそれを4つ組み合わせて、壁を作る。本来一枚残しにして、表に発泡剤が出ないようにきれいな模型を作るのだろうけれど、まあそこまで本格的にやる必要はないだろう。

 砂を敷き詰めた青く塗装された木箱、いつか数種類作って並べようとか、姪に作らせてみようとか思ってせっせと日曜大工で量産していたが、こんなところで役に立つと思わなかった。いわば成人男性二人だけのワークショップだ。


「……見てもらいたかったんだろうな」


 彼は、お菓子缶の中に入っていた指人形を並べながら、ぼそりと呟いた。


「母親にも、祖父にも……父親にも。見てもらえなかったから、多分わからないのだと思う。自分がどんな人間か」


 屋根を開けて、指人形を家の中に隠す。人形は、彼が壁に開けた大きな窓の方を向いていた。


「母さんは、オレのことかわいいとか綺麗、とかは言ってくれたんです。モデルになったほうが良いとか、容姿についてはよく褒めてくれた。でもそれだけ。……嬉しかったんだと思います。進路指導の先生が適当に言った「馬場は真面目だから公務員がいいんじゃないか」でも、オレを見ている人がいるって事実が……多分それに、応えたかった。あの人はもう誰に何を言ったか覚えてないでしょうけど」


 その気持ちは、痛いほどわかった。自分だって賞を取ったときに親に将来は小説家だなと笑ってもらえたのが嬉しかった。承認欲求を持ってしまうのはそんなに意地汚いことだろうか。自己を内面から感じとれても、外からの声が聞こえないと、人間は形を持たないというのに。それが賞賛であっても批判であっても、何もないとおれたちは誰にもなれない。


「箱庭療法が、他の表現療法と異なるのはこの枠による心理的な守りの効果だと言われてるんだ。遊戯療法は時に攻撃性を孕むからね。7㎝の衝立が、心象世界の中身とそれによって傷つく今の自分と、そして他者をうまい具合に仕切ってくれるらしい。だから、この箱の中の世界のキミはキミが望んだとおりのキミだ」

「……そう考えると、かっこつけたくなるな」

「いいんじゃない?セラピストが行う本格的なのじゃなくて、これは遊びだもの」

「……嫌だな、やっぱり自分と直面させられるのは、気分がよくない」

「そりゃ、人間そうだろ」


 おれだって、見たくない。こうやって自分のことを遜っているようなことを言い、そんな態度を取りながら、肥大した自己顕示欲と承認欲求にまみれた己なんてもの。いまだって、どこかこうやって自分のために彼を使っているようで、どこか心地が悪いと言うのに。


「人が一番守りたいものって自分が見えている世界だと思うんだよね」

「……」

「実際には枠がないこの世界を、おれたちは仕切った瞳でしか見られないのだと思う。自分が一番守りたいものは自分自身だ、とか守りたいと思っているものたちだっていうけどさ、どうしてもおれはそれに納得いかなくて」


 自分を大切にしなさいと言われるたびにどうしようもない違和感がわくのだ。じゃあ、このどうしようもない死にたがり屋を大切にするならどうしたらいい。それでも死なないように保ってあげることか、それとも心行くまで嬲り殺してやることか?欲望をかなえることは守りたいとは異なるじゃないか。それに、おれに見えている欲望が本当におれのためになるかもわからないじゃないか。


「世界に綺麗なものであってほしいと願う人間は綺麗じゃない物を見ると傷つくし、汚いものだと思っていたい人間は綺麗なものを見ると逃げたくなるだろ?守りたいのは自分自身の命とか、気持ちとかじゃないんだと思う。自分が作った箱庭と、現実の違いが苦しみを生み出すんだ。こういう世界であってほしいって祈りこそが、個人を個人と分かつものだと思うんだよ。全く同じ瞳で世界を見ている人間は、同じ箱庭を持っている人間はいない。どんなに性格が近くても考え方が似通っていても見てきたものと見てみたいものは人それぞれ違うからね」


 そもそも同じ家で育って、血を分けあった姉弟でも相容れないのだ。その瞳がみているのは真実ではなく見ていたい世界だ。見ていたい世界が事実であるならば、彼らの瞳は事実の方を向く。そしてそれら事象がつながり、話がつながる。見ているものが違うのだから、話なんてもちろん食い違うに決まっている。それはきっと頭の出来の良し悪しや、情報処理能力の良し悪しでもなく、思い込みの強さともかぶっていながら少しズレたところにあるのだろう。


「ツバサくん、君は」

「おれは、きっと一つの世界を信じることができないんだ。だからこうやって物語という名前の箱庭を作っては売って、作っては売って、食い潰して生きている」

「……食い、潰し」

「おれ、執筆した作品は世に出したら二度と読まない主義なんだよ。過去の自分がみていた世界を見るのが苦手でさ……信じられないんだ。自分の思考回路、思想、そのときに信じていたもの。作品を作るたびに箱庭を捨てて自分を殺してる……いや、大袈裟だな、ヤドカリみたいなものかな。物語を書いては別の世界に引っ越してるんだよ」


 箱から貝殻をひとつ取り出して、自分の砂浜に置く。


「そんなすぐ捨ててしまえるような自我を自己定義しながら、おれがおれでいられるのはきっと両親がいるからなんだ」


 捨てる、とはいっても毎回毎回全てを捨てて別人になれるわけじゃない。人の自我はたいしたことがないと思っているし、箱庭の心象風景なんてあっという間に様変わりするものだ。そんなゆらゆらの自我を連続させるものは、おれの箱庭に常に居続けるのは、愛している両親だった。


「……苦しみ、と言ったけれど。それはおれの世界に一番必要なものなんだよ。一番愛しているものと言っても過言じゃない。別にいつだって筆は折っても構わないと思ってる。執筆しかないって思っている気持ちもどこか本心ではあるのかもしれないけれど、それでもあの夫婦から生まれた「浅間翼」という人間であることを、おれは捨てたくはない。天秤にかけても捨てられない、それがおれを定義する唯一だから」

「唯一……か」

「少なくとも、地続きの箱庭には、おれが味わってきた苦しみが産んだ自分だけの世界が広がってて、そこに唯一あり続ける安らぎが両親だったんだ。ああ、そうだ、まえ何が個人を個人たらしめるかって話をしたじゃない。それってきっとなんど箱庭を作り替えてもそこにあり続けるものなんじゃないかな」


「あり、つづける、もの」

「言葉で明らかにしすぎるのも問題だけれど、かといって人はふよふよ浮いていられるわけじゃないからね。ある程度の言葉で個人を定義して苦しんでおかないと、がんじがらめにならない程度にさ。そのために7cmが必要なんだよ」

「……」

「おれは、きっと語りすぎたんだ。語りすぎて、それに盲目的になりすぎて。残ったのが独り身のニート。……素直になれなかった、いい歳になるまで」

「まだ、諦めるほどじゃ」

「ありがとう。まあいつか、そういう世界をおれもみれるかもしれないからさ……少しだけ、見守っててよ。これでも君と同い年のいい歳こいた人間なんだからさ、まだ判断能力はそこまで鈍ってない」


 まだ、そんな明るくて綺麗なものを自分のうちに見出せるほど、霧は晴れていなかった。今からまた晴れるか雨になるか、大荒れになるかはきっとこれから見て、知って、体験したものそのものだろうから。それに


「曇り空の世界も、そこまで悪いものじゃないよ」


 晴天じゃない空だって、おれがそれを綺麗だと思ったのであれば、おれの箱庭で一番綺麗な空の色は、曇りなのだから。

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